シニアー個人旅行のかわら版

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吉香公園・城山を散策する・・・岩国・錦帯橋への旅

2008-11-29 22:16:35 | Weblog
 10月、尾道に一泊後、次の日は岩国の錦帯橋近くのホテルに泊まりました。映像では馴染みとなっている錦帯橋を実際に見てみたいというのが長年の夢でした。
 錦帯橋は岩国城主の館とそれを取り巻く武家屋敷を防御する外堀の働きをする錦川に架けられています。日本三名橋の一つに数えられる有名なこの木造橋は、架橋されてから昭和25年の台風で流されるまで、実に276年に渉り、その姿を保ってきたという5連のアーチからなる歴史的な木造建造物です。300年以前の架橋技術の高さに驚かされるばかりです。
 橋の途中で川底を眺めるとアユが何匹も見えました。川石のはみ跡を見たのは何十年ぶりでしょうか・・・清流・錦川に感動です。

 国木田独歩の碑を訪れました
 川を渡ると堤よりやや低い土地にかつての武家屋敷があります。多くの家は建て替えられていますが、敷地は広く、面影を残しています。現存する武家屋敷が文化財として観光客に紹介されています。
 一番奥まった場所が城主の館跡で、公園として整備されています。中を散策すると国木田独歩の石碑がありました。独歩は子どもの頃父親の勤務地である岩国で過ごしています。石碑には「欺かざるの記」の中の一節が刻まれていました。独歩といえば、大分佐伯で教師をしていた頃の思い出を書いた作品が有名ですが、その中の一つ「春の鳥」の舞台となった佐伯の城山と独歩が下宿していた武家屋敷を今年の2月に訪れていますが、岩国の城山と独歩の石碑がある場所のそれが、あまりにも似ているのには驚きました。天守閣が建てられた城山とその下の武家屋敷というシチュエーションが同じこともあるのでしょう。

「美しき天然」の作曲者・田中穂積
 公園を散策していると、田中穂積の碑がありました。田中穂積が岩国の人であることを知りました。1899年、佐世保海兵団の軍楽長であった穂積が滝廉太郎の「花」の作詞家としても知られる武島羽衣(又次郎)の詩に感動、佐世保の九十九島の美しい風景のイメージを日本最初のワルツに載せ、佐世保女学校の生徒のために作曲しました。それが「美しき天然」で、当時の女学生の愛唱歌として歌われました。今でもチンドン屋の奏でる曲といえば、メロデイを思い出す方も多いでしょう。

 田中穂積は長州藩の少年鼓手でした
田中穂積は1855年に岩国藩の下級武士の家に生まれます。14歳の時、下級武士で編成された長州藩日進隊の鼓手として戊辰戦争に加わります。当時の錦絵には行進する新政府軍の行列の先頭に鼓笛手が描かれていますから、田中穂積も同じように行軍したのでしょう。
 演奏されていたのは日本最初の軍歌といわれる「トコトン節」です。

♪♪宮さん宮さん御馬のまえに ひらひらするのはなんじゃいな
トコトンヤレナトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃしらないか
トコトンヤレナトンヤレナ♪♪


長州藩品川弥次郎作詞、大村益次郎作曲と伝えられ、民謡調ですが、それを西洋式の鼓笛に合わせて意気高らかに歌いながら行進したのでしょう。「安芸は朝駆け 三原は三日 備前岡山通り駆け」を合言葉に長州兵は京都に向かいました。

 「美しき天然」のメロデイが今でも歌われている国があります
 日本でも歌う人がほとんどいなくなったこの曲を、大切に歌い続けている国があります。それは中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンの朝鮮系のロシア人の人々です。

 田中穂積が生まれた19世紀中頃に朝鮮半島北部の朝鮮の人々は困窮した祖国からロシア沿海州への移住を始めます。1910年明治政府の強引な日朝合併で朝鮮が日本の支配下に置かれます。そして、朝鮮へは日本から人や物資が入っていきますが、朝鮮半島を巡業するサーカス団も現れます。当時、サーカスのテーマ曲として必ず演奏されたのが「美しき天然」のメロデイで、これが朝鮮の人々の間にも広まります。

 1937年、スターリンは中国に進出した日本軍が沿海州の朝鮮族の人々を利用することを恐れ、全員を6000キロ離れた中央アジアへ強制移住させます。その数20万人に上ると言われています。
 それから70年、その子孫は50万にも達していますが、その人々が今でも歌う歌が「故国山川コグサンチョン」です。

 ♪♪コグサンチョンヌル トナソ スチョルリ タヒヤンエ・・・♪♪
(故国の山川を離れて 何千里・・・)


老人から口伝えで伝わったコグサンチョンは韓国や北朝鮮の標準語とはかなり違う19世紀の高麗語の語彙やロシア語も混じる詩だそうですが、この詩を、100年前田中穂積が佐世保と九十九島の美しい自然をイメージして作曲したメロデイそのものに載せて大切に歌っているのです。

城山に登る
 ロープウエイを利用せず、武家屋敷から登ろうと決めていました。ホテルの受付で登山道を尋ねると紅葉谷を登るコースを紹介されましたが、それ以外に歩道がある筈だと探していると登山スタイルの地元の方に出会いました。「一緒に行きますか」という誘いに、同行させていただくことにしました。ロープウエイの索道下から登り始め、踏み跡を登っていきます。定年後、週三回は城山周辺の山に登ると話されるその方の後を追いますが、息が切れる私を途中で何回となく待ってくれました。

 急峻な斜面の樹木で覆われた斜面は、眺望はまったくききません。ただ登るだけです。40分ほど登ると巨岩がありそれが目印となり、あとわずかだと言う言葉に励まされ登ると、北の丸の南面にある400年前の岩国城北の丸の石垣です。あまり崩れておらず、近年に補修がされているのかと思うほど堅牢な造りです。
 ここから北の丸を一周するハイキングコースです。東側に回ると、風景が一変、石垣がものの見事に斜面から崩れ落ち、あちらこちらに散乱しています。

 後で知ったことですが、岩国城は築城後わずか7年で幕府の一国一城令で破却することになりましたが、北の丸の南面の石垣だけは下の城主の館を直撃する恐れから、破却を免れたということを知りました。それにしても東側の散乱した石垣の積み石の様子は400年たった今でも破却当時の様子を伝えています。
 もう一つ貴重な史跡は頂上の空堀です。幅20メートル、深さ10メートルの空堀が頂上に掘ってあるというのは、関が原の戦い以降主要な武器となった鉄砲を防御するためで、現存する最大の空堀だそうです。
 その近くにかつての天守閣の跡があります。現在の岩国城の天守閣は昭和37年に観光用に作られたものです。 

関連サイト:
 岩国観光協会http://www.iwakuni-kanko.jp/
 岩国城 http://www.iwakuni-kanko.com/kikko/shiro/around.php
 田中穂積http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/katari/0610/kt_610_061007.htm
佐伯の国木田独歩
尾道を訪れる



 
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