知人の作家氏から招待を受け、思いがけず牛丼のねぎダクをご馳走していただいた。
来年、作家氏は新しくアトリエを構えるという事で、それはたいそうめでたいお話と思ったが、どうやら喜んでばかりはいられないらしい。というのも、作家氏の実家がある地方自治体で、地域振興事業の一環として遊休施設の一部を「才能あふれるクリエータ」に貸し出すこととなり、いろいろのカラミから知人にも声がかかったという事情があったのだ。
知人にしてみれば、いわゆる「村おこし」に協力するのはやぶさかでないものの、実家からは近いといっても基本的には交通の便が悪く、東京と実家との二重生活を強いられるのは避けられないうえ、自治体の地域活性化事業へ協力する義務が生じることといった不安要素もあり、いろいろ悩んだ末に決断したことらしい。
中でも気がかりだったのが、自治体より「地域活性化と地場産業の育成につながる事業の創造」に協力することが求められている点で、場合によっては作家自身の自立的な創作活動に制約が出てくる可能性もあることだった。まぁ、知人自身は「故郷への恩返し」と割り切って、しばらくは品行方正に活動していくつもりのようだし、まかり間違っても「遠近を抱えて」(富山県立近代美術館事件もしくは大浦コラージュ事件の発端となった作品)のような作品を手がけたりしないだろうから、その点は大きな障害にならないのだろうが、老婆心ながら先行きが少々気がかりでもある。
というのも、先日のエントリー(他者の目線)で触れた「週刊金曜日差別表現事件」のような問題になると、作家自身による予防措置には限界があると言わざるを得ないからだ。 実際、問題となったルポルター ジュ「伝説のオカマ」を執筆した及川健二氏や、また取材を受けた東郷健氏に差別意識が無いことは文章にも現れていると思うが、記事を読んだすこたん企画のメンバーは内容およびタイトルが差別に当たるとして抗議している。
もちろん人々や団体の価値観によって問題意識のありようは大きく異なるし、また事前にあらゆる人々や団体の価値観なり問題意識なりにあわせて、あらかじめ表現を規制するというのは単なる自主検閲なのだから(そもそも、そんなことは不可能だ)、やはりある一定のリスクは生じてしまうだろう。さらに問題なのは、自治体における地域振興事業の一環となっていることで、そのことは問題が発生した際における対処を難しくしているように思えるのだ。
例えば、知人から「週刊金曜日差別表現事件」のあらましを聞いた自分は、いささか短絡的ではあったものの抗議に反対する姿勢を示し、それどころか「言葉狩り許すまじ」のような怪気炎を上げていた(いま思い出しても、本当に恥ずかしい限りなのだが)。だが、もしも当時の自分が現在の友人と同様の立場に立っていたら、週間金曜日編集部と同様に腰の引けた対応をとったのではないかとも思う。
本来、作家とは自らの価値判断に従って制作するものだが、時として受け手の価値基準を意識しつつ制作しなければならない場合もある。とはいえ、受け手の価値基準を過剰に意識しすぎてしまえば、作家自身がナルシシズムの迷宮に迷い込んでしまう危険性があるのだ。現在は様々な人々が多様な局面で「ナルシシズム」という言葉を用いるようになったため、いささか意味が拡散しすぎているようだが、もともとはギリシャ神話の物語から命名された精神分析用語である。
作家がナルシシズムに陥ると、自分自身の存在や価値基準への自信が失われ、なにに価値を見出しているのか、どのように制作したいのかを、自律的に判断することができなくなる。コレだけでも作家としては壊滅的にまずいのだが、しまいには「作品を通じて受け手から肯定的に評価される」ことが制作目的となり、作品への賞賛ばかり求めるようになる。だが、困ったことにナルシシストの作家は極めて多く、また作家がナルシシズムに陥らないようにするためには、相当な努力と精神力が要求されるのだ。
事実、知人が自治体の担当者らと懇談した際にも、作家として活動の方向性を聞かれたある人物が、なぜか「自らの作品が美術コレクターからいかに高く評価されているか」や、また「その道では一流とされる人物の仕事よりも、その人物が制作した成果物の方が高く評価され、最終的には差し替えになった」という話をし始め、周囲の人間を困惑させたそうだ。結局、その人物は最後まで「自らの作品に対する周囲の評価」 のみを語り、作家としての方向性については語らずじまいだったらしい。
また、別の人物は地域の住民とよりよく交流するためのアイディアを求められた際に、なぜか「景勝地に三脚やイーゼルを持ち込むことの見苦しさ」をとうとうと語り始め、しまいには「三脚やイーゼルが林立する本当にゾッとする光景」を野放しにするのは問題だから、自分がボランティアとしてパトロールしてもよいとまでいいはじめ、これまた周囲の人間を困惑させていたという。
これらはナルシシズムに陥った作家の典型的な反応で、前者は「自らの作品に対する評価」が作品の全てとなっているため、創作活動における方向性を喪失してしまったと観るべきだろう。また、後者は周囲の目線を気にするがあまりに、その人物にとって怪しからん他の制作活動を排除することで、自らの正当性を主張しようとしているのであろうが、いずれにしても余計なお世話というほかない。
知人ともいろいろ話し合ったが、自治体の援助を受けることは本当に諸刃の剣であり、素人にはお勧めできないというのがよくわかった。
というわけで、ねぎダクもういっちょ!