ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第324号 土方歳三蝦夷の道&箱館戦争物語

2008年10月21日 | 展覧会、催事など

これは第4回はこだて湯の川温泉泊覧会(オンパク)の66あるプログラムの一部名。
私は歴史や史跡にとても興味があるのでこれを選び、昨日参加させてもらった。
オンパクとは、
湯の川温泉街を中心とした体験型プログラムを通じて、参加した方々に「元気・キレイ」になっていただく」がその趣旨。

申し込んだプログラムの狙いは、
「徳川幕府が崩壊し、徳川艦隊は蝦夷地に向かった。
蝦夷で北方警備と蝦夷地開発を嘆願しようとした旧幕府軍は峠下(現七飯町)で箱館府兵他に攻撃され、箱館戦争の幕がきっておとされた。
戦いは明治元年~明治2年に行われ、函館の町はその中心となった。
市中には多くの史跡があり、ここをウォークとバスで巡り、箱館戦争を知る初級コース」とあった。

巡るコースは、
湯の川温泉街・松風苑スタート→湯川野戦病院跡(湯倉神社)→亀田八幡宮→千代ヶ岡陣屋跡→土方歳三最期の地碑→異国橋跡→かねさ屋跡→旧箱館検疫場付近→高龍寺→碧血碑→松風苑→昼食・入浴→解散

8:45分に受付開始。参加料3,000円を支払う。定員20名に対して18名の参加。
ただちに渚亭の大型バスに乗り込んだ。オンパク河内事務局長が歓迎のご挨拶。続いて添乗員となるホテル湯の川の和泉さんが自己紹介とガイド役を務める毛利さんを紹介。
バスは静かに動き出した。

最初は湯倉神社(車窓から)。
箱館戦争当時、この付近には榎本軍の野戦病院があり負傷兵の温泉治療場があった。その当時の湯温は低く冬期間は入れなかったほど。
近くにある榎本町は、榎本武揚軍の病院にちなんでつけられた。

五稜郭(車窓から)
①堀ののり面は土仕上げであったが、寒冷地特有のシバレで春先には崩壊。
石垣を積むことになり、工事は東京品川台場の工事実績がある備前岡山の石工・井上喜三郎が請け負った。
石は箱館山裏から切り出した安山岩を使った。
②堀に架かる橋は5本。ボート屋さんと東側にもあったが、戦争で防御のため落とされた.。
③突き出した三角形(半月堡・はんげつほ、面積約4,200㎡)は全部で5箇所設置する予定だったが資金不足でボート屋さんがある1箇所だけで終わってしまった。
④箱館奉行所に勤務する役人の官舎は、現中央図書館敷地に建っていたという。

千代ケ岡陣屋(車窓からの予定であったが時間の関係上割愛された)
この陣屋は市営球場、陸上競技場に、東西約130m、南北約150mの規模で土塁を
もった本格的陣屋で仙台藩が築いた。
明治政府軍の箱館総攻撃の時の守備隊長は、もと浦賀奉行所与力・中島三郎助。
中島は、ペリー艦隊が来航したとき、軍艦に乗り込んだ最初の日本人だった。
また、幕府立・長崎海軍伝習所では勝海舟とともに第一期生であり、榎本の先輩である。
開陽丸が江差沖で破船沈没したときは、機関長だった。
その責任を最後まで背負って、若い息子2人とともに北の大地に散った。

亀田八幡宮(下車見学)
旧亀田村の鎮守様として、1390年に創始された。
写真の旧社殿は1863年の建立だから箱館戦争が終結した1869年にはまだ木の香りが残っていた。
明治2年5月17日、榎本武揚らはここに参って、降伏の誓約をした。
裏側の羽目板には箱館戦争の弾痕が残っていて、この地も激戦地であったことを物語っていた。

 

土方歳三最期の地碑前
死亡地は3説あるものの、市がこの付近と正式決定した。 
戦死当日の状況はこちらから

 

この方がガイド役の「毛利剛さん」。
「私は、維新当時の道(旧道)を歩くのが専門で史跡には詳しくないんですよ}と言っておられたが、知識は広く深いと感じられた。
おかげさまで新たな知識をたくさん頂戴できた。 

この方のホームページは見応えがありますので、ぜひ訪れてください。スケールの大きい人生にきっと驚かれると思います。)

 

市電通りを進んで十字街へ。
交番のところに異国橋(栄国橋)があって、付近で土方が亡くなったとも言われている。
当時は、現・中の橋から高砂通りは願乗寺川か流れ、銀座通りを経由して箱館港に
注いでいて、赤レンガ倉庫群あたりには多くの水路があった。

基坂の下、市電通りに旧高田屋本店跡の石柱がある。
幕末、この地に佐野専左衛門が経営する商標・ちょうさ(丁サ)、屋号萬屋(よろずやの大店(おおだな)があった。
この店の一部を土方の仮住居として提供したとされている。

市電終点・どっく前へ。
幕末当時は海に造った弁天台場跡地を右に見て下車。
終点あたりが台場の入り口で、台場跡の木碑があるあたりが台場の中心だった。
この台場はほぼ五角形で、高さ11.2m、面積約39,600㎡、備砲十数門の規模だった。
新撰組らがここを守備していたが、市中警備の兵士が逃げ込み、水、食糧が欠乏。
5月15日に降伏した。
明治29年に港湾改良のため取り壊された。
残っていれば大きな観光資源だったろうに。
このような事を考えれば、函館山要塞の保存は早期に手を打つ必要があると思うのだが・・・。

ここで下車、しばらく歩くことになった。
この時期にしては日差しが強く、汗ばんできた。
この台場の積み石を使って造られた函館漁港(入舟漁港)を見学。リサイクルのはしりかなと思った。

旧山背泊町(現・入舟町)の狭い道を奥へと進んで石段を上ると山背泊台場があった。ちょうど、高龍寺の山門から下がった位置。
向かいには北斗市富川、矢不来地区が望めるから見張台、射撃台に的を得た好位置。外国の不審船の発見に大いに役立ったことだろう。

 

高龍寺を左に見て、函館山方向に進む。
旧・函館検疫所の斜め向かいに押付(おつけ)台場跡があった。
この地理的条件は、山背泊台場と同じ。
二つの台場にあった大砲の弾の大きさは野球ボールくらいだったというから、その破壊力は?

外人墓地通りに地蔵寺があって、箱館戦争時には地蔵堂という名だった。
幕軍戦死者の一部はここにも葬られた。

北海道一の伽藍を誇る高龍寺境内に入った。
箱館戦争当時、寺は下の方にあった。
箱館病院の分院として幕軍の負傷兵の治療にあたっていた。
明治2年5月11日、明治政府軍による箱館総攻撃の日、ここに津軽藩兵、松前藩兵らが乱入、負傷入院していた会津藩士十数名を斬殺した。
明治13年、この戦争生き残りの旧会津藩士が霊を弔うために「傷心惨目の碑」を建立、寺務所横にあって、会津の方々のお参り姿を見掛ける。

50分の徒歩による移動を終え、高龍寺前からバスに乗り込み立待岬経由で碧血碑へ向かった。
岬にも小規模な台場があって、津軽海峡を航行する不審船に目を光らせた。
薩摩藩の黒田清隆は、ここから上陸し軍の指揮を執った。

 

11:06 最後の見学地である碧血碑に到着。
ご存知の幕軍戦死者共同墓地である。
明治8年、大鳥圭介らによって伊豆産の石材を使って建てられ、796柱を祀っている。建立者名、埋葬されている者の名はなく、明治政府への遠慮かも知れない。
この碑の詳しいことはこちらから

この碑のすぐ傍に侠客・柳川熊吉の功績をたたえた「柳川翁之寿碑」がある。
熊吉は江戸・新門辰五郎一家(清水次郎長の配下だった)にいたが、のちに来箱、箱館奉行の知遇を受け、多数の子分を持つようになった。
路上に放置されたままになっていた幕軍戦死者の遺体を、実行寺住職と相談し、子分に収容させ弔った。
晩年、碑の近くで柳川亭という料理店を出し碑のお守りをした。
大正2年に亡くなり、ご子孫が碧血会会長として、碑の管理と碑前祭を行っている。

11:45 松風苑着。
添乗員・和泉さん、ガイド役の毛利さんからあいさつがあって会食が始まった。

 

料理はご覧のような豪華版。
いかさしはコリコリして活きのよさが感じられた。
「ご飯のおかわりをどうぞ!」と声をかけて下さったが、一膳で十分。

 

このあと、温泉入浴し帰宅。
楽しく、そして充実した日だった。

一昨年、「はこだて検定」を受けるために郷土史を猛勉強しました。
今回のこのプログラムに参加して、ガイド役のも~さんから教えられた事は多く、参加して本当によかったと思いました。
また、郷土史に関するプログラムをぜひ企画立案して欲しいものです。
関係者の皆さん、お疲れ様でした。
そして有難うございました。