天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

映画『白痴』登場する写真館ウィンドウに飾られた原節子写真なら盗み出そうとガラス割る不心得者出現と得心

2011-11-24 21:28:41 | 日記
今日の日記は、映画『白痴』(1951年製作 黒澤明監督 原節子 森雅之 三船敏郎 久我美子主演)ドストエフスキー原作のナスターシャがモデルの那須妙子(黒澤監督は音訳でこの名前にした)を演じた女優・原節子のことです。
私はこの映画での原節子を紹介した四方田犬彦著『日本の女優 日本の50年 日本の200年』(2000年岩波書店刊)を読んで、とても共感しました。以下に、その著書から、印象に残った記述の一部を引用・掲載します。
『「白痴」は、「わが青春に悔なし」で、いささか生硬ではあるが独自の魅力を原節子から強引に引き摺り出した黒澤明が、ドストエフスキーに霊感を受けて撮ったフィルムで、四時間二五分の長尺でひとたび完成したものを、制作会社である松竹の要請で二時間四六分に短縮されられたという、いわくつきの作品である。物語は原作の舞台であるペテルスブルグを冬の札幌に移し、・・原節子は最初、実物としてではなく、札幌駅前の写真館のウィンドウに飾られている巨大な肖像写真として、亀田欣司(森雅之)の前に出現する。この出会いがすでに、ヒロインに超自然的で神格化された存在という印象を与えている。・・原節子はいかにも貴族的かつ高慢なしぐさを見せ、女性として成熟の頂点にあるといった雰囲気を漂わせている。・・黒澤は「わが青春に悔なし」のとき以上に激しく誇張された芝居を、原節子に要求した。彼女が亀田を慕う年少の大野綾子(久我美子)に対して、満身の憎悪を込めて対決する室内シーンを、監督はどこまでも続くクローズアップの切り返しで処理している。・・とにかく強引なまでにドストエフスキーを丸ごと脚色しようという監督の意志に、観る者は圧倒されてしまう。だが、そのなかで原節子が、これまでにない憎悪と宿命の女性を最後まで演じ切ったことは、記録されるべきだ。おそらく小津安二郎のフィルムから原節子の世界に近付いていった映画ファンは、「白痴」における彼女のクローズアップの連続が示す強度を前にしたとき、当惑するか、あるいは相手役の亀田(森雅之)のように畏怖と恐怖の入り混じった感情を抱くに違いあるまい。これは原節子がもっともロマン主義に接近したフィルムであり、彼女が本来的にもっていた体当たり主義的な演技の特質が、躊躇する間もなく監督によって増幅されて引き出された、極限的な例であったといえる。』
添付した写真は、大野綾子役の久我美子(右)に、満身の憎悪を込めて対決する那須妙子役の原節子(左)です。この場で鋭く対決する原節子と久我美子のクローズアップされた顔は、とても神々しくほど美しくまったく現実離れしたものです。だから、このように余りに力を入れ過ぎた黒澤明監督の演出が、当時の多くの映画評論家には不評でした。逆に、海外での評判が良かったのです。
また、黒澤明監督は、後年には女性をテーマにした作品があまり多くなく、”女を描くのが下手”との風評が立ってしまいました。しかし、戦後間もないこのような作品『白痴』には、しっかりと女性を強く描いていたのです。
そして、昨日の私の日記記述をふと思い出して、この映画に登場した写真館ウィンドウに飾られていた原節子の写真なら、盗み出そうとそのガラスを割る不心得者が出現してもおかしくないと、私は強く思いました。
しかし、昨日の私の日記『劇場の割れたガラスを片付けた客を劇場と癒着との非難趣旨は”李下不正冠”の心境で軽率行動を差し控える事』で起きた現実世界での出来事では、そのウィンドウに飾られていた劇場に出演する踊り子嬢のポスターは盗まれもせず、そのまま掲示板に張られていました。
だから、単なるショウウィンドウの器物破損事件(その動機は、この劇場への腹いせや鬱憤解消か?)だったのです。その意味で言えば、この劇場の世間的価値を大きく失墜させた象徴的な事件だったと、私は今深く得心しました。
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