創造

創造主とセルフイメージの世界

霊の父の訓練

2024-06-17 10:42:49 | 福音

新聖歌112

【へブル書12章1ー11】

今日は父の日です。母の日は5月第二主日で、アメリカのメソジスト教会で、長く教会学校の教師をしていた母に感謝をささげた少女の思いから始まりました。

同様に、南北戦争から退役した父が、妻亡きあと子供たちを育て、その子が教会の牧師に父にも感謝をささげたいという思いを伝えたことから始まりました。

神はどうして母でなく「父」と呼ぶのか議論の多いところですが、恐らく人類は男性「アダム」が最初につくられ、そのアダムのあばら骨の一つから妻となるエバが造られたからだと思われます。

今日では遺伝子を取り出してクローンを生み出すことが可能になっておりますが、神は人間創造の初めから既に同じようなことをされたのでしょうか。

ところで、生命は親の遺伝子を受けて、親に似た性格や能力を持つ者に成長します。そのために、「懲らしめ」としての教育と訓練が必要です。

 霊の父である神も、神の子として成長するために試練とか困難を通して神のいのちが現れるように訓練されます。

アダムの子孫である人間は、どのように訓練されたとしても朽ち行く被造物でありますので、創造霊である神は、私たちを憐れみ、ご自身の永遠のいのちを与えるため御子を遣わされました。

ヨルダン川で聖霊を受けられた御子は、新たな神のいのちを生きられました。アダムが罪によって失ったいのちです。そして霊の天的訓練や知識を荒野の祈りの中で受けられました。

古代教父アタナシオスは「私たちが聖霊を受け取るために、み言葉は身体のかたちをとられた。人間が霊を持つ者になるために、神は身体を持つ方となられた。」と述べ「神は人間となられた、それは人間が神とされるためであった」とも語りました。

キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって、祈りと願いを捧げ、そしてその敬虔の故に聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全なものとされ・・」(5章7,8)

私たちは御子の十字架の贖いを通して、罪を清めていただき聖霊を宿して神の子にされました。

旧約時代は幕屋や神殿で膨大な数の子牛や羊の贖いの血が流されました。それは神に近づくためでしたが、神の御座に入ることは許されませんでした。

しかし、現在は神の小羊の血が流されましたので、動物の贖いは不要となり、そのような神殿も必要ありません。

御子ご自身が神の神殿であられたように、私たちが聖霊なる神を宿す神殿とされたのです。 

神殿には至聖所、聖所、大庭があるように、私たちに霊、心、体があります。

聖霊様Spiritは私たちの霊spiritsに住まわれ、心mindと体bodyに働かれます。

試練を通して自我(自分依存)が砕かれ、主に明け渡すことを学びます。そして聖霊が全体に溢れて神の業を現わされます。

自分で思いをコントロールできないのは、悪霊の縛りがあるからです。ですから主の血によって日々罪を洗い清めていただいて心にも聖霊が溢れれくださるように祈りましょう。

見える世界は氷山の一角で、見えないより深い霊の世界から影響を受けています。

 霊の父は偉大で永遠です。イエス様は「私の中で父(御霊)が働いておられる」と語られました。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれから湧く」(箴言4・23)とあるように御霊は心というパイプを通過されて現れます。

 肉親の親が訓練してくれるように、永遠の親は試練を通して私たちがますます主にお頼りして御霊の実を結ぶ者に変えてくださるのです。

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エルヴィス・プレスビー"丘の上の大邸宅"

2024-06-04 10:08:11 | 福音

Mansion over the hilltop

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三位一体の神

2024-06-03 10:42:43 | 福音

讃美

【エペソ書1章】

ペンテコステに続く日曜日は三位一体主日と言います。

神を知る、主を知るには内的に同じいのちのレベルがなければなりません。神が愛であり霊であり、人間と同じような意志や感情や知性があられます。喜ばれたり、悲しまれたり、怒ったり、自ら苦しまれ嘆かれる姿が旧約聖書にも描かれています。しかし、それは聖なる人格であり、必ずしも私たちの思いと同じでありません。

むしろ、人間の思いは二心であり、神を傷つけ悲しませる性質があると述べられます。

その意味で私たちは神の心を理解するには程遠い存在です。「神の御心のことは、神の御霊の他に誰も知りません」(コリントⅠ2・11)とあるように、ただ一つの相通じる道があるとすれば、神が私たちの心底に下られて、その思いを共有させてくださることです。

旧約時代、聖なる神は、天使の仲介を通して人間に触れました。小羊の血が罪を清め天使に近づくことをゆるしました。しかし神ご自身のおられる至聖所へ導く力はありませんでした。

神の小羊である御子の血のみが、至聖所である神の内側に至る道を開かれます。それは御霊が私たちの心の奥底に住まわれることによって実現しました。御子は神の反逆したこの世界にこられ、地獄にまで下られました。

 御霊は、どうすることもできない私たちの心にまで下られて、思いを共有されます。カルバリの丘で主の血が流された時、不治の病に侵されたベンハーの母と妹が一瞬に癒されました。その時神の激痛が彼女たちに共有されたことが描かれていました。むなしさに襲われることはありませんか。

私の場合、そのようなときに聖霊様が自分の中でうめいておられると感じることがあります。

天から下り、主の血潮の故に自分のような汚れた住まいにもかかわらず、永住してくださっているのに、その尊い臨在をすっかり忘れてこの世のことのみに埋没するので、実は御霊を悲しませるのではないでしょうか。

御霊が喜ぶ時自分も喜び、御霊が悲しまれる時自分も悲しめるように、主の心と一つになれるならば主も喜んで働いてくださると思います。

しかし、あなたが主により頼んだ時、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。主はその御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と一つになっている者に力を現わされる」(歴代Ⅱ16・8,9)

聖霊は私たちに罪を示し、罪の赦しのために十字架の贖いに頼らせ、そうしてご自身を受け入れるように呼びかけ、心を開かれて私たちの至聖所である霊に住まわれます。そのようにして神のいのちと心を通わせてくださるのです。同時に、その御霊の性質と能力に依って、イエス様の本当の姿を知らされ父なる神との交わりに入れられます。真の神である創造主は清いお方であり永遠の交わりのお方であり、至聖所に住まわれる方であり、

私たちもその至聖所に入らなければ分からなかったお方に目を開かせるのです。

三位一体の神は永遠の愛と交わりの存在者であり、私たちを救うため経綸的に行動されるお方です。

そして偽りの教えと霊を識別するためにも「使徒信条」が確認され告白されました。

ユダ書9節以下、「この人たちは、御霊を持たず分裂を起こし生まれつきの人間(プシュキコス・魂の人)です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは自分の持っている最も聖い信仰のうえに自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストの憐みを待ち望みなさい。」御霊なる神の内住は畏れ多いことで、ウザのように契約の箱に触っただけで即死し、その蓋を開けた異教徒5万人余が死にました。十戒を授ける天使の山にはモーセ以外近づけませんでした。聖所にはレビ族の祭司以外入ることは許されず、イザヤが神を見た時私はもうだめだと叫びました。パウロはあまりにも聖なる復活主の光に照らされて三日間視力を失いました。神殿の至聖所にしか住まわれないお方が、自分のような罪人の中に来ておられることはあり得ないことですが、ただ、御子の十字架上での贖いの血の故に、その驚くべき奇跡がこの身に起こったのであります。

神はご自身を裂くように御子を与え、御霊を与えられました。そしてその神のいのちの中で「父よ!」「御子よ!」と永遠の三位一体の交わりの中で語り合うことが許されているのです。

丘の上のマンション

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