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アウラの呪縛

2008-08-28 19:19:45 | 業務関連
Kawasaki005


事情があって、最近はグレン・グールド(Glenn Herbert Gould)についていろいろ調べていて、知人の「The Complete Original Jacket Collection / Glenn Gould」をほとんど毎日のように聴いているのだが、まじめに聴き込もうとすれば何年かかるかわからないほど、文字通り圧倒的なボリュームを誇るセットなので、とりあえず一通り流すだけでも時間が足りない。やむなくバッハ平均律クラヴィーア曲集ゴルトベルク変奏曲(デジタルリマスターも含め)のみに押さえ、そのほかはシェーンベルクを中心に押さえていこうとしているものの、それでもなんとなく面白がるのが精一杯という有様だ。



そもそも、これまでクラシックの楽曲をまじめに聴いたことがほとんどないような人間が、いきなりグールドに挑もうとすること自体に無理があるのだが、グールドは音楽と録音技術やメディア技術に関する論考、著述などを多数残しており、そこを取っ掛かりにしてなんとかできないかとも思っている。実際、グールドの論考にはヴァルター・ベンヤミンのアウラに通ずる概念が多々含まれているように思えるし、またそのような方向からアプローチすることにも何がしかの意味はあろうと思うのだ。



アウラとは、ヴァルター・ベンヤミンという1930年代に活躍したドイツの評論家が提唱した概念で、 自著「複製芸術時代の芸術作品」を中心とするいくつかの論考において、芸術作品のもつ一回性に対して用いた概念である。ベンヤミンの言葉を要約するなら、写真や映画といった複製可能なメディアではなく、肉筆絵画や木像や石像彫刻のようないわゆる「一点もの芸術作品」の持つ唯一無二の特性こそが、その真正さの徴として芸術作品のアウラをなすといったところになるだろうが、問題なのはアウラが個々の芸術作品に備わるものではなく、あくまでも「鑑賞者が感じ、受け取る感覚であり、作品から想起する思念」ということだ。



あえて平たく言ってしまうと、アウラとは鑑賞者が作品を「かけがえのない存在であるかのように思う心情」であり、それは鑑賞者が受け取る情報によっては激しく変化するものでもある。



ベンヤミンは芸術作品は複製されることによって「アウラを失う」し、また映画や写真といった複製芸術は「そもそも最初からアウラを持たない」と定義した。言い換えるならば、鑑賞者は「複製芸術からアウラを感じられない」となる。確かに、著名な芸術家の作品であっても、贋作と判明した瞬間に人々の評価は一変し、芸術的な価値も決定的に損なわれるかのように思われている。つまり、どれほど高度な複製であっても複製はやはり複製であり、真正の作品が持っていたアウラは失われるというのがベンヤミンの概念である。



しかし、その作品が「贋作と判明する以前」に鑑賞した者は、その作品(実は贋作だが)からアウラを感じなかったのかというと、そんなことはないだろうと思う。もし、オリジナルの作品がなんらかの事情によって失われ、ただ「贋作のみが現存する」と作品であったならば、鑑賞者は贋作からも「オリジナルと同様にアウラを感じる」のではなかろうか?



自分が考えるに、アウラとは「鑑賞者が抱く芸術への神秘性であり、芸術概念そのもの」だから、当然ながら時代と共に変化するのだ。もっと積極的に言ってしまうと、現代の鑑賞者は大量複製品からでも十分にアウラを感じるし、芸術作品ではないものからも「アウラ以上にその真正さの徴」を読み取り、芸術作品以上の価値を認めるのではなかろうか?



例えば、地上波放送のテレビドラマとして全国の各家庭へ「複製された」ドラマ「北の国から」において、主人公が田中邦衛から渡された(厳密には古尾谷雅人が渡すのだが)泥つき一万円札が印象的な小道具として登場するが、大量に複製され文字通りの意味で「市場流通している存在」であるにもかかわらず、主人公がその「泥つき一万円札」に対して抱く感情はまさしくベンヤミンが言うところのアウラそのものといえよう。このエピソードの秀逸なところは、放送を視聴した多くの人々が主人公に心から共感したばかりか、ドラマの小道具となった泥つき一万円札 の関連グッズ(便箋セット)まで登場し、多くの人々が「ほとんど芸術作品と同様のありがたみを持って」グッズを手にするということにある。



まぁ、こんな回りくどい事例を引き合いに出さずとも、単純に「CDやDVDで楽しむ音楽やステージはあくまでも偽物で、いわば本物である生演奏より劣るのか?」ということを考えてみれば、自ずと答えは出てくるもんだと思う。ただ、世の中には一回性というか非複製性にこだわる人も根強く存在していて、その辺は一部で話題になったハンス・アビングの「金と芸術・なぜアーティストは貧乏なのか」でもネタとして揶揄的に扱われているのだが、こともあろうにその「金と芸術」をテーマにしたシンポジウム(レポートは村松恒平氏のここを推奨します)において「本物の演奏に触れる機会がない、CDなどの偽物でしか音楽に触れていない最近の若者にとって、芸術作品の価値がどうしたこうした」とか質問した人もいたのだから、いまだにベンヤミンの論考にも一定の価値があるのだろう(ちなみに、その質問への答えは「本を読んでください」だったが、本も読まずに質問した人の不見識を責めなかったパネリストは大人だったと思う)。



でまぁ、こうして長々と書き連ねた末、ようやくグレン・グールドへ戻るわけだが、グールドが演奏会を完全に否定し(コンサートドロップアウト)、かつ録音メディアへ全てを託したのは、グールドなりの「アウラへの抗議」であり、またアウラの呪縛から逃れんとする試みではなかったのだろうかと思うのだ。また、宮澤淳一氏はNHKで放送された『グレン・グールド:鍵盤のエクスタシー』の最後において、グールドは録音メディアという形で聴衆との間にある種の隔たりを必要としたかのようにまとめていたが、それは自分にとって非常に説得力のあるまとめ方だった。
もしかしたら、自分自身が個展においてフィル・シェリダンの「外側に立て…でないと物事の姿を見誤るぞ」という言葉を引用したからかもしれないのだが、ともかくそういう立脚点からグールドに迫ってみたい。というか、自分にはそこしか切り口が見つけられなかったといったほうが、より実態に近いのだろうけどね。



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