創造

創造主とセルフイメージの世界

太陽の飛行速度・秒速217キロ=時速781,200キロ(マッハ638)

2013-11-30 10:08:16 | 神学と科学

http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2013/03/001291.html

天地創造は「光あれ」という言葉に依って始められたと創世記は語ります。全宇宙の背後には人格的な創造主の存在があるということです。

ケプラ-、ガリレオ、コペルニクス、ニュ-トンなど優れた天文学者のほとんどが聖書に依って啓発された人々でありました。

クリスマスに登場する東方の博士たちも天文学者であったといわれます。

地球の公転と自転ににより、北半球はこれから太陽への傾斜度が増し、受ける熱量の減少により寒くなりますが、同時に教会歴では12月1日からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスから博士の訪問の公現日である主の年2014年1月6日までのクリスマスシ-ズンを迎える訳です。

続いて復活日(イ-スタ-)の前の40日間のレント(四旬節・受難節)が始まり、イ-スタ-の後は40日間の主の顕現を覚える復活節に入ります。10日間の弟子たちの祈りの後の50日目、五旬節はペンテコステ(聖霊降臨日)、そして三位一体主日礼拝となります。

宇宙と時間の創造主はこの歴史の中に受肉され、介入されましたましたので、私たちも現在という時の中で永遠者と共に歩むのです。主が私たちの中で永遠のいのちを共にを活きてくださるというべきかもしれません。

最初の創造において、この空間も時間も有限であり、それは罪と共に朽ち行く運命にありましたが、神御自身が私たちの内側でなされる神のいのちへの新生は神生であって永遠の新たな創造です。

ガラテヤ6章14.15節で、この再創造は十字架によってなされることが分かります。天地創造において神の犠牲はありませんでしたが、永遠の創造には御子の派遣と十字架の犠牲が伴いました。それは人間の歴史のただ中で起こらなければなりませんでした。

永遠を回復されるために、永遠者が人間の歴史の中に自らを投じて下さったのです。この客観的史実は今も活きたもう復活の主によって私自身の主体的事実となります。すなわち聖霊が私たちの霊を引き上げて、至聖所の御子と御父に出会わせてくださり、その交わりに入れて下さるのです。時の流れの中で永遠との大いなる邂逅が生起するのです。

神に造られただけでなく、神のいのちをいただいて神の子にされる、そのような神の永遠の奇跡が現在、歴史の中で進展しております。聖霊なる神は、神の子たちのなかで、復活の主を証言され、そして人々に触れ、その中に住まわれることを願っておられます。

神は御自身を私たちにお与えになりたいのです。万物の創造者を持つことは、被造物であるこの壮大な宇宙をもいただくことであり、それ以上のことです。この宇宙は有限ですが、来るべき新創造の世界は無限であり、神の光を直接浴びることのできる、この世界よりはるかに、はるかにすばらしいところです。

その永遠の幸せを私たちがもつ者となるために、神は最も高価な代償を支払ってくださいました。驚くべき愛です。

 

 

 

 

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神の子としての自己像(セルフイメ-ジ・セルフアイデンティティ)

2013-11-27 14:15:26 | 福音

キルケゴ-ルはキリスト教が理解困難なのは、あまりにも高い人間措定にあると語りました。自分を、何を尺度にして、いかなる基準から認識するかということ、自分をどう考えるかで生き方は変わってきます。

聖書は元来、神の像に人間は創造されたのに、罪によってその性質を失ったと述べています。それゆえに神ご自身が人になられて真の人間の在り方を示され、人間回復を成就されたのです。「しもべとしての主」、イエスキリストです。

主の生涯に、永遠性を回復された神の子としての人間を見ることができます。

人間関係においては様々な相互措定の中で、自己像もあげられたり下げられたり波間の小船のように動揺し、自己過信と自己喪失の間を右往左往します。

問題は己を含む人間認識と措定が、どのような深層に基づくものかということです。他者あるいは自己がもつセルフイメ-ジはどこから生じるのでしょうか。

意地悪い視線や棘のある言葉を浴びると人は不安になり、健全な自己像を傷つけられます。さらに自己の罪を告発する良心の責めに耐えかねて自暴自棄に陥ることもあります。その背後には、告発者サタンの存在を否定できません。

サタンは御子イエスさえも、誘惑しましたから自分より高いステ-タスを与えられた神の子たちをも告発しようとするのです。

でありますから、私たちは罪を清める主の血潮に日々頼ります。ここで敵の告発が却下されるからです。

神が人になられたのは、失われた人をもう一度、神のもとに引き上げて下さるためでした。人だけではなく全被造物も回復されます。

神の視点から自己を見る時に、そこに己の尊厳性を発見できます。自己をリスペクト[尊敬]することなしに他者を尊敬することはできません。尊敬と感謝は聖霊からの賜物でもあります。

自分自身の措定を超えた高いセルフイメ-ジは、私自身が生みだしたものでなく、創造主からの恵みであり、人間自身の尊厳性というよりも、神の尊厳に基づくものであり、神が聖霊として私たちのうちに内住され共存されることにあります。

例えどんなに傷つき破れた自己像をもつ者でも十字架のもとでいやされ、修復され、聖霊を宿すことによって至高の自己を見出すことが出来ます。

自己自身からの人間レベルの措定をはるかに超えた、あまりに高く尊い身分なので、パウロはⅡコリント9.15で「言葉に言い尽くせない」恵みであると語りました。

 

 

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相互内在の愛

2013-11-25 11:53:31 | 福音

「だれでもイエスを神の子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(Ⅰヨハネ4・15)

"We live  in union with God and God lives in union with us"

神である聖霊が私たちの霊に内住することは、私たちが神の至聖所に活きることだという意味です。

被造物である相対的な人間が、超越と絶対の創造主を理解することは不可能なことですが、聖霊によって神の内側に活きることによって可能にされます。光によって光を見、神によって神を知る ということです。

これは日常生活においては、神が私たちの中で活きられるということです。私が主格である限り、人間レベルのことしか知りえず、その体験も限定されていますが、神が主格となって働かれる時、私たちは、神と共に永遠のいのちを活きそのレベルでの生活を体験します。

どれだけ相手の立場に立って考え行動できるかで人生が決まるとカ-ネギ-は述べています。私たちにとって絶対的な存在は創造主であり、歴史と自分の主であるこのお方を理解することが最重要な課題です。

そのために神が私たちの内側から御自身を知るという方法をとられました。なぜなら人間の限られた知解能力では、その範囲の理解しかできません。そこで認識されるのは人間の自己投影の存在、人間によって想定された偶像です。

超越者を理解するには、超越の側からの開示[啓示]以外にないのです。創造主自らが歴史の中に受肉され、

御自身の霊を私たちのうちに住まわせ、共に御自身との交わりを与え、共に活きたもうことによって御自身を知らせてくださいます。

アウグスチヌスは「誤りを露わにするには、その誤りを導きだした諸前提からそれを解釈する方法では不可能で、ただ真理であると信じられる諸前提から解釈することによってのみ可能である。」と語りました。

「パラダイム」とかポランニ-が説いた「暗黙知」という概念を、仮にこの前提と言い換えると、人間はそれぞれの霊的背景を前提条件として思考して、世界と自己そして神を解釈しているということではないでしょうか。

自分の持つ物指しの範囲でしか知解できないということです。

生物学的視点、天使的レベルの宗教的知識それぞれが、絶対者とこの世界を読み解きます。

しかし、ほんとうに永遠者を知るためには、永遠の聖い霊ご自身が必要です。創造主への私たちの断絶と無知を解決されたのは主の側からの相互内住の愛であります。

 

今日は徳島は雨です。

キャロライン・ケネディ大使は東日本被災地を訪問されていると報道されています。 

 http://www.youtube.com/watch?v=0ewOOb--bSs

 

 

 

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横井時雄がフルベッキ写真に?

2013-11-23 11:23:50 | 歴史

今治教会と横井時雄牧師については以下のサイトでかなり詳細に知ることができます。

http://www.rci.ehime-u.ac.jp/nenpo/7/6.pdf#search='%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E9%9B%84+%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E6%95%99%E4%BC%9A'

ところで井上浩郷氏によれば、フルベッキ写真で日下部太郎と推定される被写体は実は横井時雄であるとのことです。

http://www.natural-cma.com/rekishi.html

グリフィスがこの写真を見た時に、ラトガ-ス大学で親しかった日下部太郎に全く言及していないことが明治撮影説の一つの根拠にもなっていた訳ですが、井上氏によれば、暗殺の難を避けるために、米国留学中の八木八十八に松平春嶽藩主が日下部(くさかべ)を名乗るように襲名したとのことです。

八木八十八(日下部)には鼻の横にほくろがありますが、被写体の少年横井時雄(?)にはありません。

グリフィスは、被写体で判別できたのは、岩倉兄弟、大隈重信、副島種臣、柳谷謙太郎はじめ岩倉使節団の中の多くと述べています。(「日本のフルベッキ120ペ-ジ)

井上氏によれば、横井時雄と再婚した妻(柳瀬家の13歳年下の五女で末娘トヨ)の間に生まれた五女の横井悦子は実は九條節子であり、大正天皇の妻、貞明皇后とのことで、昭和天皇の遺伝子を持つ井上氏自身横井家の子孫でもあるとのこと、御自身は正妻から誕生しなかったヨセフやソロモンのような存在だとお電話で語っておられました。

私は真偽を確認するすべをもちあわしておりませんが、日本の歴史があまりに美化されたり脚色されすぎて旧約聖書のようにダビデ王のスキャンダルをそのまま記しているような真実性が欠けていたことは確かであると考えます。相対的な存在がいつしか絶対化され神格化された結果、どのような結末を迎えたかという史実を太平洋戦争やオ-ム真理教事件によって知らされたのではなかったでしょうか。真に絶対である創造主を忘れた唯物主義は疑似絶対者または独裁政権を生みだし、厳しい情報コントロ-ルシステムで統制しております。

勝海舟は「氷川清話」(講談社311ペ-ジ)で次のように語りました。

「おれはいつもつらつら思うのだ。おそよ世の中に歴史というものほどむつかしいことはない。元来人間の知恵は未来のことまで見透かすことができないから、過去のことを書いた歴史というものに鑑みて将来を推測しようというのだが、しかるところこの肝腎の歴史が容易に信用せられないとは、困った次第ではないか。見なさい。幕府が倒れてから僅かに30年しか経たないのに、この幕府の歴史すら完全に伝える者一人もないではないか。」

その意を受けた戸川残花が「幕末小史」を執筆しました。

ハ-バ-ト・ビックスは「昭和天皇」(吉田裕監修・講談社2002)において日本の軍国化と天皇の神格化へのプロセスをかなり克明に描いています。

首相の原敬は当時皇太子であった昭和天皇を右翼の反対を押し切ってヨ-ロッパ旅行を促しました。20歳の皇太子が感銘を受けたのは政治改革の嵐とヨ-ロッパ君主制の倒壊とを巧みに乗り切った英国王ジョ-ジ五世であったといわれます。それ以来英国流の立憲君主制を尊重するに至りました。

しかし、ピュ-リタン革命を経た王政復古と違って維新以来の王政復古は自ずから限界がありました。

1921年11月4日、原首相は東京駅で暗殺されす。犯行の動機は海相臨時代理を兼ねたこと、皇太子の婚約問題で山県を支持したこと、そして彼の政友会内閣が皇太子をヨ-ロッパに送り出したことだと言われます。

 (井上浩郷氏によれば養父井上朝良は大正天皇の4男であったが、原敬暗殺に際し、かつて横井小楠が暗殺された時、息子の時雄の名を変えたように、苗字を変えたとのことです。)

やがて天皇神権説が立憲君主説に近い天皇機関説を排除し、大東亜共栄圏思想へと傾斜してゆきます。

ヨ-ロッパ王室は創造主のもとに相対化され、同じ被造物としての市民との連帯と自由が保障されますが、神格化された皇室は人間として人民と断絶されます。1928年天照大神の神話に基づく即位の礼は天照の霊と一体化するという大嘗祭による、現人神へと転生儀式を伴いました。

 元来、元首天皇をかしらとする国体思想は、キリストの体を模倣した者と言われます。

しかし決定的違いは、創造主の霊は、すべての人に与えられもので、それは人となられた御子の十字架の罪の贖いを通して降臨されることです。神は聖い方ですから、罪の清めなしには一体にはなりえません。内住の聖霊は創造主であり、絶対的超越者であります。私たちは被造物であってこのお方を宿す器です。その永遠者に結ばれることによって神的いのちに預かります。土の器そのものは神ではありえないのです。

そのような訳で私たちは霊を見分けなければなりません。敵であるサタンが吠えたける獅子のように食いつくすべきものを探し求めて歩き回っているからです。(ペテロ第一・5・8)人間的な知識や能力によってこの4次元の力に太刀打ちすることは困難です。オ-ムの虜になったのは多くがエリ-トたちであり、真理を求めた真面目な青年たちでした。

からだと心の健康は大切ですがそれ以上に霊的健康が重要です。バクテリアやウィルスの侵入によって病むように、霊が悪霊に付着されますと滅びに至る不治の病を患います。

毒ヘビに咬まれて瀕死の状況にあった荒野の民を思い起こします。彼らがモ-セによってかかげられた青銅のヘビを見上げた時、毒が消滅しいやされました。私たちの罪を負われて呪われたヘビのごとくに十字架につけられた主を見上げる時、私たちの罪は取り除かれます。そして罪を告発するサタンの支配下から解放されます。心に聖霊が住んで下さり、神の子とされ天使やサタンよりはるかに高く尊い身分をいただきます。

空中戦はより高いポジションを占める者が勝利します。私たちは人生の重荷をどう処理するでしょうか。自分自身の中の悪しき思いにどう向き合うでしょうか。やがて直面しなければならない病や死に対してどう闘ったらよいでしょうか。これらの問題は自分自身の限界をこえたものではないでしょうか。

そうであればこそ、全知全能の創造主を心に迎えて、このお方に立ち向かっていただく必要があります。十字架を通して注がれている聖霊の流れが霊と心と体そして生活や環境や政治すべてに豊かな祝福をもたらされます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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創造主の絶対性と被造物である私の相対性

2013-11-22 19:03:51 | 福音

主Lordはあるじであって、私はしもべであります。その主が私という被造物の中に宿ってくださるのですからこんな恵はありません。あまりに大それたことであり、想定を超えたことなのでにわかに信じることが出来ないのです。

ふがいない自分を見て、本当に主は内住されているのだろうかと疑ってしまうこともあります。しかしみ言葉は明確に「あなた方は神の神殿です。」と断言しています。最近気づいたのは、自分の相対性(弱さと限界)を自覚すると、返って絶対者である創造主の存在が現わされるということです。

アダムが誘惑されたのは「あの実を食べるとあなたが神のようになれる。」というサタンの言葉でした。つまり絶対者になることによって、真の絶対者を必要としなくなるということです。神をシャットアウトして己を主としなさいということです。こうして被造物の偶像化という原罪が人類を被いはじめました。

神が人になられたのは、原罪なきまことの人間を現わされるためでした。しもべとなられた主は、しもべとは真の絶対者を心に迎えその主導のもとに歩むこと。「私のうちで父なる神が語り行動される」と聖霊に依る生活を身をもって示されました。

私が主人公になって生きるのでなく、主なる神が私のうちでその永遠のいのちを生きて下さり、語って下さり行動されるのです。内住の神を実感できないのは、そのような体験の乏しさにあるのかもしれません。

まだまだ自分の相対性を悟らず、あいかわらず自分をあるじとして歩んでいるのです。

曽野綾子氏の「人間にとって成熟とは何か」という本には人間はひびわれた茶碗だとありました。パウロは土の器だと述べています。しかしその相対性と脆弱性を自覚すればするほど、その中に宿る宝の輝きがいや増すのだと思います。

主よ、私のうちに活きて私を通して御心を行ってください。マリヤは天使ガブリエルの告知を耳にした時にそのように祈りました。祈りは絶対者の介入に門戸を開くのです。

現在、私たちの内側に主はおられます。私たちは神をもつ者とされました。常識の範囲を超えた空前絶後の出来事です。あまりにも大きくて理解困難な恵みです。

しかし自分の相対性のうちに絶対者を迎え、その永遠と無限が時間と有限に覆われる時、その片鱗を知らされます。

歴史上唯一の、神の受肉という客観的奇跡は、ただ一度きりの私たちの人生への、聖霊なる神の降臨と内住という主体的な奇跡を生みだしました。主は私たちのうちにあって、死も打ち破る復活の力をもって今日も活動されておられます。

 

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『ザ・レイルウェイ・マン(The Railway Man)』

2013-11-20 11:32:58 | 映画

エリック・ローマクスが執筆した自叙伝「泰緬鉄道 癒される時を求めて」を基に映画化した作品。監督はジョナサン・テプリツキー。主人公エリック・ローマクス役に「英国王のスピーチ」のコリン・ファース、その妻役にニコール・キッドマン。日本人通訳兵だった故永瀬隆氏を真田広之さんが演じています。イギリスでは14年1月、日本では4月封切りと聞きました。

岡山では永瀬氏の記念館建設計画が進められているとのことです。

 

http://www.yoseyama.jp/blog/2013/09/the-railway-man.html

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原敬とジョン・F・ケネディ

2013-11-19 15:58:30 | 歴史

オバマ大統領の信任厚いキャロライン・ケネディ氏が駐日米大使として就任されました。

父ケネディはカトリックでしたが、バプテストのマルチン・ル-サ-・キング牧師が公民権運動で逮捕された時、弟のロバ-トと共に、その釈放のために働きかけをしました。前大統領のアイゼンハワ-は、「たった2回の電話(ジョン・ケネディからキング夫人への電話とロバート・ケネディから判事への電話)が民主党を勝たせる結果になってしまった」と語ったそうです。リンカ-ン大統領に始まる奴隷解放はいずれの指導者にも暗殺という代価を強いることになりました。

日本の歴史においても、多くのリ-ダ-達と先人達の血の犠牲の上に今日の民主主義国家が誕生したことは忘れられてはならないと思います。その中でも平民宰相とよばれた原敬はケネディと不思議な共通点があります。日本歴史上はじめてのクリスチャン宰相であった原はケネディと同じカトリックであり、政治的には主流とは言えませんでした。

 http://www.ifsa.jp/index.php?haratakashi

右派と左派から双方から敵視されたとも言えます。

明治維新の王政復古以来、南朝思想に立脚する民族主義とインタ-ナショナルな唯物主義のはざまで日本の政治はゆり動かされてきたといえます。

西郷隆盛は「人を相手にせず天を相手にする」と語ったそうですが、政治の表面だけでなくその背後にある霊性である、4次元の世界にも目を留めなければならないと思われます。

私たちは指導者たちのためにも真剣に祈らなければならないのです。

 http://www.youtube.com/watch?v=t-FctFpgYWM

 

 

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フルベッキ写真に写る岩倉具定(ともさだ)

2013-11-18 16:02:59 | 歴史

フルベッキ写真に岩倉具視の子、岩倉具定と具経の兄弟が写されていることは慶応撮影説(1865)でも明治撮影説(1868)でも共通して確認されています。二人は1870年(明治3年)フルベッキ師の世話で米国に留学しました。

具定のひ孫、岩倉具子(小桜葉子)は加山雄三氏のお母さんとのことです。ある方によれば加山雄三は出演前に必ず神に祈るのそうです。フルベッキの祈りの精神はいまにいたるまで影響しているのでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=mmYXznqILj0

 ところで「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏はこの写場が慶応年間にはまだ開設されていなかったという前提にたって、岩倉兄弟が佐賀を訪問した1868年12月(明治元年10月)から大隈が英国水兵斬殺事件のため長崎に滞在した1869年1月(明治元年12月)までの間に撮影されたと推定しています。(138ペ-ジ)

上述の前提については、写場は明治2年撮影されたものに二か所あることから再検証の必要があるといえます。

第二点、村瀬氏は1895年(明治28年)雑誌「太陽」に掲載された戸川残花の「フルベッキ博士とヘボン先生」には具体的な記述がないと書かれていますが、残花は写真は「30年前の武士は眼前に出てくるの感あり。氏は特に佐賀の藩士に知れる人多く、村田若狭(佐賀家の重役なり)の如きは教えを聞きて受洗し基督教となりしは、今をさる29年前のことなり、」とかなり正確に1865年の撮影を意識しております。なお写真のキャプションには「維新前の長崎洋学生」とあります。

慶応撮影説に立つと、被写体中、西郷隆盛や坂本龍馬の可能性があります。

西郷は手に怪我を負ったことがあり、刀の代わりに竹ムチを使用したと評伝にありますが、写真にはマントを着て竹ムチを所持している姿があります。

坂本龍馬については耳の特徴が龍馬の他の写真と一致していることが分かります。

グリフィスはこの写真が日本の歴史家にとって非常に価値あるものだと記しています[119ペ-ジ]。更なる究明が必要と思われます。

 

 

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「あなたがたの霊、たましい、からだが完全にまもられますように」

2013-11-15 09:29:18 | ゴスペル

テサロニケⅠ・5・23のパウロの言葉です。

ヨハネ第三の手紙2節には「愛する者よ。あなたがたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。

米国バプテストの代表的な思想家ラゥシェンブッシュは神を知り神と交わることを最優先した神の国運動のリ-ダ-でありましたが、こう語りました。

「もっとも主要なことは神をもつこと、彼のうちに生きること、そして彼をわたしたちのうちに生かすことである。」

ラゥシェンブッシュの教えと感化は政治・経済の秩序の形態にまで及び、家屋の建築計画、労働条件の改善、保険、天然資源の活用を促しました。

幕末維新を導いたフルベッキ宣教師や勝海舟も十字架を通して心に聖霊なる神を迎え、そしてその偉大な能力によって新しい時代を導くことを体現しました。

グリフィスは「日本のフルベッキ」(村瀬寿代訳洋学堂書店)で以下のように述べています。(123ペ-ジ)

https://archive.org/details/verbeckofjapan00grifuoft

「北部・ゲルマン系キリスト教(Northern,or Germanic)とロ-マ・スラブ系キリスト教には根本的な相違がはっきりと見られる。後者の主なる目的はチャ-チマンを育てることである。チャ-チマンとクライストマンの間には大きな相違がある。チャ-チマンは団体に従う(conforms to his corporation)。クライストマンは神の中に、自分自身の人生を求める(seeks his  life out of himself in God)。改革派キリスト教は芸術・文学、哲学や個人の、あるいは社会や国の理想に触れ、再形成する。救い主イエスの中に改めて再建する。ギドー・フルベッキほどこのことをよく知り感じ言った者はいなかった。」

神との直接的交わりは御霊なる神が内側でなさる業であり、ここに間接的代理的信仰との相違があります。

グリフィスの言うクライストマンとは神にあって自律(神律)した人間のことであり、宗教改革以来の人格主義に通じるものです。天使もしくは代理者を仲介するのでなく、直接、聖霊によって神に触れる信仰です。

スイスの直接民主主義は恐らくアナ・バプテストという霊的土壌から生み出された形態かもしれません。トレルチは新プロテスタント主義と表現しました。

政教分離と言えば一見政治との関わりを断つかのようですが、政治システムを相対化することによって返って神の介入に門戸を開くことになります。カ-ル・バルトは神学は哲学化することによってではなく、純粋に神学であることによって哲学の関心を引きこれを助けるのだと語りました。

「神の国と神の義を第一にする」ということは人生の全領域に神の介入と働きを求めるということでもあります。

すべてのことで主に頼り御霊に依存するのです。至聖所の臨在が聖所へそして庭から外部へと流れるように現わされます。神の祝福が内側から家族と隣人へ社会へと拡張されてゆきます。

ヨ-ロッパではブル-ムハルトが日本では賀川豊彦が神の国運動を主導しました。それは近代世界をいやし祝福しようされる創造主の意思と思われます。

 

 

 

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明日はどんな日か

2013-11-13 09:22:24 | ゴスペル

http://www.youtube.com/watch?v=XATb9QHj1og

 

http://www.youtube.com/watch?v=EElpGt6UkhE

 

http://www.goodnewsstation.com/article.php?article_id=94

 

ゆだねられた人生、それは内住の聖霊に帰依し、依存し、一体化した歩みであり、生まれつきの自己能力依存から解き放たれて神的いのちとその能力に依る生活であります。

御子イエスがその様に歩まれましたから、聖霊のいのちの川が泉のように湧きあがり周囲に注がれました。人格的な創造霊が主の内で働かれたのであります。

「私はよみがえりであり、いのちである」(ヨハネ11・25)と宣言されたのは、永遠が今という時の中に始まっているということです。歴史を認識するために、人は現在の体験を基準にして考察するしかないとトレルチが述べたように、各自はその達したレベルに従って過去の事実の信憑性と未来の推察を行います。

イエス・キリストをどのように理解するかは、それぞれの認識力のレベル次第です。そして歴史はHis Storyといわれるように、歴史認識もまた私たちの認識力のレベルに依存します。

その認識力が生まれつきの自然的生命(ビオス)のレベルのものであれば、その視界の範囲のみの理解に終わります。生物学的視点から見れば、主は偉大な革命家であり、宗教的天使的面から判断すれば並はずれた預言者の一人と映ります。しかし聖霊に依る永遠の視点に立つ時、人となられて真の人間となられた活ける神を認識するのです。

それは現在という時を見る目も同じであります。自然的生命に依る観察の視界は被造物と環境の現象のみが投影されていますが、創造霊の視点から見る時に被造物と世界を支えている深層(4次元)を知覚するのであり復活された永遠者が父なる神と共にこの世を統治され、我々の同伴者として歩んでおられることを知らされます。

神は私たちの内で永遠の生命を分与され共有され共にされておられます。聖霊なる神の内に生きることによって超自然的な神のいのちとその性格と力に生きるのです。御霊の実である愛や喜び、平安そして寛容、親切、慈愛、あるいは忠実、柔和、自制は人間の生来の性格ではなく、神が御霊を通して供給される超自然のものです。私たちの能力は親からの遺伝子と教育環境の成果でありますが、それを超越する知識や知恵、預言、奇跡、いやし、信仰、異言、解き明かし、霊の見分けという能力は内住の聖霊なる神が私たちと共になされるなされる賜物であります。

その体験の一端でも現実に体験する時に、聖書のリアリティを味わい、歴史を貫いて活動される神を認識するのです。そして歴史は無味乾燥な非人格的事実の羅列ではなく、創造主を中心に展開さる偉大な主の物語でもあることを知らされます。

主は私たち一人一人を造られ、育み活かしておられる個々人の主でもあられ、このお方を知り交わることによってその歩みはかけがいのないものであり、尊い意味を持っていることも知らされます。すなわち一個の被造物でありますがその中に神がともに住んで下さることによって、神の子として永遠の神的生命に活かされている自分を見い出すのです。

 

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絶対的神的生命・ベタ-でなくベストのもの

2013-11-12 21:37:30 | ゴスペル

神は二級品でなく一級品、至高のものをお与えになる方です。比較的良いものでなく最上級のものです。相対的なものでなく永遠的絶対のもの、それが永遠のいのち(ゾ-エ-)です。聖所よりも高い至聖所の次元、天使的宗教の次元を超えた創造主ご自身のいのちと世界です。

ユダヤ教の問題は、律法という天使のレベルの恵み、すなわちベタ-の世界に固執するあまりベストの世界を求めないとうことです。

宗教はよいものですが、その相対的次元を絶対化すると、真の絶対的恵みの手前で足踏みすることになります。

福音とは神御自身が被造物の世界に身を投じ、人類の罪の責任を自らに負ってくださり、復活されて聖霊を私たちに住まわせて下さった事実をいいます。被造物の中に創造主が受肉され、時間と空間の中に永遠が降下されました。そこに神の自己贈与の愛があり、被造物に神的生命が授与があります。

「歴史主義とその克服」E・トレルチ著大坪重明訳・理想社から多少長い引用をいたします。(117ペ-ジ)

「回教がペルシャやインドの神秘思想を摂取し、またギリシャや近代の哲学を摂取した場合には、回教はその純粋の精神を失って、いよいよ民族自治を示す一特徴たるもの、民族自治の一根拠たるものとなるのです。なお儒教および仏教は、宗教というよりはむしろ哲学でありまして、その絶対性の基づくところは、特別に宗教的な性質を帯びた啓示の確実性にあるというよりは、むしろ普遍妥当的な思考の本質にあるのであります。しかもこの場合、儒教の方は根本的に民族的なものであるし、仏教の方は事実上熱帯地方の生活条件に結びついているものであります。

これに対してキリスト教の持つ素朴な絶対性は、何時でも以上のような諸宗教とは全く類を異にする絶対性なのであります。民族的束縛は根本的に排除されておりますし、この民族的束縛の排除は、人間の持つ最も単純な、最も普遍的な、最も内面的にして人格的な要求のみに向けられているキリスト教的宗教理念の、準人間的な性格を反映しているのです。

さらに又、キリスト教の絶対性というものは、人間の思考活動ややっかいな思想的作業に基づくものでは決してなく、偉大な予言者達や彼らの内面生活の中に圧倒的な力をもって現われてくる神の啓示に基づくものであります。それゆえにキリスト教の絶対性は生命(ゾ-エ-)なのであって思考ではなく、力なのであって社会秩序ではなのです。その普遍妥当性は、良心の中核おいて神が自らを開示するということに基づくのであって、思考や論証の正しさに基づくのではありません。・・・・・」

 

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幕末明治の写真師列伝(森重和雄氏)

2013-11-11 20:14:59 | 歴史

第一回田本研造

第二回下岡蓮杖その一

第三回下岡蓮杖その二

第四回下岡蓮杖その三

第五回下岡蓮杖その四

第六回下岡蓮杖その五

第七回下岡蓮杖その六

第八回下岡蓮杖その七

第九回下岡蓮杖その八

第十回下岡蓮杖その九

第十一回下岡蓮杖その十

第十二回下岡蓮杖その十一

第十三回下岡蓮杖その十二

第十四回下岡蓮杖その十三

第十五回下岡蓮杖その十四

第十六回下岡蓮杖その十五

第十七回下岡蓮杖その十六

第十八回下岡蓮杖その十七

第十九回下岡蓮杖その十八

第二十回下岡蓮杖その十九    ジョナサン・ゴ-ブルと人力車

第二十一回下岡蓮杖その二十

第二十二回下岡蓮杖その二十一

 

 

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島田隆資(北川健児)とフルベッキ写真

2013-11-11 16:42:17 | 歴史

http://holyspirit.blog.ocn.ne.jp/mmm/2007/11/

1985.6.27東京新聞

 

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カ-ル・バルトとニ-チェ

2013-11-10 17:59:24 | 福音

http://kyurios.exblog.jp/13758010/

なぜ牧師の息子であったニ-チェが「神は死んだ」と語り、そして超人思想を説いたのか。西方キリスト教世界になぜナチズムが生まれたのかという問いがあります。

反ナチ闘争の戦士カ-ル・バルトは逆説的にニ-チェを評価します。ニ-チェが批判したキリスト教はあまりに西方化され、人間の内に成就される聖霊の超越性と力を過小評価した神学ではなかったかと。

しかし同時に、聖霊論によってニ-チェの思想を徹底的に批判します。もし創造主の霊以外のところに超越を求めるならば別の霊の虜(とりこ)になるという危険に気づいたからでしょう。

それはナチの嵐のただ中で体験した霊的現実であったに違いありません。閉そく感とあいまいさに陥る時、人は強烈なリ-ダ-シップと権力を求めます。内住の神を見失うと、外部に権威を求め始めます。絶対的なお方への信頼と依存が失われると、相対的なものを絶対化するという偶像礼拝のワナに陥るのです。

復活の主はペテロに私を(アガペ-の絶対的愛で)愛するかと問われたのではなかったと思います。しかし十字架の恐怖の中で、三度、主をいなんだペテロは私はあなたを(フィレオ-という相対的な愛でしか)愛せませんと答えたのではないでしょうか。三度目に主は「私を愛しますか(フィレオ-)と尋ねます。

創造主である絶対者が、相対者の立場に立たれ相対的レベルの言葉で語られました。被造物に絶対ということがないことを主はご存じだったに違いありません。

ニ-チェはキリスト教は弱者礼讃の宗教だと批判しましたが、その弱さを知らされたペテロが後に徹底的な聖霊依存に生きることによって文字通り岩のような人物に変えられたことを見通すことが出来ませんでした。あるいは当時の教会の中にそのようなリアリティを見出すことが出来なかったというべきかもしれません。

バルトやニ-メラ-に代表される告白教会の人々が、単にナチとその支持者であるドイツ民族的教会を批判し、闘争しただけでなく、自らのあり方に対するさらに厳しい自己批判と悔い改めを伴っていたことは忘れてはならないことです。

 

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政教分離と福音

2013-11-09 09:21:47 | ゴスペル

東方教会がイスラム教や大乗仏教との類似性があるとすれば、人から神への道、すなわち神化(仏教では成仏思想)の信仰にあると思われます。西方教会は主イエスの神性、すなわち受肉を重んじましたが東方教会はその人性も重視しました。聖霊の油注ぎ(メシア)による栄化の道を歩まれる主に倣って御霊への依存の中で生きる自己を確認しました。

しかしマ-リンキャロザ-スが「自分の力に頼らずに、神の力に頼るということは、誰にでも容易にできることではありません。」(天国の到来・モア出版79ペ-ジ)と述べたように神依存はいつしか自己依存に陥る誘惑にさらされています。カ-ルバルトも創造霊と被造霊の峻別は困難だと語りました。

至聖所への道は御子の十字架の贖いにのみあり、聖霊の内住とその働きの根拠は一方的な神の恵みにあります。しかしモ-セがかつての体験を頼りに岩を打ったように、ダビデが自軍の数を数えていつしか創造主依存から被造物依存への脱落は容易に起こりえるのです。霊で始めたのに肉である自我で治めようとします。

神化のプロセスにおいて諸霊が介入し、いつしか別な霊によってコントロ-ルされるということが宗教の問題です。恐らく西方教会が御子の神性に固執したのは十字架の贖い以外のところでは至聖所への道、聖霊の注ぎはありえないということを強調したからでしょう。泥にまみれた子供をそのままで家に入れたら家が汚染されます。まずその汚れを洗い清めてはじめて帰宅が許されるように、神のホ-ムに迎え入れられる者は、神の血によって清められなければなりません。人間の側からすれば、主の十字架の贖いに依存(信じて)することによって、霊の中に聖霊をお迎えできるのです。

主の贖いという狭き門以外のところで霊を受けるとすれば、それは聖い創造霊ではありえません。至聖所のレベルではなく天使レベルのものです。

このレベルは物質と人体への関与は許されますがそれ以上ではないのです。換言すればそこは政治の次元に関わるといって良いでしょう。旧約聖書が祭政一致であるのは、至聖所がまだ開かれていなかった天使による神の間接的関与の世界であったからだと思います。

東方教会的いわば霊の解禁状態のなかで人々は神化の道を探求したとします。そしてマホメットは天使ガブリエルから啓示を受けてコ-ランを生みだしたとされます。あるいはユダヤ教は御子の受肉を認めず、十字架の贖いに依存しようとしませんので依然として聖霊に依る永遠の次元(救い)に至りません。

そこでは政治至上主義、祭政一致の施政が特徴的です。日本の幕藩時代は租霊に基づく大名が絶対権をもち民はそれぞれの祖先を祭る檀家制度でした。明治以降、西欧キリスト教世界の主の体を模倣する国体思想によって、創造霊を模写した天皇の租霊(被造霊)のもとに国政を敷きました。天皇機関説を打破した南朝的な天皇神権説はやがてその皇国思想と共に軍事国家と化してアジアと南方へと進出しました。

戦後、吹き荒れたのは人間の合理的理性を絶対視した唯物史観を仮説にした、人類史上まれにみる壮大な実験でありました。ここでもなによりも政治が至上の位置にあり、永遠は等閑視されました。

聖霊の内住に依る人格が軽視されるところでは、教祖もしくわ独裁者[政権]による非人格的な統制がなされます。

政教分離とは人間が単に一時的政治的存在ではなく、永遠的霊的人格的存在であることを宣言するものです。天使の次元を超えた創造主の次元に生きることを許されていることの証しでもあります。

創造主に立ち返り、ひたすらその恵みに依存し、賛美と祈りをささげることによって、その偉大な力が解放され、天使も動員されて、霊と心と体にそして環境にも祝福がもたらされるでしょう。

 

 

 

 

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