八月、大内宿を訪れました。今回で四度目です。駐車場が四つに増え、交通整理員が車の整理をしていました。初めて訪れたときの、江戸時代の宿場町がそのまま姿を伝えている感動を忘れることができません。以来、家族や友人・知人を案内してきました。
いずれも一泊二日の旅でした。
*東北道→磐越道→猪苗代湖→会津若松→大内宿(会津東山温泉泊)
*東北道→塩原→南会津町→奥只見→昭和村→大内宿(只見町泊)
*東北道→那須高原→甲子道路→大内宿(那須温泉泊)
*浅草駅→鬼怒川温泉駅→湯野上温泉駅→大内宿(鬼怒川温泉泊)
大内宿の歴史
1643年(寛永20年)頃
*若松・江戸を五泊六日で結ぶ下野街道に現在の街並みがほぼ形作られる。
*以来、隔年ごと21回会津藩参勤交代が立ち寄る
1680年(延宝8年)
*幕府、脇街道(下野・会津西街道)での参勤交代と廻米を禁止、白河街道へ。
*大内宿は商人・旅人だけの宿場となり賑わいを失い、半農半宿の生活に。
1683年(天和3年)
*日光地震で山が崩落、五十里宿に高さ70mの堰止湖が出現。
*氏家・板室・三斗小屋経由の迂回路である中街道ができる。
1723年(享保8年)
*大雨で堰止湖決壊、濁流が宇都宮まで下る。下野・会津西街道開通。
1868年(慶応4年)
*戊辰戦争で南会津一帯が戦場に。大芦宿(昭和村)29戸、三斗小屋宿14戸焼失。
*新政府軍の利用を恐れ、会津藩は大内宿に火を放とうするが、村人の懇願で取止める
*薩摩・人吉・肥前・中津・芸州・今治などの藩兵が大内宿に陣を敷く。
1878年(明治11年)
*イギリス人女性旅行家イサベラ・バード、美濃屋(阿部家)に泊まる。
1884年(明治17年)
*若松から阿賀川沿いに楢原宿(下郷町)まで道路整備(現121号線)
*大内宿はルートから外れ、宿場としての歴史を終える
会津地方の一山村としての歩みが、その後85年ほど続く。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の動乱のなか、明治時代は足尾銅山日雇い人足、大正・昭和には草屋根葺き職人として関東への出稼ぎで生活を支える。また、炭焼き・養蚕→葉タバコ→高原大根・米作→花卉栽培・米作と換金作物は変遷、しかし、人々の結の精神は、防災、農作業、茅葺屋根葺きなど共同作業で綿々と受け継がれ、大内宿を江戸時代の姿そのままに伝えることになる。
1969年(昭和44年)
*朝日新聞全国版に大内宿保存に取り組む研究者の活動が紹介される。
*大内の代表者と下郷町職員、保存事業に取り組む長野県妻籠宿訪問。
1970年(昭和45年)
*NHK大河ドラマ「樅の木は残った」のロケーション撮影地に
1976年(昭和51年)
*妻籠宿、文化庁より重要伝統的建造物群保存地区に選定される。
1977年(昭和52年)
*大内ダム(多目的ダム)の建設が始まる。
*補償金と建設工事従事で現金収入、トタン屋根への葺き替えが行われる。
*住民、重要伝統的建造物群保存地区への申請を断る。
1978年(昭和53年)
*奈良井宿(長野県)が重要伝統的建造物群保存地区に選定
1980年(昭和55年)
*大内宿住民、重要伝統的建造物群保存地区申請を決断。
*トタン屋根・アスファルト舗装撤去および電柱・電線の配置換え。
1981年(昭和56年)
*4月18日、文化庁、大内宿を重要伝統的建造物群保存地区に選定
大内宿への観光客の数は指定を受けてから3万人前後で推移していたが、平成に入ってから一気に増加、平成2年には30万人、翌年に50万人、平成15年に80万人、平成22年に100万人を超える。しかし東日本大震災の年は半減、回復基調にあるが現在80万人程度である。