日々是好日

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世界水準の研究教育拠点そして経費関係調書非公表の怪

2007-07-10 16:27:22 | 学問・教育・研究
7月3日のエントリー「グローバルCOEプログラム」と高校野球甲子園大会の続きである。何故このプログラムを『虚構』といったのか、その説明である。

平成18年3月に21世紀COEプログラム委員会(以下委員会と略記)が公表した「21世紀COEプログラム」の現況等に関する検証と今後の展望について-検証結果報告書-(以下報告書と略記)の最初に次の文章が出て来る。

《「21世紀COEプログラム」は文部科学省が大学の構造改革の方針(平成13年6月)に基づいて、各大学が競争的な環境の中で個性輝く世界水準の研究教育拠点を形成することを目的として創設された事業です。》

この報告書のなかに「世界的」と形容詞を被せた文言が60カ所に出て来る(Acrobatによる検索)。「世界的な研究教育拠点」「世界的な人材育成や研究を行う拠点の形成」「世界的な水準の研究教育拠点}「世界的水準」「世界的な拠点形成」「世界的レベル化」「世界的認知」などなどである。明治維新後、これから西洋の文物を取り入れようと国家的大事業を始めた明治政府の意気込みを彷彿とさせる。しかし明治維新後一世紀以上を経たわが国の学術研究・教育のレベルが、「世界的」をかけ声に奮励努力をしなければならないほど低いのだろうか、と、つい突っ込みを入れたくなる。それよりも不思議なのは、それほど強調する「世界的」の意味するところが、定義といってもいいかと思うが、この報告書のどこにも現れていないのである。

この報告書には委員会が審査・評価委員、拠点リーダーを対象に行ったアンケートの調査結果が検証の基礎資料として記載されている。このアンケートに「採択されたことによる世界水準の拠点形成の推進」との設問がある。これに対して委員と拠点リーダーが合わせて以下のように答えている。①非常に進んでいる 113件;②進んでいる 291件;③あんまり進んでいない 34件;④まったく進んでいない 1件;⑤どちらももいえない 17件、それに無回答が7件である。(報告書 57頁)

答えようのないこの設問に、ほとんどの人がちゃんと回答しているのが私には理解できない。私はかって哲学者ウィトゲンシュタインの言葉《「答えが成立するときだけ問いも成立し、そして何かが語られうるときだけ答えも成立する」》に出会してなるほど、と思った。その論で行くと、回答のしようのない設問は設問にならないのである。この定義のしようのない、だから実体を伴わない「世界水準の研究教育拠点を形成」を目的に掲げているから「21世紀COEプログラム」は私にいわせると『虚構』なのである。平たくいえば『作りごと』である。哲学者といわれる次期阪大総長の鷲田清一氏が委員に加わっておられたら、この虚構を一気に喝破されたことであろう。

どこが『作りごと』になるのか、「世界水準の研究教育拠点を形成」を一つ取り上げてみる。

ここに「研究教育拠点」とあるが、拠点リーダーは自分たちの研究遂行能力をどのように自己評価するのだろう。私の見るところ「世界的」(以下、私なりのイメージで使う)と自負しておられると思う。ある程度私も関係した生命科学の分野では、まさに「世界的」レベルの方々が肩を並べておられる。審査・評価委員も同じような見解であろう。ということは拠点は既に「世界的」レベルに到達しているのである。出発時に既に「世界的レベル」に達しているのに、「世界的水準の拠点形成の推進」がプログラム開始3年間に「非常に進んでいる」と評価するのはある種の『粉飾』である。

「世界的」レベル一歩手前の拠点を「世界的」レベルに押し上げるために資金援助をするというのなら話としては分かる。しかしそれでは第二位を目指して頑張ってきたところしか、応募資格がないということになり、およそこの競争社会では非現実的なことである。

研究面に限らず教育面でも同じである。教育の成果はすぐに現れるものではない。五年十年経たないことには評価できない。当面大学院生の数は増やしたことが「博士浪人」予備軍にならないとの保証はない。教育面でも評価できないことを評価しようとするところに『作りごと』が生まれてくる。

「世界的」という言葉に共通の理解があると思うかどうか、とアンケートで問うべきであった。

ちなみに平成14年度21世紀COEプログラム公募要領にはこの事業の目的に《21世紀COEプログラムは、我が国の大学に世界最高水準の研究教育拠点を学問分野毎に形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図るため、重点的な支援を行い、もって、国際競争力のある個性輝く大学づくりを推進することを目的とするものです。》と「世界最高水準の研究教育拠点」なる言葉が使われているが、報告書では何故か「世界水準の研究教育拠点」とトーンダウンしている。「21世紀COEプログラム」で「世界最高水準」を達成してしまうと、「グローバルCOEプログラム」の謳い文句が無くなるからであろうか。「世界的」にせよ、また「世界最高水準」にせよ、その程度の言葉遊びのようである。

言葉に少しとらわれすぎたようであるが、言葉に幻惑されて人は事の本質を往々にして見失ってしまう。ここで私のいう事の本質とは、わが国における研究・教育制度のあるべき姿である。1990年代に大学制度を大きく変貌させた大学院重点化の検証があったのかなかったのか、国民には見えてこないままに、新たに導入されたこのCOEプログラムを大学院重点化との関連で眺めてみる。

ここに「京都大学理学部における大学院重点化」という当時理学部評議員であった鎮西清高氏の話がある。1992年7月11日に京大職組理学部支部が催したミニシンポジウムの席上で話された。それには大学院重点化における改革の理念として①広い視野と創造力を持つ、高級研究者の養成、②分野横断的でフレキシブルな教育研究組織と、競争的環境の実現、③国内外に開かれた、最高研究教育機関(COE)の一つ、の三点が挙げられている。1990年代の大学院重点化は大なり小なりこのような構想の下に推し進められたもので、旧7帝大をはじめ13の国立大学で大学院重点化が一応終了している。この構想は基本的にはCOEプログラムの教育拠点形成面の先駆をなすもとも云える。

大学院重点化の結果、1991年に98650人であった大学院学生が、2003年には230844人まで増加している(さらに専門職大学院生が645名)。この制度を発展的に維持するには、それに見合った基盤的経費の拡充が必須であるが、その手当が十分になされたとは聞こえてこない。この拡充が十分になされないままに、COEプログラムという競争的資金への依存度が高まると、結果的に金持ちと貧乏人の格差が生まれ、大学院重点化の形骸化で終わる恐れがある。COEプログラムにより日の当たる側のみが喧伝される危険がここにある。

ところで『虚構』といえば、今年中に公表される予定の「21世紀COEプログラム事後評価報告書」(仮称)に大きな問題がありそうだ。このプログラムの経費がどのように使われたかを見ると、プログラムが遂行されたその実体を検証出来るが、「21世紀COEプログラム 平成14年度採択拠点 事後評価用調書 作成・記入要領」の「経費関係調書(事後評価用)(様式5)」に、「支出実績(経費区分別)(平成14~18年度)」として《「経費区分」及び「COE 補助金」欄には、年度毎にそれぞれの経費の支出内容について「研究拠点形成費等補助金(研究拠点形成費)取扱要領」の補助対象経費の区分(設備備品費、旅費、人件費、事業推進費、その他)により、実績額を記入してください。・経費の効果的な使用を明確に示す必要があるため、出来る限り詳細に記入してください。(後略)》とあるのに、《この様式に記入される内容は非公表ですので、HP及び公表用冊子には掲載されません。》と、非公表を約束しているのである。「HP及び公表用冊子」には掲載されないとして、ではどのようにしてその情報を入手できるのだろうか。

報告書の最初に《本事業の成果等が広く国民の支持と理解を得られるよう努めてまいりたいと思います》と江崎玲於奈委員長の言葉があるが、肝腎の経費関係報告書を非公表にして、仰々しい形容詞に飾られた『作文』だけで国民の支持と理解が得られると思うとは浮世離れもいいところである。是非公開すべきである。これでは隠しごとがあるかもしれないが、とにかく台所をオープンしている国会議員の方が遙かに立派ではないか。

公開されている資料に基づいて、私なりに人件費に使われている経費を試算してみた。そこで浮かび上がったCOEプログラムの特徴を次回に述べて持論を展開する。


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1 コメント

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COEは改革になりうるのか? (一研究者)
2007-07-13 01:31:58
COEが虚構であるとの御指摘、まさに当を得たものと思います。文科省の思惑は大学院教育の重点化にあると言われておりますが、重点化が正しい選択であるかどうかがわからぬまま、各大学とも(少なくともわたくしの属している大学は)COE獲得に文字通り命運をかけて準備せざるを得ないのが実情のようです。

獲得した資金は大学にとってそれなりに貴重な財源になりうると思いますが、21世紀COEがそうであったように、費用対効果の検証がなされぬまま、机上で組まれた予算を消化することに汲々とすることになるのではないかと懸念しております。百年の計たる教育が、またこの国の未来を賭した科学技術の推進が(決して大げさな表現ではないと思います)、文科省の思いつき(少々乱暴な表現かもしれません)によって進んでいるような気がするのは、果たしてわたくしだけなのでありましょうか。非効率的な現状を打破する必要は確かに私たちも感じておりますが、こと教育・研究に関しては、改革とやらはよほど慎重に行うべきではないかと思います。

大学を上げてCOE獲得に取り組むと言えば聞こえはよいですが、笛につられて踊るよりも大事な仕事が、そもそもわたくしたちの職場にはあるのではないかと、ふと考えてしまいます。何かが間違っているような気がしてなりませんが、あるはずの正解もまたわたくしたちには見えてこないのです。
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