日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「大ビル」に昔を懐かしむ

2009-08-14 12:40:34 | Weblog

 大正末期、大阪が日本一の都市になった「大大阪時代」に建てられたダイビル本館(大阪市北区)。往事の栄華をとどめるモダニズム建築の傑作も、取り壊されることが決まっている。

昨日(8月13日)日経夕刊の大ビル取り壊しのこの記事を見て、遂にその時がやって来たと思った。私が最後にこのビルに入ったのは、大阪大学理学部跡に建てられた国立国際美術館で「ゴッホ展」を観た時なので、4年前のことになる。西側入り口から入った右手のカフェテリアで食事をした。レトロな建物の中で、モダンなカフェテリアの内装が映えていた印象がある。このカフェテリアに限らずビル内の店舗にかなり手が加えられていたが、それが落日前の一瞬の輝きのようにも見えて、いつまで持ちこたえるのだろうと思ったことがあるからだ。

理学部のある中之島地区に通ったのは1956年4月から1966年までのほぼ10年間である、その間、1961年9月には第二室戸台風で堂島川が氾濫、大洪水になり理学部地下の研究室はほぼ完全に水没してしまった。しばらくは蛋白研に間借りしていたが、われわれの研究室が移ることになっていた株式会社寿屋(サントリー)の寄贈による鳥井記念館の着工が台風のやって来る寸前の8月に始まっており、翌年4月には完成したので5月からは理学部西隣の新しい研究室に移った。そして1966年に理学部が豊中キャンパスに移転するまでこの中之地区に通ったのである。

その頃は神戸から国鉄で通っていた。大阪駅から四つ橋筋を南に下がり渡辺橋を渡って右に折れると朝日新聞社の前に出る。時間時になると発送のトラックの出入りが頻繁で、黄色の警告灯が回り出してはよく足止めを喰らったものである。もう少し進むと左手に新大阪ホテルが見えやがて大ビルにさしかかる。玄関ホールに入り店舗の並んでいるアーケードを用事がてらに通り抜けて西出口から外に出ると目の前に医学部の建物がある。左折してやや南に下がると理学部の建物に辿り着く。

用事がてらに通り抜けると書いたがそれほど大した用事ではなく、よく入ったのは文房具などを扱っている店であった。時には理髪店を利用した。以前に理学部の建物について次ようなことを書いたことがある。

正面の北端には門衛所のような小さな建物があってそこは理容室になっていた。私の恩師も愛用なさっていたようである。洗髪の際には電熱かガスコンロで暖めたのであろうかアルマイトのヤカンから頭に湯を注いでいる光景を目にしたものである。ヤカンに恐れをなしたわけではなく、そういう偉い先生方が順番待ちをされているようなので、学生の分際では恐れ多いとばかり敬遠していた。

偉い先生を敬遠して、なんと貧乏学生が大ビル内の理髪店で散髪をしていたのである。頭では負けないぞ、と稚気満々であったのだろう。

一番お世話になったのが西出口に接した銀行だった。何銀行だったのか記憶にないが、学部学生から大学院生にかけて奨学金が毎月振り込まれていたのでそれを出しに通ったように思う。ところが今になってその時の情景がまったく思い出せない。ただあることだけははっきりと記憶に残っている。それは研究室の先輩の話なのであるが、その銀行の窓口の美人行員を見初めて、顔を見たさにお金の出し入れにせっせと通ったというのである。お金の出し入れを繰り返すだけなら貯金は減ることがないから、毎日何回でもタダで顔を見に行ける。その熱意が功を奏したのか、気がつけばその先輩は見事彼女を射止め、さらには東京に本社のある大手製薬会社に就職したのである。私がさくら丸でアメリカに渡航する途中、横浜に寄港した折に、二人の小学生の息子さん共々見送りに来て下さった。その息子さんがやがては二人とも超有名大学の医学部を出て医者になり、ご本人も研究所所長に任じられたのはさらにその後の話である。この先輩にとって大ビルこそ天女にして福の神の舞い込んだ青春の華やかな舞台であったと言えそうである。

大ビルのテナントは8月末までに退去するそうである。まだ建物が閉ざされない間にぜひもう一度訪れたいと思う。




最新の画像もっと見る