あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

子の氏の変更を遂げる

2021-01-02 00:11:54 | 日記
2018年5月のこと。
きちんと記録していなかったので、メモを頼りに記しておく。

第2子(当時3カ月)の氏を母(私)から父(相方)に変更するため、相方とともに家庭裁判所へ初めて足を踏み入れる。子の法定代理人の私が申立て、相方が入籍に同意するという形。
申立ての理由のうち、「父・母と氏を異にする理由」は、「事実婚の形態をとっているため」とし、「申立ての動機」は「共同で子育てするため」と記述した。

当時、第1子(当時3歳)は、本人と私のフルネームは言えたが、家族の中で唯一氏が違う相方は下の名前しか言えなかった。寂しげな相方は、妹も今は君と同じ姓だがもうすぐお父さんと同じS姓になるんだよーと、頑張って説明していた。

申立てから1週間余を経て、氏の変更が許可されたという旨の審判が届いた。裁判所にものをもらうなんて初めてのことなので、なかなか感慨深い。これを持って役所で手続きすれば、子は父の氏となる。氏は戸籍と一体なのだと痛感した。
家裁の審判を持って役所に行き、ついに第2子は父の氏に変更された。児童手当等の名前変更のために市民課から渡された書類には、父の氏で名前が表記され、カッコ書きで旧姓が記されていた。第2子は、わが家で唯一、旧姓を持つのだ。

戸籍の変更ついでに、住民票を一つにまとめた。世帯主は家庭内で一番えらいと思われる私にし、相方は「夫(未届)」となった。私としては「同居人」がよいのではないかと思っていたが、ここは相方の意志を尊重した。2人の子どもは、戸籍が一緒であろうと別であろうと「子」として記された。
暮らす上では十分な情報だ。ますます、戸籍って何のためかねえ…と思うのであった。

その後、氏を変更した新しい健康保険証が届いた。
子は私の扶養だが相方の戸籍に入ったため、私との親子関係を示す必要があるのだが、証明書類は戸籍謄本でなく住民票で受理された。戸籍が必要と言われたが、住民票でわかるはずと押し通したのであった。マニアックな達成感である。

なお住民票の世帯主問題が、コロナ対策としての定額給付金で焦点化された。私たちが住民票を統一させたのは、例えば選挙の通知が1枚になるため、資源の節約になるかと考えたからだ。世帯主は、世帯の便宜上の代表者、という程度でとらえていた。しかし世帯主という表現を含め、家父長制の残滓のような特権性が張り付いているらしい。
ただしこの問題は無知なので、住民登録制度のあるべき姿を知りたいと思っているところだ。と言いつつ何もしていないけど。

不惑ではない

2018-08-27 20:47:20 | 日記


先日誕生日を迎え、40歳となる。
つ、ついに…感が満載。

20歳は母を亡くした直後で、大人になった喜びを母と分かち合えないことがどん底の悲しみとして押し寄せた。
20代はけっこう苦しくて、自分のいい加減さや不誠実さに打ちひしがれた。そんなことで悩むくらいなら、誠実であろうと努力する過程でこそ苦しめばいいのに、そうも行かずまたダメ人間だと落ち込む。

が、そのうちもういいやと開き直る。自分のことより他にやるべきこともあるし、そう素敵な人間になれるもんじゃないな、と。
そして晴れやかな気持ちで迎えた30歳。

それから10年。
40にして惑わずなどとよく言うたもんだと思う。今、ものすごい惑いまくり。

仕事は長く続けているが、力が付いているのかどうか。社会進歩に役立っているのかどうか。
そして老化。体は固いしプニプニだし。
そう思うのは子育ての真っ最中だからかもしれない。今は育休中だし、復帰しても仕事に制約を来す。ピチピチふわふわの子どもたちを見ていると、その成長に日々感動するとともに、自分は何も成長できないなと思ったりする。

でも嫌だなと思いながらも、他方でしょうがねーなとも思う。もしやそれが不惑なのかもしれない。

子どもたちといつまでも元気に遊びたいので、体作りは本気で考えねばなとは思う。

写真は様々な要望に応えて描き添えた上靴。

20年目の命日

2018-07-05 17:16:48 | 日記

母が亡くなって20年目を迎えた。

お墓や位牌に手を合わせるというのもしっくり来ない。そもそも故人を偲ぶ行為そのものが宗教的なのかも。とはいえ、母への思慕は簡単に断ち切れるものではない。
で、命日にこれだけは、と続けてきたのが、母の好きなカレーを食べ、母の好きなヒマワリを飾ること。それだけのことだけど、時々忘れたり手抜きしたりもしてきた。

今年は20年という節目だが、これらの習慣に特別気合いが入るということはなかった。
ヒマワリは切り花を遠くに買いに行くまではせず、近所で苗を手に入れた。いずれ庭に植えよう。
カレーは、育休中は料理はしない宣言をした私の代わりに、相方がカレー味のジャガイモ炒めを用意してくれた。

母が亡くなってから数日は、何とか生き返ってくれないものかと思った。死後数年は時々夢に出てきて、目覚めてはがっかりし、やり場のない悲しさに苦しんだ。
ここ数年はさすがにそこまで苦しむことはなくなり、いつまでも変わらない母の思い出に浸るようになっている。

最近は夢に見る機会が多いように思う。父も一緒に出てくる。父は去年亡くなった。年も年だし、母を思うような苦しみはない。父には悪いけど。
その父も、夢の中では母に合わせて若い。いつまでも元気な姿で現れてくれるのは、なかなかよきかなと思う。

父の死を契機に、母が入っていた墓をしまうことにした。故人の偲び方など、人それぞれだ。偲ばなくたっていい。
私の場合は、長らく母にしがみついてきた。楽しい人だった。父が亡くなり、父方の親戚が母の思い出に触れたりなどしてくれ、死んだ人がどう人の心に残るのか、垣間見た気がした。

祖父の思い出

2015-03-14 01:06:29 | 日記

2月末に母方の祖父が亡くなった。
3年前の同じころに祖母が亡くなり、父方の祖父母はとうになく、私にとってのおじいちゃん・おばあちゃんは皆いなくなってしまった。

葬儀に参加するに当たり、大いに迷ったがうちの赤子も連れて行くことにした。このことについてはまた別途。
そして大いに迷ったが、通夜から火葬場まで全て参加した。結果的に、とてもよかった。

祖父は94歳だった。
7人きょうだいであること、渥美生まれであること、名古屋の呉服屋に奉公に出ていたことなど、知らないことだらけだった。映画やおしゃれを楽しんでいたが、「軍国主義の足音の中で」(と告別式で司会が表現していた)、それも叶わなくなってしまったようだ。

戦争で南方に送られた。このことは、よくバナナを焼いて食べたのだと聞いていた。
私は大学の課題を口実に聞き取りをしていたので、さらに少しだけ深く聞いたことがあった。でもほとんど忘れてしまったのが惜しい。ラバウルにも立ち寄ったと話していたのは覚えている。
戦争については、あまり多くを語り残していないようだ。
そう言えば祖父が近年施設に入り、お見舞いに行った際、戦争のことを少し聞いたことがある。バナナを焼いて食べたんだよねと聞いたら、そうだったと答えてくれた。それ以上を聞こうとしたら、忘れちゃったと話していた。すでに記憶が曖昧だったので、そのせいなのか何なのかはわからない。
まだ大学の課題は印字したものが残っているだろうか。久しぶりに読みたくなった。

告別式で、孫の思い出として姉がまとめたものが読み上げられた。
とろろ芋を作ったこと、ウズラを育て上げたこと…。
暮らしの一コマとして、あまりにすっと刷り込まれていることが、姉が文章にしてくれたことで大事な思い出に変わったような気がする。不思議なものだ。
とろろは自然薯が手に入ると、すり鉢にだしとともに入れてよく擦り合わせた。そうしたときは我々孫たちも手伝いに訪ね、一家で夕食をともにしたものだった。

母ももういない。でも母のきょうだいたち、私のおじおばたちが私たちを、かわいがってくれる。
さびしいけど、残された者同士の惹かれ合いも強くなってゆくのだ。

「文民派兵」

2015-02-26 04:53:18 | 日記
文民統制について、2月25日付の赤旗の解説がわかりやすかった。

曰く、すでに現在の「文民派兵」という実態に加え、自衛隊法改定によって文民統制を撤廃してしまえば、自衛隊はより的確に米軍に従う軍隊になるだけ、とな。
まさに実態先行で軍隊化を進め、法整備でさらに後押ししようというものだ。

ジャーナリストの故松尾高志さんがよくおっしゃっていた。文民統制をことさら強調するのは誤りだ、と。

リンクをはっとこー

夫婦別姓、大法廷へ

2015-02-23 13:27:11 | 日記

我が家はいわゆる事実婚だ。
姓を変更することの不便さと、戸籍制度へのささやかな反発心からだ。

夫婦別姓と女性の再婚禁止期間に関わる民法規定について、その違憲性が問われる裁判が大法廷に回されるそうな。非常に画期的。ぜひ期待したいけど、期待できないような気もしなくもないけど、やはり期待したい。

もし民法改正がすでにされていても、私たちが法律婚にしたかどうかはわからない。が、選択肢が増えるのはよいことだ。というより、不当に選択肢が狭められているのだ。

去年出産し、婚外子ゆえに手続きで気遣うことがいくつかあった。しかし諸法律にひそむ差別規定は少しずつなくなり、差別を緩和するために窓口への法務省通知も各種出されているようだ。

婚姻制度と戸籍制度、家父長制の結び付きの根深さも感じる。多くの人の働きかけで徐々に変わってきたことだが、これからもっと変えられるといいなー

畑田重夫さんから贈り物

2015-02-02 22:15:39 | 日記


畑田重夫先生から色紙が届いた。なんと優しい…。そしてありがたい。

子が産まれた際にはハガキでお祝いしてくださったが、今度は改めて色紙を贈ってくださった。
今、特に沁みる言葉だ。

ちなみに畑田さんとは、国際政治学者。日本平和委員会の代表理事でもある。
あまたある著書の中でこれかい、という感もあるが、例えば「畑田重夫の卒寿の健康力」はとっても感心して読んだ。

I'm not Abeで

2015-02-01 23:04:23 | 日記

暗澹たる気持ち。
湯川さんに続き、後藤健二さんがイスラム国に殺害された。

思えばこのブログを始めたのは、2004年にイラクで香田証生さんが殺されたことがきっかけだった。やりきれない気持ちになった。戦争や武力の応酬をなくすため、なかなか力になれない。せめて、つぶやくことから始めようと思ったのだ。

10年以上が経ち、より深みにはまっているのではないかと思ってしまう。04年4月、イラクで高遠さんたちが拘束されたが、彼らには対話が通じたようだ。
イラク戦争を経て勢力を伸ばしてきたイスラム国に話は通じるのだろうか。彼らは世界の動向をよく見ているようだが、後藤さんの業績や家族の悲痛な叫びはどこまで受け止めてもらえたのだろうか。
I'm not Abe という叫びも、心に届かないような気がしてきた。得体が知れないが、どう考えたって卑劣だ。

でもやはり叫び続けるしかない。
少なくとも、事件に便乗するかのように自衛隊の活動を拡大しようという安倍内閣において、 I'm Abeでは火に油を注ぐようなものだ。
今となっては、I'm not Abeは安倍首相に向けた言葉だ。

理不尽で残忍な殺人や人権侵害は、世界中で横行している。今回の事態に比べ、心の痛め方が違うとは自覚している。だからこそやはり、後藤さんの活動は尊い。
各紙で、後藤さんの業界が紹介されていた。取材の様子を通して、いかに世界中で戦争・紛争があり、人権侵害がはびこっているかを痛感した。

殺人の動画が合成であってほしいと、まだ願っている。なかなかに苦しいけど…。
そしてこの間にも、様々な理由で亡くなる人が多くいる。そして自分の子どもの顔を見ながら、命って実に貴重なものだなーと実感するのだ。

辺野古に新基地つくるなと

2015-01-26 12:31:48 | 日記
国会開会を翌日に控えた1月25日、国会前へ出かけた。沖縄県名護市の辺野古に米軍の新基地をつくるなと抗議するため。国会を囲むヒューマンチェーンが行われたのだ。
テーマカラーの青色を身につけて、我が家の4カ月児と参加した。

辺野古の基地建設のための調査や工事は、これまでも折に触れて強行されてきた。近頃再び強行されようとしているが、そのやり方がとにかくひどい。
特に海上保安庁。国境警備と同じ感覚で臨んでいるのではないかと疑ってしまう。「持たざる」市民や報道関係者に対し、訓練を積んだ警察機関が馬乗りになるなど、非常に暴力的なやり方で排除してくる。国家にとって敵、不審な輩、と見ているのではないか。

当日、夫の水色ジャケットを借り、直前にセールで買った青のニット帽をかぶって参加した。ある口うるさい知人に、「帽子はこのために慌てて買ったぽいな」と言われた。ばれたか。

4カ月児は先週に続き、よく付き合ってくれた。たまにむせび泣いていたので、さすがに悪いなーと思うのであった。

今回は議事堂前にいたので授乳スポットはない。
帰り、丸の内の新丸ビルに寄る。授乳スペースと多目的トイレはすこぶるキレイで、居心地がよかった。すばらしい。

切実な争点

2014-12-11 19:59:06 | 日記

マララさんにならい、我が家の2カ月児をダシに訴える。
ちなみに麻生太郎氏の、高齢者福祉の貧困は若年層が子どもを産まないせいだなどという責任転嫁は、言うまでもなくとんちんかんで無責任だ。
税金の使い方の大枠というか考え方に問題があるのだ。
子育て施策の比較がこちらに整理されていた。

衆院選2014 教育・子育てマニフェスト比較(子育て支援・ワークライフバランス、子どもの人権など) - 信州大学比較教育学研究室