8月中旬から始まったぶどう狩り、梨狩りも9月末には終わりです。
訪れた加藤ぶどう園では今週で巨峰が、26日頃まででブラックオリンピアが終了、隣にある石川梨園では、豊水が今週で、新高が今月いっぱいで終わるだろうとのことでした。
加藤ぶどう園047-388-3578
石川園047-387-3458
アクセス:
上野駅(常磐線快速)→松戸(新京成電鉄)→常盤平 35分 460円
1. 常盤平駅の北口を金ケ作方面へ
2. 駅の階段を下りたところに「加藤ぶどう園」の立看板。矢印の方向へ。
3. 熊野神社・・・入り口に「石川園」の立看板
ここ金ケ作は川越藩の飛び地であり、江戸時代の中頃、藩士が開墾に入りその歴 史が始まった。熊野神社の石碑に由来が記されている。
4. 信号で左折、先方の木立は、左が「祖光院」、右が「金ケ作自然公園」
祖光院は川越藩士とともに当地に移転して来た古刹。最近では彼岸花の寺として知られる。平成5年、寺内の竹やぶを整地、500株を植えたのが始まり。お彼岸の頃には赤や白の彼岸花が咲き乱れる。近縁種の黄色のショウキズイセンも見られる。
5. 信号を右折、自然公園隣が「加藤ぶどう園」、その先左に「石川園」
*常盤平駅から15分、立看板が設置されているので迷うことはない。しかし、この付近は昔の村道が道路となっており、まっすぐだが狭く、歩道はない。交通量も多く、子供連れの場合は注意。
遠足と梨狩り
半世紀前、私が小学校の頃に、遠足で梨狩りに出かけたことがあります。梨もぎと言っていました。小田急線に乗り、稲田登戸駅、現在の向ケ丘遊園駅で降りて、近くの梨園まで歩いていきました。
当時はまだ誰もが貧しく、家族で梨狩りに出かけるなどという余裕はなかったのです。遠出するのはもっぱら学校の遠足だけ、市川での芋ほり、船橋での潮干狩りなどが懐かしく思い出されます。
梨やぶどうの観光果樹園が各地に見られるようになったのは1960年頃からで、モータリゼーションによって自家用車の普及が始まった時期です。
ところで、千葉県の東葛飾地区の梨の生産の歴史は古く、船橋や市川は江戸時代から梨の産地として知られていました。
明治になり、松戸で偶然発見された‘青梨が評判を呼び「二十世紀」と命名され、神奈川県の川崎の‘赤梨「長十郎」と共に全国に生産が拡大しました。
その後、品種改良が進み、早生種の「幸水」、中生種の「豊水」、晩生種の「新高」などが作られ、今では夏から初冬まで、長い期間梨を賞味できるようになりました。
梨の四方山話です
その一:
「梨は、100%国産ではありません」
実は、受粉させる花粉は中国からの輸入に頼っているのです。
なぜでしょうか?
○ 梨は同一品種の花粉ではうまく結実しません。
○ 他の品種の花粉で、効率よく受粉させるには、人手で行わなければなりません。
○ 受粉のための花粉を採取する手間までかけられません。
○ そこで、和梨に相性のよい中国梨の貯蔵花粉が輸入されるのです。
その二:
「二十世紀梨を発見したのは、13歳の松戸覚之助少年でした。」
明治21年、 覚之助はゴミ捨て場に発芽している梨の芽を見つけました。
持ち帰って大切に育てること10年、ようやく実ったのは緑色の「青梨」でした。今まで味わったことのない、上品な甘さとしたたるほどの水気・・・やがて評判を呼び、「青梨新太白」と呼ばれました。各種の品評会で次々と優秀賞を獲得、二十世紀時代を背負う品種として「二十世紀梨」の名称が与えられたのです。明治43年には、ロンドンで開かれた日英大博覧会で東洋種の梨として最高名誉賞を受賞しました。
松戸覚之助は、「二十世紀」の苗木を、毎年数千本を生産、ある時は無料で、各地に送りました。松戸覚之助が始めた梨園は、太平洋戦争時に、旧日本陸軍の工兵部隊近くにあったため、空襲を受け廃園、昭和22年には天然記念物の指定を受け大切にされてきた覚之助の原木も枯死してしまいました。
松戸覚之助が設立に関わった、わが国唯一の旧高等園芸学校は、千葉大学園芸学部として100年の歴史を誇り、覚之助少年の夢を現在に伝えています。
「手賀沼・今井にある湖畔ぶどう園にいってきました」もお読みください。
http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/18ec956ce5139735a2b22a58e9a9e7e7
訪れた加藤ぶどう園では今週で巨峰が、26日頃まででブラックオリンピアが終了、隣にある石川梨園では、豊水が今週で、新高が今月いっぱいで終わるだろうとのことでした。
加藤ぶどう園047-388-3578
石川園047-387-3458
アクセス:
上野駅(常磐線快速)→松戸(新京成電鉄)→常盤平 35分 460円
1. 常盤平駅の北口を金ケ作方面へ
2. 駅の階段を下りたところに「加藤ぶどう園」の立看板。矢印の方向へ。
3. 熊野神社・・・入り口に「石川園」の立看板
ここ金ケ作は川越藩の飛び地であり、江戸時代の中頃、藩士が開墾に入りその歴 史が始まった。熊野神社の石碑に由来が記されている。
4. 信号で左折、先方の木立は、左が「祖光院」、右が「金ケ作自然公園」
祖光院は川越藩士とともに当地に移転して来た古刹。最近では彼岸花の寺として知られる。平成5年、寺内の竹やぶを整地、500株を植えたのが始まり。お彼岸の頃には赤や白の彼岸花が咲き乱れる。近縁種の黄色のショウキズイセンも見られる。
5. 信号を右折、自然公園隣が「加藤ぶどう園」、その先左に「石川園」
*常盤平駅から15分、立看板が設置されているので迷うことはない。しかし、この付近は昔の村道が道路となっており、まっすぐだが狭く、歩道はない。交通量も多く、子供連れの場合は注意。
遠足と梨狩り
半世紀前、私が小学校の頃に、遠足で梨狩りに出かけたことがあります。梨もぎと言っていました。小田急線に乗り、稲田登戸駅、現在の向ケ丘遊園駅で降りて、近くの梨園まで歩いていきました。
当時はまだ誰もが貧しく、家族で梨狩りに出かけるなどという余裕はなかったのです。遠出するのはもっぱら学校の遠足だけ、市川での芋ほり、船橋での潮干狩りなどが懐かしく思い出されます。
梨やぶどうの観光果樹園が各地に見られるようになったのは1960年頃からで、モータリゼーションによって自家用車の普及が始まった時期です。
ところで、千葉県の東葛飾地区の梨の生産の歴史は古く、船橋や市川は江戸時代から梨の産地として知られていました。
明治になり、松戸で偶然発見された‘青梨が評判を呼び「二十世紀」と命名され、神奈川県の川崎の‘赤梨「長十郎」と共に全国に生産が拡大しました。
その後、品種改良が進み、早生種の「幸水」、中生種の「豊水」、晩生種の「新高」などが作られ、今では夏から初冬まで、長い期間梨を賞味できるようになりました。
梨の四方山話です
その一:
「梨は、100%国産ではありません」
実は、受粉させる花粉は中国からの輸入に頼っているのです。
なぜでしょうか?
○ 梨は同一品種の花粉ではうまく結実しません。
○ 他の品種の花粉で、効率よく受粉させるには、人手で行わなければなりません。
○ 受粉のための花粉を採取する手間までかけられません。
○ そこで、和梨に相性のよい中国梨の貯蔵花粉が輸入されるのです。
その二:
「二十世紀梨を発見したのは、13歳の松戸覚之助少年でした。」
明治21年、 覚之助はゴミ捨て場に発芽している梨の芽を見つけました。
持ち帰って大切に育てること10年、ようやく実ったのは緑色の「青梨」でした。今まで味わったことのない、上品な甘さとしたたるほどの水気・・・やがて評判を呼び、「青梨新太白」と呼ばれました。各種の品評会で次々と優秀賞を獲得、二十世紀時代を背負う品種として「二十世紀梨」の名称が与えられたのです。明治43年には、ロンドンで開かれた日英大博覧会で東洋種の梨として最高名誉賞を受賞しました。
松戸覚之助は、「二十世紀」の苗木を、毎年数千本を生産、ある時は無料で、各地に送りました。松戸覚之助が始めた梨園は、太平洋戦争時に、旧日本陸軍の工兵部隊近くにあったため、空襲を受け廃園、昭和22年には天然記念物の指定を受け大切にされてきた覚之助の原木も枯死してしまいました。
松戸覚之助が設立に関わった、わが国唯一の旧高等園芸学校は、千葉大学園芸学部として100年の歴史を誇り、覚之助少年の夢を現在に伝えています。
「手賀沼・今井にある湖畔ぶどう園にいってきました」もお読みください。
http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/18ec956ce5139735a2b22a58e9a9e7e7