【へブル書12章1ー11】
今日は父の日です。母の日は5月第二主日で、アメリカのメソジスト教会で、長く教会学校の教師をしていた母に感謝をささげた少女の思いから始まりました。
同様に、南北戦争から退役した父が、妻亡きあと子供たちを育て、その子が教会の牧師に父にも感謝をささげたいという思いを伝えたことから始まりました。
神はどうして母でなく「父」と呼ぶのか議論の多いところですが、恐らく人類は男性「アダム」が最初につくられ、そのアダムのあばら骨の一つから妻となるエバが造られたからだと思われます。
今日では遺伝子を取り出してクローンを生み出すことが可能になっておりますが、神は人間創造の初めから既に同じようなことをされたのでしょうか。
ところで、生命は親の遺伝子を受けて、親に似た性格や能力を持つ者に成長します。そのために、「懲らしめ」としての教育と訓練が必要です。
霊の父である神も、神の子として成長するために試練とか困難を通して神のいのちが現れるように訓練されます。
アダムの子孫である人間は、どのように訓練されたとしても朽ち行く被造物でありますので、創造霊である神は、私たちを憐れみ、ご自身の永遠のいのちを与えるため御子を遣わされました。
ヨルダン川で聖霊を受けられた御子は、新たな神のいのちを生きられました。アダムが罪によって失ったいのちです。そして霊の天的訓練や知識を荒野の祈りの中で受けられました。
古代教父アタナシオスは「私たちが聖霊を受け取るために、み言葉は身体のかたちをとられた。人間が霊を持つ者になるために、神は身体を持つ方となられた。」と述べ「神は人間となられた、それは人間が神とされるためであった」とも語りました。
「キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって、祈りと願いを捧げ、そしてその敬虔の故に聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全なものとされ・・」(5章7,8)
私たちは御子の十字架の贖いを通して、罪を清めていただき聖霊を宿して神の子にされました。
旧約時代は幕屋や神殿で膨大な数の子牛や羊の贖いの血が流されました。それは神に近づくためでしたが、神の御座に入ることは許されませんでした。
しかし、現在は神の小羊の血が流されましたので、動物の贖いは不要となり、そのような神殿も必要ありません。
御子ご自身が神の神殿であられたように、私たちが聖霊なる神を宿す神殿とされたのです。
神殿には至聖所、聖所、大庭があるように、私たちに霊、心、体があります。
聖霊様Spiritは私たちの霊spiritsに住まわれ、心mindと体bodyに働かれます。
試練を通して自我(自分依存)が砕かれ、主に明け渡すことを学びます。そして聖霊が全体に溢れて神の業を現わされます。
自分で思いをコントロールできないのは、悪霊の縛りがあるからです。ですから主の血によって日々罪を洗い清めていただいて心にも聖霊が溢れれくださるように祈りましょう。
見える世界は氷山の一角で、見えないより深い霊の世界から影響を受けています。
霊の父は偉大で永遠です。イエス様は「私の中で父(御霊)が働いておられる」と語られました。
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれから湧く」(箴言4・23)とあるように御霊は心というパイプを通過されて現れます。
肉親の親が訓練してくれるように、永遠の親は試練を通して私たちがますます主にお頼りして御霊の実を結ぶ者に変えてくださるのです。