哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

この人に訊け!(週刊ポスト2005年3月18日号)

2014-01-19 18:20:00 | 時事
今回の書評対象は、玄侑宗久著『死んだらどうなるの?』であった。しかし、池田晶子さんの文章は、書評とも言い難い、「驚き」の言葉から始まる。

いきなり冒頭から、「禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。私はますそれを疑った。」とある。そして、読み終えた後の感想として、「読者は本書を本気で読んではいけない。これは禅僧である著者が、現代科学の愚鈍を笑いつつ、読者をだまくらかしてやろうと諧謔で語った本である。言われていることすべて、ひっくり返して読むがよろしい。それが著者の本意であるに違いない。」と書いているのだ。

池田晶子さんのこの後者の文章は、まさにそれこそ諧謔であることは明らかであろう。この本の著者が実際には徹頭徹尾“諧謔”で本を書いているわけがないので、池田さんは内容が全く信じられないとして驚き、この本は読むに値しない(とは明言していないが)と暗に言っているのであろう。そのように池田さんが思う大きな原因が、著者が禅僧であるにもかかわらず、禅の本来の考え方で書いていないからのようだ。池田晶子さんの文章をもう少し引用してみよう。


「「意識は脳が生み出す」とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
 こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。」


禅の考え方は、科学の狭い考え方よりはるかに広く根源的で、だからこそ哲学と親和性があると池田晶子さんは考えている。だから、禅僧の書いているにもかかわらず、まったく禅的でない上記の本を池田さんは許容しがたかったのだろうと思う。




「2005年」はこの人に訊け!(週刊ポスト2005年1月1・7日号)

2014-01-05 19:42:52 | 哲学
池田晶子さんが書評を書いていた週刊ポストの、2005年新年号の表題テーマの記事では、「自分の人生をみつめる「定点」を手に入れるとラクに生きられる」と題した文章を寄せていた。その内容は至って簡単な(当たり前な)ものであり、あまりに根源的であるがゆえ、まるで何も言っていないことと同じであるかのような、池田晶子さんらしい文章であった。


少し紹介すると、昨今世の中はものすごい勢いで動いているがゆえ、未来がどうなるかわからなくて不安であるという状態を指摘したうえで、次のように書いている。

「しかし、不安になるのは、その通り先のことがわからないからである。しかし、人生の先がわからないのは、何も今に始まったことではない。そう思って今一度自分の人生を見てみると、世の中が動いているようには、人生の姿というのは、いつの世もあんがい変わらないものだということに気がつくのである。世の中がいくら変わったところで、そこで自分が生きて死ぬというこの事実の側は、ほんの少しも変わらないではないか。
 ・・・(中略)・・・自然すなわち人智には絶対不可解な大宇宙に、この自分が生きて死ぬとはどういうことなのか、考えて気がつくだけでも、我々の人生は変わるのである。なんだ人生というのは、あんがい変わらないものだなと。
 変わるものにおける変わらないものとは、定点である。定点からみると、先行きどうなるかわからない地球上のこの状況も、永劫の宇宙史における一風景、そんなふうに見えてくる。定点とは、相対化する視点である。これを手に入れるとラクですよ。」


「自分である」「生きて死ぬ」「世界がある」というような当たり前のことを考えないで怠ってきたから、今の世の中がこんな風だ(戦争が起こるのは自分や国家という当たり前を疑わないから。子供が人を殺すのも生きているという当たり前の不思議を忘れたから)とも書いている。


「定点」を手に入れた池田晶子さんの文章は、まるで兼好法師の『徒然草』の文章と同じような視点で世の中を見ているような気がしてならない。いつの時代も、生きて死ぬことは変わらない、ということの証左なのだろうか。