写真①:〝貝寄せの浜〟と言われる津屋崎浜
=福津市津屋崎天神町で、2007年6月4日午前6時26分撮影
貝寄風(かいよせ)、または貝寄(かいよせ)というのは、俳句で春の季語とされています。三省堂の『ホトトギス新歳時記 改定版』(稲畑汀子編)によると、大阪四天王寺の聖霊会(陰暦二月二十二日)の舞台に立てる筒花を、難波の浦辺に吹き寄せた貝殻で作ることから、この前後に吹く西風を貝寄というそうです。
古里・津屋崎の浜=写真①=が〝貝寄せの浜〟と言われるのは、私たち〈津屋崎千軒人〉の誇りにしてよいのではないでしょうか。
福津市津屋崎新町の「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」で8日、「津屋崎の貝がら展」=写真②=が始まりました。〈津屋崎千軒〉通りの町興し住民団体、「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・海とまちなみの会)の主催で、入場無料。津屋崎北本町に住む大賀孝男さん(75)が、〝貝寄せの浜〟と言われる津屋崎の海岸(津屋崎浜、恋の浦、勝浦浜)で、妻康子さんと収集した貝殻約420種の標本を22日(日)まで展示しています。
写真②:「津屋崎の貝がら展」に出された色とりどりの貝の標本(大賀孝男さん収集)
=「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」で、7月7日午後3時37分撮影
大賀康子さん(「海とまちなみの会」会員)によると、相模湾には650種類の貝がいるとされるが、津屋崎では約450種類の貝がいると福岡県立水産高校の先生から聞き、一つの町で沢山の貝が寄る津屋崎の海浜の素晴らしさに感動したという。
しかし、その〝貝寄せの浜〟も、大量の石蓴(アオサ)が打ち上げられるなど海の汚染や富栄養化が進み、採れなくなった貝も少なくありません。それだけに、豊饒の海の自然を回復する努力が21世紀に生きる私たちに課せられているのではないでしょうか。
浜覆ふ石蓴かなしや貝なくて 青春
江戸時代後期の寛政12年(1800年)、津屋崎浦を訪れた当時6歳の第10代黒田藩主・黒田斉清(なりきよ)に、貝手頭(かいてがしら)佐治徳左衛門が津屋崎浜で採った21種類の貝の絵図を献上したという「佐治家文書」(松崎文書館蔵)が残っているのも嬉しいです。黒田の若殿が、津屋崎の浜で貝と遊んだだろうことを想像するだけでも、楽しくなります。
斉清の殿も採りしか桜貝 青春
=福津市津屋崎天神町で、2007年6月4日午前6時26分撮影
貝寄風(かいよせ)、または貝寄(かいよせ)というのは、俳句で春の季語とされています。三省堂の『ホトトギス新歳時記 改定版』(稲畑汀子編)によると、大阪四天王寺の聖霊会(陰暦二月二十二日)の舞台に立てる筒花を、難波の浦辺に吹き寄せた貝殻で作ることから、この前後に吹く西風を貝寄というそうです。
古里・津屋崎の浜=写真①=が〝貝寄せの浜〟と言われるのは、私たち〈津屋崎千軒人〉の誇りにしてよいのではないでしょうか。
福津市津屋崎新町の「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」で8日、「津屋崎の貝がら展」=写真②=が始まりました。〈津屋崎千軒〉通りの町興し住民団体、「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・海とまちなみの会)の主催で、入場無料。津屋崎北本町に住む大賀孝男さん(75)が、〝貝寄せの浜〟と言われる津屋崎の海岸(津屋崎浜、恋の浦、勝浦浜)で、妻康子さんと収集した貝殻約420種の標本を22日(日)まで展示しています。
写真②:「津屋崎の貝がら展」に出された色とりどりの貝の標本(大賀孝男さん収集)
=「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」で、7月7日午後3時37分撮影
大賀康子さん(「海とまちなみの会」会員)によると、相模湾には650種類の貝がいるとされるが、津屋崎では約450種類の貝がいると福岡県立水産高校の先生から聞き、一つの町で沢山の貝が寄る津屋崎の海浜の素晴らしさに感動したという。
しかし、その〝貝寄せの浜〟も、大量の石蓴(アオサ)が打ち上げられるなど海の汚染や富栄養化が進み、採れなくなった貝も少なくありません。それだけに、豊饒の海の自然を回復する努力が21世紀に生きる私たちに課せられているのではないでしょうか。
浜覆ふ石蓴かなしや貝なくて 青春
江戸時代後期の寛政12年(1800年)、津屋崎浦を訪れた当時6歳の第10代黒田藩主・黒田斉清(なりきよ)に、貝手頭(かいてがしら)佐治徳左衛門が津屋崎浜で採った21種類の貝の絵図を献上したという「佐治家文書」(松崎文書館蔵)が残っているのも嬉しいです。黒田の若殿が、津屋崎の浜で貝と遊んだだろうことを想像するだけでも、楽しくなります。
斉清の殿も採りしか桜貝 青春