SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

自殺防止キャンペーン

2008年03月27日 | 日常生活・事件

 朝の通勤電車内の吊り広告を見てギョッとした。「東京から自殺を減らそう!」というのだ。「自殺防止!東京キャンペーン」最優秀賞受賞のポスターだそうだ。

 キャンペーンをやるくらい東京の自殺は多いのか?それも朝の電車で多くの人目にさらすほど深刻だとは。

 調べると年に3000人弱の方たちが自殺によって命を断っている。平成10年を境に、都内の自殺死亡者はそれまでの約2000人から急増したそうだ。交通事故死亡者の9~10倍というから深刻だ。

 春、桜の季節。死ぬとこの美しさをもう二度と目にすることは無い。

「願わくば 花の下にて 春死なん・・・」 と西行法師はうたっているが、これは命を全うして死の旅路をたどるとすれば花の季節に、ということだ。伊丹十三監督の「お葬式」で主演の山崎勉がしゃべる「俺が死んだ時、外は花吹雪・・・」という台詞もそうだ。

 春が自殺の季節であってはならない。

映画 「眠れる美女」 ~ こんなのあり?

2008年03月26日 | 映画(ナ行)
 川端康成の原作をドイツで映画化している。

 信用のおける高齢者を対象にした秘密クラブ的な娼館のお話。

 そこではベッドの上に若い娘が一糸まとわぬ姿で眠らされている。その横に添い寝させてくれるという訳だ。何をやっても娘は起きない。ただし、性行為をやってはいけない。その他いくつかの禁止事項がある。
 そこのマダムと、新たな客として紹介された男、そしてひたすら眠りつづける娘たちの物語だ。

 ドラッグが絡んでいるらしく娘たちの一人が絶命したり、客の高齢者が体調を崩して絶命したり、死の香りと老人の孤独が全編を支配している。
 マダムがどこの誰かは分からない、娼館の設定もミステリアス。ドラマとしておもしろくなりそうな部分は結局最後までミステリアスなままである。

 衣装代のかからない若い娘たちの肢体はひたすら美しく撮られている。

 監督のヴァディム・グロウナは制作、脚本、主演すべてこなしている。公開時点で彼自身66歳だ。孤独な老人にとってパラダイスのような話をすべての決定権をもって好きなように撮れたわけだ。
 こんなことがあって良いのか?

 映画の世界より、この制作条件の方がすごい。羨ましすぎる状況下で出来た作品だ。        

映画 「ミルコのひかり」

2008年03月24日 | 映画(マ行)
 今回も子供の映画が続く。
 実在のイタリア映画音響デザイナーの少年時代を描いた感動作。10歳で失明し、全寮制の盲学校に入れられた少年が自分の世界を見つけ出すまでの物語。

 規律によって管理された世界とそこに納まりきれない個性の対立は、例えばミロス・フォアマン監督の「カッコーの巣の上で」にも見られる。その少年版といっても良いかも知れない。

 イタリアの法律では「・・・の子供は盲学校に入らなければならない」と規制されていたが、この出来事きっかけにという訳でもないだろうが、1970年代に法改正されたそうである。

 子供たちが実に生き生きとしている。
 盲学校の生徒たちは実際に視覚的障害を持つ子供たちが扮しているが、みんな達者で見事なものだ。

 主役のミルコは視力を失う役だがその目力(めぢから)が素晴らしい。見えようが見えまいが、夢を実現するものの目はこうでなくてはいけないという見本のようだ。

映画 「僕がいない場所」

2008年03月21日 | 映画(ハ行)


 「この道は母へとつづく」に続き、再び孤児施設が舞台になった作品。ただし、こちらは開巻早々にそこを脱出するところから物語が始まる。

 「この道は・・・」とは対照的だ。国立の孤児施設に入っている主人公の少年は孤児という訳ではない。母親はいる。その居場所もわかっている。むしろ事情があって「施設に入れられた」というべきなのだろう。したがって、そこを抜け出しても彼を受け入れてくれる場所は無い。

 自立心は非常に強い。一人でも生きて行こうとする生活力がある。その日常をカメラは追っていく。

 何らかの劇的なストーリーがあって、こんな状況で登場人物はいつ何を食べて生きているのだろう、と思いたくなる作品が多いが、この映画はその点リアルだ。
 少年が生きていくためには、まず食べなくてはならない。むしろ毎日のその部分の描写がこの映画の肝なのだ。観客は、果たしてこんな生活をこのまま続けることが出来るのだろうか心配しつつ、この生きようとする命を少しでも守ってあげたいと思っている。

 そこにやはりやって来る結末。この結末を実は最初のシーンで見せられていたことに気付くのだ。

 お前は誰なのだと係官に問われて、少年は答える「僕だよ!」と。英語タイトルはこのラストの台詞から採られた「I am」だ。

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映画 「この道は母へとつづく」

2008年03月18日 | 映画(カ行)
 白く霞むような冬景色のオープニング。「ああ、ロシア映画だ!」という感慨が蘇る。

 事実に基づく話だというロシアの孤児施設の実態が綴られる。

 多くの孤児がいる中で、養子の話の当事者になり得た幸運に6歳の男の子がどう対処していくか、という物語である。
 天国から降りてきた「蜘蛛の糸」につかまる事が出来るのはただ一人である。次いつこの幸運がやってくるのか分からない。

 当たらなかった者の落胆と羨望、それを何回も繰り返し、もはやその望みを断たれた年長者のしたたかな生き方など、実在の施設にロケしたというリアルな感触が伝わってくる。

 子供のいないイタリア人夫婦と両親のいないロシア施設の孤児、育てた施設、3者の誰にとっても良い話のはずだ。だが、どうもそれを成立させる裏のビジネスがあるらしい。それを描けばまたもう一本の映画になるだろう。

 ここではただ実の母に逢いたいと願う子供が、その目的をかなえるために何をどうすれよいのか、そのプロセスを考え、実行していく過程が見事だ。

「真に願えば物事は必ず実現する」という自己啓発書のようでもある。まわりの人たちがその磁力に引き寄せられるかのように、微妙に願望実現のために作用していく。

 肝心なことは見せるな、という映画の技法は確実に守られ、ラストの、おそらく至福に満ちたであろう一瞬は観客の心にゆだねられる・・・・、かのようである。が、実は巧妙に見せてくれている、映画術の妙がうれしい。

 モノトーンに近い施設内の閉塞的描写から一転、ロードムービー的に外の世界に出ると色彩が満ち溢れた世界が広がっている。黒澤明の「天国と地獄」のような鮮やかさである。

まさか・・・の光景

2008年03月14日 | 日常生活・事件
 
 朝の通勤途上での出来事。

 緑道になっている部分を通っていると、前から自転車が来ている。
 駅までここを通る人は少なく、皆さん一般道を歩くようだ。ときどき犬を散歩させている人やジョギング、散歩している人などと出会う。

 今日は珍しく自転車。気にも留めなかったのだが、すれ違いざまに運転者の顔に目が行った。

 右手に何か白く細長いものを持って、口に当てている。

 乗った人は黒い学生服を着ている!しかも坊主頭だ!

 タバコ吸ってるんじゃないのか???

 そう思った時にはもう彼方を走っていて確かめようも無い。だけど煙は出ていなかったようだ。非喫煙者として匂いには敏感な方なのだがそれも無かった。

 思い違いであることを願いたい。また、この光景を目にすることも無いように祈りたい。祈らなくても多分・・・、それはないだろう。

 7年以上この道を通っていて初めての出来事なのだから。

 もうじきこの緑道にも花が溢れる。季節は確実に動いている。

映画 「ライラの冒険」

2008年03月13日 | 映画(ラ行、ワ行)
 3部作の第1話であることが最初に示される。この世界とそっくりのパラレルワールドがあり、第1話はその別世界の話、第2話は一般界の話、第3話はその両方を行き来するということだ。

 我々の肉体の中に同居する魂が、別世界(つまり本作で描かれている世界)の方では動物の形をとり、その主である人間といつも動作をともにしている。そこが両者の違いだと言うのだ。

 この世の我々観客からすれば登場人物が皆ペットを連れ歩いているようで、それでだけでも楽しげだが、あの世界ではそもそもペットを飼うというという概念が成立しないだろう。動物園なんかも無いんだろうな。

 ハリー・ポッターと同じで主人公の少女ライラはその生立ちが何やら訳ありだが、聡明で快活に美しく育っている。で、その父親が誰で、母親が誰だということも分かってくるが、その人間ドラマの部分は単にそういう設定だという程度に語られるのみで、物語に深みを与える要素としてはまるで活用されていない。

 ヒロインに降りかかる難題も、いつ使い方をマスターしたのか分からないうちに羅針盤がどんどん答えを出してくれるので、悩みも葛藤も生まれない。

 クマ族の戦いと、魔女軍団が現れての戦闘シーンが全体の見せ場で、そのための筋書きが華麗な映像でお膳立てされているという構成だ。
 クマ好きにはたまらない映画かもしれない。が、スター級の俳優も豪華なCG映像も2作目以降うまく生かされてくるのだろうか、という心配を胸に抱かせながら終わってしまう。せめてあと1時間くらいかけてじっくり見せて欲しい作品だ。

映画 「明日への遺言」

2008年03月11日 | 映画(ア行)
 小泉尭史監督らしい凛(りん)とした印象の作品。

 丸々法廷劇なのだが、ハリウッド作品のようなドラマチックなどんでん返しがあるわけではない。

 法の世界は厳格だ。弁護側も裁判官も、検察側でさえもそうなって欲しくないと思っている。だけど結果が思いを裏切る方向に行かざるを得ないことがある。

 その中で自らを見失うことなく上官としてすべての責任を背負い、むしろ心のありようはどこまでも澄み切っている。藤田まこと演じる主人公・岡田資の潔い生き方が静かな感動を呼ぶ。

 映画は、冒頭で当時の記録映像による原爆投下を頂点とする無差別爆撃の状況が示される以外は、全編が法廷における証言の記録だ。再現映像に頼らず、すべてが役者の台詞で語られる。その大半を担う藤田まことと証言台に立つ蒼井優、田中好子らの言葉の力が素晴らしい。

 緊迫の法廷を和らげるように時々家族との言葉によらないコミュニケーションがはさまれる。

 傍聴席の家族は妻役の富司純子を除けば地味な配役だ。富司純子も語りを除けば台詞はほとんど無いながら、影で夫を支えてきた存在感が画面から溢れている。

 ベースのナレーションが昔のニュース映画のように実直な響きの男声で語られるのが印象的だったが、これを竹野内豊がやっている。

映画 「いつか眠りにつく前に」

2008年03月10日 | 映画(ア行)
 人生の晩年、残照が静かに夜の闇へと溶け込んでいく瞬間を、青春の輝きと対比させながら描いていく。

 ヴァネッサ・レッドグレーヴ演じるアンの晩年、死の床での意識の中に回想と空想が紛れ込んでくる構成。もしあの時という「・・・たら、・・・れば」の世界であるが、悔いとしてではなくすべて自分の人生だったのだと受入れ、肯定している。

 女優陣の豪華さは最近では一番の収穫だ。こういう、人間がじっくり描かれたドラマを前にするとどんなアクション大作も色あせてしまう。

 ヴァネッサ・レッドグレーヴとナターシャ・リチャードソン、メリル・ストリープとメイミー・ガマーの母娘共演も見ものだ。後者はライラという一人の女性の娘時代と老年期を母娘が演じている。ライラの母親役はグレン・クローズが演じるがこれがまた娘役メイミー・ガマーとよく似ている。

 原作者のスーザン・マイノットと「めぐり合う時間たち」の原作者マイケル・カニンガムが共同して脚本を執筆。監督のラホス・コルタイは撮影者として素晴らしい実績をもつが本作は初の監督作品。

 オープニングとラストの浜辺の情景は完璧な光線をとらえ絵画のようだ。

 原題は「EVENING」。「夕暮れ」と「人生の晩年」の意味を併せ持つ。

映画 「ある愛の風景」

2008年03月07日 | 映画(ア行)
 戦場へ行った夫の戦死の報が入る。数年が経過、すでにあきらめて新しい家庭を持った妻の元に死んだはずだった夫が帰って来る・・・・というような、これまでにも描かれてきたメロドラマだろうと思っていた。

 が、それをはるかに上回るハードな作品だった。一言でいうなら戦争の後遺症を描いた映画だ。それをここまで克明に描いた作品は無かったのではないだろうか。ディテールがきっちりと詰まっていて、息苦しくなるほどだ。

 ではその絶望を描いた作品かというと、描かれているのはむしろ希望だ。絶望の果てにたどり着いた先でかすかに見えてくる希望が描かれる、その絶妙のバランスが見事だ。

 戦場に行った夫には粗野な感じの弟がいる。夫の出征を期にこの2人の役割が徐々に入れ替わってくる。かつて弟を諭した兄が、今度は自らそのことに気付くまでの長い旅の物語だ。

 邦題とはまるで異なるが、原題が BRODRE(=BROTHERS)であることにある意味納得する。「エデンの東」などよりよほど複雑な兄弟の関係がここにはある。

 デンマークの季節感と空気が物語のトーンを支えている。
 寒気が迫ってくる夕暮れ時、残照の中にたたずむ夫婦の姿に希望が見えてくる。