音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

社長になる人

2007-09-05 06:48:18 | 時事問題
この年齢になると、家や車や保険などの関係で各種営業マンと接することがあります。私自身が社会人になってこのかた一貫して営業キャリアなもので、幸か不幸か仕事において「営業を受ける」ことが殆どないために、オフにのみ、もたらされるこういう機会は貴重です。

いわゆるセールスマンにまつわる思い出といえば、子どもの頃、なぜかソニー製品ばかり薦める業者さんなのですが、父親が気に入っていたらしく、実家のオーディオ家電関係の購入は全てその方の手配によるものだったなあということと、もう一つは実家が家を建てる時に垣間見た注文建築の営業マンのことです。

たしか中2の頃でしたか、私の親は土地を買いマイホームを建てたのですが、その際はご多分に漏れず、どこに発注しようかと住宅展示場なぞを周っていたようでした。最初に大成パルコンの鉄筋コンクリートの家が気に入ったようでしたが、too expensiveのため断念。そのあと候補が絞られ、大手ハウスメーカーのミサワホームと地元の林友という建材・家具商社との一騎打ちとなってきました。林友というのは、後に田中康夫の後援会長を務め、最後まで康夫ちゃん擁護の立場にあった穂刈甲子男氏がオーナー社長であることからもわかるように、地元では有力な会社でありました。本業は家具・インテリア販売ながら、当時まだ田舎では珍しかったツーバイフォー住宅の請負事業を開始したところだったのです。

ミサワホームはさすが大手だけあって、営業マンも洗練されているのに対して、林友の方は人手が足りないのか、または一気通巻体制であることをアピールしようということなのか、設計・施工管理の担当も兼ねる上っ張りを着た人がセールスでした。後に工期が大幅に遅れたり、父親の最重要ポイントだった書斎の造り付けの本棚で下手をうって「先生、すみましぇ~ん」と玄関先で土下座をするパフォーマンスを見せるような泥臭い人だったので、両親はあまり信用していない様子で、私もあまり覚えていません。

私はまだ子どもでしたから商談に同席していたわけではなく、帰り際の後姿をチラッと見たり、微かに聞こえてくる襖の向こうの会話に聞き耳を立てるくらいでしたが、高額商品なだけに緊迫した雰囲気は伝わってきます。住宅営業はカバーする範囲が建築からローン・税金などに至るまで幅広いので、全人格的なプレゼンテーション力が問われるといいます。我が家は父の仕事の関係でリビングにも壁一面に本がぎっしり並んでいたのですが、ミサワの営業マンは部屋に入るなり、「ああ、中世の和歌ですか、学生時代に齧った程度ですが」とかいって、万葉集の一節を朗々と詠い上げるようなインテリジェンスがあり、商談の進め方もスマートでキメが細かかったようです。

コンペチターの林友の方は、当時市内に数棟しか実績がなかったツーバイフォー住宅の実例にしたいと、大幅な値引きを提示してきました。ミサワも必死に対抗したものの、そこは大手と地元業者の差でしょう、やはり300万円くらいの差があったと聞いています。両親も散々迷ったようで、特に母親がミサワの営業マンを気に入っていましたから、難しい選択です。でも、もともと金もないのに注文住宅を建てようという無謀な計画ゆえに、300万円の差はいかんともしがたく、断腸の思いでミサワホームの方に断りの連絡を入れたのです。

翌日にポストにミサワの営業マンからの手紙が入っていました。分厚い便箋の束にぎっしりと書かれていたその内容は「○○様の家づくりのお手伝いができずに残念です」という書き出しに始まり、「ツーバイフォー工法は日本に輸入されて日が浅いので、こういった箇所を確認しながら進めてください」と、断熱材が~、構造材が~と素人でもわかるように逐一チェックポイントを示し、懇切丁寧に解説した後、「どうか良い家を建ててください」と結んであったそうです。なんか「泣いた赤鬼」の最後の手紙みたいな風情です。

後に自分も営業になってから思い返せば、これも一つの作戦だとわかります。ビジネスですから只の親切心ではなく、ひっくり返そうという野心がなかったとは考えられません。でも目的はなんであれ、そのメッセージを客がどう受け取ったかということが重要なのです。書き方によっては相手に良い感じを与えないし、文面によってはネガティブキャンペーンととられることもあります。でもその手紙を読んで両親がグラッときたんですね。心底感激したと母は述懐しています。きっと思いっ切り「誠意」ととったんでしょう。何とかならないかと再度検討したものの、やはり予算に届かず、結局林友に発注することになったのです。それでも、このミサワホームの営業の方とはその後も交流が続き、知人を紹介したり、頼まれて付属小学校の名簿コピーを渡したり(今だったら個人情報保護法でNGですが。。)していたそうです。10年くらい経ったあとでも近況報告があるというのは吃驚しました。

私も長じてから営業マンになりましたが、煩くて細かくて手がかかるけど契約してくれたお客さんと、温厚で関係良好で高く評価してくれたけど契約できなかった人では天地の差があり、前者の方がいいに決まっているわけです。契約できなかったお客さんとその後も付き合うというのは勿論理論的にはありえますが、実際はレアケースであることを体験上知っています。だからこそ、建てた業者の担当者は、付き合いも長かったはずが、名前も顔も全く覚えていないのに対して、建てなかった営業の方が、我が家にこれだけの記憶を残したことが不思議なのです。この方は、優秀だったので引っ張りだこだったのでしょう、本人は「ドサまわり人生です」と謙遜していたそうですが、本社には長居せず各地のディーラーを渡り歩いたバリバリの営業マンでした。この「ミサワの竹中さん」という名前は長く私の胸に刻まれ、これが「営業」に接した原体験といっても良いかもしれません。

先日、『週刊ダイヤモンド』のニュース欄に引っかかりをおぼえ、ページを繰る手が止まりました。「ミサワホームホールディングスの後継社長人事は、竹中平蔵氏の実兄で専務執行役員の竹中宣雄氏が最有力」という囲み記事です。プロフィールでは一貫して営業畑を歩んだことになっていて、ディーラーの重役・社長を歴任したというキャリアにもピンとくるものがありました。急いで母親の携帯を鳴らして下の名前を確認したところ、はたして「ミサワの竹中さん」その人でした。母親は、数年前に都内のミサワホームの邸宅の、ある工事現場のたて看板に施工者として記された名前を見て、竹中さんが東京ミサワの社長になっていたことは知っていたそうですが、その時は「やっぱりあの人は偉くなったのだなあ」と感無量だったそうです。でもあの竹中平蔵慶大教授のお兄さんだったとは夢にも思わなかったでしょうが。

ミサワホームホールディングスは、結核の病床にあったとき自らが考案した木質パネル工法で、実家の材木屋を日本有数のハウスメーカーに育て上げた三澤千代治氏という立志伝中の人物が創業社長として長く君臨していました。私が就職活動していた頃は、よくメディアに取り上げられる存在で、「可山優三」(成績が優3つしかなくて、可ばっかりの学生-転じて、優等生ではなく部活やバイトに汗を流したバイタリティのある人材求むという意)などの流行語で名物経営者として一世を風靡していたものです。その後リゾート開発などの拡大路線がたたり巨額の負債による経営危機で三澤氏が追放され、銀行から経営者を迎えることになりました。

再生の軌道に乗ったことから、後継にバトンタッチということなのかもしれませんが、下馬評通りに竹中宣雄氏が社長になれば、ミサワホームは新人時代から地を這うようにして家を1棟1棟売っていた経験のある生え抜きがトップの座につくことになります。リーディングカンパニーの積水ハウスの和田勇社長もプロパーでトップセールスマンから社長に登りつめたことで有名ですが、社員としてはごまかしが利かないので厳しい半面、自分たちの仕事を一から十まで知り尽くしているトップを戴くことは、とても幸せなことだと思います。

上場企業の社長になるような人は、若い頃から光彩を放ち、進む過程の中で関わった人たちに強烈な印象を残すものなのだと感じ入りました。ここまできたら、竹中さんには是非社長になってほしいものです。





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2 コメント

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ブログ (菊次郎)
2008-03-26 15:28:10
突然のコメント恐縮です。

先日、竹中専務にお会いした際、
音次郎さんのこのブログの話題になりました。

一体、どこでどう繋がるか、
人脈というものは分からないものですね。
しかし、貴方が発信されている、この
情報は間違いなく様々な方に影響を与えております。

大変、参考になりました。
よろしくお伝えください (音次郎)
2008-03-29 22:26:58
>菊次郎さま

竹中専務のお知り合いなのですね。ご本人は四半世紀前の施主でもない案件を覚えてはおられないでしょうが、我が家では今でも伝説になっています。

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