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にプロテスタント教会の説教についての優れた洞察が述べられています。
説教とは対話であり、神に聴く事によって話されるメッセージなのだと教えられました。
ベート―ヴェンは聖霊の語りかけを聞いた時に、思わず指揮を中断したことがあったそうです。
彼をモデルに書かれたロマン・ローランの大河小説「ジャン・クリフトフ」の一節に「偉大な音楽とは人間が作り出すものではなく、自然の中から聞き取り、発見するものだ」とありました。
正確には被造物としての自然から創造主の語りかけを聞き取ってそれを編曲することが真の音楽家だという意味なのでしょうか。
究極の祈りは主の声を聴くことだといわれます。確かに聖書には多くの祈りと願望が語られていますが、最も大切なのは神御自身の言葉であり、旧約の人々にとって語る祈りよりも聴く祈りのほうがむづかしかったようです。ダビデは多くの祈りをささげていますが、その答えは祭司ナタンを通して与えられたということからもうかがわれます。
中でも印象深いのはエリヤが神の声を聞いた時です。それは静かな細い声だったとあります。遠くで叫ぶには大声が必要ですが近かったらささやくような声で十分です。
現在、神はいとちかくからささやかれます。聖霊は私たちの身体よりも心よりももっと近い霊の中から語られますから、やはり心を静めて耳を澄ますことが求められます。
ということは自分の自我(魂・プシュケ)を主とする限り、私たちは聖霊の神との交わりを軽んじることになるのです。サタンがアダムを誘惑した時も「神から独立して自給自存の道を歩ませる」ことでした。霊による創造主への依存と交わりの道でなく、自我を神として魂のモノローグの世界に誘導したのです。それは「我とあなたの関係」ではなく「我とそれ」の関係です。神のいのち(ゾーエー)からそのようにして人間は切り離されました。
神との人格的な関係を失った結果人間同士のそして自然界との関係も破綻します。それは自然の一部でもある人間の人体との調和も危険にさらすことになった訳です。
お互いの対話を失い、目的として関わるのでなく手段としてしか、つきあえなくなりました。
パスカルを戦慄させた「宇宙の沈黙」の世界です。ピカートが指摘したように「私たち自身が魂を主人公にした小独裁者」になりうるのです。
しかし感謝すべきことに、創造主の側からなおも、交わりを求め対話を試みてくださり、主ご自身が私たちのもとに近付いてくださって、壊された関係を十字架によって修復してくださいました。そうして復活された主は、共に歩んで下さり、私たちの内に聖霊を住まわせ、永遠の交わりの中に生かして下さっておられます。
主イエスの地上における生涯は、私たちへの語りかけであり、それは現実に活きて共に歩んでおられる復活主ご自身との対話を呼び起こすものでもあります。
聖霊によって書かれた聖書を聖霊に頼りつつ読むときに、時の中に生きる者でありつつ、永遠を生きる奇跡を味わうのです。