随所随縁

所に随(したが)い、縁に随い、時に随い、想いに随い、書き留めていきたい。

モンゴルについて(3)

2007-06-21 22:26:36 | Weblog
今回のモンゴル行きの目的のひとつが「植林」であることから、昼はただただ広い草原で植林、夜はホテルぐらしになってしまい、「モンゴルそのもの」に触れる機会が少なかったのが残念でした。モンゴルの人たちが何を食べ、何を考え、どのように暮らしているのか、などをもっと知りたかったです。

それでも、今回のスケジュールの中で、たった半日ですが、「モンゴル『環境・教育・経済』フォーラム」が行われ、私にとっては非常に有益でした。講師はモンゴル中央銀行取締役や、モンゴル国環境省副大臣といった方でしたが、2~3時間の講義でどれだけモンゴルが理解できたかはアヤシイところですが。

特に(私にとって)おもしろかったのが「経済」で、テーマは(1)資本主義化の経緯と方法 (2)現在のモンゴルの経済状況 でした。

まず(1)について、
急激な近代化や、共産主義から資本主義への移行、といった急激な社会の変化には、当然大きな混乱が発生するものですが、モンゴルもその混乱の時期を乗り越えてきたことが分かりました。共産主義の時代(~1990年)には、ソ連・東欧人の「アドバイザー」が2万人以上(総人口の1%)もいて、ソ連・東欧の援助の総額がGDPの30%を占めていたわけですが、1991年の民主主義移行でこれらが全てなくなってしまい、1991(?1993?)年には完全にインフラがストップし、職場から自宅に帰れず凍死する人もいて、ほとんど内戦状態に陥ったそうです。GDPの「成長率」が1%なのか2%なのかで大騒ぎになる日本にいると、「30%減」というのは想像を絶するところです。

全てが国有の共産主義から民営化(資本主義化)するために、モンゴルでは3段階に分け、10数年をかけたそうです。第1段階は1991年の「国営企業の民営化」で、全国民(?)に、200$相当の投資バウチャーを無償で配布(!)し、好きな国営企業に投資させることにしたそうです。第2段階は1994年の「現金の民営化」で、そのバウチャーを現金と交換できるようにした、ということです(???)。第3段階が「土地の民営化」で、これは(なんと)申請すれば、都会であれば0.07ha、地方であれば0.15haが貰える(!)というものでした。・・・ここまでについて、私としてはまじめに講義を聞いてきちんとメモしたつもりですが、聞き間違いもあるかもしれませんので内容の正確さについてはあまり保証できません。。。

なんというか、シンプルかつ大胆、そして「計画経済的な民営化」のプロセスですが、それでも2006年時点でGDPにおける「民営化のシェア」は78%あまり、ということですから、民営化の移行は順調に進んでいるということなのでしょう。

そして(2)ですが、
平均的な「モンゴル人像」というのが紹介されました。「都会人」だと「市内のマンション、小さな夏の別荘と車を持っている」で、「地方の人」だと「ゲルに住み、200頭以上の家畜を持ち、車かバイクを持っている」ということでした。当然ながら貧富の格差は南米なみに広がっているようですが、世界一の炭坑と世界二位の銅山を有するなど、資源が豊富であり、失業率も減少傾向、2006年は経済成長率8.6%、国家財政、貿易ともに黒字ということでした。人口が200万人あまりで、「小回り」がきくこともあるでしょうし、国民の7割が若年者という「若さ」のせいかもしれませんが、モンゴルの将来は明るいのではないかと思われます。

モンゴルについて(2)

2007-06-19 00:04:51 | Weblog
今回ご縁があって参加することになった、モンゴルの植樹事業ですが、目的はいくつかあります。ひとつ目が、森林を増やすことにより、地球温暖化や砂漠化を抑えることができるわけですが、その植樹活動を通して、日本人の「思いやりの心」、他者のことを考える、大切にする心をモンゴルにも伝えたいというものです。ふたつ目が、この植樹した苗木の管理を現地の方にお願いすることで、雇用を創出するとともに、実際に木を育てることで、地球環境を思いやる心をモンゴルの地に広めていきたい、というものです。そういうわけで、この森の名は「OMOIYARIの森」と名付けられました。

実際に植樹を行ったのは、モンゴルの中央県でウランバートル市内からバスで1時間半あまり、本当に何もない草原でした。まあ、実際には送電線やマイクロの鉄塔などがありましたが。それでも日本に比べると、まさに別天地といえるところでした。その大草原のまっただ中に600m×80mの土地を区切り、周りに柵を作って家畜等の侵入を防ぎ、そこに3000本あまりの苗木を植えました。やがて苗木が育って森になったとき、上空から見ると「OMOIYARI」の字が浮かびあがるように植樹されました。なんとも壮大な話ですが、近頃は、「Googleマップ」等で全世界の衛星写真や航空写真がパソコンで見られる時代ですから、何年か後に、この「OMOIYARIの森」をチェックすることを楽しみにしています。

植樹した木は「ポプラ」で、乾燥にも強いらしく、ウランバートル市内にも沢山のポプラが街路樹として植えられていました。ちょうど今の季節、ポプラの綿毛が雪のように風に舞っていました。モンゴルの方々の協力により、すでに植樹場所に穴が掘られており、穴の脇に苗木が置かれていたので、実際の植樹作業は、穴の中に苗木をセットして土をかけ、水を撒くだけでした。ただし、水は井戸が1ヶ所しかないため、全ての苗木に水をやるのは、200mくらいのバケツリレーを行いました。

植樹作業には80名近くが参加したため、2日目の午前中には作業が終わり、午後には記念式典が行われました。式典はモンゴルの環境省副大臣や中央県の県知事などが招かれ、お約束のテープカットや除幕式などがありましたが、最後に、モンゴル側からのお礼として、馬が一頭プレゼントされたのには驚きました。その名は(もちろん)「OMOIYARI号」。当然日本に持って帰れないので、森を管理する方々に管理をお願いしてきたわけですが。

植樹作業中にも、周りを見渡せば家畜の群がゆっくりと通り過ぎ、時間がゆったりと流れているのを感じました。我々と、この森と送電線を除くと、チンギスハーンの時代から、この大地はこのままの眺めだったのかなと思いました。(次回へ続く)

モンゴルについて(1)

2007-06-16 00:19:50 | Weblog
モンゴルといえば、チンギス・ハーンをすぐに連想するほどの歴史好きですが、それだけに、現在のモンゴルについては、地理の授業で教わるような知識しかありませんでした。また、気軽に旅行できるところでもなさそうで、自分には縁のない国だと思っていました。ところが縁があって、モンゴルにおける植樹事業に参加することになりました。

モンゴルといえば、遊牧民の国になるのですが、2000年以上前に発明された「遊牧」という生活スタイル、草原を家畜と一緒に移動しながらゲルと呼ばれるテントで暮らす生活スタイルをつい最近まで、あるいは現在も守り続けているそうです。こてこての農耕民族を先祖にもつわれわれからすると、なかなか想像ができない生活スタイルといえます。それでいて、20世紀の初めに、共産主義国家として独立し、冷戦終了後に民主主義、資本主義国家に変わって今に至る、ということで、この遊牧と資本主義のギャップもイメージがつきません。チンギス・ハーン、遙かなる草原、遊牧、ゲル、朝青龍関・・と断片的なイメージばかりでなかなかひとつにまとまらない、そんな国でした。

成田空港からモンゴル航空のジェット機にて5時間ほどでチンギス・ハーン国際空港につき、そこからバスでウランバートル市内のチンギス・ハーンホテルに向かいました。モンゴルの歴史上において、チンギス・ハーンは超有名ですが、共産主義の時代には、兄貴分であるソ連に気を遣って(チンギス・ハーンの時代に現在のロシア=ソ連あたりを征服・支配したため)タブーとされていたそうです。その反動なのか、資本主義国になってからは、どこもかしこもチンギス・ハーンの肖像や名前が溢れていました。そういうわけで、この日の夜は、チンギスハーンホテルのレストラン・ハーンで、「チンギス」というウオッカを飲みました。

ウランバートル市内は、コンクリートのビルが並ぶ近代的な都市ですが、少し郊外にいくと、敷地の周りを板塀で囲って、そこにちょこんとゲルがあるのが微笑ましい感じでした。高層ビル・マンションはあまりなく、ゲルやら一戸建てやら長屋やらが延々と並んでいましたが、どう見てもそれぞれの建物に電気・上下水道などが行き渡っているようには見えず、かといっていわゆるスラム街でもなく、不思議な町並みでした。
 
今のモンゴルは、最も過ごしやすい時期だと思われます。日差しは強いですが、高原のせいか、湿気もなく、風も爽やかで、Tシャツ1枚で過ごすことができます。緯度も高いので白夜とはいかないまでも、夜の9時過ぎまで明るくなっています。

街中を歩く人々は、もちろん我々日本人と同じ顔つきで、服装も同じですが、街の看板や表示が全てキリル文字(ロシア等で使っているアルファベット)なのが、多少の違和感というか、外国にいる、という感じがしました。モンゴルはロシアと中国に挟まれた国で、人種的には中国(や日本)に近いのですが、文化的にはロシア(ソ連)の影響の強さを感じました。
 
市街地を出ると、もうあとは全て「草原」でしたが、それはいわゆる「草原」とは全く違うものでした。草原といえば、草が生い茂り、風になびいたり、あるいは芝生のようにふかふかした場所を思い浮かべますが、モンゴルの「草原」は、赤茶けた土の上に、1~2cm程の丈の草がまばらに生えているだけで、近づいて見ればほとんど「砂漠」でした。ただ、同じような草の密度で果てしなく続いているので、見渡す限り茶色と緑の中間の色が続く風景になります。草原とはいうものの、薄皮一枚の草原で、ちょっとした気候の変動などでバランスが崩れると、黄砂が舞う本当の「砂漠」になってしまいそうな危うさを感じました。(次回へ続く)

今週のNEWSWEEK誌より~こんなにあるあるニセ科学

2007-03-05 00:40:03 | Weblog



今週のNEWSWEEK(日本版)の表紙は「こんなにあるあるニセ科学~ダイエットから脳、水、空気までトンデモ理論の最新事情」でした。データ捏造事件を承けてのことだと思いますが、アメリカでも相当「ニセ科学」が蔓延しているようです。

ニセ科学の例として、

(1)「低脂肪食品を食べると健康で長生できる」
(2)「マイナスイオンが体に良い」
(3)「赤ちゃんにモーツァルトを聞かせると頭が良くなる」
(4)「サプリメント食品は体に良い」
(5)「筆跡で性格などを判断できる」

などがあげられています。
アメリカでも(1)・(2)・(4)あたりは、「セレブのCM」や専門用語を駆使して、それこそ文字通り「手を変え品を変え」この手の商品が売られているようです。手を変え品を変えるあたりが、効果が無いことを証明しているともいえますし、どう見てもアヤシイと思われる商品でも必ず買う人がいる、ということを証明しているともいえます。
(1)について、確かに脂肪が多い食生活より少ない食生活の方が体に良さそうですし、(3)も、雑音や騒音を聞かせるよりはモーツァルト(あるいは自分の好きな音楽)の方が情操上良いかと思います。(5)も「字は人なり」と昔から言われてきましたし、どれも歴史上、経験上の知恵として理解されていることだといえます。
問題は、(1)~(5)について「科学的に実証されていない」ということに尽きるようです。これらのエセ科学の商品・主張を科学的に実証した人に100万ドルを贈る基金があるそうですが(!)未だに獲得者はいないとのこと。

結局のところ、この手の話は「科学的に証明する」ことはできないのではないかと思っています。科学的に証明されているかのようなCMを流したり、研究者が、「これらの効果は科学的に確認できない」と発表すると大騒ぎになるのは、「なんでも科学的に証明できる」ということがベースにあり、「科学的に証明できないものはニセモノ」となってしまうからだと思われます。もちろん、学問や技術などは、「科学的な証明」を積み重ねた「科学」の世界なのですが、もうひとつ、「非科学」の世界があるのではないかと感じています。


日本青年会議所全国会員大会に参加(2)

2006-10-08 23:04:40 | Weblog

日本青年会議所(JC)が主催する、全国会員大会の2日目は、大会式典および今年JCを卒業する会員の卒業式が行われます。
どうやら、私の所属する松本JCの伝統のようですが、松本JCの卒業生のために、この式典の一番良い席を確保する「席取り」をしました。まあ、ただ早く起きて会場に行き、順番待ちをするだけですが。そういうわけで今朝は4:00に起き、というより昨夜から続いて4:00まで飲み、会場へ向かいました。そして東北の冷たい風が吹き付ける中、2時間近く並び続けたこともあり、最前列・中央の席を確保することができました。

一段落したので、式典が始まるまで1時間あまり休もうと、となりのファミリーレストランに行くと、同じようなJCメンバーでごった返していました。このかきいれどきに、店員は厨房1名とレジ1名のみ。料理を出すどころか、注文とりさえも出来ない有様で、このようなビジネスチャンスを逃すとは非常にもったいないと思いました。続いてとなりのインターネット喫茶へ行きましたが、こちらもJCメンバーでいっぱい。しかもこちらの店は会員制らしく、みな、会員証の申込用紙に記入していました。もう二度と来ないであろう「会員」をこんなに集めてどうするのか、と思いました。式典会場の隣なのだから、JCメンバーであれば、本日にかぎり会員登録不要で最初の30分は無料、くらいのことをしてくれれば良いのに、郡山のイメージアップにつながるのに、と人ごとながら残念に思いました。

式典会場に入ると、広いこと、そして隙間なく椅子が並べられて、入場者は7~8千人くらいでしょうか、これほど多くの人がぎっしりといるのにまず、びっくりしました。式典も、オーケストラの演奏あり、オペラ歌手や平原綾香さんの歌があり、何もかもが豪華・荘厳な仕掛けで、さすがは「全国大会」という感じでした。続いて行われた「卒業式」では、今年JCを卒業する(40歳)予定の方が、ステージ上にぎっしりと並び、卒業生への贈り物として、郡山の小学生の合唱団による合唱があり、卒業生代表の答辞があり、と、その雰囲気は、まさに学校の卒業式を思い出させました。地域の発展のために、長年無償で(というより会費を払って)ボランティア活動に取り組んでこられた人たちばかりであり、卒業生にとっては、学校の卒業式と同様、忘れられない一日になったのではないかと思います。

昨日の朝4時に起きてから、一睡もせずに過ごした「全国大会」もようやく終わり、またバスに乗って帰路につきました。途中、高速道路が暴風雨で通行止め、という区間もあり、8時間あまりのバスの旅となりました。帰宅したのは夜の12時前。初参加ということもあり、かなり疲れましたが、印象に残る大会となりました。来年の全国大会は北海道の帯広、そして私が「卒業生」として参加する(であろう)大会の会場は沖縄の那覇・・・・・これまたながーい「全国大会」になりそうです・・・

日本青年会議所全国会員大会に参加(1)

2006-10-07 22:15:57 | Weblog

日本青年会議所(JC)が主催する、全国会員大会(10月7・8日)に参加しました。会場は福島県郡山市。
松本駅前に(なんと)朝5:00に集合し、貸し切りバスで延々6時間。道中はずっと暴風雨でした。
昼頃、郡山市の会場に着くと、そこは、スーツ姿のJCメンバーばかり。老若男女がごった返す人混みというのは何度も経験がありますが、30代の男性ばかり、しかも皆ダークなスーツ姿、というのもちょっと異様な感じがしました。もちろん私もそのJCメンバーの一人ですが。
それもそのはず、正式な発表がないのでわかりませんが、どうやら日本中のJCメンバー数は約4万人、そのうち1万人以上がこの土日に郡山に来ているようです。

私は松本青年会議所のメンバーですが、全国にこのような青年会議所が719ほどあります。それぞれが、各地域の発展のために様々な活動をしていますが、その上部団体でもある、日本青年会議所ともなると、日本全体の発展のために活動をしています。本日の午後は、その活動の成果を発表する場でもありました。また、基調講演は、評論家の黄文雄氏による「呼び覚ませ!美しき日本人の魂(こころ)」でした。ま、このあたりになると、早起きと長時間の移動と昼食後、というせいで、大分意識が朦朧としておりましたが・・・・

真面目な話が終わると、その後は「大懇親会」。全国のJCメンバーが集まる広大な屋外の会場のまわりに、福島をはじめとする東北各県の78のJCがブースを設営し、自慢の郷土料理や地酒を持ちこみ、中央のステージでは地元のジャズバンドなどの演奏が行われ、まさにお祭りさわぎ。美味しそうなメニューが沢山ありましたが、私は、まず岩手県陸中宮古JCの「三陸のウニ丼」と宮城県塩釜JCの「下記の浜焼きと塩釜の地酒」を食べました。だいたいこの辺(開始30分弱)で、「米沢牛串焼き」とか「牛たん」、「焼きあわび」などの人気メニューは品切れ状態になってしまいました。自分なりにメニューを組み立てていたのですが、うーむ残念。あとは行き当たりばったりで、ビールを飲みながらブースを見て回り、ブースの列に並んだら地酒を飲み、という調子で山形県寒河江JCの「地元産豚味噌肉」→福島県もとみやJCの「とろろかけごはん」→郡山JCの「店主自慢のラーメン祭り」→秋田県大曲JCの「マイスター直伝ドイツソーセージ」ときて、ここでおなかいっぱいになりました。

その後、メインステージ前に行くと、本日のメイン、ハウンドドッグ(大友康平)スペシャルライブ。このライブは、毎年、JCを卒業するメンバー(40歳)の人たちが、青春?時代に聴いたアーティストを呼ぶのが恒例となっているようで、その意味で今年のハウンドドッグも妥当かと思いました。最初の曲は「Ambitious」、途中でしっとりと「Only Love」、そしてラストは、もちろん「ff(フォルテッシモ)」。間近で聞くハウンドドッグは最高で、会場も盛り上がり、この世代の人たち(私も含め)にはたまらないライブとなりました。きっと二次会のカラオケでは、これらの曲のリクエストが集中しただろうと思われます。

1万人以上の人が、郡山に集まるわけですから、とても郡山市内のホテルはとれません。「大懇親会」の終了後、私たちは、バスで福島市のホテルまで移動しました(仙台まで移動して泊まったJCもあったようです)。ホテルにチェックインして、シャワーを浴びたら、今度は松本JCの懇親会。ここでも飲み食いしながら、松本JCの卒業生の挨拶があり、カラオケがあり、・・・そして、グループばらばらの2次会(3次会?)があり・・・と、福島の夜は過ぎていきました。今日は一日がとても長かった・・・

干し梅について。

2006-07-11 22:54:45 | Weblog

近頃コンビニに行くと、つい買ってしまうのが「干し梅」。
世間でも「干し梅」ブームなのか、必ずコンビニの一角に専用のコーナーがあります。元から梅干し好きのため、歩きながらつまめる、この梅干しのお菓子は大いに気に入っています。

一昔前は、この分野では元祖とでもいうべき「梅しば」と「梅スッキリ」の独占状態でした(と思います)。
「梅しば」はカリカリ梅漬けのお菓子。大き目の梅漬けをひとつひとつパックしています。そんなに塩も酢もきつくないのですが、暑い車の中に放置しておいても何故か腐らず、カリカリ感をキープし続けるのが謎でした。つまみ始めると止まらず、ついつい一袋片づけてしまうことも。
一方「梅すっきり」は梅干しのお菓子。梅干しというより、ほとんど干からびていて、食べるところがないのが特徴です。ほとんどしゃぶるようにして味わうのですが、たまに種の一部が鋭く突き出ていて、口の中に突き刺さることも。これまたしゃぶり始めると止まりません。

長年にわたり、この「2強」がマーケットを支配していたのですが、最近、梅干しの種を取った商品が出回るようになりました。私も、ずっと、種にじゃまされずに、梅だけを存分に味わいたいと思っていましたし、人前で種を口から出すのがなんとなく恥ずかしく、種の処分に困っていました。こういうところの工夫はさすが日本人、と感心しました。

商品のバラエティーも増えており、干し梅タイプでは「種ぬきほし梅」「梅 たねとっちゃったね」・・・またカリカリ梅タイプでは「種ぬきカリカリ梅」「手割りカリンコ梅」など、なかなか充実しています。ちょっと変わり種としては、梅干しを練って固めた「梅ねり」なども。それぞれ100~120円程度の袋入りと、500円~600円のミニボトル入りなどがあります。

私としては、保存料、着色料や化学調味料などが入っていない、純粋に梅と塩(とシソ)だけの、天日で干した(そして冷蔵庫に入れなくても保つほど塩辛い)梅干しが一番だと思っていますが、こういう「まがいもの」の梅干しも嫌いではありません。そして梅干しは、従来の「年寄りむけ」「塩分が多くて不健康」というイメージから「健康食品」「食べやすい」といった方向に変わりつつあります。何やら衰退気味の日本茶をペットボトルに入れてイメージチェンジし、マーケットを拡大した事例にあやかろうとしているようにも見えます。

などと考えていると、「梅干し」の他にも「昆布」「鰹節」あたりも、日本人が大好きな食品です。昆布あたりも、長年「都こんぶ」がマーケットを独占していましたが、そろそろ・・・、また鰹節あたりも新商品がでないだろうか・・・などと期待しています。

全国城下町シンポジウムについて

2006-05-23 23:38:02 | Weblog

毎年、この時期になると、「全国城下町シンポジウム」というのが開催されます。
「城下町」、つまり領主が住み、政治の拠点であるお城を中心として、その周りにさまざまな身分の住民が集まった町は、一説によると戦国時代の豊臣秀吉の長浜城下がはじまりと言われています。なので、城下町は400年以上の歴史を持っていることになります。江戸時代には領主(いわゆる大名)が300ほどありましたから、300の城下町が存在したことになります。そして、例外はありますが、現在の日本の主要都市のほとんどが城下町(東京、大阪、名古屋・・・から我が町松本まで)から発展した町であることを考えると、「城下町」は日本の社会に馴染みやすい形態であると言えます。

しかし、現在では、城下町のシンボルであるお城も高層ビルに埋もれ、城下町の名残である地名(丸の内、大手町、御徒町、鷹匠町、桶屋町・・・)も中央一丁目とか、東町三丁目などといった地名に代わりつつあります。そんななかで、城下町特有の環境をいかしたまちづくりをめざし、全国の城下町に住む青年会議所が主催しているシンポジウムが「全国城下町シンポジウム」です。

豊臣秀吉のころの城下町は、当時は「楽市楽座」などと同様に非常に斬新なシステムであったかと思いますが、江戸時代になると、300もの城下町が誕生し、町そのもの(ハードウェア)としては規模の大小はあるにせよ、ほとんどが長浜のコピーでパターン化されたものであろうと思われます。それは城下町の地名がほとんど全国共通であることからもわかります。現在でいえば、大手私鉄の沿線の町が私鉄の駅を中心に、その私鉄系列のスーパーがあり、駅前商店街があり、マンション・住宅があり・・・とパターン化されているのと似ています。

一方で300の城下町の多様性を生んだのが、その土地の気候風土もありますが、そこの領主の個性や政策、そして地域住民の努力や知恵であったと思います。たとえば、お城の規模としては小さいものの、赤穂の塩、忠臣蔵は全国的なブランドですし、領主の(あるいは藩の)方針で、特産品を作ったり、学問を振興したりといった「村おこし」も盛んに行われました。島国で、わりと単一的な社会の中で、「城下町」はさまざまな「村おこし」の知恵と経験を持っていると言えます。

「全国城下町シンポジウム」は、1982年に第一回目がわが松本で開催され、今年で25回目となります。今年は愛媛県の今治市にて開催されます。「城下町」をキーワードにして、全国から人が集まり、まちづくりの知恵を共有する、というのは確かにおもしろそうです。そして、日本だけでなく、世界の城下町(世界には「城下町」という形態はないそうですが)とも交流してみたい、と夢もふくらみます。ただし、まだ「城下町」の歴史を維持しつつ、発展していく方策は見つかっていないような気がしています。

今年もクールビズ

2006-05-22 21:40:39 | Weblog

信州の松本も、そろそろ初夏の陽気になってきました。いよいよ、私の勤める会社でも、夏物の衣料品が動き出す時期になります。昨年から話題になったクールビズ、昨年は唐突な印象があり、話題だけで終わるのか、本当に浸透するのかの様子見といった感じでした。しかし、今年のアパレル業界の感覚としては、どうやら「本物」らしい、ということで、各社とも力を入れています。作業服(ワーキングユニフォーム)メーカーでも、ちょうど、それぞれがカジュアルやサービス・ショップなどの周辺分野に進出を始めた時期に当たることもあるのでしょう。クールビズ用のブランドを立ち上げたり、専用のカタログを作ったりと、メーカーの意気込みが感じられます。

先日、当社がお世話になっている作業服メーカーのS社の営業の方が来社され、今年のクールビズはこれ!と薦めてくれたのが、その名も「風通るシャツ」。東レの清涼素材を使用したボタンダウンシャツで、この生地は、通気量が通常生地の5倍以上あるという、「風通しの良さ」が特徴です。確かに、ワイシャツの暑さというのは、第一ボタン・ネクタイで締めることで、体内の熱気が外に逃げないこと、そして汗が乾きにくく、べったりと張り付くこと、などが原因と思われます。この原因を解消できれば、かなり涼しく感じるはずです。

風通しが良いということで、生地は薄手でかなり透けることもあり、女性用の「風通るシャツ」はないそうです。まあ、女性は「開襟シャツ」があるからうらやましい限りです。昔は男性用の「開襟シャツ」があったそうですが、さすがに普及しなかったようです。普及していれば今頃は「オープンカラーシャツ」とかの横文字の名前になっているはず。いまだに「開襟シャツ」に代わる名前が出てこないところを見ると、やはり日本の男性には開襟は似合わないのかもしれません。アロハシャツみたいな開襟にすれば絶対涼しくて、エアコン代も節約できるのに、なぜか普及しないのが不思議ですが、これも「伝統の力」なのでしょうか。そう言っている私も、「半袖シャツ」はどうしても好きになれず、どんなに暑くても長袖をロールアップして過ごしています。「クールビズ」でもやはりメインはノーネクタイのボタンダウンシャツあたりに落ち着きそうです。

というわけで、営業の方に「ぜひこのシャツを買って自分で着てみてください、ホント涼しいから。」などと言われ、つい買ってしまいました。早速着てみると、確かに風通しが良いです。歩いたり、体を動かすと、空気が流れているのが分かります。また衿の部分の肌触りもさらっとしていて気持ちよいです。この夏はコレで過ごそう、という気になりました。ただし、洗濯後はやはりアイロンをかけないと、しなびたペーパータオルのようになってしまいます。すっかりノーアイロンシャツに馴染んでしまった私にとっては、アイロンをちまちまかけるのがかなり面倒で、これはちょっと残念なところです。

ネットで「あのころの給食」が買える~コネタ

2006-01-30 20:22:24 | Weblog

久々に、コネタのニュースのページを見ていると、いくつかおもしろいコネタがありました。1月23日~29日までのアクセス数ベスト10が発表されていましたが、その3位にランクしているのが「ネットで『あのころの給食』が買える」でした。

「コッペパン」だとか「ソフトめん」、「先割れスプーン」などの給食をなつかしがるのは、いい歳になった証拠ですが、いつの時代になっても「なつかしの○○」というのはウケると思います。ネットで給食のメニューが買える、というのはちょっといいアイディアだなあと思い、「給食のおばさん」なるサイトを覗いてみると、タイトルが「給食のおばさんフランチャイズ本部」、フランチャイズ化してたのか・・・・しかも「給食のおばさん」は登録商標らしい。ちょっといいアイディアどころか、ビッグビジネスになるのかも、と思いました。

このサイトで紹介されているのは、昭和30~40年の給食の再現で、アルミ(アルマイト)の食器で、「ソフトめん」と「揚げパン」、「ミルメーク」などが主体ですが、私の世代では「ソフトめん」はありましたが、「揚げパン」と「ミルメーク」は食べた記憶がありません。また、週に1回(か2回)「米飯給食」があり、コッペパンの替わりに、アルミの弁当箱を持参して、そこにご飯をよそって食べた記憶があります。ごく希に、わかめをたっぷりのせて炊いただけの「わかめご飯」の時があり、これが大好きでした。貧しかった頃の日本で、安くて、こどもに充分な栄養が与えられるように、ということで始まったと思われる給食ですが、今や豊かな時代になり、また、アレルギーなどの問題もあり、みんなが同じ物を食べる「給食」は時代遅れになるのかもしれません。それでも、大多数の日本人が、誰でもひとつ以上は、「給食の思い出」を持っていて、同世代であれば、その思い出を共有できるのではないかと思います。

このフランチャイズ本部であれば、きっとそのうち、昭和50~60年の給食も再現してくれるでしょう。そしたら私(や私の世代)も飛びつくかもしれません。と同時に、「現在の給食」も商品化してほしいと思います。現在の小中学生はどんな給食を食べているのか、かなり興味があります。