Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

地獄は音楽が盛ん

2007-06-28 18:25:30 | 業務関連


今日も作業者をせかしつつ、全体の進捗に気を配る。立ち上がりは悪くなかったのだが、ここに来てペースダウンし始めているのが気になる。そのほかにも作業者への指示などで凡ミスがあり、極めて効率の悪い作業となっているが、ことここに及んでは効率うんぬんどころではない。



今回の案件は、それなりに大きな金額の仕事となっているものの、人海戦術でなんとか急場をしのごうというやり方であり、動くお金が大きい割りに見入りも少ないというしょっぱさがある。ただ、そういうときにつまらないしみったれ根性を出したが最後、上がるものも上がらなくなってしまう危険性が多分にあり、ただ粛々と作業者の分担を確認し、成果物を回収し続けるのみだ。



トニカク人手が足りないのだが、かといって誰でもいいわけじゃないというのが本当に辛いところで、仕方なく本当に全然業務経験無しの知り合いにまで声をかける始末だ。
ただ、その知人は業務経験こそ無いものの、文章などのチェックはきっちりやってくれるので、その部分だけでも引き受けてもらえれば、こちらとしてはかなり助かるのだ。



問題は、その知人がいろいろあって「のだめがらみの全部を憎んでいる」ことと、なにかことあるごとに「○ぁぁ~っく!」とか「俺のケツをなめろ!」とか「地獄の歌を聞かせてやる」とか、わけのわからないことをつぶやく点にある。もちろん注意したのだが、そういいたくなる気持ちはすごくわかる。それに、作業中は基本的にレシーバを装着して「爆音デスメタルStoned in」状態だから(そうでもしないとやっとられんそうな)、注意すると言うよりは後から小言をたれる格好になってしまい、お互いにかなぁり気まずい。



挙句、知人に「だいたい、地獄の歌ってなんなんだよ」と言ったら、こともあろうに「地獄は音楽盛んなんすよ」と口答えした末、続けて「地獄出身のアーティストが何人いるか、知ってますか?」ときやがった…



とりあえず、地獄で音楽が盛んなのはわかったから、その「地獄の歌」は勘弁してくれ…
デスメタルはDMCだけでたくさんだよ~


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乳問題といらないリアル

2007-06-25 21:12:23 | 業務関連


今日も朝からいろいろの処理に追われるが、基本的には指示を出すしかやることが無いので、たまった案件を片付けるといきなりひまになる。とはいえ、露骨にひまこいてると作業者に悪影響を及ぼすので、適当なタイミングを見計らい事務所を出て雑用を済ませた。



夕方には外部作業者が帰宅し、ほとんど入れ替わりに取引先の管理者が来る。
取引先の管理者とは旧知の仲なので、だらだらと互いに軽口を叩きながら、ざっくばらんに作業を進めていった。



興味深かったのは、取引先で「乳問題」が発生していることだった。



問題!!



こう書くとすっかり「東スポの見出し」だが、ほんとに「乳が問題」なのだから仕方ない。



ぶっちゃけた話し、巨乳キャラの乳を漫画的(わたなべわたる的に?wって思った漏れも年喰ったなぁ)に大きくすると、ユーザから「整形っぽくて萎える」とクレームが付いたので、今度は資料を参考にしつつちょっとリアルにしたら「樽は萎え」とクレームが付いたんだそ~な~



だいたい、乳の形状でそこまで言わんデモと思うのだが、自分らはそういう「フェティッシュな愛好を刺激する商品」を製作して日々の糧を得ているのだから、まぁお客様の要望にはきちんと対応しなければならないね。とはいえ、例えば「乳ペディア(←このリンクには、アダルト情報および18歳未満の方には不適切な表現内容が含まれる情報を取り扱っており、18歳未満の方のアクセスは固くお断りします)」に登録されているぐらいの爆乳キャラでも、Natural tits(天然乳)の形状では引いてしまうユーザが少なくないのは容易に想像できる。
なら、やっぱり整形爆乳の方が良いのかというと、それはそれとして「天然乳」に対する神話的な憧れがあるので、そこをうまいところ両立させなければならない。



どうやら、ロリ顔の叶美香あたりが落としどころのようなのだが、それって全然リアルちゃうやん!!!



これはほんとに多くの人々が指摘することだが、それが「現実に即しているかどうか」なんてのは全然関係なくて、あくまでも「受け手がリアルだと思っている」あるいは「それがリアルだと思いたい」姿かたちを提示することが重要なので、下手に現実を提示すると却って萎えるんだよね。これが、俗に言う「いらないリアル」なんだけど、この忙しいときに乳でここまで引っ張られると、正直言って消耗するね。
まぁ1950年代後半には、既に乳へ一家言持つ求道者が日本にも数多く存在していたとされるので、現実に即した形状を提示といっても、自分のような若造なんか足元にも及ばないのですが、それにしても原画作業者はほんと大変だよな。



とりあえず、グラフィッカ氏から「流行の乳陰」を教えてもらいつつ、更なる精進を誓う今日この頃でした。


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フォト・プレミオ年度賞受賞写真展

2007-06-22 17:29:40 | 業務関連


今日はほとんど事務所から出ず、柄にも無くデスクワークにいそしむ。
週明けに取引先で厄介な事態が発生し(正確には露見し、だな)、急遽外部作業者を手配しなければならなくなったのだが、いろいろ大人の事情があって自分のところへお鉢が廻ってきたというわけ。まぁ、正直言って手馴れた作業でもあるし、また必要な人脈も無くはないので、仕事そのものはたいしたこと無い。
だが、現場の状況が極めて切迫しているため、タフな仕事を振るという気持ちの悪さは残る。



なんちゅか、気分はほとんど傭兵隊長、いや傭兵請負業者だね。
なにせ、自分は現場に行かないからさ。



とまぁ、そんなこんなで忙しくなってはいたのだが、それでもちょっと無理して展示を観に出かける。
もちろん、その展示には無理をして観るだけの価値があったのだ。



まず、コニカミノルタプラザで「2006年度 コニカミノルタフォト・プレミオ 年度賞受賞写真展」を鑑賞したが、特に年度大賞を受賞した森下大輔氏の「倍音の虹」は技術、感覚共に際立っており、本当に納得できる大賞受賞展だった。正直、去年のプレミオでチェックしていなかったのが悔やまれる。また、去年ブログでも取り上げさせていただいた、木内美羽氏の「mius」が特別賞を受賞しており、会場では作家氏ともお話させていただいた。
デノカミイマコ氏の「out of place」も含め、メーカー系ギャラリーでありながら(失礼w)、写真という表現手段の幅広さや可能性を、素直に感じさせてくれる展示だろう。



また、同時に開催されている布垣昌邦写真展 「洛中洛外観察日記」は、非常に伝統的な写真表現のありかたを示しており、ストレートかつキャンディッドなストリートフォトグラフィーとして、作家のこれからに期待が持てる内容となっている。



その後、新宿眼科画廊へ向かい、フォト・プレミオの年度賞受賞作家3名による「NEW FACES」展を鑑賞する。
まず最初に感じたのは、インスタレーションによって作品の印象が大きく変わることと、またインスタレーションによって展示空間を創っていくことの重要性だった。ここでも森下氏の作品は際立っており、自らの作品がなにを目指しているのか、作家自身がしっかりと把握しているのだろうと思う。
また、デノカミ氏のポートレートも非常によく、個人的にはこちらの方向性が向いているのではないかとすら感じるのだが、もちろんそれは作家自身が決めることだろう。その他、木内氏の作品も非常に興味深く、こちらもインスタレーションが作品の持つ力をより大きくj引き出していたと思う。



いずれの展示もまだ会期は残っているので、ぜひとも足を運んでいただきたいと思う。



フォト・プレミオ 年度賞受賞写真展
会場: コニカミノルタプラザ
スケジュール: 2007年06月19日 ~ 2007年06月28日
住所: 〒160-0022 東京都新宿区新宿3-26-11 新宿高野ビル4F
電話: 03-3225-5001 ファックス: 03-3225-0800



「NEW FACES」展
会場: 新宿眼科画廊
スケジュール: 2007年06月19日 ~ 2007年06月28日 16:30
住所: 〒160-0022 東京都新宿区新宿5-18-11タナカビル102
電話: 03-5285-8822 ファックス: 03-5285-8822



布垣昌邦 「洛中洛外観察日記」
会場: コニカミノルタプラザ
スケジュール: 2007年06月19日 ~ 2007年06月28日
住所: 〒160-0022 東京都新宿区新宿3-26-11 新宿高野ビル4F
電話: 03-3225-5001 ファックス: 03-3225-0800


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大辻清司 「出会いとコラボレーション」

2007-06-19 19:37:02 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝から防火管理者の講習を受けたのだが、朝から夕方まで座学と実技講習がみっちり組まれていて、こういうのは大学以来だったから、予想以上に気疲れしてしまった。ただ、場所柄かちょっとやさぐれた感じの人がちらほらいたのと、講義内容そのものは自分のツボだったので、覚悟していたほどつまらなくなかったのは救いか。
また、防火対象物の区分に「キャバレー・カフェー・ナイトクラブ等」とか「待合・料理店」とか(カフェじゃないよカフェーだよ)、いかにもなものを見つけてひとりほくそ笑んでいたが、まぁコンなのは風営法との付き合いがないと意味不明だろうなぁ~



ここしばらくは意識的に小型1眼レフを持ち歩くようにしているが、なかなか方向性が定まらない。
正直、ただ持ち歩いて無意味にシャッターを切っているだけで、もちろん現像しても全くぱっとしない。むしろ、撮影している間にインスピレーションを刺激されることの方が重要で、ロケハンとしてはそれなりに成果が上がっているようにも思うのだが、だったら小型1眼レフを持ち歩く必要が無いんだよね。
あえて言うなら、ファインダを覗くことが重要なのかもしれないけど、自分がそこまでカメヲタだったのかと思うと、なんと言うか泣けてくるってもんだね。



とまぁ、そんなひどい体たらくなものだから、自分へ活を入れるために松濤美術館で「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」展を鑑賞してきた。



正直言って、自分は実験工房についてその精神を好ましく思う反面、その作品に関しては時代を経た立場からしか観ることができず、大辻氏の作品や哲学に関してもあいまいな距離感を抱いていた。ただ、大辻氏の写真に対する思索と実践は、コンポラ以降の日本写真を語る上で無視できない存在とも認識しており、いつかは正面から取り組まなければならないとも思っていた。



十年ほど前から、松涛美術館は「日本写真の非主流に光を当てる展示」を積極的に行っており、今回の展示においてもキュレーターの意図は「ややもすれば失われてしまいかねない日本写真の一断面」に光を当てることにあったのではないかと思えてしまう。
実際、大辻氏の複雑で多岐にわたる活動を要領よくまとめ、その意義を再び顕彰するという意味で、今回の展示は大きな成功を収めていると思うし、図録をかねて発売された「大辻清司の写真」とあわせて鑑賞すれば、その意図はより鮮明に伝わると思う。



自分はなにかと影響されやすい人間なので、この手の伝播力が強い写真理論は危険でもある。だが、ガーリーフォトからロモウォールを経て、あの「うめめ」につながる「お気楽写真」たち、つまり表現することになんの疑念も抱かないまま、自己承認の道具として制作し続ける人々が、実はストレートフォトから発したというか、その成れの果てなのではないかといわれているようで、なにか自分の写真に対する姿勢が根底からゆすぶられたような気もする、そんな展示だった。



とりあえず、図録を読んでから再度鑑賞したい。



大辻清司 「出会いとコラボレーション」
会場: 渋谷区 松濤美術館
スケジュール: 2007年06月05日 ~ 2007年07月16日
住所: 〒150-0046 東京都渋谷区松濤 2-14-14
電話: 03-3465-9421


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展示日程変更

2007-06-16 17:09:35 | 展示準備2007年10月


今日は朝からあまりにも好い天気に恵まれたので、昼前には大喜びで撮影に出かけた。いつもなら、こういう日に限って外せない用事が入ったり、前日の見極めに失敗して準備に時間がかかったりするのだが、今日は割かしすんなり出かけられたのが、またなんともうれしいところだったりもする。
とはいえ、レリーズアダプタを忘れてちょっとまごついたりと、細かなところで手抜かりが多すぎるのは相変わらずだったが、それでも順調にシートフィルムを10枚消費し、展示が最終日を迎えた表参道画廊へ向かった。



残念ながら、スタッフの方にはお会いできなかったものの、作家の方々とひとしきりお話しすることもでき、楽しい時間を過ごさせていただいた。また、第3回個展の日程変更が本決まりとなり、それに伴ってサブタイトルも変更した(サブタイトルは次々回の展示に使う)。



新しい日程とサブタイトルは以下の通り。 



-秩序の目録3-archived memorie


表参道画廊内[MUSEE F]にて10月22日月曜より27日土曜まで。



開催まで4ヶ月少々となったが、まだ4ヶ月ととらえるか、もう4ヶ月ととらえるか、ちょっと微妙なところではあるね。


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「Mess」展

2007-06-13 18:20:48 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は朝からいい天気だったが、なんとなく気分が乗らないまま事務所へ向かった。事務所についてみると思いのほか手すきで、本来ならこういうときに少しでも原稿を進めるべきなのだが、気分が乗らないときに無理したくなかったので、あれこれ考えた挙句に散歩をかねて出かける。
ロールフィルムを2本消費したが、朝食は頂き物のメロン半分とシリアルだけだったので、キリのいいところで食事を取って事務所へ戻った。
朝食はメロンといっても、小玉スイカぐらいあって非常に重くて、その上やたらと甘かったので、半分食べた段階で腹いっぱいになってしまった。メロンは昨夜会った知人からいただいたものだが、知人も独り暮らしなのに「まだ家に2つある」といって、いささかもてあまし気味だったのはちょっと面白かった。



食べ物があふれるというと、最近槍玉に上がってるコンビニやスーパーなどの売れ残り食品を思い出すけど、実は日常的にあふれているような気がしてならない。まぁ、こういうネタを振るとすぐに「飽食日本」というか、もてあますほど食べ物を提供する側が悪いといった、ある意味「イノセント」な反応が返ってきたりするけど、実態はそれほど単純なものではないし、売れ残りが出ることは提供する側にとっても負担なのだよ(「売れないものは作らない」企業論理と賢い消費者)。



提供すると言えば、個展のオープニングなんかはかなり悩ましいところで、もちろんあまらせたくは無いのだが、足りないのも非常にばつが悪いというジレンマがある。基本的に立食で、しかも食べることに集中できない席だから、基本的にあまって困ることの方が多い。銀座アタリには、オープニングをはしごして空腹を満たす放浪者も出没するらしいが、あまるくらいなら彼らの胃袋におさまったほうがよいのは当然だ。
自分はやらないことに決めているからまぁいいとして、皆さん本当に悩ましいところのようです。
そういえば、月曜に表参道画廊で「Mess展」と「鈴木奈緒展」の合同オープニングにお邪魔させていただいたのだが、そのときは最初に「あまりそうで大変だ」といってもりもり食べ、やがて来訪者が増えて少しペースダウンし、最後はちょっとあまり気味かどうかという展開だったなぁ。



肝心の展示内容については、個人的に対象性が面白かったと思う。



というのも、タイトルが「ごたごた、混乱、めちゃくちゃ」を意味している「Mess展」は、確かに作風やインスタレーションこそバラバラであるものの、まず「写真であること」という共通の基盤がしっかりと存在していて、また個々の作品においても「内的な表現において整った世界を目指している」ことも共通しているのがはっきり表現されていたと思うのだ。



対照的に「鈴木奈緒展」は写真という技法を用いてはいるものの、作家の意識は完全にドローイングを志向しており、被写体の実存性は印画紙の中でどろどろに溶解している。



もちろん、どちらがどうといったものではないのだが、どちらもまた「写真であること」に、写真という表現技法の持つ幅広さ、美術における立場の不安定さ、ひいては写真を取り巻く環境自体が「ごたごた、混乱、めちゃくちゃ」であることを、はからずも端的に表した展示になっているのではないかと思う。



まだ会期は半分ほど残っているので、ぜひとも足を運んでいただきたい展示だ。



「Mess」展
会場: 表参道画廊
スケジュール: 2007年06月11日 ~ 2007年06月16日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469 ファックス: 03-5775-2469



鈴木奈緒 展
会場: ミュゼF
スケジュール: 2007年06月11日 ~ 2007年06月16日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469


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オリジナルプリントマーケットのあけない夜明け

2007-06-10 18:44:54 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は昼過ぎまで雨だったが、午後から急に晴れてきたこともあり、気晴らしをかねて出かけた。
ロールフィルムを2本消費したが、小型1眼レフのほうもだんだん調子がつかめてきたというか、考えずにシャッターを切るカットと、考えつつシャッターを切るカットがはっきりと分かれてきたように思う。



そんなこんなで、久しぶりに上野まで出かけ、東京藝術大学大学美術館の「陳列館」にて「写真: 見えるもの/見えないもの」展を鑑賞する。白状してしまうと、中山岩太氏のオリジナルプリントが目当てで出かけたのだが、そんな気持ちを完全に粉砕するだけの力を持った、すばらしい展示だった。もちろん、中山岩太氏のオリジナルプリントはすばらしく、それだけでも十分に満足はしているのだが、なんと言っても企画内容と展示作品とのマッチングがすばらしい。
特に展示のテーマとなった写真のメタフィクション性については、自身もテーマとして追いかけ続けていたものでもあるがゆえに、率直に言って「打ちひしがれるほど圧倒され」てしまった。また、年代的にも満遍なく目配りをしながら、注目すべき若手作家をきちんと押さえており、写真の「現在」を知るという点でも非常に価値の高い展示だ。
インスタレーションについても、作家の意図を最大限に尊重しているであろうことが十分に伝わってくるもので、空間的な制約が比較的厳しかったであろうことを考えると、インスタレーションも含めて楽しみたいし、自分自身も出来るだけ繰り返し鑑賞したい展示だった。



また、今回の展示はオリジナルプリントのすばらしさ、オリジナルプリントやインスタレーションの持つ表現力を十分に生かしたもので、ある意味では「オリジナルであるからこそメタフィクション性が強調された」という側面もある。そのため、前回のエントリーで触れたように、写真評論によって「オリジナルプリントを売ることの意味やオリジナルプリントそのものの価値」が全否定されたというのは、やはり日本の写真作家にとって極めて不幸な出来事だったし、写真評論の消えない汚点として語り継がねばならないと思う。



だが、そういう心情とは全く裏腹に、最近になって勢いを増しつつある、写真作家によるオリジナルプリントマーケット形成という試みについては、どうしても肯定的に受け止めることが出来ない。
確かに、自分は最近話題の「金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか」を読んで、6日には「画廊からの発言-2007」のシンポジウム『なぜアーティストは貧乏なのか? ―芸術という例外的経済―』における訳者のレクチャーも聴いているので、やはりどうしてもハンス・アビング的な考え方によっている部分もあるのだが、その分を割り引いてもあまり感心できる流れとはいえないのだ。



もちろん、日本でもオリジナルプリントのマーケットが成立したところで、アビングが指摘するようにほとんど全ての写真作家はその恩恵にあずかれないし、またマーケットが成立することによって「新たな見えざる障壁」が生まれる可能性も高い(つまり、バイヤーとつるんだ一部の作家が、マーケットのおいしい部分を独占するようなこと)。



しかし、自分もいい加減「オトナ」だし、そういうことに目くじら立てようというのではない。



逆に、トッド・マクファーレン村上隆のように、はっきりと「Creativityなんてのは、売れるコンテンツを作り出す能力のことだ」とか、あるいは「現代社会において、金銭的価値の無いものは存在する意味が無い」的な態度を明確にしてくれたほうがよほどマシだし、そうだったら自分も「あぁ爽快の阿藤快」という感じで流すことが出来た。
実際問題、例えコミケ並みの規模と米やん並みのカリスマティックな公平性が、新たに形成されるオリジナルプリントマーケットで「同時に実現された」としても、そこで生計を立てられるのは本当に一握りの作家だけで、また作家や周辺人物の形成する「暗黙の障壁」が形成され、新人の参入を「分かりづらい形で阻む」のは間違いない。
そして、そうならなくするための方法論の確立を「写真作家に求めるのは間違い」だ。



自分が本当にうんざりしてしまったのは、オリジナルプリント市場を再構築しようとしている人々が、むしろナイーブなまでに写真に対して真摯であり、また愚直なまでに「作家たらん」としていることだ。つまり、オリジナルプリントマーケットを再構築しようとしている人々は、本気で「それが写真というメディアの発展につながる」と信じていて、こういっちゃなんだがお気楽にも、マーケットが再構築されれば「より質の高い作品がモット世に出てくる」と信じてもいるのだ。
だからこそ、写真作品に表現されているイメージだけでなく、物質的存在としての写真が持つ質感とか明暗の調子とか、ボケ味とか、粒子感にもこだわっているのだろう。
さらに、写真に対して真摯であるがゆえに、マーケットへ持ち込む作品が「現代の美術マーケットで受けるような作品なのかどうか?」という、商業的な観点においては「絶対に避けて通ることの出来ない観点からの検討」すら、あえて無視しているのだろうというか、そう考えないと悲しくて嫌になる。



あくまでも自分が個人的に観た範疇ではあるが、ぶっちゃけ「腐女子の男装コスプレセルフやカラミ、リスカ痕のアップ」みたいなのが人気を博している現代の美術マーケットと、オリジナルプリントマーケットを再構築しようとしている人々が称揚する作品との間には、控えめに言っても無視できない距離があるとしか思えない。ただ、細江英公氏が果たしきれなかった夢が、時を隔てて実現するととらえれば少しは気も楽になるし、オリジナルプリントの販売に熱心な作家さんは世代的にも細江氏と近いように見受けられるので、その意味からも「遣り残した仕事」という意識があるのかもしれない(ただ、その細江英公氏自身は、既に「いわゆるオリジナルプリント」の世界から遠ざかりつつある)。
まぁ、だからこそ美術マーケットの現状を憂い、かつて傑作と呼ばれた作品や、その流れを汲むような作品を市場に出す意味があるとも考えているのだろう。



ただねぇ、それでもなお写真という表現手段には「超現実性」や「メタフィクション性」を、そしてなにより「神話を解体する冷静さ」を求めたかったんだな。
まぁ、個人的には、だけど…



もちろん、オリジナルプリント販売そのものを全否定するつもりはないし、そもそも最初に書いたようにオリジナルプリントだからこそ表現できる領域があることは、自分自身も十分に理解しているつもりだ。そして、表現を保存するという意味も含めた、販売行為の重要性もね。
ただ、オリジナルプリントマーケットの再構築に熱心な人々に対しては、オリジナルプリントの価値を高めようとするがあまり、ややもすると写真が否定し続けてきたはずの「アウラ」や「芸術の神話性」を、全く無批判に受け入れようとしているのではないかと思えてならない危うさがある。
だからこそ自分はどうしても肯定的に受け止めることが出来ないのだ。



かつて『provoke』において細江英公氏と、当時細江氏が推進していたオリジナルプリント販売を批判し、リアリズム写真に伍してコンポラ写真を世に問うていたのは、写真によって「芸術という神話を解体」するためではなかったのか?
そして、過去に日本の写真作家や関係者がオリジナルプリントマーケットの形成を妨害したという事実に対しても、写真や作品制作りに対する態度と同様の真摯さで向き合わない限り、一時的にマーケットが形成されたとしても、それは一過性のブームで終息してしまうのではないか?



少なくとも、オリジナルプリント販売のスター作家として森山大道氏の名前を見かけるたび、ちょっとはしごをはずされたようなむなしさを感じてしまうのだ。
こんな大道なら、まだ「腐女子の男装コスプレセルフやカラミ、リスカ痕のアップ」の方が、ナンボかマシだろうってね…



「写真: 見えるもの/見えないもの」展
会場: 東京藝術大学 大学美術館・陳列館
スケジュール: 2007年05月29日 ~ 2007年06月17日
開館時間: 10:00-18:00
住所: 〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8
電話: 03-5685-7755


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評論空間という戦場

2007-06-07 19:02:06 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は少し早めに家を出て、ほてほてと表参道画廊へ向かい、会期の変更などに関して打ち合わせをする。
途中、気の向くままにロールフィルムを2本消費したが、撮影している間にあれこれと新たな構想が沸いてきて、自分でも少々驚く。たとえ作品にならなくとも、ファインダに空間を配置してシャッタを切り、現像するという一連の行為から、ただ歩いていたときとは全く異なる見方が生まれるのだろう。



今週は「MUSEE F」で丸山トシカズ氏の個展が開催されているが、第一印象やインスタレーションの丁寧さとは裏腹に、さりげなく隙を見せている部分に興味を持った。作家氏にお話を聞かせていただく中でも確認を取ったのだが、手持ち撮影のもつキャンディッドな感覚と、被写体の持つ「率直さとは無縁のたたずまい」との関係を、マッチしていると受け止めるか、あるいはミスマッチのノイズを感じ取るかで、かなり評価が分かれるように思えてしまった。
ただ、個人的には比較的好みの作風でもあるし、この「さりげなく見せている隙」をひとつの芸風に出来れば、一気に出世してしまうような感触も得た。



また、表参道画廊ではSteven Berkowitz氏の写真展が開催されているが、こちらは既に十分なキャリアを積んだ作家でもあり、作品やインスタレーションには一部の隙も無い。また、展示風景やポストカードからもうかがえると思うが、相当に日本的な美を意識した作品でもあり、特に東海岸で評価が高いのはうなずけるところだ。
ただ、日本の鑑賞者にとってはあまりにも外連味が無さすぎるように受け止められ、かえって「お高い」イメージが生まれるかもしれない。まぁ、個人的には外連味なんて無いに越したことはないと思うのだが、なんだかんだ言っても好きな人が多いからね。



少し長居をしてしまったので、昼食も取らずに事務所へ戻ったら、直後に社長がやってきたので、少し罰の悪い思いをする。
その後はいつものように打ち合わせだのなんだのが始まるのだが、年初の予想をはるかに超える市場状況の急速な悪化振りに、話しながらもすっかり気がめいってしまう。



こういう時、他業種なら必ずといっても良いほど「宣伝活動」の話が出るらしいが、ことにオタク相手のゲームではいささか話が変わってくる。例えば、最近ではPS3の不振が如実に示しているように、宣伝の大量投下でオタクの心をつかむことは至難のわざと言え、あの秋元康ですらドリームキャストをはじめとするゲーム市場では失敗の連続であり(アイドルプロデュースも失敗続きという話があるけどね)、市場規模の違いがあるといっても難しいことに変わりはない。



これは、顧客となるオタクが「下手な業界人より商品知識を持っている」という、オタク業界に特有の背景によるもので、オタク相手の商売を続けている限り「永久に逃れることの出来ない宿命」でもある。恐ろしいことに、これは「評論」に対しても同じことが言え、ソニーのような評論の捏造は論外としても、例えば御用評論家に提灯記事を書かせるといった工作が、少なくともゲームオタクにはなかなか通用しないのだ。



そもそも、宣伝や評論で顧客の注意をひきつけるためには、顧客に対して販売側が「圧倒的に商品知識を持ち、それを小出しにできる環境」が必要で、表現は悪いが「知識の偏在を悪用」しているわけだ。そのため、顧客と販売側の知識差が大きければ大きいほど、その差を埋めるための宣伝や評論が大きな力を持つということになる。



恐ろしいことに、これは芸術分野においても同じことが言えるというか、むしろ芸術分野においては「受け手が作品の良否を判別しづらい」ことに乗じた、評論による作品ジャンル同士の、あるいは作品ジャンル内での権力抗争が常態化しているといっても過言ではない。



写真というジャンルにおいても、古くは戦前の光画による新興写真の称揚と大正期芸術写真ピクトリアリスム)の全否定から(そういえば「ライカ対コンタックス論争」ってぇのもありましたな)、報道写真に代表される戦中から戦後にかけてのリアリズム偏重をもたらした写真雑誌の選評等がある。これらの論争や選評などを目にした方は既にご存知であろうが、いずれも論者の価値観を逸脱した作品は作品にあらずといわんばかりの、非常に断定的かつ攻撃的な論調であり、多様性を重視する現代の価値観では到底容認できるものではなかろう。
個人的には、細江英公氏が1970年代にオリジナルプリントの重要性を説き、作家自身が個展などを通じてオリジナルプリントを販売する道を拓こうとした際、当時のアサヒカメラが誌上で執拗な攻撃を加え、せっかく育ちかけたオリジナルプリント市場の芽を摘んだという悲劇に(また『provoke』においても、神話性解体の観点からオリジナルプリントの販売を批判していた)、現代まで影響を及ぼす特別な痛ましさを感じる。



これは、価値体系が溶解したといっても過言ではない現代芸術の世界において、よりいっそう熾烈なものとなるのだが、とりわけ1990年代以降は評論が作品価格をダイレクトに左右することが増えたため、作家自身にも作品と同様かそれ以上の熱心さで制作理論を構築することが求められるようになったといえよう。
ただ、制作理論を無視した現代美術に対する価値判断は、おうおうにして勝手な作品解題や単なる感想の羅列に陥ってしまうため、それならば制作理論に重きを置く方が、作家自身が関与している分まだマシということにもなろう。確かに、あえて作家の意図とは異なる文脈から作品を解題したり、純粋に感じたことを表現することも重要といえなくも無い。
しかし、異なる視点からの作品解題は単なるこじつけとなることも多いし、特にフロイトがはじめた精神分析的解題のこじつけぶりは、いささか目に余るものがあるといわざるを得ないし(まぁ、最近も精神科医や脳科学者による美術評が人気を博しているけどね)、ソンタグもあれこれ言いたくなろうというものだ。ましてやただの感想となるとモットひどく、感じたままという口実で「罵詈雑言を並べたてただけ」の文章が実に多いが、そんな代物ですら時として影響力を持つというのが悲しいところだ。



まぁ、こんな調子だから現代美術愛好者は自分なりの意見を熱心に語ろうとするのだが、いかんせん現代美術の領域はやたらと広大で、オタクにすらなりえないまま「ただ評論家や作家の言葉をパッチワークしただけの文章」が大量増殖するという有様だ。ひどいのになると、他人の文章をつぎはぎ的に引用しておきながら、キーワードをピックアップして「○○という言葉は自分の観点から自己流に使っている」とか断り書きして、他者の反批評をかわそうとする姑息な輩までいる。
こんなんじゃ、いつまでたっても評論家のやりたい放題だと思うけど、これは本当の意味で「ファンの資質や能力」に依拠する問題だから、自業自得の自己責任ってことになっちゃうだろうな。



まぁ、オタク評論でメディア露出度の高い帽子お化けこと唐沢俊一氏からして「盗用疑惑に平身低頭」という有様だから(からから文だなこりゃ)、あんまりオタクの世界を持ち上げるのもどうかとは思うんだけど、それでも宣伝や評論に騙されにくいという点においてのみ、少なくともオタクの方がまだ健全だとは思うよ。



健全といっても、大阪のおばちゃんぐらいには、だけどね。



丸山トシカズ 展
会場: ミュゼF
スケジュール: 2007年06月04日 ~ 2007年06月09日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469



スティーブン・バーコヴィッツ 展
会場: 表参道画廊
スケジュール: 2007年06月04日 ~ 2007年06月09日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469 ファックス: 03-5775-2469


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それは本当に作品を顕彰しているのか?

2007-06-04 20:47:45 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は新しく紹介していただいた事務所との顔合わせや、反対にしばらくご無沙汰していた方とお互いの近況を報告しあったりと、あれこれあわただしい1日だった。まぁ、そんな中でもぽちぽち撮影して、ロールフィルム1本ばかり消費したのだから、文句言ってた割りには小型1眼レフをよく使っていると思う。



さておき、個人的にも最近は精力的にあちこちの展示を観ており、これまで面識の無かった作家氏とも活発に交流している。中でも非常に面白かったのは、とある平面ミクストメディアの作家氏と、木村伊兵衛写真賞についてあれこれ話し合ったことだった。



その作家氏は「いわゆるジェンダー」を制作テーマにしてることもあり、鷹野隆大氏が写真集『IN MY ROOM』で木村伊兵衛写真賞を受賞したことから、写真の世界においてジェンダーはどのように受け止められているのか、ある種の過剰な期待を持ってあれこれ見聞きしたところ、逆にむしろ保守的かつ商業的な色彩が濃いことを知り、さらに写真家たちの多くが「そのことに対して全く疑問を持っていないかのように見えたこと」に対して、大きなショックを受けていたのだという(ここで微妙なフェミ臭を嗅ぎ取った方がいたら、とりあえず「いい勘してるね」と言っておきます)。



ところが、まぁフェミやLGBTの方々はもちろん、芸術プロパーの方々も「写真の世界は分からないよ」という調子で、問題意識をなかなか共有できない。それどころか、ある作家氏には「日本の写真は芸術かもしれないけど、日本の写真家は芸術家じゃないよ」と、ぶっちゃけ「あんな連中のことなんか知らん」とばかりにほうり投げられてしまったそうで、憤懣やるかたなかったところにのこのこ自分なんかが現れたものだから、コレまで鬱積していたものをそっくり引き受けさせられちゃったというわけ。
ただ、某作家氏の「日本の写真は芸術かもしれないけど、日本の写真家は芸術家じゃないよ」発言には、反発を感じると同時に、実はすごく名言なのではないかと思う。まぁ、あえて個人的に補足するなら「日本の写真は現代芸術かもしれないけど、日本の写真家は現代芸術家じゃないよ」というところか?



さておき、ここではその作家氏とのやり取りを詳しく書き記したりしないが(なにしろ、作家氏の中で1年近く「熟成」されていたネタだし、自分自身も木村伊兵衛写真賞に代表される写真界のあれこれにはいいたいことが山ほどあったので、最後は単なるリーマンオヤジのぼやき大会と変わらなくなったしね)、ただ次の一言は自分にとってひどく重くのしかかり、そして出来れば触れて欲しくない部分にも容赦なく浸透する力を持っていた。



それ(木村伊兵衛写真賞)は本当に作品を顕彰しているのか?



彼の言葉には、木村伊兵衛写真賞が「写真集に対して与えられる賞」との誤解が背景にあったものの、事実上は写真集もしくは「雑誌掲載写真」に与えられる賞となっているし、現にここ10年は写真集以外の受賞実績が無いのだから、問題意識としては間違っていないと思う。もちろん、写真は複製芸術なのだから、写真集を顕彰してもなんの問題もないし、むしろ写真の特性をアピールする意味では正統的とさえ言えよう。
逆に、オリジナルプリントと印刷物とを厳密に区別しようとする姿勢が、美術関係者の旧来の芸術ドグマに捉われている証拠とすらいえるのかもしれないが、少なくとも写真集あるいは雑誌掲載写真と写真作品を同一視することはあまりにもナイーブだと思うし、やはり写真集や雑誌掲載写真と写真作品は別物であり、それらを顕彰することと作家や作品を顕彰することを同一視するのもまた、あまりにもナイーブに過ぎるとは思う。



細部の問題をあげつらっても仕方が無いので、根本的な部分のみの指摘にとどめるが、どう考えても写真集や雑誌掲載写真は「編集者と作家との共同作業によるもの」であり、広い意味においても「作家の自律性が確保されているとは言いがたい」のだ。もし、写真集や雑誌掲載写真を顕彰するのであれば、写真編集者やデザイナーも含めた、ひとつの「チーム」として顕彰すべきだと思うし、それを無視して全てを作家の業績に帰するというのは、控えめに見ても問題のある行為だと思わざるを得ないのだ。



もちろん、賞の権威を利用して写真集の販売につなげようって意図もみえみえなんだけど、そういうことにまで目くじら立てるほど若くは無い。ただ、写真を誇らしく世間にアピールするための顕彰行為であるにもかかわらず、ある意味で最も重要な「写真作品とはなにか」というものに対して及び腰というか、きついことを言うと適当に棚上げしてその時々の評価に委ねてしまうといういい加減さが、芸術家を気取りながらも芸術に対する真摯さを持ち合わせていないと、そう受け取られても仕方の無いなにかを持っているとは思う。
だからこそ、自分は某作家氏の「日本の写真は芸術かもしれないけど、日本の写真家は芸術家じゃないよ」という発言に対して、反発しつつも一面の真理を感じ取ってしまうのだ。



挙句、この木村伊兵衛写真賞は「新人賞」という位置づけで、しかも「写真界において最も権威ある賞のひとつ」とされているのだから、まぁ芸術プロパーでなくとも首を傾げたくなろう。実際、その作家氏も「作品集出すようになったら新人じゃ無いだろ」とか、また「ほんとに写真関係の人はコレでいいと思ってるの?」とか、それこそ言いたい放題のぼろくそではあったけど、自分もいちいちうなづくしかなかったね。



まぁ、個人的には写真関係者と芸術プロパーとの断絶や、溝の深さを皮膚感覚で知ることが出来たのは貴重な経験だったし、その作家氏にしても芸術プロパーが写真を軽く見たり距離をおきたがったりする原因がつかめたようだから、お互いに有意義な時間をすごせたのだろうとは思う。



とりあえず、自分はなにかひとつの世界に囚われることなく、常に越境し続けるしかなさそうだと、その日はそんな決意を新たにしつつ、自らも自身の問題を適当に棚上げしてその時々の評価に委ねた夜だったね。


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来るべき「誰でもピカソ」時代

2007-06-01 18:48:52 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は「電波の日」でもあり、エントリもそれにちなんで「ゆんゆん」してみました。
まぁ、今日は同時に「写真の日」でもあるし、また展示に重要な変更があったりもしたのですけど、それはまた別の日に送ります。



さて、今日は月初ということで作業の進捗状況を確認したり、今後の方針などを話し合ったが、思ったよりも時間がかからなくて助かった。



まぁ、打ち合わせの後はお決まりの雑談になるのだが、著作権がらみのきな臭いあれこれや、麻生外相のぶち上げた国際マンガ賞(正式表記は国際漫画賞)なんかが話題に上る。とはいえ、自分らが現在手がけているような美少女ゲームは、お上から目の敵にされるようなことがあっても顕彰されるようなことは全く無いし、それどころか「第1回国際漫画賞実行委員会」メンバーに名を連ねている浜野保樹という変節漢なんかは、ゲームを目の敵にし始めているぐらいだから、まぁやっかみ半分の冷やかし半分といったところだったけどね。



むしろこのような賞が創設されることによって、これからはオタク産業へ進出する個人や企業がますます増え、競争が激化することを迷惑がる空気さえあった。まぁ、企業のほうは収益が上がらなければさっさと撤退するか、あるいは倒産するだけだからいいとして、問題は個人のオタク作家志望者たちとどのように向き合うかであろう。



というのも、人種に出自、性別や性的志向、あるいは貧困等によって社会の主流から排除された人々の多くは、ほとんど無資本で自由に参入できるアートやエンターテイメントセクタへ流入する傾向があり、その一環としてオタク産業への流入が予想されるからだ。もちろん、全てがアートやエンターテイメントセクタへ流入するのではなく、スポーツや政治セクタ、軍事セクタ、宗教セクタも一定数の人々を吸収する。
だが、これらのセクタは競技成績や選挙、部隊の定員、あるいは宗教的戒律などによって、ある程度以上の流入規制が存在しており、そこからもあふれた人々は私的もしくは公的な援助に頼るか、悲惨な場合は犯罪に走るか路上生活を余儀なくされることとなる。



日本においても、アートやエンターテイメントセクタが多くの性的少数者在日コリアンを吸収してきたのは公然の事実であり、スポーツや政治セクタ、宗教セクタも同様で、軍事セクタの代わりにパチンコ産業を設定すれば、諸外国と同様の事態が発生しているといえよう。その上、恐ろしいことに今後は家族や社会の援助余力が急速に減少するのは確実であり、両親などが養っていた若年無職層や、公的支援でなんとか息をつないでいた貧困層もまた、アートやエンターテイメントセクタへ関心を向けることは明らかといえよう。



もちろん、アートやエンターテイメントセクタで成功する確率なんぞ宝くじに当たるよりもさらに小さく、しかも宝くじを買うよりもはるかに大きな労力と時間を必要とするのだが、それでも「当たれば人生イッパツ逆転」という魅力に惹かれる人は少なくないと断言できる。



つまり、まもなく「誰でもピカソ(を目指さないと喰っていけない)時代」が到来するのだ。



では、その「誰ピカ時代」が天から降ってくる前に、自分たちは何をなすべきかというと…



ちょっとココではいえないぬぅw



ただ、逆に「やってはならない」ことは、非常にはっきりしていると思う。
具体的には、他山の石というか反面教師にすべき事例として、某掲示板で「勝利宣言」としてあざけりの対象となっていた、次のような文章を周囲の人々へ紹介した(引用部は斜体表記、元ねたはこちら)。
この文章はとある個人のサイトで公開しているものだが、文章自体がある種のテンプレートといえるほどありふれたものであり、既に高い社会的評価を得ている芸術の周辺に存在する人々の、オタクをはじめとするサブカル関係者に対する「WEBでの態度」として非常に一般的だと思われたので、この場にも引用させていただいた。



あ、そういえば、昔から時計でも弓でも写真でも度々*ちゃんネタにされてたり攻撃されてますが、私はそういったのに全然興味ないので 何処~で書かれてたよ~ といった様なご報告は無用ですよ~
私は*ちゃんは一切みませんし、ブログとかも自分で情報を求めて検索してみる事はあっても他の意図?で読みに行く事もしない人間なもんですから、、、
そもそも、ネットでのそういったものというのは僻み妬みが根本ですから、読むに値しませんし、それにいちいち反応する価値もありません。
ゴチャゴチャ書いたところで、所詮は僻み妬みでしょ の一言で片付いてしまう事に時間を割く事の無意味さを承知しておりますから、、



仕事柄色々と著名な方と交友させていただいてますが、皆さんそういった事の対処は同じです、、
能力の無い人の僻み妬みに付き合う暇があったら己を磨く事に時間を割く と、、



まぁ、そんな事はどおでもいいんですが、度々書いている様に、私自身まるで興味ないのでご連絡は必要ありません~~
私の成りすましも居たりしますけど、、 自分にとってその他大勢の存在の方にどう思われようがどおでもいいですし、私を知ってる人は成りすましかどうかはすぐ判ってくれますので、放置してます、、
ネット上でいくら文章を書きなぐったところで、リアルの 己の技量 がなければ空しいだけです。



この文章において「僻み妬み」がひとつのキーワードになっているが、確かにこの文章を書いた人物が攻撃されたのは「僻み妬み」によるものであり、その点についての認識は間違っていないといえよう。しかし、その「僻み妬み」は決して文章を書いた人物の「才能や業績」に向けられたものではなく、文章を書いた人物が自慢げに語っている「己の経済的文化的資産」であり、さらにそれらの資産を「さしたる努力もせずに親から受け継いだのではないか?」という疑念を呼び起こしたことが、多くの人々からの「僻み妬み」を買ったのだ。



ぶっちゃけ、この文章を書いた人物は「自らが銀の匙をくわえて生まれてきたことを自慢していた」ように受け止められ、そして当然のように「僻み妬み」によって攻撃されたというわけだ。



また、この文章を書いた人物は、自身の才能や業績をほとんど公開しておらず、たとえ一部に公開していたとしても、それは「僻み妬みのあまり攻撃している人々に全くといってもいいほど届いていない」のだ。特に致命的だったのは。非常に不用意な形で「コスプレの芸術的な魅力に気づいている人は少ないが、自分はその魅力を理解している」という趣旨の発言をしたことらしく、にもかかわらず当事者たちから「あんまりコスプレのことわかってナイっぽい」と判断されたため、実力とは無関係に「口だけの人」というイメージが流通することとなったそうだ(伝聞情報)。



それに加えて、この文章を書いた人物の基本スタンスは「私は優れた文化的教養を持っており、よいものと悪いものを見抜く力を持っているから、間違った作品を称揚したりマナーの悪い『自称写真家や作家連中』には容赦なく筆誅を加える」という、極めて悪い意味で評論家的なものとなっている。



もちろん、ここまであからさまに読み手の反感を買うような文章だけをピックアップすれば、誰しも「こういうことはしない」と思うだろうが、自分はそれほど単純なものではないと考えている。というのも、この文章を書いた人物が「高い文化的経済的資産」をもっている、つまり、まず自身が優れた知識と教養をもち、同時に同レベルかそれ以上の知識や教養を備えた人々とのネットワークもあり、さらにその優れた知識や教養にふさわしい高価な機材や制作環境を手にしていることは間違いない。



つまり、この文章を書いた人物の「優れた文化的教養を持っており、よいものと悪いものを見抜く力を持ってい」という自己認識は、恐らく十分な根拠を持っているであろうということなのだ。



では、なにが問題となったのかというと、ここにおいて問題となったのは「この文章を書いた人物の才能や業績が、その人物を攻撃している人々へ伝わらなかったか、あるいは理解できなかった」ことではないかと思う。



これは非常に危険なことで、自らの才能や業績をきちんと伝え、ある意味では「受け手を圧倒し続け」ない限り、常に攻撃されるリスクを伴うということではなかろうか?



少なくとも、自分たちは美少女ゲームというジャンルで業務として製作活動に携わっており、その段階で既に受け手より上位の存在である。そのうえ、個人としても既にオタクとして相応の年季をつんであり、蓄積がものをいうオタク世界においては、比較的強い立場いるのだ。特に自分たちが先に生まれて「オタクとしての経験を積んでいる」という部分は、問題の文章を書いた人物が裕福な家に生まれて文化的に優れた環境に育ったことと同じぐらい、ある種の僻み妬みを刺激する要素となりえる(ガンダムの「本放送見た自慢」すると激しく嫌われるようなものだ)。



自分たちにしても、最初に触れた国際漫画賞に対してやっかんでいるし、これが切羽詰った状況で「ゲームにかけるしか人生を拓くすべは無い」と思いつめた若いオタクなら、もっと激しい反応があっても不思議ではないだろう。



たとえ衆目が認める才能や業績があったとしても、異なる世界の住人や知識と経験が不足している後輩の言動に対して、ただ一方的に「僻み妬み」と決め付けるのは、控えめに言っても傲慢なこととみなさざるを得まい。まして、その才能や業績がきちんと伝わっていなかったなら、むしろ「僻み妬み」と決め付けた方が人間的な問題を抱えているとすらいえよう。



そのことをよくわきまえ、不用意に自らの価値観を自明としたり、あまつさえ上からものを言うような言動は決してしないよう、日々自らを戒めていかねばならないと思う。



といいつつ、そろそろ始まるサッカーが気になって仕方ないぬぅ


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