記憶とはなんて頼りないものなのか。
いつも、
24時間前と全く違う場所に身を置くと
とても不思議な感覚になる。
24時間前に起きたことが
ぜんぶ自分の幻想で
夢みたいだと感じる。
つなぎとめてくれるのは
時を共有しただれかの存在。
記憶を共有した者が
過去と今をつないでくれる。
🔹
記憶を共有する者がいなくなるのを怖いと感じるのは
自分の存在意義が薄れていく気がするから
というのも理由のひとつなのだろう。
いろいろと研究されて
一般的に言われてるたくさんの理由のひとつに
当然そういう解釈はあるだろうけれど。
🔹
記憶の継承。
原爆の記憶
ホロコーストの記憶
二度と同じような悲しみ、
苦しみ、
悔しさを
味わう者がいないようにと、
そういうことを起こさないようにと
伝えてくれているひとたちがいる。
記憶は記録としても残されて
確固とした過去を伝えてくれる。
(それなのに、という話はここではひとまず置いておく。)
自分ひとりで抱えているような
記憶の儚げさは全くない。
経験を共有した者の多さがその違いを作っているのだろう。
🔹
ある特定の者とだけ共有する記憶。
日常生活のなかではそちらの方が多いだろう。
自分にとって大切なことを
相手が覚えていてくれてたら嬉しい。
取るに足らないささいなことでも
相手が忘れていると悲しい。
その逆もあって
ストンと私の記憶が抜けていて
相手を傷つけることもある。
相手にとって自分がどういう存在なのかを
記憶の保持によって確かめているみたいだ。
必ずしもその考え方が当てはまらない場合もあることは
忘れてはいけない。
🔹
個人的な経験について、
記憶を共有する者がいなくなってしまっても
自分でさえそのことを忘れてしまっても
過去の経験、その記憶が
自分を
相手を
作っていることは疑いようのない事実で、
目には見えないけれど
確実に「今」を、
「明日」を
作っていくのだろう。
寂しくても
悲しくても
不安でも
忘れてしまっても
きっと大丈夫。
悲しいけれど。
きっと大丈夫。