みやっちBlog

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村井県政の進む方向とは?

2006年08月21日 17時23分42秒 | 政治・社会
上毛新聞に田中康夫氏の落選の意味を分析したコラムが掲載されていたという。

田中康夫氏の落選の意味(《楽天気楽:閑居堂》Blog)
==== 引用 ====
ノンフィクション作家の吉岡忍さんが『長野県知事選の意味』と題し、前知事田中康夫氏落選の意味について論じている。(「上毛新聞」当日p28)

記事の副題として《熱狂民主主義の落とし穴》《自分では動かぬ個人》とある。

その記事を、当方なりに要約すると・・・
(中略)
《日本における「民主主義」》なるものは「熱狂」と「淋しさ」の間で大きく揺れ動いているだけのものであると筆者吉岡氏は言いたいようである。

自分で考え、自らカカワリ続けようとしない個人のいないところに成立する民主主義は、「名前だけで体を成さない、空洞のようなモノですヨ」、と言いたいようだ。

ヒトメボレのマルナゲはイケマセンと言いたいようだ。

それは期待と落胆の繰り返しを招くのみですよと・・・。
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残念ながら、吉岡氏のコラムを上毛新聞のサイトで読むことができないためどのような内容が書かれているのかわからなかったが、閑居堂氏の分析を読むと吉岡氏のコラムを読んでみたいと思えてくる。

吉岡氏は締めくくりで「強烈な個性が消え去ってみれば、そこに横たわっているのは、旧来のボス型政治が何十年もかけて原型を築き、熱狂的民主主義が戯画的なまでに図式化してみせた淋しい民主主義の姿である」と書いているようだが、これを解釈すれば熱から醒めれば、訪れるのは旧来型の政治であるということなのだろう。

村井氏が実現しようとする県政は、「改革」を臨む国民の声を盾にアメリカ政府の改革要求に沿って「改革」を進めてきた小泉内閣同様、県民の声を隠れ蓑に自公政権が実現しようとしている三位一体改革、地方分権、道州制を実現させようとする県政なのではないかと思えてくる。


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