眠らない日が続きました。でもきっと、今日が最後。
まだ印刷所にいるのですが、今夜は自分の気持ちいいガーゼ布団でグースカ寝られるのだ!
さて。
この日記でも告知しましたが、7月25日に「戦後・被爆61年 継承とわたし」という企画をやりました。
被爆者の平均年齢が73歳を超える中、しかし核兵器はなかなかなくなりません。
被爆者の話を聞き、被爆の実相を記録する「継承」活動を、今どしどしやろう、という企画です。
スピーカーの一人、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)事務局次長の岩佐幹三さんの話(かなり大要)を紹介します。
初めてお会いしたのですが、とても胸に残る話でした。
==
岩佐さんは現在77歳。
「あの日」、広島の空はまさに真っ青だった。「今日も暑いなー」
空を見上げたとき、飛行機がバラバラと飛んできた。いつもの米軍機の音と違ったため、日本の飛行機だと思った。
「飛んできたなー」と思ったその瞬間、バッと飛ばされた。
バットで殴られたような衝撃だった。岩佐さんはやわらかい地面に叩きつけられたので助かったが、爆風で飛ばされ、地面に叩きつけられて即死した人はたくさんいた。
ようやく立ち上がってふと周りを見たら、目の前はガレキの山。何が起こったのかわからない。原爆が落ちた瞬間に、一瞬で町が消えた。
「こんなこと、想像できますか?」
家に母がいることを思い出した。呼びかけると、「ここよー」と母の声がした。目から血を出し、仰向けに倒れている母が、小さな穴から見えた。
町全体がやられていることがわからない母は「なぜ消防が来ないの?」
「もう火が来てるんだよー」
母は岩佐さんに「逃げなさい」と言い、般若心経を唱え始めた。
ずっと岩佐さんは、このとき母は死を覚悟したのだろうと思っていた。
しかし広島の各地で助けを呼ぶ声がしていたことを聞き、最近になってもしかしたら母は「何とか助けて、神様、仏様」と思っていたのかもしれないと思うようにもなった。でも本当のところはわからない。
翌日、おばの元へ行くことができた。「お母さんを殺しちゃったよー!」と泣き叫んだ。「おそらくこうしたことは、広島の町でたくさんあったのだろう」と、岩佐さんは言う。
一ヵ月後、妹を探しに爆心地近くを歩いた。帰ったら体が重く、赤い斑点、鼻血、のどの痛みが襲った。おばが医者を探し出し、毎日注射を10本くらい打って、何とか助かることができた。
現在、岩佐さんは皮膚がん、前立腺がんを患っている。「私なんか軽い方」と言う。
戦争があるために核兵器が開発され、使われる。核兵器の脅威を、まだ背負わされている。誤りを正すには、核兵器が使われたら人類がいなくなる、核兵器はいらないのだと世論を広げることだ。
継承とは、自分の頭で考えること。自分が体験したらどうするか、自分だったらどう伝えるか、…。想像することだ。
==
岩佐さんの話はとっても悲しく、それでいて力強いものでした。「被爆者」とカテゴライズするものではありませんが、でも被爆者の方ってスゴイと思える人が多いです。
岩佐さんの話の中で、私も共感し、悲しかったのは次の言葉です。
「本当は家族をよみがえらせたいんだ。
そして抱き合いたい。
あんな死に方、許せないんだ。
この叫びを、詩人の峠三吉は『人間をかえせ』に込めてくれた」
まだ印刷所にいるのですが、今夜は自分の気持ちいいガーゼ布団でグースカ寝られるのだ!
さて。
この日記でも告知しましたが、7月25日に「戦後・被爆61年 継承とわたし」という企画をやりました。
被爆者の平均年齢が73歳を超える中、しかし核兵器はなかなかなくなりません。
被爆者の話を聞き、被爆の実相を記録する「継承」活動を、今どしどしやろう、という企画です。
スピーカーの一人、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)事務局次長の岩佐幹三さんの話(かなり大要)を紹介します。
初めてお会いしたのですが、とても胸に残る話でした。
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岩佐さんは現在77歳。
「あの日」、広島の空はまさに真っ青だった。「今日も暑いなー」
空を見上げたとき、飛行機がバラバラと飛んできた。いつもの米軍機の音と違ったため、日本の飛行機だと思った。
「飛んできたなー」と思ったその瞬間、バッと飛ばされた。
バットで殴られたような衝撃だった。岩佐さんはやわらかい地面に叩きつけられたので助かったが、爆風で飛ばされ、地面に叩きつけられて即死した人はたくさんいた。
ようやく立ち上がってふと周りを見たら、目の前はガレキの山。何が起こったのかわからない。原爆が落ちた瞬間に、一瞬で町が消えた。
「こんなこと、想像できますか?」
家に母がいることを思い出した。呼びかけると、「ここよー」と母の声がした。目から血を出し、仰向けに倒れている母が、小さな穴から見えた。
町全体がやられていることがわからない母は「なぜ消防が来ないの?」
「もう火が来てるんだよー」
母は岩佐さんに「逃げなさい」と言い、般若心経を唱え始めた。
ずっと岩佐さんは、このとき母は死を覚悟したのだろうと思っていた。
しかし広島の各地で助けを呼ぶ声がしていたことを聞き、最近になってもしかしたら母は「何とか助けて、神様、仏様」と思っていたのかもしれないと思うようにもなった。でも本当のところはわからない。
翌日、おばの元へ行くことができた。「お母さんを殺しちゃったよー!」と泣き叫んだ。「おそらくこうしたことは、広島の町でたくさんあったのだろう」と、岩佐さんは言う。
一ヵ月後、妹を探しに爆心地近くを歩いた。帰ったら体が重く、赤い斑点、鼻血、のどの痛みが襲った。おばが医者を探し出し、毎日注射を10本くらい打って、何とか助かることができた。
現在、岩佐さんは皮膚がん、前立腺がんを患っている。「私なんか軽い方」と言う。
戦争があるために核兵器が開発され、使われる。核兵器の脅威を、まだ背負わされている。誤りを正すには、核兵器が使われたら人類がいなくなる、核兵器はいらないのだと世論を広げることだ。
継承とは、自分の頭で考えること。自分が体験したらどうするか、自分だったらどう伝えるか、…。想像することだ。
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岩佐さんの話はとっても悲しく、それでいて力強いものでした。「被爆者」とカテゴライズするものではありませんが、でも被爆者の方ってスゴイと思える人が多いです。
岩佐さんの話の中で、私も共感し、悲しかったのは次の言葉です。
「本当は家族をよみがえらせたいんだ。
そして抱き合いたい。
あんな死に方、許せないんだ。
この叫びを、詩人の峠三吉は『人間をかえせ』に込めてくれた」