トゥエンデ ポレポレ

マライカのひとりごと

Heri za Krismasi!(メリークリスマス!)

2008年12月14日 | トゥエンデ ポレポレ


ンジェンガ君より

日本のお母さんへ、
ボクに声援をおくってくれる日本の友だちへ

こんにちは!
2008年がもう終わります。
今年は政治暴動などがあっていろいろたいへんでした。
でもいいこともたくさんありました。
苦しいときたくさんの人たちからはげましをもらい
友だちの大切さがもっとわかりました。
ぼくはそれを思うとあたたかい気持ちでいっぱいです。

仕事も問題が山のようにありますが、点字図書のことで
短い時間でしたが「Unbowed」の著者マータイさんに会う
ことができ、口頭ですがマータイさんから点字図書制作の
著者許可を得ました。
実現までまだまだ時間がかかるかもしれませんが、
ケニアの視覚障害者のために点字図書をたくさん作る夢
を実現するため来年も行動をしていきます。
今年一年たいへんお世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願いします。

Heri za Krismasi na Mwaka mpya!
メリークリスマス!
みなさんのよい新年をお祈りしています。

ケニアより愛をこめて
ジョセフ・ンジェンガより



日本のお母さんからの贈りもの

2008年12月13日 | トゥエンデ ポレポレ


ジャンボー!
ケニア盲人仲間にすてきな贈りものが日本からやってきました!
持ち運びができる携帯点字タイプライター二台です。
送ってくださったのは、ンジェンガ君が栃木県立盲学校に留学していたとき
週末ホームステイを受け入れてくださった松本カネ子さんです。
松本さんは栃木県福祉協議会の会長をしておられますが、全盲のンジェンガ
君をあたたかく受け入れ、日本の日々を楽しくいっしょにすごした松本カネ子
さんのことをンジェンガ君は「日本のお母さん」と呼んで今でも慕っています。

松本さんが点字タイプライターを送ってくださったきっかけは、ンジェンガ君
の両翼ともいうべき墨字タイプライターが壊れ、機種が古くて交換パーツがなく
ンジェンガ君は手紙も書けないことと、また多くの盲人が点字機器がなく
困っていることを、松本葉(かずは)さん(松本カネ子さんの娘さん、ケニア
在住)から聞いたためです。
一台はンジェンガ君へ、もう一台はフィリーたちあん摩グループや盲人仲間の
ためにクリニックの部屋を提供してくれるSOS(Salus Oculi Kenya)に寄贈し
てくださいました。これで点字機器をもっていない盲人仲間も、友人に手紙を
書いたり、仕事に必要なレポートを書くことができます。

以下はンジェンガ君が盲人仲間を代表して、日本のお母さんに書いた
お礼の手紙です。

日本のお母さんへ
こんにちは。お元気ですか?
こちらは、わたしも家内も子どもも元気です。日本はどうですか?
このあいだ、お母さんが送ってくれた点字タイプライター
ありがとうございました。ほんとうに役に立っています。
わたしは事務所で仕事をするとき、コンピューターを使っていますが、
仕事がいそがしいときは、家に帰ってからも、仕事が進んでいます。
それはお母さんにもらった点字タイプライターがあるからです。
ケニアでは小さな点字タイプライターを手に入れることはとても困難です。
なぜなら、ケニアの盲学校や盲人協会にある点字機器はドネーションで
外国から入ってくるものがほとんどです。
盲学校で使う点字板、点字タイプライターは学校のものなので、卒業する
とき、もらえません。買おうとしても点字板ですら高く、また現実ケニア
には買うところがありません。
なので、ほとんどの盲人は盲学校を卒業し、田舎に帰ると字を書く道具が
ありません。だからケニア盲人が書く道具を持つことは、ほんとうに生活
の助けになります。
お母さんには、ケニア盲人仲間を代表してこころからお礼もうしあげます。
お母さんと家族のみなさんの健康をケニアからお祈りしています。

ジョセフ・ンジェンガより
(日本語の手紙)


ンジェンガ君は「最近、日本語忘れた」と言っていますが、「家内」とか
びっくりする日本語を覚えていて驚きでした。
お母さんにもらった点字タイプライター、ンジェンガ君とても嬉しそうです!
この点字タイプライターは、ンジェンガ君盲人仲間たちのあいだで
大活躍してくれることでしょう。

松本カネ子さん、ケニア視覚障害者のためにすてきな贈りもの
アサンテサーナ*♪*




Book Club (ブッククラブ)

2008年10月23日 | トゥエンデ ポレポレ

第三回ケニア盲人事情

ケニアにはカメメFMというキクユ語ラジオ放送がある。
カメメFM放送は2000年から始まり、ケニアの最大人口を占めるキクユ民族
の人々に爆発的な人気を呼び、あっというまにケニアの中堅ラジオ放送局のひ
とつになった。

このキクユ放送には話題の本を取り上げる「Book Club」という朗読番組がある。
放送日は毎週火曜日、夜10時から11時までの1時間番組である。
毎回取り上げられる本は、キクユ語に翻訳されて朗読されるが、キクユ語しか話
さないい高年齢層や、経済的な理由で学校教育を受ける機会のなかった英語の
わからないキクユの人たちから絶大な支持を受け、この「ブッククラブ」はカメメ
FM開局以来8年経った今も続いている人気長寿ラジオ番組だ。

2000年にこの番組がスタートしたときから、「Book Club」はンジェンガ君
のお気に入りのラジオ番組だった。ンジェンガ君は
「盲人のための合宿セミナーがあるときでも、この番組は絶対にミス(聞き逃し)
しません。小さなラジオを外出先にもっていき、かならず聴きます。」
娯楽のほとんどないキクユ族の盲人にとって、この番組は毎週心待ちする楽し
みな番組のひとつで、ティカ盲学校時代のンジェンガ君の友だち、全盲のワゴ
ンド・ジャコブもジョアキム・ガトゥもこの番組の大ファンだ。
この朗読番組がキクユ族の視覚障害者にどれほど大きな希望を与えているか、
ブッククラブ番組担当者は知っているだろうか。

このブッククラブ番組はメンバーになると、会員は番組で読んでもらいたい本
をリクエストすることができる。ンジェンガ君はもちろんすぐ「Book Club」に会
員登録をした。
「ケニアのテレビはくだらない番組が多いです。盲人に役に立つテレビ番組
はニュースぐらいで、ぼくはラジオを聴くことが多いですね。」
ンジェンガ君が住むリムル地域は電気がとおっているが停電が多く、ンジェン
ガ君がラジオを聴くときは乾電池を入れて聴く。小さいラジオ用の単三の乾電
池は一ケ15sh(30円)で四ケ必要だ。勤務先のケニア障害者協会の給料
が4ヶ月も遅配しているンジェンガ君にとって乾電池代の出費は痛い。
「最近停電が多いので、先月入れた乾電池がもうなくなりました。ケニアの乾
電池はすぐなくなって困ります。」とため息をつく。

2006年クリスマスも間近い12月5日火曜日の夜、ンジェンガ君はいつも
のようにラジオをカメメFMの周波数101・1に合わせ、ブッククラブ番組
アナウンサーのワニョイケ・イヴァンス氏の声に耳を傾けていた。
ワニョイケ氏はワンガリ・マータイ女史が書いた話題本「Unbowed」について
紹介をした。
この本は出版記念会も行なわれケニア国内で話題にもなっていたが、マータイ
女史がノーベル平和賞を受賞したといっても、ケニアの田舎や僻地ではノーベ
ル賞の意味やその価値がわからない人も多い。この原著は英語で書かれてい
るが、番組で取り上げる本をキクユ語に翻訳し朗読するのはナイロビ大学のム
ワンギ・イリベ氏だ。
ムワンギ氏の「Unbowed」のキクユ語朗読が始まった。

「Unbowed」はマータイ女史の自叙伝で、彼女の生まれ故郷ニエリで過ごした
幼年時代の思い出、米国留学、米国からケニアに帰国後始めたグリーンベルト
運動、モイ独裁政権下のグリーンベルト運動に対する弾圧とその抵抗と戦い、
たくさんの困難、苦悩にぶちあたりながらも、その困難を不屈の信念で乗り越
え、自分の志のために常に前に進み続けたマータイ女史の半生を書いたもの
だった。
ンジェンガ君はムワンギ氏によるマータイ女史の半生記の朗読が始まってすぐ、
話に深く引き込まれた。毎週ラジオから流れる朗読に没頭し回を重ねるごと
ますます夢中になって聴いた。

「モイ政権下の80年代に、マータイさんの自宅をかねたグリーンベルトのオ
フィスに突然ドロボーが入りました。ブンドゥキ(銃)とパンガ(大ナタ)をもっ
たドロボーグループに、マータイさんは事務機器、書類、家財道具を強奪され
ました。」
「これはドロボーをよそおったケニア政府の手先のしわざでした。政治権力者
の国有地私有化に反対運動をおこしていたマータイさんは、ケニア政府のアド
ゥイ(敵)でした。だから、この事件はマータイさんに対するスンブアスンブア
(いやがらせ)でした。」
「さいわいマータイさんは無事だったけど、マータイさんはとても絶望しました。
でもマータイさんは活動をあきらめませんでした。」
「自分と同じキクユの血を持つ同胞が、しかも女性が、命の危険にさらされな
がらも、自分の信念をつらぬいて権力と戦って生きた。そのマータイさんの生
き方にぼくは何度も心がゆさぶられ感動しました。」

ンジェンガ君はその頃、サファリコム基金に応募するため何ヶ月にもわたって
調査をし書類を作り応募したが、半年にわたる奮闘努力のかいなく審査結果
はリジェクト(NG)だった。さらにその頃、ンジェンガ君の住むバナナヒルの
下宿先にドロボーが入り、鍵がかかっていた戸棚が壊されンジェンガ君の最後
の持ち金だったお金が盗まれるという事件が起きた。勤務先の障害者協会の
給料遅配。仕事がない。お金が底をつく。行動の自由がない。
ンジェンガ君にとって失意の日々が続く。

そういう日々を送っているときに聴いた朗読だった。ンジェンガ君は
「マータイさんの本はぼくのこころを明るく照らすジュア(太陽)みたいでした。」
ンジェンガ君はケニアの盲人にはさまざまな制約があるが、マータイさんの本を
点字本にして、地方でなすすべもなく将来に希望も見出せずむなしく暮らしてい
る自分たち盲人仲間にマータイさんの明るい太陽を届け、元気に生きる力を与え
たいという。

「ケニアの盲人たちは全寮制の盲学校にいる時代はいいです。まわり中盲人な
のでつらいことがあっても盲人同士悩みを共有できるから。それに盲学校は先
生をはじめ、視覚障害者に理解のある人間がたくさんいるので、大きく困ること
はありません。でも問題は盲学校を卒業し、それぞれの田舎に帰ってからです。
田舎に帰ってから盲人にとってほんとうの困難がはじまる。
明るい性格の積極性のある盲人はいい。でも人間付き合いがヘタな盲人もいる。
遠慮がちな性格の盲人もいる。そういう全盲の盲人たちはただボーっとしている。
どこかに行きたくてもバスに乗る小銭もないからです。」

「そういう地方にいるぼくたち盲人仲間が、それぞれどういう悩みをかかえて
いるか知る手段がない。最近ではエイズの問題がある。彼らの大半は無職でお
金がない。だから携帯電話で電話する手段もないでしょ。点字版を持っている
盲人もかぎられている。持ってても点字用紙ないでしょ。月日が流れるにした
がって、同級生だった友人の連絡先もだんだんわからなくなっていく。」

「ぼくは、はじめは地方に住む盲人とつながりを持つため、視覚障害者のため
のウェブサイトを作ろう考えました。ウェブサイトを作る講習も受けました。
でもコンピューターはおろか電気も通っていない地方や僻地の現実を考えると、
ウェブサイトによる盲人ネットワークは今のケニアでは現実的でない、と考え
なおしました。CD図書、テープ図書も同じ理由で不向きです。
もっと現実的で具体的なネットワークをつくる方法はないものか、と。」

ンジェンガ君は本が好きな盲人に郵送で図書を送り、読み終えたら返送して
もらう郵送点字図書館のようなものがあったらどうかと考えた。

「地方に帰った友人たちはチャンスがないだけで、いろんな可能性や才能を
もっていると思う。本を返送するとき盲人本人にメッセージを添えてもらえば、
地方の盲人状況がわかり、図書郵送と同時にアウトリーチプログラムも兼ね
ることができます。それで地方の盲人と接点ができる。」

ここまでンジェンガ君が話した時、わたしはひとつ気になって質問した。
そのように娯楽のない地方の視覚障害者の人たちに点字図書を郵送したら、
本がなくなることもあるんじゃないか、と。
ンジェンガ君は即答した。
「点字図書は絶対なくなりません。ケニアの郵政省にはひとついい制度があっ
て、点字図書を送る郵便代はタダです。だから返送するのもタダです。盲人の
負担にはなりません。」
「それと、その本が自分と同じ立場の盲人が読むのを心待ちしていることを
ぼくたち盲人は知っている。だから点字図書は絶対なくなりません。絶対に。」

「ゼェェッタイ」と、ンジェンガ君は言い切った。
全盲の人たちの気持ちを一番わかるのは他ならぬンジェンガ君だった。

Tusonge mbele!(Let's go forward! )



Hatua moja mbele!(一歩前進!)

2008年06月11日 | トゥエンデ ポレポレ
ジャンボー!
点字図書を作って盲人仲間と情報を分かち合いたいと奮闘しているンジェンガ
君ですが、ンジェンガ君の思いに共感し「いっしょに活動したい」と申し出た
盲人仲間がいます。ケニアであん摩マッサージ師として活躍するフィリゴナ・
アチョーラさん(通称フィリー)です。

ケニアは政治暴動の影響で経済が低迷し、フィリーたちあん摩マッサージ師の
の仕事も停滞していますが、フィリーは
「いま仕事はないけど、時間があります。新しいことを始めるチャンスだと
思う。以前からあん摩の仕事と平行して何かしたいと思っていました。
ンジェンガさんの話を聞いて共感、パソコンを習ってンジェンガさんの活動に
参加したい」とパソコンの初級コースを学び始めました。

ンジェンガ君とフィリーがムクターノ(ミーティング)を開いてわかったこと
は、偶然にも二人が作りたい点字図書が同じワンガリ・マータイさんの著書
「Unbowed」で、フィリーは
「2006年末にこの本が発売されたと同時にわたしの友人が購入しました。
わたしも読みたくてその友人が読み終わったあと、すぐ借りました。
弟のジェームスが時間あるとき朗読してくれ、とても面白くて、早く前に
進みたいけど、ジェームスは忙しくてなかなか時間が取れません。
2006年末から2008年6月現在いまだに半分しか読んでいません。
誰かに頼らないと本が読めないことに、ずっともどかしい思いをしていました」
と言います。ンジェンガ君は
「マータイさんの本は話題だったので、カメメというキクユ語放送がキクユ語
に翻訳して放送しました。とても長い本なので連続放送でしたが、毎週楽しみに
し、毎回すごく感激し勇気づけられました。ぜひUnbowedを点字図書にして、多
くの盲人仲間に読んでほしいと思いました」
二人は
「マータイさんはアメリカで学んだ後、ケニアに戻りナイロビ大学で教えて
いました。男性の教授は給料が高く、マータイさんは女性というだけで給料が
低く、性差別を受けました。そのほかいろいろなたいへんなことがたくさんあり
ました。それでもめげず困難に打ち克って、ついにノーベル賞を受賞するに
なった。マータイさんの半生は、Kama ukifanya kazi bidii, unaweza kufanya
yoyote.(もし努力すれば、不可能なことはない)Kitabu chake kinanitia
moyo sana hasa kwa wasioona.(マータイさんの本は特に盲人の心を燃やし
勇気づけてくれます)」
と言います。
孤軍奮闘していたンジェンガ君は、点字図書を読みたいという志を同じくする
フィリーという強力な盲人仲間を得ました。
Hatua moja mbele!(一歩前進!)です。

それからもう一人心強い援軍の登場です。
コンピューターのことに詳しいナイロビ在住の高橋優香さんです。
わたしが安くゲットしたパソコンは日本語ヴァージョンでしかも古かったので
英語の音声ソフトを入力すると齟齬が起きていたのですが、優香さんが時間を
かけてパソコンを調整し解決してくれました。
また優香さんはムクターノ(ミーティング)の場所もンジェンガ君たちに快く
提供してくれ、ナイロビが一望できる見晴らしのいい優香さんの部屋でンジェ
ンガ君とフィリーの初級パソコン教室が行われました。
夢が先行しがちなンジェンガ君たちに、優香さんの足が地についた現実的な
アドバイスはとても役に立っています。
またもう一人のコンピューターの専門家で、わたしのパソコンの先生でもある
小林英之さんも日本からパソコンに関する情報とアドバイスを送って応援して
くれ心強いかぎりです。

いい風が吹いてきました。
みんなそれぞれ本業があってお互いの時間には限りがあり、
なかなか思うように進みませんが、このいい風に乗って、
できることから一歩一歩!

Twende hatua kwa hatua!(Let's go step by step!)


翼のタイプライター

2008年06月09日 | トゥエンデ ポレポレ
第二回ケニア盲人事情
ンジェンガ君の行動は放送局からスタートした。KBC放送局は企画に興味を示
してくれたものの、具体的なサポートを得られるまでに結びつかなかった。
ンジェンガ君は、次の訪問先をサファリコムに決めた。サファリコムはケニア
最大手の携帯電話会社だ。

バナナヒル(当時在住地)からマタツ(公共バス)を二回乗り換えてサファリ
コムに着いたンジェンガ君は、サファリコムのカスタマーズサービスの受付で、
盲人のための盲人による点字図書館計画を話した。
受付はンジェンガ君を相手にしてくれなかったが、ンジェンガ君はあきらめず、
二週間後に再度サファリコムを訪問する。今度は別の係りの人間がンジェンガ
君の話に関心を持ってくれ、サファリコム・ファンデーション(サファリコム
基金)の主任オジャンボ女史に面会できる手はずをととのえてくれた。

オジャンボ女史の部屋に通されたンジェンガ君は、まず盲人仲間のために
点字図書を作りたいことを話した。そのためにはパソコン機器と点字プリンタ
ーが必要なことを話した。オジャンボ女史はンジェンガ君の話をじっと聞き、
話終えたンジェンガ君に
「あなたはなぜそういうことをしたいのですか?」
と質問した。
ンジェンガ君はオジャンボ女史に
「まず、ケニアでは盲人が読める点字図書が圧倒的に不足しています。
盲学校内の教材すら事欠きます。教材がないだけでなく、一般図書はほとん
どありません。だから、点字図書をたくさん作りたいのです。」
「そしてその仕事を晴眼者に頼るのでなく、盲人自身の手でやります。つま
りその点字図書を作ることを盲人の仕事にしたいのです。」
「ケニアには視覚障害者団体がたくさんあります。でもその団体で働く職員の
99%近くが晴眼者です。これはとてもおかしいことです。盲人問題は目の見
える人間より盲人自身が一番よく知っています。だから盲人のための仕事は盲
人自身がするほうがベターです。才能ある盲人がたくさんいるのに、ほとんど
のケニアの盲人はじぶん達の力を発揮するチャンスも場所もなく社会から取り
残されています。」
ンジェンガ君はオジャンボ女史にむかって一気にしゃべった。
オジャンボ女史はンジェンガ君の話に関心を示してくれたものの、正直当惑
しているようだった。オジャンボ女史は質問を続けた。
「しかし、目の見えない視覚障害者が一体どうやってコンピューターで点字図
書を作るのですか?」 

1972年ジョセフ・ンジェンガ君はケニア中央部リムル地方ンデンデルで生ま
れた。リムルは農業に適した肥沃な土地で、ケニアの穀倉地帯のひとつであ
る。農作業に忙しいお母さんのかわりに、ワイデラおばさんがンジェンガ君の
面倒を見てくれた。6歳のとき、ンジェンガ君ははしかにかかる。
ワイデラおばさんのはなしによると、1970年代当時のケニアの田舎の農村
地帯では、はしかのワクチンというものはまだ普及していなく、高熱をともなう
発疹がでる病気は、薬草の煎じた薬と地酒のアルコールで体を拭くというの
が伝統的な治療法だったという。
しかし伝統療法のかいなく高熱は引かないばかりか、ンジェンガ君の目がつ
ぶれるほど腫れ上がってきたため、家族はあわててジェンガ君を病院に連れ
ていくが、はしか初期段階での適宜な治療が遅れたため、ンジェンガ君は両
眼とも視力を失い全盲になる。ワイデラおばさんは
「ンジェンガの目のなかにどうしてシェタニ(悪霊)が入ってしまったんだろう、
って当時は思ったよ。それから家族はあちこちの病院をまわってあらゆる手を
つくしたけど、結局ンジェンガの視力はもどらなかった」
視力を失った後、ンジェンガ君は全寮制ティカ盲学校初等部に入学する。
ンジェンガ君は勉強がよくでき、6人兄弟のなかでもンジェンガ君は一番優秀
な成績で初等部を卒業する。ンジェンガ君の家庭は典型的なケニアの小規模
農家で、6人の子どもたちを高等学校に行かせる経済的なゆとりはなかったが、
お祖父さんが
「ンジェンガには教育を受けさせなけばいけない」
と言い、苦しい家計をやりくりし、高等部に進む学費を工面してくれた。
お祖父さんは死ぬ前にも
「自分は学校を出ていないけど、教育は大切なものだ。ンジェンガは目が見え
なくても教育が彼の将来を助けるだろう」
と言い残し亡くなった。6人兄弟のなかでも全盲のンジェンガ君だけが高等学
部に進級する。

ンジェンガ君はティカ盲学校初等部時代から作文が好きだった。ンジェンガ君が
作文を書くと先生や友だちがほめてくれた。ほめられるとンジェンガ君はワクワ
クした。でも、その点字で書いた作文は家族や近所の友だちは読めなくてがっ
かりだ。書きたいという思いがあって、その気持ちを点字で作文する。しかし、
点字の読めない人間にとって点字原稿はポツポツの凹凸があるただの紙で、
盲人関係者だけが読めるごく狭い世界に通用するものだった。
ティカ盲学校8年生のとき、ンジェンガ君は授業でタイプライターを習う。
このタイプライターとの出会いは全盲のンジェンガ君に大きな希望を与えた。
活字になった原稿は盲人世界という壁を飛びこえて、幅広くたくさんの人間が
読むことが可能だ。
「ぼくの原稿をみんなに読んでもらえる!」
タイプライターで文を書くことは、それはンジェンガ君にとって、あたかも翼をえて
狭いカゴから飛び出し大空を自由に飛ぶ鳥になったような気分だった。

「それから、ぼくは本を読むのが大好きでした」 
ンジェンガ君は盲学校時代を回想する。しかし、盲学校の図書室には本が
ほとんどなかった。あるのは聖書とほんの少しの古典ものの小説だけだった。
ンジェンガ君は本に、知識に飢えていた。自分の好きなときに、自分の好きな
本が、自分の好きなだけ読めたら、それはどんなにすばらしいことだろう。
ンジェンガ君は高等部に進級したとき、自分と同じ思いの盲人仲間、全盲6人
弱視4人で「読書クラブ」を立ち上げた。
クラブ員はそれぞれの家族、友人、知人から本や雑誌を借りてきて、放課後、
校庭の木の下に集まる。そして、お互い持ち寄ったその本を弱視のクラブ員が
朗読するのだ。木の下にできた小さな盲人図書館だった。
「アフリカンライターの本を中心に、世界中の小説や人気作家の本を、みんな
夢中で読みました。ぼくと同じキクユ族のグギ・ワ・ジオンゴ、ナイジェリアの
作家チヌア・アチェベ、この3年間に盲人仲間が集まって読書クラブで読んだ
本は579冊にもなりました。」
ンジェンガ君は本に熱中した。本を読んでいるときは、食事や寝ることも忘れ
るくらい充実した時間だったと言う。
ンジェンガ君たち読書仲間はこの読書クラブの朗読会を通じて、文学や流行の
娯楽小説を読み、視野や世界を大きく広げる。また同時にタイピング能力もこ
の時期に力をつけた。ンジェンガ君は将来、本や文や放送に関わる仕事をし
たい、と次第に夢をふくらませるようになった。
若い読書好きな盲人たちにとって、校庭の木かげ図書館は未来と夢と現実
をつなぐ空間だった。
高等部3年のとき、ンジェンガ君はタイピングの速さと正確さの評価でティカ
盲学校におけるタイピング大会で「BEST TYPIST PRIZE」を受賞する。この
賞を得たことでじぶんのタイプ能力に自信を持ったンジェンガ君は、KCSE
(ケニア高等学校卒業国家試験)をタイプライターで受験する。

ティカ盲学校を卒業したンジェンガ君は日本に留学するチャンスを得て、栃木
県立盲学校で鍼灸あん摩を勉学する。この栃木県盲学校の授業には彼がも
っとも興味と関心のあるパソコン講座があった。ともみつ先生という解剖学の
先生が盲人用パソコン講座を兼任していた。
このパソコン講座でンジェンガ君は音声ソフトを読み込ませたパソコンで、デ
ータをフロッピーディスクに書き込むなど音声パソコンの基本を学ぶ。
盲人にとってパソコンは利点がたくさんあった。点字タイプライターと違って、
まず修正が簡単なこと。そしてこの盲人用音声パソコンは、原稿を点字にも
墨字(活字原稿)にもプリントすることができ、盲人にとってはまさに画期的な
ものだった。
そしてパソコンの最大の利点は、いちど入力したデータから何部でも点字複
製本ができることだった。パソコンの勉強に意欲的だったンジェンガ君は日本
の同級生より早く初級をマスターしたため、放課後、ともみつ先生はンジェン
ガ君に週三回コンピューターのハイテクコース、プログラムの作り方、音声ソ
フトの操作法をマンツーマンで教える。ンジェンガ君は日本留学時代に音声
パソコンの中級技術を習得した。

1999年、わたしはンジェンガ君とナイロビの新聞社ネーションハウスの前で
待ち合わせた時のことを思い出す。ンジェンガ君はスティービー・ワンダーの
ような黒い大きめのサングラスをかけてネーションハウスの前に立っていた。
日本人のわたしより小柄なンジェンガ君は、四角い大きなショルダーバックを
肩から斜めがけしていた。
そのバックのなかには白いタイプライターが入っていて、それは小型だけど旧
式なタイプライターなのでかなり重い。白杖をつく全盲のンジェンガ君にとって
大きなバッグを持つことは、歩行が不安定になり危なげだ。でもンジェンガ君
はそんなことはまったく気にならないふうで、そのタイプライターをまるで自分
の体の一部のように大事そうに抱えていた。
ンジェンガ君にはケニア盲人の待遇をよりよくしたいという熱意があった。
ケニア社会の視覚障害者に対する理解が立ち遅れているのは、盲人に一般
的な伝達手段がないというのもその一因だと言う。ンジェンガ君は書きためた
自分の原稿をバッグの中から取り出しながら語った。
ンジェンガ君が抱える一台のタイプライターとンジェンガ君のあふれる熱意は、
ケニア盲人の思いを世界に伝える両翼になった。

‘盲人がいったいどうしてコンピューターを使えるのか’といぶかるオジャンボ
女史に、ンジェンガ君は
「あなたが今使っているコンピューターをぼくに使わせて下さい」
と申し出た。
オジャンボ女史はその申し出に躊躇しながらも、ンジェンガ君をじぶんの机ま
で導いて彼を自分の椅子に座らせた。オジャンボ女史のコンピューターはノー
ト型ウィンドウズXPの最新型だった。ウィンドウズはンジェンガ君がもっとも使
いなれているコンピューターだ。音声ソフトがついてなくても、オジャンボ女史
のパソコンで文書を作成することぐらいは、ンジェンガ君にとって朝めしまえだ。
ンジェンガ君はショートカットキーを駆使しパソコンを操作する。オジャンボ女史
はンジェンガ君のパソコン操作と画面に現れる正確な英文に
「I never knew that visually impaired can work on computer.
I am very surprised!(盲人がコンピューターを操作できるとは知らなかった。
たいへん驚いた!)」と仰天する。

オジャンボ女史はンジェンガ君にサファリコム基金審査の第一ステップにあた
る申請概要書の作成方法を指導した。オジャンボ女史は申請書のリサーチ項
目として、ケニア国内における点字図書の現況、盲人用パソコンファシリティの
有無、視覚障害者団体における盲人雇用数の現状調査、点字図書を作ること
によるケニアの視覚障害者にとっての恩恵などをリサーチ項目にあげた。

ンジェンガ君の調査とレポート作成が始まった。それは彼の点字図書館建設
の夢に向かって手ごたえのあるスタートとなった。ンジェンガ君の「障害は無
能ではない」という、自分の身を示しての行動は、少なくとも一人のケニア人
のこころを動かした。
それは立ち遅れたケニア社会福祉への挑戦であると同時に、ンジェンガ君自身
の可能性への挑戦でもあった。

「Tuendelee!(Let us continue!)」







ケニア盲人事情①モッタイナイ

2008年03月04日 | トゥエンデ ポレポレ

 ジャンボー!
先日ブログ上でご紹介したンジェンガ君ですが、ンジェンガ君とわたしの出会い
は1999年、かれこれ約10年前にさかのぼります。
当時、ンジェンガ君は栃木県立盲学校に留学中で、わたしが日本に一時帰国し
たとき、友人の紹介で知り合いました。その後、ンジェンガ君をとおして彼の盲人
仲間フィリー(フィリゴナ・アチョーラさん)の紹介をうけ、わたしとケニアの視
覚障害者の人たちとの小さな交流が始まりました。

ケニアは福祉国家とはほど遠く、視覚障害者にとって制約や不便が多いため、
彼らの行動や歩みは晴眼者にくらべて3倍ぐらいの時間がかかります。
時にはもっと時間がかかることがあります。
生来のんびり屋のわたしには、このゆっくりペースがぴったり合いました。
このブログのタイトル、トゥエンデ ポレポレというのは「みんなでゆっくり
行こう」という意のスワヒリ語ですが、迷ったりわからないことがあると、
いつもこころに浮かぶのはこの言葉で、いっぷくしながらポレポレ前に進む
ことができました。

ンジェンガ君にはケニア盲人の仲間のために点字図書を作りたい、将来は視覚障
害者で運営する点字図書館を作りたいという夢があります。そのために1999
年から今日までにわたってンジェンガ君はいろんな努力を積み重ねています。
わたし自身、福祉や障害者関係が専門でないので、福祉門外漢のわたしは障害
者問題に関してトンチンカンがたくさんあります。
また、わたしが知っているのは、わたしの身近にいるごく狭い範囲のケニア盲人
たちだけで、ケニア盲人事情に関して深く全般を知っているわけでありません。
でも、わたしはケニア盲人の生き方に多少なりともかかわって、彼らから人生の
大きな励ましを受け、生きることのすばらしさを学びました。
そして、いろいろな困難にもめげず、志を失わず懸命に生きているケニア盲人の
歩みや、盲人を見守り支えているケニアの人たちのことを、福祉専門外のわたし
の視点ですが、知ってもらいたいな、と思いました。
この二ヶ月間、ケニアでなぜこのような痛ましい暴動事件が起きたのか、わたし
は政治のことはよくわかりません。
でも、わたしが長年ケニアに住んだ経験を通してはっきり言えるのは、ケニアの
人々はとても我慢強く、そして寛容なひとが多いということです。
ブログを読んでくださる方がこの記事によって、ケニア盲人とケニア庶民の一端
の生き方を知っていただく一助になればたいへん幸いです。
2008年3月4日
宮城裕見子


第一回ケニア盲人事情 
トゥエンデ ポレポレ 「モッタイナイ」

2005年春、ノーベル平和賞を受賞したケニア環境省副大臣ワンガリ・マータイ
女史が日本に初来日した。訪日中、マータイさんは「モッタイナイ」という日
本語に出会い、その意味に深く共鳴しモッタイナイという言葉を世界中に広め
て地球を緑にする運動をしたいという。日本では本来の意味合いは忘れられそ
うな言葉なのに、遠い異国から来たケニア人のマータイさんがモッタイナイと
いう日本語に共感し、世界各地でモッタイナイ運動をおこしているというニュ
ースにわたしは感銘を受けた。

マータイさんの母国ケニアでもモッタイナイが広まったらいいなと思い、さっ
そくケニアの友人、知人にこのニュースを伝えた。ところが、説明をはじめる
とモッタイナイというこの簡単な日本語は、英語やスワヒリ語に訳すのが思っ
たよりむずかしい。wasting というのではちょっと違う。poteza bureという
のでもちょっと違う。
モッタイナイには惜しい、無駄使いするという意味以外に、ありがたくてモッ
タイナイとか、涙がでるほどモッタイナイとか、自然に対する敬いのような日
本独特な微妙なニュアンスがある。いったいモッタイナイはどう訳せばいいの
だろう。

わたしは、1997年から2年間日本に留学経験のある全盲の友人ジョセフ・ン
ジェンガ君を訪ねた。ンジェンガ君はナイロビから15km先のバナナヒルに
住んでいる。1972年ンジェンガ君はここキクユランドで生まれた。ンジェ
ンガ君は6才のときはしかにかかり、治療が手遅れで両眼失明する。
近所の教会のキーボード奏者でもあるンジェンガ君は、音楽が大好きだ。
日本留学前はケニア放送局でラジオDJをした経験もある。

わたしはンジェンガ君に
「今日はいいニュースがあるよ。マータイさんが日本に行ったとき、モッタイ
ナイって日本語が気に入って、世界中にモッタイナイを広めたいと思ったんだっ
て。みんながモッタイナイってまわりのものを大切にして暮らすと、地球は
やがて平和で緑になるんだって。」
と話すと、間髪いれずに
「モッタイナイ!それはいい言葉!」
と、打てば響くように日本語で返事がかえってきた。ンジェンガ君は、
「日本に来日したばかりの頃、日本食になれなくて、とくにサシミとナットウ
が嫌いでほとんど残しました。そしたら、日本の友だちが、
‘あああ~っ、モッタイナイ!’って言いました。 
そのとき始めてモッタイナイという日本語の意味を知りました。
モッタイナイってシンプルな言葉だけどいろんなセンス(意味)があるでしょ
う。」
と、なつかしそうに日本留学時代を回想する。
「ごはんを食べるまえ、いただきます、っていいます。食べたあとごちそうさま、
っていいます。これはムングとワクリマ(神さまとお百姓)に、ごはんをアリガト
ウって感謝すること。 だからごはん残すとモッタイナイです。ぼくは食べもの
の好き嫌いがはげしかったので、それ以来、モッタイナイってあちこちで言われ
ました。」
ンジェンガ君はモッタイナイとアリガタイの言葉のニュアンスを体験的に知って
いて、わたしはモッタイナイの説明をしなくていいのでほっとすると同時にうれ
しくなる。

日本に留学経験があり、現在ナイロビの旅行代理店に勤務するキクユ族の日本語
ガイド、ウィルフレッド・ンガンガさんは、
「モッタイナイに近いキクユ語に‘オイタンギ’という言葉があります。」
という。 
「今ケニアは(2005年11月当時)雨が降らず、たいへんなドラウト(干ばつ)
で、食べものや水が不足しています。こういう時こそものを大事にするオイタンギ
が大切です。キクユ族のお母さんは食前に子どもにこう言います。‘オイタンギし
ないでちゃんと食べなさい。もし全部食べないなら、食べない分を最初からのけて
食べなさい。残ったらオイタンギでしょう’って。ぼくもお母さんにこう言われて
育ちました。」
ンガンガさんの言うとおり、キクユ語のオイタンギが日本語のモッタイナイに似て
いるので驚いた。 
キリスト教など外来宗教がアフリカに入ってくるまえ、アフリカには森や川や海な
ど万物すべてに精霊が宿ることを信じる土着の原始宗教があった。
そのアフリカのこころは日本の古神道や仏教にも通じるものがある気がする。 
アフリカと日本の距離は遠いけれど、もしかして奥深い根っこの部分でお互いの
精神はとても近いのかもしれない。

ンジェンガ君は
「マータイさんがモッタイナイを広めようとしているの、とてもいいこと。
だってぼくたちの国ケニアにはモッタイナイがいっぱいあるでしょう?」
と言う。わたしはケニアのモッタイナイってどんなことがあるのか訊ねた。
ンジェンガ君はちょっと考えて、
「う~んと。。。まず約束したことや時間を守らないでしょう。これは時間や
エネルギーがムダになるからモッタイナイ。それからソース(資源)のモッタイ
ナイ。ケニアのあるところでは、たとえばマザレみたいなスラムでは、水がなく
てとても困っているのに、あるところでは水道から水をジャージャー流しっぱな
し。同じケニアの国のなかでも生活がずいぶん違うでしょう。それから、政治家
のお金の使いかた、これもコラプションばかりで、お金はうまくワークアウトし
ていないから、お金のモッタイナイ。」
ンジェンガ君はせきを切ったように立て続けに話をする。
「森の木をどんどん切るのもモッタイナイ。ほとんどのケニア人は木を伐るばっ
かりで、木を植えないから森がなくなります。ぼくたちは木にたよって生活して
いるというのに。」
ンジェンガ君は森の力が衰えることは、ケニアの貧困や盲人問題と密接な関わり
があるという。

ケニアの視覚障害者数の推計は全盲約25万、弱視約60万で、おもな失明の原
因は、白内障、トラコーマ、オンコセルカ症、糖尿病、はしか、ポリオ、事故な
どである。
これら視覚障害の疾病のほとんどは、簡単な早期治療や、栄養バランスのいい食
事をとって病気に対する抵抗力をそなえていれば、その疾病の約80%を防げる
という。
森林の伐採は地力が失われる。木がなくなると、土は大雨期の雨水を保有できな
くなり土壌浸食がおこる。侵食した土地は乾燥化する。
乾燥した土地は塩化が進んで植物が育たず、緑のない土地は雨が降らないため
干ばつが起こり、森林破壊は結果、あらゆる悪循環、食料不足、栄養失調、飢え、
治安悪化をまねく。 
この水不足による不衛生な環境は、眼病などの伝染病を誘引し、環境破壊は人間
の健康やこころに大きな影響を与える。
もともとケニアの国土はその30%を豊かな森林に覆われていたという。しかし
近年、為政者による誤った統治と、外的な事由で急激な伐採が進み、その森林は
現在わずか1.7%ほどが残るにすぎない。その残された森も人口爆発やさまざ
まな要因で、年間3000ヘクタール以上が伐採され、マータイさんが率いるグ
リーンベルト運動や、各NGOグループの献身的な努力による植樹活動で歯止め
がかかっているとはいえ、ケニアの森は減少の一途をたどっている。

ンジェンガ君はケニアにおけるいちばんのモッタイナイは、なんといっても
「人材のモッタイナイ」だという。
「ケニア社会は、ぼくたち障害者が何ができるか、という ’ナカ‘ より、ぼ
くたちがどう見えるかという ’ソト‘ を見ることが多々あります。
これがいちばんくやしい。 ぼくたち障害者にもいろんな才能や可能性があるの
に、モッタイナイでしょう。」

「たとえば、ぼくが付き添い人と一緒に書類を持って企業や役所に行きます。
すると、受け付けの人間に話しかけているのはぼくなのに、受付の人間はたいて
い、ぼくを無視して付き添い人にこう言います。 アナタカニニ?(このひと何
の用?)って。 ぼくは目が見えないけど、口はきけます。ぼくはここにいるの
に、なぜ受け付けの人間は付き添い人と話をするんでしょう。」
ンジェンガ君によると、時には応募書類を受け付けてもらえないこともあるという。

「でも人材のモッタイナイは障害者だけの問題ではないです。やる気があって才
能のあるケニア人がいっぱいいます。でも多くのすぐれた人間がその能力を生か
す場所とチャンスがなく、モッタイナイ生き方をしています。」

ケニア社会の問題点をあげつらねて、ただ話をするだけだったら空論になってし
まう。かんじんなことは、問題をどう改善すればいいか、そして、そのために自
分が身を示してどんな行動するかだ。
ンジェンガ君はまず自分にとって一番身近な盲人問題を、足元からできる小さな
モッタイナイの実践をとおして身のまわりを変えようと奮闘を始めた。
ンジェンガ君のモッタイナイは、「Disability is not inability.( 障害は無能ではない )」
である。
彼の夢のひとつはケニアで圧倒的に不足している点字図書の製作で、ンジェンガ
君は、それにはまず、パソコン、音声ソフト、点字用プリンターなどの機材と、
点字用紙購入の資金調達が必要だという。
ンジェンガ君は夢実現への第一ステップとして、パソコン二台導入に目標をしぼ
り、視覚障害者にとって点字図書の必要性をケニア社会に訴えるため、ナイロビ
市内の大企業、銀行、メディアをまわって協力を呼びかけると言う。

図書というのは腹の足しにならない。ケニアの最貧層 poor of poorest people
といわれるケニアの視覚障害者たちが、自分たち未来のためになぜ点字図書が
必要か、それをケニア社会に納得させる道のりは容易でなく、問題はキリニャガ
( ケニア山 )ほど大きい。

しかし、あきらめない不屈の信念があれば、山は必ず動く。ンジェンガ君の切り
札は、なにがあってもくじけない底抜けの楽天性と粘り強さだ。盲人のこころに
希望の灯をともす点字図書館建設の夢に向かって、自分たち盲人の手と足を使っ
て行動だ。
「トゥエンデ!(Let's go!)」



ンジェンガ君

2008年02月29日 | トゥエンデ ポレポレ
(26日の記事の続き)

近所に出かけていたンジェンガ君がンデンデル長屋に帰ってきました。
ンジェンガ君は全盲だけど、歩きなれたところは土地勘があるので白杖
なしでひとりで歩けますが、動作がとてもゆっくりです。
でも、でこぼこ道のあぶない所になると、遊んでいる子どもたちがすっと
手をのばしてンジェンガ君をさりげなく誘導してくれます。
ンジェンガ君は昨年のクリスマス以来のわたしの訪問を、とてもよろこん
でくれました。

今回の暴動さわぎのあいだ、特にリムルからナイロビ間の路上で過激派
青年による道路封鎖や暴動がありましたが、ンジェンガ君一家は危険を
避けてワイリモたちといっしょにずっと自宅にこもっていたため、危ない
ことはなかったそうです。
ンジェンガ君、心労でやせているかな?と想像してましたが、逆にひとま
わりふっくらした感じで、新婚のンジェンガ君に
「ワイリモのおいしい手料理を食べて、しあわせ太りだね~!」
とからかうと、ンジェンガ君もワイリモもテレていました。

ワイリモのいれてくれたチャイを飲みながら、ンジェンガ君と今回の国内
混乱のことをはなしました。いつも明るいンジェンガ君ですが、話題が暴
動のことになると、暗い顔になり
「暴動の原因は政治家のselfish(利己主義)です。ケニアの政治家は、
人の役に立ちたいから政治家になるのでなく、自分の欲望から政治家に
なります。」

「それから、二番目の理由は貧乏人と金持ちのgapです。ケニアの貧乏人の
家族は一日一ドル以下で暮らしています。金持ちと貧乏人のgapは百倍以上
です。貧乏人のレベルと金持ちのレベルのgapがありすぎます。
貧乏たちはどんどん貧乏になり、金持ちはどんどん金持ちになる。
この不公平な生活が問題を起こしました。」

「二ヶ月まえ、選挙の投票があり、ケニア人はみんな選挙に参加しました。
女性、男性、年取ったひと、ぼくたち盲人など障害者もみんなきちんと
並んで投票しました。とてもピースフルないい投票でした。」

「ところが不正が行なわれてしまった。選挙のあと、ルオーとキクユは殺し
あったり、家や店を燃やしたり、工場や教会を燃やしたりしました。
エルドレットにある教会は燃やされ、教会に避難した人たちのうち35人も
死にました。死亡者のほとんどが女性と子どもで、車椅子にのった障害者の
女性もいました。今回の暴動で、手や足を切られたり、火事でやけどしたり、
失明したりして体が不自由になったひとは1860人近くいます」

「外国からケニアの暴動のニュースを見るとまるでケニア人がviolenceみた
いに思うでしょう。でもケニア人は暴力は好きじゃありません。
とてもしんぼう強くて平和が好きな国民です。
今回の暴動には歴史的な遠因があります。
ケニアはイギリスの植民地でした。
イギリスはケニアをよく支配するため、民族を区分けする地域をつくりました。
それはイギリス政府のやり方でした。このシステムがよくなかったんです。
イギリスが入ってくるまで、同じキクユ語をはなすキクユ人自身にしても、
もともとそんなにはっきりとした民族意識ってなかった。
ukooという一族はあったけど、違うことばを話す部族ともいったりきたりする
関係でした。
それがイギリスの植民地時代にカビラインギーネ(他の部族)はみんなadui(敵)
になってしまった。そのときに部族対立ができました。
ケニアが独立した後も、ケニアの政治家がこのシステムをそのまま続けました。
だから部族対立というのはイギリスが落としていったバクダンで、そのインフル
エンスが今でもあります。
今回の暴動はそのときのバクダンが爆発しました。」

ンジェンガ君は暴動が起きた背景には、複雑ないろんな要素が絡んでいると
いいます。そしてメチャクチャになった経済と暴動の被害があった人たちの精神
的な影響が気がかりだそうです。
ンジェンガ君は混乱中、連絡がとれなくなってしまった盲人仲間にコンタクト
して、友人たちの安否を確認したい、ということでした。

もともと福祉の立ち遅れているケニアで、今回の暴動がケニアの障害者の
ひとたちにどんな影響があったか、実情がほとんどわからないため、
わたしもとても気になっています。



ワイリモの花

2008年02月28日 | トゥエンデ ポレポレ
(26日の記事から続く)

ンジェンガ君の奥さんワイリモは、
大地にどっしり足がついた笑顔の素敵なアフリカ女性です。

畑仕事というのはアフリカでは基本的に女性の仕事ですが
ワイリモは自他ともに認めるグリーンフィンガー、
「もしわたしに畑があったら、かならず実りでいっぱいにするワ!」
と、自信満々、そして根っから農作業好き。
あいにく長屋には共同の庭が少ししかないのですが、
その庭にところ狭しとジャガイモ、タマネギ、トマトの苗床がつくられ、
びっちりかわいい芽を出していました。
ワイリモによると
「タマネギは根腐れしないよう水やりは控えめにする」
というのが栽培のコツだそうです。

ワイリモは目で楽しむ花や観葉植物も大好きで、
昨年10月生まれたばかりのンデグワ君がスヤスヤ眠ると、
自宅のまえのブロック塀や窓の下に育てている観葉植物に
水やりをはじめました。

長屋の壁にはちょうど目の高さに植木ポットがいくつもかけられ、
植木ポットは油や洗剤の廃物容器なのですが、
観葉植物の赤、グリーン、容器の黄色のコントラストが
ンデンデル長屋に活気とうるおいをもたらしています。

ンジェンガ君はまだ帰ってきませんが、
ンデンデル長屋の子どもたちとワイリモの花に囲まれながら
わたしは久しぶりに平和な夕方のひとときを楽しみました。


マトゥマイニ(希望)

2008年02月26日 | トゥエンデ ポレポレ

mtoto wa ndenderu

 ジャンボー!
すっかりブログ更新をごぶさたしてしまいました。

こちらケニアの近況ですが、昨年末から二ヶ月ぐらいしかたってないのに、
なんだか一年ぐらい月日が流れた感じがします。
ケニアは軍隊の飛行機をいっぱいもっているんだなあ、と
その数の多さにびっくりしました。
軍の飛行機やヘリコプターが朝も昼も夜もごうごう飛んでいて、
「夜、飛行機の音で眠れないよね?」
とルムレ君とループ君(大家の庭師)に話すと
「え?飛行機は夜、飛んでいないよ」
というのです。
よく調べてみたら、近くの紅茶工場が夜動かしている機械の音を
飛行機の音とカンチガイしてたみたいで、ようするに幻聴なんですね。
じぶんでも
「わたし、アタマ大丈夫なのかしら?」
と思いました。

以前ブログで少し書いた水野富美夫先生のお話のなかに戦争中の
思い出話があり、よく夜明けのはなしがでてきました。
先生が中国を行軍でまわっていたとき、12月、氷のような川を渡って
ずぶぬれになって夜を迎えたことがあったそうです。
水野先生は、
「野営の夜は長くてね、朝が来るたびに、ああ、夜が明ける」
と思ったそうです。
こちらでも滝壺のような豪雨が何度も降り、
無一物で逃げてきた被災民キャンプのひとたちの夜の冷たさが身につまされ
なかなか眠ることができませんでした。
わたしも朝が来るたびに
「ああ、夜が明ける」
と思いました。
朝をむかえれてよかったなあ、って。
毎日見なれていたはずの朝焼けが、
この数ヶ月はじめて見るようで、
アフリカの夜明けはしみじみと美しく目に沁みました。

さいわい心配していた襲撃も焼き討ちも一件もなく
被災民キャンプに避難していたノン・キクユ族のひとたちは
田舎に帰ったひともいますが、ふんばってとどまったひとたちの多くが
じょじょに紅茶農園や花農園や小商いに戻りはじめ、
以前のような通常の暮らしが始まりました。

朝起きて、コーヒーをわかして、茶わんをあらって、花に水をやり、
ボーっとして、仕事して、ご飯を食べ、眠りにつく。
ただこれだけのありふれた日常がどんなに大切なことだったか、
ふつうの暮らしのありがたさをしみじみかみしめたこの二ヶ月間でした。

軍機が上空を飛び交っていた頃は、みんな不安な暗い顔をして
歩いていましたが、ここ一週間まわりのケニアの人々の緊張した顔が
やわらいできました。
ケニアでは、元国連事務局長のアナン氏の仲裁で和平交渉が続いて
います。
アナン氏の粘り強い仲裁作業と努力にもかかわらず、キバキ与党と
オディンガ野党は、朝合意したかとおもえば、夕方決裂し、
ケニアの指導者たちにはあきれるばかり、調停にはまだもうしばらく
時間がかかりそうですが、政治家より先にケニア国民が平静さを
取り戻しはじめました。
いつまでも先行きの見えない母国の政治にたいする開き直りか、
お上がどうであろうと、ともかく今日を生きなければ、と
露天商はあちこちで復活、アフリカの蘇生力を感じます。

夕方、ひさしぶりに友人のジョセフ・ンジェンガ君夫妻が住む
ンデンデル長屋をたずねました。
あいにくンジェンガ君は留守でしたが、奥さんのワイリモと新生児の
赤ちゃんとも元気で安心しました。ワイリモが
「ンジェンガはそのへんにいるはず」
というので、ンデンデル長屋の子どもたちと遊んで
ンジェンガ君を待つことにしました。
まわりの世界のふんいきをいち早く感じ取るのが子どもたちですが
学校や幼稚園も再開し、長屋のまえで遊ぶ子どもたちは明るく活気
がありました。
一人好奇心旺盛な少女がいて、まっすぐわたしの目をとらえてはなさず
少女の瞳にケニアのmatumaini マトゥマイニ(希望)を感じました。
今日という一日一日、今を、大切に生きよう、と思いました。




帰ってきたフィリー

2008年01月20日 | トゥエンデ ポレポレ


 ジャンボー!
選挙投票のためニャンザ地方に帰省し、その後の混乱のため田舎で足止め状態
だったフィリーが、ポリスエスコートのついたバスに乗って一ヶ月ぶりにナイロビ
に帰ってきました!フィリーはふだんとまったく変わらず元気いっぱいです!
よかった~~~!
フィリーは、治安がいいとはけっして言えないサテライトに弟のジェームスといっ
しょに住んでいますが、とても落ち着いて状況を見ているので安心です。

野党ODMは、今後は反対集会をやめ、不正選挙に対する抗議を与党系(キク
ユ族)企業に対してボイコット、ストライキなど経済圧力をかける方針に切換える
声明を出しました。
今後の政局はどうなるかさっぱりわかりませんが、少なくとも暴動は今より沈静化
するということなので、ケニアの国全体がほっとしています。

気のせいかみんなの表情が明るくなってきました。

全盲のフィリーはケニアのティカ盲学校を卒業したあと、日本の平塚盲学校で学
び、1999年、はり、きゅう、指圧あん摩の国家試験を取得してケニアに帰国、
現在ナイロビの一流ホテルや国連のヘルスクラブのあん摩マッサージ師として
活躍しています。彼女の夢は
「じぶんのクリニックを持ち、後輩たちが自立できるようじぶんの技術を教えた
 い。そしてケニアも日本のような福祉の発達した国になるよう目指したい。」
とケニア視覚障害者の明るい未来を考えてがんばっています。

現実には、ケニアは福祉国家とはほど遠い状況ですが、前を向いて明るく歩くフィ
リーたちケニア人自身が、きっとこの苦境を乗り越え、新しい未来を切り拓いてい
ってくれることを確信しています。

本当の意味での平和が来ることを祈りつつ。