音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」より お祈りの二重唱

2011-01-08 01:40:11 | オペラ・声楽
 今日はオペラのGP(*ゲネラル・プローベ:最終リハーサル)で譜めくりをしてきた。地域の市民と一緒に舞台を創るという企画で、元気な子どもとお母さんたちが楽しそうに歌っていた。演目はフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」。オーケストラのサイズはワーグナーばりだが、今回はこれをピアノ1台で伴奏している。ピアニストさんが隙間なく音を埋めて厚くしていることに感嘆しながら、譜面を追っていた。
 有名なグリム童話をもとにして作られたオペラで、メロディーも覚えやすくわかりやすいので、往々にして「子供向け」と思われがちだが、実によくできた作品だと思う。楽譜を見ながら全幕を聞いたのは今日が初めてだったのだが、意外に凝ったリズムで書かれていたり、丁寧に和声がついていたりして、改めてその素晴らしさに驚いた。耳触りが良い音楽なので、いつもなんとなく聞き過ごしていたが、さすがはワーグナーの弟子。随所にライト・モチーフがちりばめられている。
 「子供向け」として片付けられがちだが素晴らしい作品といえば、ケストナーの小説「ふたりのロッテ」がある。そっくりのふたごが入れ替わる楽しいお話、として記憶している方も多いのではないだろうか。ミュージカルやアニメにもなっているが、「離婚した両親の再婚」という割と大人っぽいテーマを扱っている。あちこちに、ぴりっと効いた寸鉄がちりばめられている。
 このふたごのお父さんは、ウィーンのシュターツ・オーパー(国立歌劇場)の楽長という設定だ。おまけにその恋人はインペリアル・ホテルのオーナーの令嬢ということになっている。音楽家の生活についての描写はかなりリアルで、大人になって読んでみるととても面白い。そして、小説の真ん中辺で、お父さんがフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」を指揮するというシーンがある。
 桟敷席からお父さんの燕尾服姿を初めて見たロッテは、感激しながら序曲を聴く。ところが、ヘンゼルたちが母親の癇癪で追い出されると、ロッテは舞台の上にすっかり感情移入する。『両親は子どもたちを愛しているのです! それなのにどうしてそんな意地わるになれるのでしょう? それとも、ちっとも意地わるじゃないのかしら? することだけが意地わるなのかしら?(高橋健二訳)』ロッテはその晩、オペラと現実がまざったような夢を見てうなされる。
 フンパーディンクのオペラと「ふたりのロッテ」に共通しているのは、「悩む大人」の姿がありのままに描かれていることだ。ヘンゼルのお母さんは「お金がほしい…」と言って泣く。ロッテのお父さんは赤ん坊の泣きわめく声に耐えられず、部屋を出て行く。子供が鑑賞する作品にも関わらず、大人が愚痴を言ったり、情けない行動に出たり、感情的になったりする。そのリアルさが、作品に深みを加え、我々をはっとさせるのだ。
 両親の離婚の事情を説明するくだりで、ケストナーは言う。『そういうことについて、すじ道のとおった、わかりよい形で、子どもらと話をしてやらないのは、あまりに気が弱すぎるばかりか、道理にそむくことでしょう!』おそらく子供たちにも、この真剣な直球が届くのだろう。
 いずれの作品も、子供たちの機知とまっすぐな気持ちが、清清しい。「悩む大人」に対して描かれた子供たちの動機は純粋だ。「やってみよう」という気持ちから行動までが、速い。そしてそれはときに、力強いものとなる。彼らの奮闘を見ているうちに、忘れていた何かを思い出して、胸がすっとしてくる。ロッテたちが最後に親指をにぎって祈るシーンは美しい。現実は面倒くさくて、複雑かもしれないけれど、もう一度、単純な真実に立ち戻ってみればいいのだ。
 フンパーディンクのオペラの中では、森で迷ったヘンゼルとグレーテルが、眠りの精に魔法の粉をかけられて眠たくなる。そこで、ふたりでひざまずいて、眠る前のお祈りをする。ありとある二重唱の中で、私が最も好きな二重唱だ。序曲の冒頭に出てくるのは、このお祈りのテーマである。聴くたびに、なんと美しい音楽だろうと思って、涙がこぼれる。ふたりは14人の天使に囲まれた夢を見る。子供たちの純粋なお祈りが、かなえられる。そんな単純なことが、この上なく美しい。

*1月8日15時開演。パルテノン多摩。お時間のある方は、ぜひご家族で。
市民と創るファミリーオペラ
フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』 (※日本語上演)
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ブリテン キャロルの祭典

2010-12-08 01:18:27 | 宗教曲
 今年も「メサイヤ」のトランペットを聴いて、「ああ、いい一年だったなあ」と思う季節になった。クリスマスの時期に演奏される曲には、賛美歌からポピュラーまでお気に入りがたくさんある。中でも思い出があるのは、街中でときどきナッキンコールの声で流れてくる「The Christmas song」。
 中2の夏休みに「あなたの好きな詩を訳しなさい」という英語の宿題が出た。人生で一番夢中になってやった宿題だ。ちょうど前年のクリスマスに、小林明子、永井真理子、麗美、辛島美登里の4人がこの歌をアカペラで重唱しているCDを聴き、完全に魅了されていた私は、迷わずこの歌を訳すことにした。
 文法がわからないどころではない。ほぼすべての単語を辞書で引いた。タンクトップに短パンで居間のテーブルに陣取って、夏の真っ盛りに汗だくで「メリー・クリスマス・トゥー・ユー」と何時間も口ずさみ続ける私を見て、母は苦笑した。私は自分なりに韻を踏んだり、七五のリズムに日本語を整えて、大満足していた。未知なるアメリカのクリスマスの、きらきらした世界を垣間見たようで、夢心地だった。
 さて、聴くと夢心地になるクリスマスの音楽と言えば、何といってもブリテンの「キャロルの祭典」だ。ハープの伴奏による少年合唱(女声合唱)が、聴くものを異世界に誘う。中世の英国の詩による短い10曲ほどの三部合唱。ときどき、透明で美しいメロディーが独唱によって歌われる。詩はいずれも、キリストの生誕を寿ぐものだ。不思議な光にあふれた作品だと思う。
 初めて聴いたのは、高校3年のとき。学校で音楽の授業を選択していた同級生と後輩たちが、渋谷教会で行われたクリスマス・コンサートで歌った。理系コースだったので参加できなかった私は、客席で仲間達をうらやましく待っていた。礼拝堂の扉から、グレゴリオ聖歌を歌いながら合唱隊が入ってくる。1曲目を聴いた途端、虜になった。
 一度で覚えられそうな単純な旋律もあるぐらい、やさしく素朴な歌ばかりなのだが、純粋すぎるほどの美しさに、ぞくぞくする。中世の英語は、ほんの一瞬聞き取れるような気がするだけで、あとは魔法の言葉のように耳に心地よい。ハープの音は、天使の奏でる竪琴にもなり、風になびく草のささやきにもなり、星の粉を撒いたりもする。
 「This little babe」や最後の「Deo Gracias」は部分的に輪唱のようになっていて、響きの深い教会で旋律が次々追いかけられると、まるで四方八方から声が聞こえてくるようだ。私は思わずくらくらして、自分がまっすぐ座っているのかどうかさえわからなくなった。音におぼれるという不思議な体験をした。
 強い力でもって、聴く者の胸元を揺すぶる音楽もある。しかし「キャロルの祭典」は、聴く者を静かに揺する。ゆらゆらとあなたを揺すり、そっと恍惚へと導く。固執している価値観も揺らがせて、いったん自分をゼロにしてくれる。クリスマスというのは基本的に「静かな」イベントだが、この曲を聴くと、静かに自分をリスタートできる、そんな気がする。
 歌い終わると、またグレゴリオ聖歌を歌いながら、合唱隊は去っていく。そのときに私はもう生まれ変わっていた。

Although it's been said many times, many ways,
Merry Christmas to you
−From "The Christmas Song"
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フォーレ 「レクイエム」より ピエ・イエズ

2010-11-17 23:24:37 | 宗教曲
 数年前の秋、いま高等部の教頭をしておられる石澤先生に相談があって、母校を訪ねた。石澤先生は私が中学2年のときの担任の先生だった。話の途中で先生が席を離れられた間、放課後の廊下で待っていると、講堂からオルガンの音が聞こえてきた。私が卒業した後に完成した新校舎の講堂には、大きなパイプオルガンが備え付けられていた。音に吸い寄せられるように講堂の2階へ入ると、音楽の先生が翌日の追悼礼拝のために、歌の練習をしておられた。
 「フォーレのピエ・イエズ。弾いてくれる?」
 言われるがままにオルガンの椅子に攀じ登る。こんな大きな楽器に座ったことはない。足などまったく動かない。それでも良いと言ってくださったので、指をいっぱいに伸ばして黒い鍵盤を押した。思ったよりも遠くで音がするような気がした。堀先生が亡くなった秋も、追悼礼拝で「ピエ・イエズ」が歌われた。私は友人のくーと二人で泣きながら、同じレクイエムの「イン・パラディスム」のオブリガートをヴァイオリンで弾いた。
 堀律子先生。私が中1と中2のときに国語を教わった先生で、音楽部の顧問をしておられた。「声楽」の基礎の基礎を私たちに手ほどきしてくれた先生だ。ご自分でリサイタルを開いておられたのだから、プロに近かったのだと思う。ある日「一番高い音はどこまで出るの?」と尋ねたら、真ん中のドの2オクターブ上のファ(Hi F)だと答えてくれた。本気でびっくりしたものだ。今思えば、私たちにとって最も身近な「ソプラノ歌手」だった。
 堀先生は授業での話しぶりも熱い、エネルギーのある先生だった。明るくて、気さくで、おおらかで、生徒にも人気があった。元気いっぱいでいつも私たちを励ましてくれた。ただ、なんとなく生き急いでいるような雰囲気が、なくもなかった。一日4時間半しか寝ていないと聞いたこともあった。私が中学3年のとき、先生は突然亡くなった。
 私たちが中2で使っていた国語の教科書に、レイ・ブラッドベリの「霧笛」が載っていた。内容も少し大人っぽく、このテキストを扱っている間、授業はいつもと少し違う雰囲気だった。堀先生は、何か自分の中に特別な思いがあるようで、それが教室に独特の緊張感を与えていた。休み時間になると、クラスメイトは先生の過去の噂をささやいたりしたが、私は彼女の中にある、人間の本質のようなものを見る思いがしていた。
 私の手元に、当時の国語のノートがある。まだ板書を写すぐらいのノートしか取れなかったころだ。黒板に書かれていたに違いない文字。「孤独がその本質」「愛しすぎてはいけない」「孤独をいやす相手を求めるなら、自分を抑え、相手を思いやらなければ」などとある。これが先生自身の解釈だったのか、クラスメイトの意見だったのかは定かでない。ただその日、先生の目は泣いていた。
 「霧笛」の中で、マックダンは言う。『二度と帰らぬものをいつも待っている。あるものを、それが自分を愛してくれるよりももっと愛している。ところが、しばらくすると、その愛するものが、たとえなんであろうと、そいつのために二度と自分が傷つかないように、それを滅ぼしてしまいたくなるのだ』(大西尹明訳)。
 学校からの帰り道、親友の桜子と私は、「愛する者を滅ぼしてしまいたくなる思い」について、何日も話し合った。桜子は、ユダは愛するが故にイエスを売ったのだと言った。そのとき私はまだオコサマすぎて、どうしてもそれが飲み込めず、腑に落ちなかった。愛がなぜそこまで行き過ぎてしまうのか、その理由が知りたかった。
 中2のある日、6時間目の国語が終わった後、教室を出て階段を降りようとする堀先生を呼び止めた。そのとき私が彼女に何を尋ねたのか、一体どんな恋愛相談をしたのか、まったく覚えていない。ただ先生が真剣な目で答えてくれた、その言葉を原稿用紙に残しておいた。
 「人を愛すことの幸せ。結果や過去はどうであれ、愛することの幸せに満ちている幸せ。それだけでいい。」以来、私がずっと心にしまってきた大事な言葉だ。「霧笛」の授業で涙するほどの経験をした彼女が教えてくれた、これ以上にないほどシンプルな真理。大人になった今は、その重みが痛いほどにわかる。
 数年前の秋、母校の講堂のパイプオルガンで、「ピエ・イエズ」を弾いた。堀先生のことを思い出していた。大きな筒を抜ける空気の余韻を耳にしながら、孤独と、生のはかなさを感じさせる霧笛のことを思い出していた。弾き終わって振り向くと、扉のところに石澤先生が立って待っておられた。一言の断りもなく講堂へ来ていたことを思い出し、慌ててオルガンから降りた。中2からまったく行動が変わらない私に呆れもせず、先生は言われた。「たぶん、ここにいると思ったから。」中2の私が、今の私を支えている。堀先生の言葉が、今の私を支えている。
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ドニゼッティ オペラ「愛の妙薬」

2010-10-15 14:15:37 | オペラ・声楽
 恋人ができた。驚くほど理想的な恋人ができた。毎日新鮮な気持ちで過ごし、だいぶふわふわしている。支えてくれた友人たちに感謝をこめて報告すると、有難いことにみな声を上げて心から祝福してくれる。そのうち一人が、言った。「よかったねえ! ちょっと一体、何を飲んだの?」…これはつまり、「妙薬」のことだ。
 ドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」。はじめてオペラを見る方には、真っ先にお薦めする。とにかく明るくて楽しくてほろりとするオペラだ。純朴な農夫の青年ネモリーノが、農場主の娘アディーナに恋をする。どうしても振り向いてくれないアディーナに好かれたい一心で、ネモリーノはいんちき薬売りのドゥルカマーラから買った「妙薬」(媚薬)を飲む。本当はただのボルドー・ワインなのだが、ネモリーノはそれを飲めば、きっと愛されるとかたく信じて飲む。効き目を早めるために、軍隊に身を売ってお金を手に入れてまで、妙薬を買う。阿呆くさいことこの上ないのだが、その一途な姿に、どうしても心打たれる。
 「愛妙」(と我々はよく略す)は、私が今まで最も多く関わったオペラでもある。学生時代、はじめてプロのオペラ公演の制作にバイトで入った際の演目だった。1カ月ほど稽古の現場に張り付いて、オペラができあがっていく様子を見たり、世界一流の歌手が誰より早く来て発声練習をするのを目の当たりにするという、非常に貴重な経験をした。多くの素晴らしい出逢いがあった日々だった。イタリア人歌手の朝の挨拶のキスが、日ごとに低い位置になるので、うぶだった私はかなり戸惑ったものだ。
 立ち稽古中、1幕のはじめに歌われるネモリーノのアリア「Quanto e bella(なんてきれいなんだろう)」を聞きながらぼんやりしていると、合唱のメンバーだった仲良しのSが来て、私をどついた。「まきな、ネモリーノそっくりやな。」否めなかった。ネモリーノは、私がオペラ作品中、最も共感できる登場人物である。つれないヒロインに向かって、馬鹿正直に愛を説くシーンは、見ていて胸が苦しくなるほどだ。稽古の間、雑用をこなしながら、いつも二重唱のネモリーノのパートを口ずさんでいた。
 本番当日、私は舞台裏で飲み物を用意したり、楽屋のセッティングをしたりして、慌しく過ごしていた。やっと仕事が落ち着いてふと息をつくと、有名なアリア「人知れぬ涙」が舞台から聞こえてきた。紆余曲折を経てアディーナに愛されていることを知ったネモリーノが、「もう死んでもいい!」と深い喜びを歌い上げるアリアだ。聴きながら静かにコーヒーを淹れていると、バリトンのNがやってきて、ぽそりと言った。「死んでもいいって思える女なんて、いるのかなあ。」そんな相手がいたら、もったいなくて私だったら死ねないな。むしろ欲深になりそうだよ。そう思いながら、私は答えた。「きっと、いるよ」
 物語の最後、アディーナはとうとうネモリーノに愛を告げる。彼女がなかなか肝腎な一言を口にしないので、ネモリーノはやきもきする。このシーンの音楽が素晴らしい。何遍見ても、じわっと涙が出てしまう。いざ恋が叶うという段になって、思わず臆病になったり、意地を張ったり、変な自尊心を持ち出したりする気持ちが、今となっては私にもよくわかる。「その言葉」が出てくるまでの緊張感が、こんなにもコミカルなオペラの最後に、とてもリアルに描かれている。
 結局、私が飲んだ「妙薬」は何だったのだろう、と思う。上述のバイトの仕事が終わったときに、私にとっての妙薬は、音楽の仕事をすることかもしれない、と根拠もなく思っていた。実際、ネモリーノのように何も考えず、愚直にちびちび飲んできた。そうしたら思いもよらないところから、効き目があらわれた。本人の考えの及ばない仕組みで降ってきたネモリーノの奇跡のように。
 今、確かに何もいらないぐらい幸せだけれど、私は元気に生きることにする。せっかく「人知れぬ涙」が実感できるような相手に出逢えたのだ、やっぱりもったいない。私に仕事をさせてくれた、大勢のドゥルカマーラ先生、ありがとう。妙薬、万歳!
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イベール モーツァルトへのオマージュ

2010-09-13 02:44:28 | オーケストラ
 先月、オペラ初心者の方に「魔笛」の簡単な解説をさせていただく機会があった。「魔笛」の中で私が好きなのは、夜の女王の一幕のアリアと、パミーナとパパゲーノのデュエット、それからパミーナのアリアだ。あとは割と気楽に構えて、のんびり鑑賞する。そして、ザラストロのアリアでは、低周波と緩やかなテンポで、どうしても眠くなってしまう。しかし見せ場の一番低い音が来ると、毎回、ふと思い出し笑いをしてしまう。私の大好きなVictor Borgeのギャグを思い出すのだ。
 Victor Borgeは、20世紀後半にアメリカで活躍した、デンマーク出身の、エンターテイメント性の強いピアニスト。むしろピアノを弾くコメディアン、と言うべきだろうか。初めて私がBorgeの映像を見たのは、確か中学生の頃だったと思う。父の友人がアメリカから送ってくれたビデオ・テープだった。当時の私の英語力では、彼の冗談の1割もわからなかった。でも、なんだかピアノの上手い人がものすごく面白いことをやっている、ということだけは伝わってきた。少しずつ彼の英語の訛りに慣れて内容がわかるようになり、そのおかしさがひとつひとつ解明されていった。
 Borgeのすごいところは、なんといってもピアノがうまいことだ。ちゃんと一曲弾けば、色気があって、音楽的で小洒落ている。ところが、ちゃんとまともに一曲聞けることは、あまりない。笑いの半分は音楽なのだが、もう半分は言葉の遊びである。「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」を色々な有名作曲家のバージョンにしてみせたり、リクエストを取りながら、お客さんをいいようにからかったり。ハンガリアン舞曲の連弾をするコント、譜めくりのお兄さんをだしにする芸、ソプラノに憎まれ口を叩きながら伴奏するCaro nome(ヴェルディ「リゴレット」中のアリア)。どれも最高だ。
 私が最も気に入っているのは「モーツァルトのオペラ」という、10分ほどのとびきり楽しいネタだ。てきとうに作ったあらすじを語り、「モーツァルトのオペラっぽい曲」を弾き語る。モーツァルトを完全に茶化した失礼きわまりない代物なのだが、音が非常にモーツァルトっぽいことは否めない。オペラや、オペラ歌手をというものを完全におちょくっているのだが、「確かにこういう人いるよね」という部分があるからこそ、笑いが抑えられない。
 このネタの中で、Borgeはバス歌手の真似をする。レチタティーヴォ・アコンパニャートのような合いの手をピアノで入れながら、音程にならないほどの低い声を出して、げーげーと吐くような声で歌ってみせる。そして「人間は一体どこまで低いところへ行けるやら」と言い放つ。「魔笛」のザラストロを見るたびに、私はこのくだりが思い出されて、「どこまで低いところへ行けるやら」と思ってふと笑ってしまうのだ。(*多分この「低い」という単語には「下劣な」の意味が掛けられている。)
 モーツァルトのパロディや、「モーツァルト風」に作られたものは他にも数あるが、私はイベールの「モーツァルトへのオマージュ」が何より大好きである。モーツァルト生誕200年祭のときに作られた作品らしい。そこかしこに、「知っているような気がする」メロディーがちらほらする。きっとイベールも、モーツァルトが好きだったんだろうなあ、と思えてくる。楽しくて、屈託なくて、いつ聞いても気分が明るくなる。そして、間違いなくイベールの彩りがついている。
 自分の大好きなものを咀嚼して、自分なりの味付けをするって、こういうことかな、と思うのだ。自分の好きなものを選んで、それをなんとか消化して、自分だったらこうする、と差し出す。結局、人生の作業の大半は、そういうことなのではないだろうか。まあ、Borgeやイベールほど面白いものが差し出せるかどうかわからないけれど。
 「モーツァルトのオペラ」ネタの最後に「ソプラノは死ぬ前にアリアを歌う、いわゆるダイ・アリア(Die Aria)だ。」と言う部分がある。ライブCDを聞くとここでお客さんたちが爆発的に笑っているのだが、私はその意味が長いことわからなかった。学会でアジアの医療についての発表を聞いていたとき、Die Ariaと同じように聞こえる「diarrhea」という単語に出逢った。マジメな学会中、声を上げて笑いそうになるのを必死になってこらえたのは言うまでもない。
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ロッシーニ オペラ「セヴィリアの理髪師」より 「今の歌声は」

2010-08-08 00:44:04 | オペラ・声楽
 長く続いている習慣はほとんどないのだが、高校時代からずっと毎日欠かさずにやっていることがひとつある。現金出納帳をつけることだ。寝る前にその日のレシートを整理して入力する。月末に費目ごとに合計を出して、月ごとの推移を見る。日々を振り返り、心が落ち着く。
 高2のときに生徒会の会計をやったのが、きっかけだった。レシートをノートの片面に貼って、金額を記入するやり方を覚えた。会計の顧問だったK先生は、どちらかというと口下手な数学の先生で、私が勢い良くまくし立てると、会話が成り立たなかった。ところが、桁をきれいに揃えて書いたノートを黙って開いて見せると、先生はにっこりと頷く。出納帳は、我々のコミュニケーション・ツールになった。
 大学4年で会社ごっこを始めた日から、帳簿もつけることにした。父の事務所で経理をやっていたお姉さんに、伝票の起こし方を教わり、会計ソフトの入力方法を覚えると、たちまちこの作業が好きになった。起業した後も、経理も税務申告もそのまま自分でやっている。最近は、帳簿をつけていると脳内にセロトニンが出るような気がする。とても穏やかな気持ちになる。
 算数はそんなに好きではなかったのに、なぜお金の管理は好きなのか。おそらく、根本的に「ケチ」だからだ。どうも小学生のときからそうだったらしい。友達と遊びに行ってもほとんどお金を使わない私見て、母はよく訝しげな顔をして驚いていた。何不自由なく育ったのに、なぜそんなに財布を開けることを嫌がるのかと、本気で不思議がっていた。自分で会社を始めて、費用=投資という考え方ができるようになってからは、だいぶ気前がよくなったと自分では思っているのだが、父は今でもときどき私のケチぶりをからかう。
 吝嗇家とはちょっと違うが、中高時代に部活でミュージカルをやっていたとき、オヤジ役専門だった私は、スリの親玉の役を2度もやった。劇団四季のオリジナル作品「雪ん子」の親方役と、おそらくその本ネタであろう「オリバー!」(ディケンズ原作)のフェイギン役だ。いずれも、子どもたちにスリをやらせて食べている、せこい爺さんだ。
 盗人にも三分の理というが、彼らも自分なりの哲学を持っていて、それを歌やセリフで開陳する。愛しい貯金箱を抱えた独白シーンは滑稽だが、なぜか自分にしっくりきて大好きだった。考えたら、夜中に帳簿をつけて一人笑む私と、大差ない。スクルージも、アルパゴンも、他人事とは思えない。
 しかし節約の美徳も度を越すと、精神活動まで「ケチ」になってしまう。1タラントンを死守することが目的化してしまう。だから私は、何かをする際には、自分に言い聞かせる。「出し惜しみをしない。」アイデアを出すとき、新しいことに挑戦するとき、何かを教えてほしいと頼まれたときには、特にそうだ。そしてこの教訓を常に思い出させてくれるのが、オペラ歌手の友人たちだ。うっかりするとしみったれになる私を、いつも解放してくれる。コンサートの冒頭からいきなり派手な曲を披露したり、お客さんのノリ見て最後の高音を長めにのばしたり、これでもかというぐらいアンコールをやっているのを見ると、思わず反省する。「ああ、やっぱり。出し惜しみをしない、だな」と、つくづく思うのだ。
 その極みが、ロッシーニだ。もともとそんなに興味はなかったのだが、ロッシーニを得意とする友人のソプラノ・山口氏の本番を何度も聴いているうちに、だいぶ身近な音楽になってきた。アジリタ(細かく速く動くパッセージ)や早口も、ボッポボッポとベースに煽られて盛り上がる「ロッシーニ・クレッシェンド」も、こういう「型」なのだとわかってはいても、なんだか漫画っぽくてどきどき笑ってしまう。聴衆を驚かせ楽しませようというホスピタリティ満載の音楽には違いない。
 正直言えば、いまだにロッシーニのアリアや重唱に出てくる音符の多さには面食らう。「その16分音符、楽器で弾いたほうが手っ取り早いんじゃない?」と、しばしば思ってしまうのだが、これこそケチな考えだ! 歌い手さんたちが、相当の自己抑制をかけながら芸術と曲芸をいっぺんにやっている姿を見ると、爽快感を通り越して、尊敬の念を覚えたりする。音の数も、技術も、努力も、出し惜しみしているヒマがないのだと思う。
 ロッシーニでおそらく最も有名なアリアは、「セヴィリアの理髪師」のロジーナのアリア「今の歌声は」だろう。単独で演奏されることも多く、CMにもよく使われている。サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の「化石」の中では、「ロッシーニなんてもう化石のように古い」という皮肉として引用されているが、何度聴いても楽しい。やはり名曲なのだ。
 我が身の単純さを少々恥ずかしく思いながらも、このアリアを聴くたび、どきどきする。どんな強いロジーナが現われるのか、どんなコケティッシュな魅力が繰り出されるのか、どんなカデンツァ(歌い手の裁量に任された部分)が披露されるのか。これは、部屋で一人こっそり聞く音楽ではない。生で聴いて、その臨場感とスリルを味わって、面白かったら、最後には気前良くブラヴァの一声もかけようではないか。出し惜しみのない歌には、惜しみなく拍手を送ろうではないか。
 帳簿をつけて、穏やかに眠りにつく日々のなんと幸せなことか。しかし、日々得たものを、惜しみなく放出できれば、もっと幸せだ。どうせならロッシーニのアリアぐらい、大盤振る舞いに。ともするとせせこましくマジメになり、なんでもこじんまり作りがちな私に、師はいつも言っていた。「やりすぎぐらいがちょうどいい。」
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ドヴォルザーク 8つのユモレスク Op. 101 より 第7番変ト長調

2010-07-10 00:55:39 | ピアノ
 幼稚園の卒園記念に、園児の声と歌を吹き込んだカセットテープが作られた。我々は一列に並ばされ、名前と将来なりたい職業を一人ずつ吹き込んだ。その時の葛藤は、かなり生々しく思い出せる。自分の番が回ってくるまで、ずっと悩んでいた。
 同じ組には、ピアノが上手なさほちゃんがいた。自分よりうまい人がいるのに、ピアニストになりたいなんて、おこがましい。というより、自分よりできる人がいることは、やってもしょうがない。録音マイクの前で、他の女の子たちを真似て、「かんごふさん」と言った。嘘をついた。なんとも言えない苦い気持ちだった。
 おそらく、かなりの負けず嫌いだったのだと思う。小学校に入れば、ピアノの上手い子はクラスにざらにいたし、すぐそばには悪友Cという歌姫がいた。うまいやつがいるんだから、別に私がやることはない。テクニックで勝負するより、光GENJIの新曲をいち早く聞き覚えて教室のオルガンでそれっぽく再現するほうが良い。人と競争するよりもニッチを選ぶという戦略を、ずっと取り続けた。誰が、どれぐらい音楽ができるのか、いつもどこかで鋭く察知していた。
 いずれにしても、常に音楽のそばにいた。小学3年生になって、学校の図書室が使えるようになったとき、最初に見つけたのは作曲家の伝記シリーズだった。隅の棚の一番下の段に、子供向けに書かれた伝記が並んでいた。バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、リスト、ショパン、ワーグナー、J.シュトラウス、チャイコフスキー、サン=サーンス、ドビュッシー…。
 片端から読んだが、内容は全く覚えていない。史実に忠実な伝記ではなく、あくまで子供が読んで楽しい「物語」として書かれていた。たまに知っている曲が出てくるのがうれしくて、次々読んだ。どんな気持ちのときにその曲が作られたのか、どうしてその曲を作ろうと思ったのか、そんなことに思いを馳せることができた。
 この伝記シリーズの中で、たった一つだけ覚えているのは、ドヴォルザークの「作品101ユモレスク」のシーンだ。おぼろげな記憶だが、確かこんなストーリーだったはずだ。ドヴォルザークが、アメリカで出会った黒人の少年に曲を書いてあげると約束した。故郷へ戻った彼は、葉書にユモレスクのメロディーを書いて少年に送った。葉書を受け取った少年のお父さんがヴァイオリンを奏で、少年と二人、夕暮れの納屋でいつまでも踊っていた…。もちろんフィクションだろうが、心あたたまるページだった。
 有名な「ユモレスク」は、クライスラーが小品として演奏したのがきっかけで、ヴァイオリン版がポピュラーになったのだが、原曲はピアノの小品だ。私が小さい頃、父がよく家でぽろぽろと弾いていた。それも、フラット6つの調が難しいからと、いつもト調に落として弾いていた。和音が細かく移り変わるところと、メロディーが「半音下がる」(つまりブルーノートになる)部分が大好きだった。幼い私はせがんだ。「ゆーもれすく、ひいてー」実は私も、さんざんこの曲に合わせて踊ったのだ。子供用の伝記に出てきた黒人の少年に、強い親近感を覚えたのはそのせいだ。
 大人になってから、自分が小3のときに書いた、ドヴォルザークの伝記の読書感想文を見つけた。ドヴォルザークは鉄道に興味があり、肉屋の資格も持っていた。「だから音楽だけじゃなく、いろんな事を知っていた方が、いい曲が、たくさん作れると思います。私も、いろんな勉強をして、りっぱな、音楽家になりたいです。」担任の栃内先生の花丸と、コメントが付いていた。「その方がいいわ、大さんせい。そして音楽で人の心を喜ばせてね」
 私が音楽家になるという道を選ばなかったのは、「音楽は趣味でやりなさい」という家訓のためだったと、長いこと自分自身でさえ思っていた。才能がないのだと自分に言い聞かせていたこともあった。なんとなく音楽の道に進みたいけれど、どうしていいかわからないという悶々とした時期が長く続いた。自分の役割や立ち位置を見出すまでは、すいぶん悩んだものだ。
 今になってみると、要はそれほど「音楽家になりたい」とは思わなかったのだな、と笑いながら振り返ることができる。こうして、とことん音楽を楽しめる身になってみると、あんなに悩んだのがもったいなかったと思うほどだ。しかし、自分の居場所を見つけるまでの葛藤の数々は、無駄ではなかったはずだ。小さい頃から「他人」の音楽的能力に関して非常に敏感だったことを考えると、もしかしたら今は自分にぴったりの仕事をしているのかもしれない。
 ユモレスク、聴けばいつも懐かしくあたたかい気持ちになる。たくさん悩んだことも、泣いたことも、くやしかったことも、全部通り越して、ただひたすら踊っていた頃の気持ちに戻る。そして、ずっと音楽と一緒に生きられることに、感謝でいっぱいになる。あれやこれや手を出しながら、こうして音楽の仕事をしていることに、天国の栃内先生は花丸をつけてくれるだろうか。
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ステッフェ リパブリック讃歌

2010-06-06 01:27:39 | その他
 大学時代、音楽活動は東京に限っていたのだが、一度だけ、筑波で演奏会に行ったことがある。宿舎暮らしが始まって2ヶ月、生態学実習でマメ科の花についたアブラムシを必死になって数えていた6月初旬だった。つくばセンターのホールで、レーナ・マリア・ヨハンセンという歌手のコンサートがあった。一時間前から並んで、一番前の真ん中の席で聞いた。
 レーナ・マリアの歌声を初めて聞いたのは、高校3年生のときだった。聖書の授業で彼女のドキュメンタリー・ビデオを見た。レーナ・マリアは、両腕がなく片足が半分しかないというハンディキャップを乗り越えて、歌でキリスト教の伝道活動をしている、と先生が紹介してくれた。明るい笑顔、澄んだ声、片足と肩を使って器用に何でもこなす姿。彼女の歌や話に感動して、涙を流すクラスメイトを尻目に、私は高鳴る胸を押さえていた。
 私が食い入るように見つめていたのは、後ろで演奏しているピアニストだった。アンダース・ウィーク、背が高くて甘いマスクのピアニスト。彼こそがレーナの歌う曲を監修し、一部曲も書いている人物だった。その編曲と、軽いピアノ捌きと、馴染みのないジャンルの音楽に、私は釘付けになった。よく知っているはずの賛美歌も、どきどきするほど素敵な和声がついている。ピアノ一台なのに、ノリノリの雰囲気も作り出せる。心が震えた。
 ゴスペルとはまた違う、キリスト教を題材にした「ポピュラー音楽」があることを、実はそのときまで私は知らなかった(どうやら「クリスチャン・ソング」と言われる分野らしい)。レーナ・マリアは割と正統的な歌唱法でまっすぐ歌っているが、音楽のジャンルで言えば確実に「わかりやすいポップス」に入る。だがウィーク氏はジャズ・ピアニストであり、シンプルだけれど安っぽすぎず、ちょっと上品で、フュージョン的な雰囲気があった。
 そうだ、賛美歌は、こうやって歌えばいい。ジャンルなんて関係ないのだ。自分がいいと思う路線で行けばいいのだ。このときの感動が元になって、学生時代、悪友Cと仲間たちと共に教会で何度かチャリティコンサートをした。ウィーク氏の編曲は、耳コピして(聞き取って)何曲も楽譜に起こした。中でも、リパブリック讃歌の編曲が大好きで、苦心して真似をして、さんざん弾いた。
 さて、つくばのコンサートに話は戻る。舞台上で演奏する全員が、楽しそうでうれしそうで、とにかく羨ましかった。終演後、客電が点いても、ぼーっと感激に浸って動けずにいると、なんとウィーク氏が楽譜を取りに舞台へ戻ってきた。機材を触っている背中に向かって、思い切って声をかけた。用意していた花束を渡す。「レーナに?」「いいえ、あなたに。」かなり驚いた様子だったが、次の瞬間、くしゃあっと笑顔を浮かべて、握手をしてくれた。ときどき信じられない程ミーハーになる自分に驚きつつ、ニヤニヤしながら帰った。
 花束には、たどたどしい英語の手紙を添えた。単語の選び方が無茶苦茶で、かなり支離滅裂なファンレターだったはずだ。「私も音楽がやりたいです。私も何かを運ぶような音楽がしたいです。」まるで小学生の作文。しかし実際、子供のようにわくわくしていた。宿舎に戻って悪友Cに電話すると、Cは言った。「やってみなけりゃわからない」。外はどしゃ降りの雨だった。私も何か楽しいことをやろう。心に決めた。
 リパブリック讃歌は、権兵衛さんの赤ちゃんか、ヨドバシカメラのCMソングとして、今の日本人にとっても馴染み深い。私は阪田寛夫氏の詞の「ともだち讃歌」として、小学校で教わったときから大好きだった。もともとは南北戦争時に歌われた北軍の軍歌であり、聖書を引いた歌詞には奴隷解放のメッセージがこめられているという。映画「5つの銅貨」で、ニコルズ夫婦が記憶をたぐりながらこの歌詞をつぶやくシ−ンはいつ見ても目頭が熱くなる。
 レーナ・マリアのCDを浴びるほど聴いて覚えた英語の歌詞で、今でもときどき口ずさむ。歌っていると、曲と歌詞の勇ましさに不思議と励まされる。不謹慎かもしれないが、私にとっては背景の思想も宗旨も関係ない。ウィーク氏の大きな手を思い出す。Let us live to make men free. 既成の枠なんてどうでもいい、ミーハーでもいい。なんだって、やってみなくちゃわからない。His truth is marching on. 進んで行くのだ。
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イベール 3つの小品

2010-05-11 20:53:42 | 室内楽
 先日、仕事先で車に乗せていただいた。車の持ち主は、運転中のBGMを厳選していて、それを楽しそうに説明してくれた。「牧菜さんは、ドライブに行くときには、どんなBGMをかけるんですか?」明るく訊かれて、たじろいだ。音楽のことではない。私が、さも運転ができるように見えたということに、驚いた。
 高校3年生の冬。一般推薦で大学が早く決まったので、教習所へ通うことにした。学校では禁止されていたが、推薦で進学が決まった同級生はみな、こっそり免許を取りに行っていた。私の両親も「筑波に行くんだから、免許はあったほうがいいだろう」と言うので、まあそんなものか、と思って通い始めた。
 初めに、運転適性テストなるものを受けた。簡単な心理テストのようなものだった。3段階評価で、結果はC。私は素直に納得した。子供の頃から、遊園地のゴーカートに乗れば、いつも角に挟まって動けなくなったし、ドライビングゲームをやれば、10秒以内に必ずコースアウトしていたからだ。ディズニーランドのゴーカートでは、下にあるレールに左右の車輪が当たりすぎて、衝撃のあまりお尻が痺れてしまった。Cで当然だろう。
 ところが翌日学校へ行くと、体育会系部活の友人達が話していた。「あの適性テスト、Cとか出る人いるのかなあ」「まさか、そこまでひどい人いないでしょー」私は何気なく会話に参加した。「私、Cだったよ。」みんなの表情が固まった。そして、適性テストは見事に的中した。
 からだを動かすこと全般において不器用な私だが、他人と1対1だと、どうも格好つけてしまう。冷静を装って、できるフリをするため、余計おかしなことになる。実際に車に乗り始めて3回目だったか、「はい、じゃあ始めて」と言われて、慌ててサイドブレーキを探し、代わりに反対側にあるシートのリクライニング・バーを引いてしまった。教習が始まる前から、いきなり後ろへ倒れこむ私。あまりに恥ずかしいので、バネの勢いで元に戻る。学校で話したら「教官誘うなよー」と、からかわれた。
 それまで自分でも知らなかったのだが、スピードに対して極端に臆病だった。アクセルを踏むのが怖い。ある日、「思い切ってアクセルを踏みなさい!」と教官に怒鳴られ、タイミングを間違えてカーブの手前で思い切り踏み込んでしまい、一瞬、レーサーのような気分を味わった。それ以来、ほとんど常にクリープ現象(オートマの車でブレーキを離すと、車がゆっくり前進する)で走ろうと試みた。同じ教習所に通う友人達は「ずーっと赤いランプ付いてる車がいたら、それは牧菜だ」と噂した。
 S字カーブとクランクにもてこずった。車が、何度もがっちりと詰まって、にっちもさっちもいかない状態になり、泣き出しそうになった。クランクでは角を曲がるたびに、正面の縁石に両輪で乗り上げては落ちる、を繰り返し、まるで四駆で山を走るレースのようだった。激しいデコボコ道を共に耐えてくれた教官は言った。「車がかわいそうだったね。」
 踏み切りは一旦停止、窓を開けて音を聞きなさい、という。そこで、私は踏み切りのまん真中、レールの上に車を止めてサイドブレーキを引き、悠々と窓を開けた。身を乗り出して手を耳に当て、よく聞く演技。こういうことは得意だ。さらには踏み切りの音を真似してみせる。「カーンカーンカーン!」呆れた教官は、ぼそりと言った。「もう轢かれてます。」
 初めてバックで駐車するのを教わったときは、さすがに気分が高揚した。車が後ろへ動くだけで頭は一杯なのだが、どうしてもやらずにはいられなかった。助手席に手をかける、あのかっこいいポーズ。とりあえずどんなものか、一度自分でもやってみたかったのだ。ただし、「なぜ」そのポーズをとるのか、理由を考えたことはなかった。助手席に手をかけたまま、窓から首を出して後方を見た私は、首の筋がピキーンと攣るのを感じた。何かが違ったらしい。
 そんなこんなを繰り返しながらも、仮免で1度、最終試験で1度落ちるだけで無事、卒業した。両親も友人たちも「教習所としても、早く出て行ってほしかったんだろうねえ」と、教官側に同情した。というわけで、私はオートマ限定のゴールド免許を持っているが、世界の平和と安全のために、運転しない。そういえば父がこの間、「どんなに気分が落ち込んでいても、お前の教習所の話を思い出すと笑える」と言っていた。私の免許も何某かの役に立っているのだ。
 でも、もしドライブに行くなら。BGMは、たぶんモクゴ(木管五重奏)の曲だろうと思う。モクゴの、なんともいえなくのどかな音が、ドライブにはきっと心地良いはずだ。ニールセン、フランセ、ミヨー、オーリック…どれもわくわくするドライブを演出してくれるはずだが、まずかけたいのは、イベールの「3つの小品」だ。モクゴ業界では定番らしいが、いつ聴いても心弾む、楽しい曲である。
 一度聴いたら、数日は口ずさんでしまうような1曲目。心やさしい2曲目。少し踊りたくなる3曲目。のびやかな木管楽器の音を聴いていたら、きっと気持ちよくアクセル踏めるだろうなあ! しかし私は、助手席に座って、あのかっこいいポーズにときめいているだけのほうがよさそうだ。
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峯陽/小林秀雄 演奏会用アリア「すてきな春に」

2010-04-02 00:15:33 | オペラ・声楽
 「♪ある朝 わたしは町かどで すてきな春にあいました」― 小林秀雄氏の歌曲「すてきな春に」。先月からちびちびと、ピアノ伴奏をさらっている。春らしく、明るくかわいいらしい歌だ。どきどきするようなレチタティーヴォ(しゃべるように歌う)から始まって、3拍子のやさしいアリアが流れ出す。最後は楽しいワルツへと変わって、華やかに終わる。
 5年前の春、企画を請け負った演奏会で、ソプラノの山口佳子氏がこの曲を歌ってくれた。以来、すっかり気に入ってしまった。素晴らしい歌い手である佳子氏はロッシーニが得意で、嵐のような十六分音符の連続も、正確な音程とリズムでこなす。平気な顔で2オクターブ駆け上がったり下りたりするのを聴くと、「あんなことができるなんて、人間じゃない」といつもひそかに思う。しかし彼女が日本の歌を歌うと、非常に清純で上品な緊張感が醸し出される。「すてきな春に」は、彼女のかわいらしい魅力が前面に出る1曲だ。
 佳子氏と私は同い年で、もう長い付き合いになる。有難いことに今までずいぶん色々な方の伴奏をさせていただいたが、思い出すだけで恥ずかしくなるような私の失敗は、なぜかすべて、彼女と一緒の本番のときばかりだ。曲の途中で迷子になったり、間奏を完全に忘れたり、繰り返しの約束を何度も間違えたり。いつも本当に申し訳ない。そんな情けない私にも寛大な彼女は、今度の小さな演奏会でこの曲をやらないかと誘ってくれた。手に余る難しさだが、楽しくさらい始めた。
 「♪春が手紙をくれました 心で電話がなりました」― 春、始まった恋。そのときめきが歌われている。詩の中には、花の名前や地名など、具体的な表現は一切出てこない。年齢や性別に関することも、何一つ書かれていない。“やさしく腕を組んだ”ことと、“あなたの胸で泣いた”こと以外、ふたりの間に何があったかも描かれていない。だからこそ、聴く人それぞれの中にある、何か普遍的なものを呼び起こすのだろう。佳子氏がこれを歌うと、いつもお客様がみなうっとりと微笑んでいる。
 先日、ふと思いついて、友人へのメールの最後に、この歌詞を添えて送った。返信には「私も詩を書いてみました」と、自作の詩が添えられていた。慎ましやかで茶目っ気のある恋の詩だった。友人といっても、自分の親と同世代の女性である。彼女のみずみずしい感性に、思わず心が弾んでしまった。昔、学校帰りの駅で見た大きな看板のキャッチコピーを思い出した。『いくつ恋をしても、いつも初めてのような気がする』。中学生の私は、「それなら、一生、楽しそうだな」と思っていた。
 中高時代、私はかなりの量の詩を書いた。恋の詩もたくさん書いた。崇拝していた飛鳥涼さんの手を真似て、ノート何冊分も書いた。飛鳥さんの詩は、一人称と二人称が作品によって違うのだが、なかでも「僕」と「あなた」で綴られているものが好きだった。何でもない日常から、恋の一場面を切り出す、やさしい言葉が大好きだった。何気ない仕草も、恋のフィルターを通せば、ドラマのように彩られるのだ。
 「♪春の夜ふけの公園で 言葉が星になったとき つぼみは花になりました」― 心からのうれしさの詰まったメロディーを聴いていると、次々と心に蘇ってくる。恋が動き出したときのはじけそうな気持ち。うっかりすると忘れてしまいそうな、小さなときめき。相手が好きな人でなければ、まったく記憶に残らない他愛もない出来事。決して壮大なラブストーリーではないかもしれないけれど、誰にでもあるような恋の思い出。もしくはまだ恋とも呼べないほどの、心のさざなみ。胸がきゅんとした瞬間。
 背の高い人が、下りのエスカレーターで、一段下にすっと降りて、振り向いて喋ってくれた日。黒や紺ばかり着ている人が、白いジャケットで現れて、はっとした夜。私の腕にしがみついて、大きな体を折り曲げるようにして眠ってしまった人の重み。ポテトサラダのお皿をうれしそうに受け取った満面の笑顔。初めての合わせで、絶妙なテンポの揺らぎが寄り添った一瞬。本番前の楽屋で、私の手首を掴んだ冷たい手。階段を跳び降りて翻った白衣の裾。
 「♪愛することのよろこびを 春がおしえてくれました」― 「すてきな春に」は、この句を高らかに歌い上げて、しめくくられる。実は、この句の「春」という部分に、何度弾いても弾き慣れないような、意外な和声が付いている。たぶん何度春が来ても、それは新鮮で、たぶん何度恋をしても、それは慣れることのない新しい経験なのだ。愛することのよろこびは、きっと一生尽きない、宝の泉なのだ。
 ちなみに、最近の私の小さなときめき。大変尊敬している方と食事に行った帰りに、家まで送っていただいた。ドライでさっぱりした方なので、さくっとお礼を言って、さっと助手席を降りた。すると運転席の窓が開いた。タバコでも吸うのかなと思ったら、そこから手だけ出して、小さく振りながら走り去って行った。そのさりげなさに、思わず少女のように立ちすくんだ。春の夜ふけの玄関で。
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バッハ マタイ受難曲

2010-03-09 12:50:36 | 宗教曲
 水越くんに出逢ってからだ。年に1,2度は、ミサ曲を聴きに行くようになった。水越啓くん、現在オランダ留学中のテノールだ。バッハにも宗教曲にも、全然興味はなかったのだが、彼が歌う「ヨハネ受難曲」の福音史家を聴いて、ころっと参ってしまった。彼の甘い歌声を聴くとなぜかいつも「生きてて良かった」と、体の奥底で思う。たぶん私にとって、生理的に心地よく感じる声なのだ。
 そして、「マタイ受難曲」に出逢った。名曲中の名曲だとは知っていたが、生で真剣に聞いたのは、恥ずかしながら、ほんの数年前のことだ。最初に思ったことは、「なんだ、オペラと同じじゃないか」。なぜ今まで敬遠してきたのだろう。ストーリーがあって、レチ(しゃべる部分)があって、アリアがあって、劇的な盛り上がりがあって。群集役の合唱がぎゃんぎゃん騒ぎ、オブリガートの楽器が雄弁に語る。そして、ペテロの否認のシーン。涙が頬を伝った。
 思い出したのは、子供のころ大好きだった、松本寛二先生のことだ。母校の小学部の部長先生(校長先生)だった。今思うと笑ってしまうほど、およそ小学校の先生らしくない先生だった。全校礼拝のお話にはいつも、ヨーロッパの街や教会が登場し、低学年の子供にはわからない難しい言葉も平気で使われた。先生の年賀状は毎年、ちょっと斜めを向いて、ひとりウィーンの街に佇む写真。音楽に造詣が深く、母の会のコーラスを指導していて、やさしい色気で母親達にも大人気だった。
 大学時代、オペラ・ツアーで出逢ったご婦人が、たまたま松本先生の仲良しだった。彼女から、先生が「ニュー・イヤー」の常連で、オペラ・フリークだったことを聞かされて、初めて何もかも納得した。今だったら、いくらでもオペラ談議ができたのに。私がオペラに出逢う前に、すでに先生は天に召されていた。
 小学生の私にとって、松本先生は「まだ手の届かない大人の世界」を体現していた。そして学年が上がるにつれ、この人は何やら非常に魅惑的な話をしているらしい、とわかってくる。音楽が大好きだという点では、勝手な仲間意識まで湧いていた。麻布十番で悪友Cと一緒にいると、厚い単行本の背で、後ろからコツンと頭を小突かれるのも、嫌いじゃなかった。ところが、私が4年生になるとき、先生は学校をおやめになった。
 悲しくて泣いた。最後の日、私は部長室へ出かけ、サインをもらって「聞き取りアンケート」をした。好きな教科は何ですか、好きな本は何ですか。小学生らしい質問をした。今でもその記録が手元に残っている。「この学校をやめたら何をしますか」「あそぶ」この返答が先生らしい。
 最後の質問は、「好きな聖書の箇所」。先生は答えた。「ルカ22:61-62」。教室に戻って、すぐ聖書を開いた。よく礼拝で聞いていた、ペテロの否認のくだりの最後の部分だった。「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、『きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。(口語訳)」なんでこんなさびしいところが好きなんだろう。9歳の私にはまだ、わからなかった。
 このシーンこそが、「マタイ受難曲」で最も切なく、最も緊張感が詰まっている部分だ。福音史家の、抑えられ、長く引き伸ばされる嘆き。続いて、アルトとヴァイオリンのアリアが始まると、すべての後悔と、反省と、涙が、どっと流れ出す。大人になるというのは、少しの苦味を伴うが、それでも素敵なことだ。今なら、少しはわかる。「マタイ」の素晴らしさも、松本先生がこの箇所を選んだ意味も。
 2年ほど前に、小説家や脚本家さんたちの小さな文芸サロンに誘われた。主催者が選んだ3点の写真をお題に、短編小説を書くという趣旨だった。中に1枚、聖書の写真があった。私はほぼノンフィクションの回顧録に近いものを書き、「激しく泣いた」という句を最後に借用した。
 あんなに愛してくれたのに。あんなに信じてくれたのに。あんなに大事にしてくれたのに。なぜ気づけなかったのだろう。なぜ返せなかったのだろう。なぜあんなことを言ってしまったのだろう。今なら、わかるのに。今なら、少しはわかるのに。
 レント(受難節)。キリストの受難を覚える季節だという。私には、ペテロの泣き声を思う季節である。
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ハイドン オラトリオ「天地創造」より 「天は御神の栄光を語り」

2010-02-07 03:47:40 | 宗教曲
 最近、仕事でかなり頻繁に小学校を訪れている。音楽室は最上階にあることが多い。来客用のスリッパをパタパタ鳴らして階段を登りながら、いつも自分の小学生時代を思い出す。そして心の中で、お世話になった先生方に「ごめんなさい」を言う。
 私は、屈託のない、明るく元気な小学生だったはずだ。友達とも仲良くやっていたし、成績も悪くなかった。ただ高学年になるにつれ、今の「私」に近づいていた。つまり、「積極性」が他人のペースと合わなくてもお構いなしだった。記録の束を開いてみると、5年生のとき、担任の先生からもらったコメントは、こうだ。「共同生活には必ず自分以外にも人がいることを忘れず行動しましょう」
 5、6年生の頃は、ひたすら担任の上村先生の揚足を取ることが日課だった。通知表を見ると、「○○は理解できたか」といった項目は、ほとんど全部一番良い評価なのに、「まじめな態度で授業を受けたか」という項目だけは、どの教科もダメだ。通知表を手にした父が、「お前が学校で何やってるのか、大体想像できるな」と、頷いていたことも覚えている。
 上村先生とは毎日よくやり合った。黒板消しで叩かれようと、チョークで頭をつつかれようと、ひるまず、授業に茶々を入れた。ある日、朝の会の歌で、先生の音程が悪いと指摘したら、廊下に立たされた。行き過ぎる先生達に眺められて恥ずかしかったのだが、私は正しいことを言ったのだ、と自分に言い聞かせた。今となっては、彼を怒らせた本当の理由は謎だ。いずれにしても、上村先生、ごめんなさい。
 いつの頃からか、音楽に関しては、強い自信があった。だから、音楽の授業の態度は最悪だった。特に6年生のときは、ひどかった。先生が座るピアノの反対側の隅に、悪友C、ピアノの上手なH子、私の3人が座っていた。授業中は完全に先生に背を向けて、延々としゃべっているが、筆記のテストは揃って百点という、極めてタチの悪い3人だった。髪の毛の太さを比べ合ったり、絵を描いたり、光GENJIの話で盛り上がったりしていた。
 そして3人して、まったく容赦なかった。先生が伴奏を間違えると、平気で舌打ちした。先生を非難するときは、よく聞こえるように大きな声で言った。初めて四部合唱の曲が配られた日、先生がまず一番上のパートの音取りを始めると、我々は一人ずつ他の声部を歌って悠々とハモり、大満足した。手に負えなかっただろう。照屋先生、ごめんなさい。
 音楽の授業も嫌いではなかったし、歌うことは大好きだったのだが、いくつか不満があった。まず私は「移動ド」ができなかったので、授業でこれをやらされたときには、先生に復讐されているのだと確信した。メロディーがいいのに伴奏がダサイ曲も許せなかった。「紅葉」の輪唱風のハモりも大嫌いだった。私の頭の中では、「山の麓の」の「ふ」のところでF-durだったらA7の和音を鳴らしているのに、下のパートが土足で踏み込んで邪魔するので、いつも気分が幻滅した。(なので今、小学校の声楽ワークショップで、唱歌の伴奏をするときは、当時の鬱憤を晴らしている。)
 最もいやだったのは、大勢で合唱すると、音程が下がることだ。自分の声でなんとか周りの音を上げられないかと、無駄な抵抗を試み、必死になって声を張り上げていた。ちなみに、小6ですでに歌姫だった悪友Cは、幼稚園ではまったく歌を歌わなかったらしい。まわりの子供たちが「なんであんなに汚い声で歌うのか」理解できないと言って、一緒に歌うことを断固拒否したそうだ。さすが、つわものである。
 私が在校していた頃の母校では、5,6年生になると、ハイドンの「天は御神の栄光を語り」を三部合唱していた。もちろん日本語だが、6年生からソリストと伴奏者が出る。1年生からの憧れだった。だいたい、「天地創造」の中でも、最も感動的な名曲なのだ。当然、小学校で演奏される中では、圧倒的にいい曲だった。たたみかけるように盛り上がるところは、いつも鳥肌が立つぐらい感動した。これでもか、これでもかと変わっていく和音。解決するまでの緊張がこんなに長い曲は、歌ったことがなかった。
 ところが、自分が5,6年生になってみると、この名曲も「大勢で歌うと音程が下がる」問題の餌食になっていた。2学年の音につぶされるのは、苦痛以外の何ものでもなかったのだが、それでも歌いたかった。学芸会の雛壇でも、必死で正しい音程を狙おうと苦戦していた。なんとしても闘わねばならないという気持ちを掻き立てられる、本当の名曲だった。今になると、この曲に出逢わせていただいたことに、何より感謝でいっぱいだ。小学校の思い出の中で、きらきらと輝いている。
 悪ガキがそのまま大人になってしまったが、実は小学校の先生方とは、いまだにお手紙をやりとりしている。音楽の照屋先生は、私が小学校に行って、アーティストの授業を手伝っているという話をしたら、とても喜んでくださった。実際、恩返しというよりは、罪滅ぼしのような気持ちである。クラスの輪を乱す、うるさい男子を見ると、思わず胸に手を当てる。先生、本当にごめんなさい!
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リスト 巡礼の年 第2年 イタリア 第7番「ダンテを読んで」

2010-01-11 11:37:24 | ピアノ
 ダンテを読んだ。「神曲」百篇、毎日1篇ずつ、ちびちび読んだ。本棚の隅で、ずっといかめしい顔をしていた3冊組。とうとう手を伸ばしてみた。残念ながら私はまったくイタリアの政治史を知らないので、7割以上は読まなかったも同然かもしれないのだが、それでも楽しめる点は沢山あった。予想外の面白さだった。
 実は私は、小説・物語の類は、お風呂で少しずつ読んでいる。小説を読むときには、いくつか気をつけていることがある。ひとつ、電車の中で読まない。あっさり乗り過ごしてしまうから。ひとつ、寝る前に読まない。学生時代、布団の中で「モンテ・クリスト伯」を読んで、何日も徹夜して以来、夜寝る前は、聖書か詩だけを読むことに決めた。
 ひとつ、今読んでいる本の題名をなるべく人に言わない。特に、父親には言わないように気をつけている。父は私をからかって「そのあと、こうなるんだよなー」とか、「○○は出てきた?」とか、その先の筋を平気でばらしてしまうので、楽しみが台無しになる危険がある。読み終わるまでは、ぐっとこらえて感想を言わないようにしている。
 というわけで、毎晩湯船につかりながら、読書をする。極上の幸せである。スタンダール、バルザックや、ロマン・ロランとも、いわば「ハダカの付き合い」だ。時間が経てばのぼせるので読み過ぎないし、お風呂場なら大声で笑っても泣いても大丈夫だ。ちびりちびりと、自分のペースで読み進めることができる。
 さて、ダンテを読んで。(ネタバレの可能性があります、と前置きしよう。)恥ずかしながら、まったく何の予備知識もないまま読み始めたので、びっくりの連続だった。本を開けたら、いきなりウェルギリウスが登場。彼もやはり風呂場の友だったので、早速、旅が楽しくなる。地獄では、フランチェスカ・ダ・リミニや、ジャンニ・スキッキに出会い、感激して声を上げた。スキッキのくだりを読んだ直後にオペラを観て、「そうか、ダンテのほうが種本なんだ…」と一人で苦笑。情けない。
 神曲に描かれている地獄では、罪の種類によって、死後に行くべき階層が決まっている。そこで、「地獄篇」を読んでいる間は「私はこの階層に落ちるのかな」と、毎日自分の行状を反省していた。しかし、罪をつぐなって天国に行く途中である「煉獄編」に至ると、気分が一変。自分のために「とりなしの祈り」をして助けてくれるかもしれない、周りの敬虔なクリスチャンを思い浮かべる。「長津先生もいるし、高橋さんもいるし、櫻井もいるし。ま、割と天国に近いとこ行けるんじゃないかな…」完全に他力本願な自分にふと気づいて、思わずまた苦笑。情けない。
 主要な登場人物もそれぞれ人間味があって、ときどき笑みがもれてしまった。ダンテの臆病さや世俗っぽさには、なんだか親近感が湧いた。詩人スタティウスに会ったとき、ウェルギリウスが「オレが誰だか、ばらすなよ」とダンテに目くばせするシーンも、かわいくて気に入った。そして、満を持してやっと登場したベアトリーチェが、いきなりダンテを叱り飛ばすところは最高だった。どれだけ穏やかで優美な女性が登場するかと思いきや、あまりにおっかないので、お湯を叩いて爆笑してしまった。
 そして、リストの「ダンテを読んで」。天国の高みへ登って本を閉じた後、改めて聴いてみた。私の卑近な読後感を吹っ飛ばす重厚感。特撮もCGもない時代に、彼が音楽で描いた「神曲」の世界。リストは一体、どんな気持ちで読んだのだろう。そこに思いを沿わせながら聴くと、格別に美しく感じる。
 曲のタイトルは、ヴィクトル・ユゴーの同名の詩から取られたそうだ。この詩の一行目は「詩人が地獄を描くとき、彼は己の人生を描く」。これを拡大解釈すれば、リストの描いた地獄もまた、彼の人生の投影なのではないか。考えてみれば、人それぞれが思い描くのは、その人にとっての「地獄」であり、「天国」なのだ。
 ダンテを読んで、リストは曲を書き、ユゴーは詩を書き、ドレは絵を描き、ロダンは門を作った。先日友人に紹介された記事を読んで知ったのだが、2000年に英国のタイムズ紙が文学評論家に対してアンケートを行った際、この千年で最も偉大な作品として「神曲」が選ばれていたのだそうだ。多くの芸術家や作家が触発された「神曲」。フィレンツェを追われたダンテの身に自分を重ねる人もあれば、歴史的な資料として紐解く人もいるだろう。それぞれ一体何に共感し、心を震わせるのか。私は、彼らと同じ本が読めるというだけで有難い。
 中学生の頃、よく図書館の書架の間に立ち尽くしながらぼんやり思った。「こんなに本がある。生きている間に、この1%も読めやしない。世界の知識は膨大すぎる。もっと早い時代に生まれていたら違ったかもしれないのに…」でも、今は思う。「後の世」に生まれてきたからこそ、素晴らしい先人の残した貴重な財産を味わえる。たとえそれがほんの少しであろうとも、同じ人間として、何某かを、彼らと共有できるのだから。リストを聴きながら、西洋文化の大きな流れの端に身を浸す、ささやかな幸せを感じている。

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チャイコフスキー オペラ「エフゲニー・オネーギン」より 手紙のシーン

2009-12-02 01:59:32 | オペラ・声楽
 先日、友人がこんなことを言った。「人間てね、4歳の頃に夢中でやっていたことを、結局一生やっているんじゃないかと思うのよ。」私は記憶をたどった。4歳の私は、ピアノを習い始め、ダンスが大好きで、大きな声で歌っていた。そして、好きな男の子に、よくラブレターを書いていた。
 割とはっきり思い出せる。幼稚園の工作用具の引き出しから、ピンクの折り紙を取り出し、クレヨンで覚えたてのひらがなを綴った。「○○○くんだいすき。まきな」文字が大きいので、これだけで折り紙の紙面は埋まってしまう。それを折って、帰りがけに直接手渡す。ちょっとうれしい気持ちで、さっさと立ち去る。
 手紙は相手に渡してしまうのでさすがに残っていないが、お絵かきの時間に描いた絵が、動かぬ証拠として残っている。大好きなKくんと、自分が並んでいる絵。二人とも両手を広げている。Kくんは自分よりも大きく描いてあり、彼の上に太陽が輝いている。確かに、考えていることは、小さい頃からあまり変わらないらしい。
 ラブレターを書くのは、それ以来大好きだった。自分がいかに相手を想っているか、口に出してはまとまらないことを、一字一句吟味して書く。それはなんとも言えず心躍る作業だ。私の今までの最大作は、大学2年のときに書いた、原稿用紙25枚分の手紙だ。受け取った相手は、「大論文だったね」とあとで笑った。
 だから、「エフゲニー・オネーギン」の手紙のシーンは、いつもたまらなく感情移入して見てしまう。オネーギンのストーリーは、原作を読んでも、オペラを見ても、あまり爽快なものではないが、この独白シーンの音楽だけは別だ。あの高揚感が大好きなのだ。
 文学趣味で夢想的な若い娘タチヤーナが、夜通しかかって、初恋の相手にラブレターを書く。心落ち着かず、あれこれ悩むけれど、結局書いてしまう。憧れのオネーギンの姿を思い浮かべ、言葉を考えてペンを走らせているうちに、自分が止まらなくなる。まさに、夜中のハイテンション。音楽に引き込まれて「わかる、わかる!」と、思わず身を乗り出してしまう。
 タチヤーナの気持ちが嵩じて、とうとう頭が飽和状態になったところで、満を持して彼女のテーマが現われる。交響曲の第2主題のような、オーボエとホルンのチャコフスキー節(ぶし)だ。恋をしたときの、えも言われぬ興奮状態が、そのまま音楽になっているようで、こちらまで完全にタチヤーナの気持ちになって、うっとりとしてしまう。
 ちなみにこのシーンの出だしの言葉は、「私は身を滅ぼしてもいい!」だ。思い切ったときの女性は強い。乾坤一擲、女は度胸。このときのタチヤーナは、無謀で、世間知らずで、夢見がちな女の子には違いないのだが、一通の手紙に運命をかける強さには、深い共感を覚える。実際、告白するときには、あれぐらいの覚悟とエネルギーが必要だと思うのだ。
 さて、いつの間にか私はラブレターを書かなくなった。最終幕のタチヤーナのように大人の女性になったからではないが、言葉を尽くして伝えようとすることの功罪を知り、言葉にして言わないことの大事さに気づかされ、自分の気持ちを長々綴ることもなくなった。その代わり、そのエネルギーで、コンサートをやってきたような気がする。
 大学4年生のとき、「とにかく10回やってみよう」と思って始めた、同世代紹介のコンサートが、先日とうとう10回目を迎えた。なかなかうまく説明できないのだが、私にとってコンサートを主催することは、ラブレターを書くことに近いと感じている。自分の行動と言動と選択が、すべて反映されているラブレター。相手がどう思うかを考えて、何度も何度も読み直す。けれど、一度出してしまったら、相手の反応は相手次第。快く読んでいただければ、有難い。そんな手紙のような気がしている。だから、楽しいのだ。
 もちろん、好きな人にメールをするときに、ちょっと言葉を選ぶ、あの楽しい感覚はいまも消えない。たとえ長大な愛の告白でなくても、「どう言ったらいいかな」と少し丁寧に言葉を置いていくとき、そこには、詩を書くような喜びと、一抹の不安と、賭けの精神がある。その瞬間、私の心の中にはいつも、タチヤーナのテーマが響いている。
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リスト 愛の夢 第3番

2009-11-06 00:51:59 | ピアノ
 この間、仲間の音楽家たちと「思春期に最も影響を受けたアーティスト」の話になった。問われた私は、即座に答えた。「飛鳥涼さん」
 小学校6年生、光GENJI大ブームの頃だ。クラスメイトの影響を受けて、私は生まれて初めて真面目にテレビの歌番組を見るようになった。しばらくすると、歌っているアイドルよりも、作詞・作曲者が気になり出し、いわゆる「ニュー・ミュージック」と呼ばれるジャンルに心惹かれるようになる。初めて聴くジャンルの音楽だった。新しい世界が広がっていく気がしていた。そして、ある日、忘れられない瞬間を体験する。
 中1の夏のある夜、テレビに吸い込まれそうになりながら、CHAGE&ASKAの「PRIDE」という歌を聞いた。12歳で一体何をそんなに悩んでいたのか、今では思い出せないのだが、とにかく私の胸の奥底に歌詞のメッセージが届いた。言葉のひとつひとつが、染みこんでくるようだった。歌の中に何かがあって、涙が止まらなかった。
 そのとき私は、歌詞と同じぐらい、「音楽」によって心を動かされのだということを、自覚した。もちろん幼い頃から、音楽を聴いて感動したり、泣いたりすることはいくらでもあった。しかしその日、私は何か観念的な大発見をしたのだった。そうだ、音楽は何かを「伝える」ものなのだ。音楽と心には、つながりがあるのだ。数日後、私はどきどきしながらレコード店へ入り、「PRIDE」の入ったアルバムを買った。生まれて初めて買ったCDだった。
 それ以来、中高時代の私は、「音楽とは心を伝えるものだ」という持論でとにかく押し通した。クラス対抗の合唱コンクールでも、ミュージカルの部活でも、やたらと「心」という言葉を連発していた。小学生じゃあるまいしと思われるかもしれないが、私は大真面目だった。自分たちが伝えたいものを音楽で伝える、言葉では伝え切れないものを伝えるのだと、息巻いていた。
 「音楽で、自分の心を伝えたい!」今思うとかわいいのだが、高校生の私は、何もわからないまま、純粋に必死だった。専門的に勉強していたわけではなかったので、テクニックなど何一つなく、上達のコツも知らなければ、詳細な研究もなかった。あくまで雑駁で曖昧な「心」という言葉と、ひたすらな情熱。あれこそが思春期のパワーとでもいうべきか。効率良いトレーニング法を知らずに根性だけで筋トレをするような、そんな音楽だった。
 そのころ挑戦していた、リストの「愛の夢 第3番」。タイトルの下に書かれたフライリヒラートの詩が大好きだった。まともに弾けもしないのに、ある金曜の放課後、音楽室で友人Oに聴いてもらった。彼女も私も、どうしたらいいかわからない葛藤を秘めたまま、音楽と情熱を黙って共有していた。まったく整理されていない強い気持ちだけが、何もかもを貫き通していた。
 しかし、心だけでは心は伝わらない。感情やメッセージを大雑把にぶつけようとすることに、行き詰まりを感じ始めた大学時代、師に言われた。「表現するということは傲慢なことだ。」当時はかなりのショックを受けたのだが、今ではこの言葉の意味がなんとなくわかる。音楽をするということは、あくまで具体的で繊細な、一つ一つの課題を解決していくことだからだ。楽譜に書かれたものであれば、それを誠実に読み解こうとする、地味な作業が要求される。一つ一つの音をどう感じるかということを、何とかして形にする。それが結果的に、「その人らしい音楽」になり、何かが伝わるのだ。そこには常に冷静さと謙虚さが求められ、たえず探求の余地が残されている。
 「愛の夢」を聞くと、汗びっしょりになって、無我夢中でピアノを弾いたころを、懐かしく思い出す。どう処理していいかわからないほどのエネルギーと不安に揺れていた、青い季節を通って、今がある。もう戻らなくてもいい。「PRIDE」を聞けば今の年齢なりに別の感じ方ができるし、「愛の夢」もあの頃よりずっと面白みがわかるような気がする。大人になるのも悪くない。心を伝えるとか、感情表現とか、そんな大仰な言葉を使わずに音楽と接していられる今が、とても幸せである。
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