音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

峯陽/小林秀雄 演奏会用アリア「すてきな春に」

2010-04-02 00:15:33 | オペラ・声楽
 「♪ある朝 わたしは町かどで すてきな春にあいました」― 小林秀雄氏の歌曲「すてきな春に」。先月からちびちびと、ピアノ伴奏をさらっている。春らしく、明るくかわいいらしい歌だ。どきどきするようなレチタティーヴォ(しゃべるように歌う)から始まって、3拍子のやさしいアリアが流れ出す。最後は楽しいワルツへと変わって、華やかに終わる。
 5年前の春、企画を請け負った演奏会で、ソプラノの山口佳子氏がこの曲を歌ってくれた。以来、すっかり気に入ってしまった。素晴らしい歌い手である佳子氏はロッシーニが得意で、嵐のような十六分音符の連続も、正確な音程とリズムでこなす。平気な顔で2オクターブ駆け上がったり下りたりするのを聴くと、「あんなことができるなんて、人間じゃない」といつもひそかに思う。しかし彼女が日本の歌を歌うと、非常に清純で上品な緊張感が醸し出される。「すてきな春に」は、彼女のかわいらしい魅力が前面に出る1曲だ。
 佳子氏と私は同い年で、もう長い付き合いになる。有難いことに今までずいぶん色々な方の伴奏をさせていただいたが、思い出すだけで恥ずかしくなるような私の失敗は、なぜかすべて、彼女と一緒の本番のときばかりだ。曲の途中で迷子になったり、間奏を完全に忘れたり、繰り返しの約束を何度も間違えたり。いつも本当に申し訳ない。そんな情けない私にも寛大な彼女は、今度の小さな演奏会でこの曲をやらないかと誘ってくれた。手に余る難しさだが、楽しくさらい始めた。
 「♪春が手紙をくれました 心で電話がなりました」― 春、始まった恋。そのときめきが歌われている。詩の中には、花の名前や地名など、具体的な表現は一切出てこない。年齢や性別に関することも、何一つ書かれていない。“やさしく腕を組んだ”ことと、“あなたの胸で泣いた”こと以外、ふたりの間に何があったかも描かれていない。だからこそ、聴く人それぞれの中にある、何か普遍的なものを呼び起こすのだろう。佳子氏がこれを歌うと、いつもお客様がみなうっとりと微笑んでいる。
 先日、ふと思いついて、友人へのメールの最後に、この歌詞を添えて送った。返信には「私も詩を書いてみました」と、自作の詩が添えられていた。慎ましやかで茶目っ気のある恋の詩だった。友人といっても、自分の親と同世代の女性である。彼女のみずみずしい感性に、思わず心が弾んでしまった。昔、学校帰りの駅で見た大きな看板のキャッチコピーを思い出した。『いくつ恋をしても、いつも初めてのような気がする』。中学生の私は、「それなら、一生、楽しそうだな」と思っていた。
 中高時代、私はかなりの量の詩を書いた。恋の詩もたくさん書いた。崇拝していた飛鳥涼さんの手を真似て、ノート何冊分も書いた。飛鳥さんの詩は、一人称と二人称が作品によって違うのだが、なかでも「僕」と「あなた」で綴られているものが好きだった。何でもない日常から、恋の一場面を切り出す、やさしい言葉が大好きだった。何気ない仕草も、恋のフィルターを通せば、ドラマのように彩られるのだ。
 「♪春の夜ふけの公園で 言葉が星になったとき つぼみは花になりました」― 心からのうれしさの詰まったメロディーを聴いていると、次々と心に蘇ってくる。恋が動き出したときのはじけそうな気持ち。うっかりすると忘れてしまいそうな、小さなときめき。相手が好きな人でなければ、まったく記憶に残らない他愛もない出来事。決して壮大なラブストーリーではないかもしれないけれど、誰にでもあるような恋の思い出。もしくはまだ恋とも呼べないほどの、心のさざなみ。胸がきゅんとした瞬間。
 背の高い人が、下りのエスカレーターで、一段下にすっと降りて、振り向いて喋ってくれた日。黒や紺ばかり着ている人が、白いジャケットで現れて、はっとした夜。私の腕にしがみついて、大きな体を折り曲げるようにして眠ってしまった人の重み。ポテトサラダのお皿をうれしそうに受け取った満面の笑顔。初めての合わせで、絶妙なテンポの揺らぎが寄り添った一瞬。本番前の楽屋で、私の手首を掴んだ冷たい手。階段を跳び降りて翻った白衣の裾。
 「♪愛することのよろこびを 春がおしえてくれました」― 「すてきな春に」は、この句を高らかに歌い上げて、しめくくられる。実は、この句の「春」という部分に、何度弾いても弾き慣れないような、意外な和声が付いている。たぶん何度春が来ても、それは新鮮で、たぶん何度恋をしても、それは慣れることのない新しい経験なのだ。愛することのよろこびは、きっと一生尽きない、宝の泉なのだ。
 ちなみに、最近の私の小さなときめき。大変尊敬している方と食事に行った帰りに、家まで送っていただいた。ドライでさっぱりした方なので、さくっとお礼を言って、さっと助手席を降りた。すると運転席の窓が開いた。タバコでも吸うのかなと思ったら、そこから手だけ出して、小さく振りながら走り去って行った。そのさりげなさに、思わず少女のように立ちすくんだ。春の夜ふけの玄関で。

2 コメント

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小林秀雄=作曲家♪ (和田幹彦)
2010-04-04 03:47:46
作曲家にも、小林秀雄さんがいるとは、しかも1931年の生まれの古豪とは、不覚にも知りませんでした。

(評論家の「モーツァルト」を書いた小林秀雄はもちろん知っていましたが。)

ステキな一文をありがとうございます。

私も自分のときめきを思い出しました♪

Happy Easter!♪
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作曲家さんもいらっしゃるのです! (ブログ管理者)
2010-04-04 21:10:03
和田さま、
イースターおめでとうございます!
コメントありがとうございました。

そうなのです。作曲家にもいらっしゃるのです。私もはじめ、「?」と思いました。

童謡の「まっかな秋」と合唱曲の「落葉松」が有名です。
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