これって慢性疲労症候群?

無意識に有意義な生活を営んでいた頃に戻りたい願望から、色々な情報や励まし、出会いを期待して、私の今の不満や葛藤を綴る。

慢性疲労症候群と疑う理由

2007-08-29 | Weblog
 前回、トフラニールの投薬を受けたこと、そして断薬に至ったところまで書きました。実は一度目の減薬の試みで失敗に終わり、成功したのは2度目のことです。体の倦怠感は常に伴い、胸の辺りに圧迫感があるなど、決して全てが回復した訳ではありませんでしたが、とりあえずパニック発作はありませんでしたし、それなりに体が動かせるようになっていました。PS値(パフォーマンスステイタス)では2か3ぐらいだったかと思います。(参照 慢性疲労症候群-ウィキペディア)
 クロアチアの青いアドリア海へ2週間海水浴旅行を楽しめたり、次の冬には日本へ一時帰省したり、なにより、なんの薬も飲まずに生活しているという事実が、精神的に開放感で嬉しかった。

 でも、実際体は辛かった。一時帰省した時も、友人と会う約束はしたものの、定刻に出かけられず横になってた姿を母が見て、「やっぱりちゃんと治った訳じゃないのね・・・」。心配を蘇えらせてしまった。
でも、ちゃんと出かけたし、パニック発作もなかった。
 普段の呼吸は普通になった。最初は、息を吸うのが辛くて、次の息を吸ったら肺が破裂しちゃうのでは、と思えるほど。もう息を吸いたくないとさえ思った。フルートの勉強をしていて、ある教則本の呼吸法の説明で「長生きと長(い)息」について読んだことがあったのを思い出した。息を吸うのがイヤだった。

 わかってもらいたい事は、如何に体の融通が利かなかったか。
  横になってても、立ちくらみのようなめまい。
  ベッドの上で座ってられる様になっても寄りかからないと駄目。
  少し歩けるようになってもすぐに休憩が必要。頑張って医者に行っても、「異常はないです」と帰される。
  泣く元気もない(涙を流し始めると、呼吸が更に辛くなるから、なるべくこらえる)。
  筋力低下で、階段の上り下りだけでふくらはぎを痛めた。適度な運動をと言われても、当時は「そんなこと無理」としか思えなかった。痛みも長いこと引かず、車のブレーキも長いこと踏んでられない。
  音過敏- 紙が刷れる音、自分の食事中お箸が食器に当たる音、病院のスリッパを引きずる音、時計の秒針、とにかく全ての音がうるさい。トイレの水を流す時は、ドアを開ける準備をして逃げるように出てくる。
  光過敏- コンビニや地下鉄など、蛍光灯のついた所は眩しくてしょうがない。オレンジ系の電球のついた所では、黒が混ざったみたいに暗いのか眩しいのかよくわからない。
  倦怠感からあくびが止まらない。ちょっとうつむいてる時にあくびが出ると、2日間くらい残るほど喉を痛める。
  水をゴクンと飲み込むのも簡単な行動ではなかった。(喉から胸の辺りに圧迫感があるから)
  25年以上、頭痛を知らずに来たのに、時おり体験。

 無意識に出来ることは、寝ることだけだった。最初のPS値はまさに9で、自分なりに少しずつできることを増やしていった。無理が凶となり人生が終わってしまっても、それはそれで良いとさえ思い頑張った。上記の症状を持ちながらも、普通の生活に近づけるよう頑張る、頑張らなければそもそも生活が成り立たない。
 けど、出掛ける前はいつも不安はあった。こんなに辛いのに出掛けるのだから、大丈夫か心配するのは当然のことだろうと思う反面、不安神経症ですと言われたのにも納得はある。コントロールできない不安については、体験、各書物を通して深く考えさせられる。

 でも飲み始めたトフラニールの効果があったと言う自覚はある。勿論即効性は全く感じられなかったが。病み上がりの体が軽くなる感覚を味わうことが出来た。プラス自分の根気強さでPS値7から3まで向上できた。断薬に至り、その後もとりあえず普通に生活が続けられたのは、本当に自立したような喜び。
他人に話す価値のない喜びだけど。ちょっと出掛けたり、運動してみても、すぐ疲れ、体力がない印象は隠しきれなかったから。
 毎週、体操のコースに参加して汗を流してもみた。もう止めた方が良いかなと思う事もしばしばだったが、最後の横になってするストレッチの間に体外落ち着き、達成感を得て帰ることが出来た。でも時々、付いていけなくて後ろで見学したこともあり、情けなさと悔しさで自然に涙が出た。
 そんな事を繰り返しながらも、2年間ほど、毎日語学コースに自転車で通い、料理コースや、アマチュアのオーケストラにも参加した。普通の生活に近づけたかったから。

 けれど、投薬と通院を一切やめて約半年くらい過ぎ、また異変が起きた。これは、次のタイトルでまた書きなおします。
慢性疲労症候群慢性疲労症候群

はじめに

2007-08-29 | Weblog
 1996年9月のある日、街で立っていられなくなってベンチに座って、それでも座っていられなくなって病院に連れて行かれ、検査して特に異常は無しで帰宅許可でも、歩ける状態ではなく親に車で迎えに来てもらって、それ以来普通の生活が出来なくなっています。  
 3日間はとにかく寝て、母がベッド脇までご飯を持ってきてくれ、それを食べるのに1時間かけ、トイレに行くのにも、体を起こすまでに30分はかかり、1週間位して、ようやくシャワーを浴びてみたものの、すぐ寝込み、ちょっと外に出てみてはまた寝込み、の繰り返しでした。  
 それまで忙しい生活を続けてこられたので、どうしてこうなったのかを知るため、何度も医者を替えても、特に異常は無しで、どうしていいのかわからず、結局精神科へ行くことに。
 当時は、自律神経失調症や、不安神経症と言う診断で、少し薬をもらってまた2週間後、という繰り返しでした。

 そんな中、当時付き合っていた人がドイツへ留学する日が近づき、色々考えた中、結婚して一緒にドイツへ行くことに。
 実際は、まだ横になっていたい、1時間も立っていられなかったけど、医者が言うには私は健康な体で、寝てばかりいたらどんどん血圧も下がり悪循環で、心臓によくない、少し運動が必要ということなので、怖がらず、なるべく普通の生活に近づけるよう頑張っていました。

 色々な苦労、葛藤を持ちながらドイツ生活半年くらいたったある日、いわゆるパニック発作に襲われ、ドイツで精神科に通うように。
 当時は知らなかったのですが、パニック障害と診断され、トフラニールの投薬を受け、だいぶ調子もよくなりました。
 日記をつけ段階的な目標を立て、パニックと戦う訓練をとても真面目に続け、いつしか薬も無しで済むようになり、通院もやめました。
  たった数行で書き治めてますが、この苦労は体験者にしかわからない大変な道のり。そして、この障害についてだいぶわかってきた今でもどうしても納得できないのは、この体調不良。
 医者は、不安が体力を消耗するという考えですが、私にはどうしても逆にしか思えないのです。  出来れば横になっていたいのに、起き上がって医者に行く、買い物に行く、約束場所に行く・・・。
 幸い、私の住んでいる所は、あちこちにベンチがあるので、座りたいと思えば結構すぐに座ることが出来、外出する勇気も出やすい。でも一人じゃない時は、やはり周りの雰囲気で、無理もあり、ストレスにも。もう少し大丈夫かな、もう帰ろうかな、昨日はあまりよく寝られなかったから今日は更に融通が利かない、・・・どんなに頑張っても、というか頑張らなくてはいけない状況にいつもあるようでは、そういった不安が常にあるのは当然でしょ。

  こっちで知り合った人には、なんとなく恥ずかしくて、私の事情はほとんど話すことはなかった。病名のないこの体調不良を理解してくれる人はいないだろうと思ったから。
 実際、怠けるのは嫌いな自分としても、11年前の問題が起きる前の自分にも理解できないだろうと思う。
  数少ない学生時代以来の友人は、元気でいつも忙しくしていた私を知ってるので、同情してくれたりするだけで救われる。でも、皆さん忙しく、私も遠くに住んでいるだけ、ほとんどコンタクトはなくなり寂しいもの。

  そんな中、先月くらいに日本語のインターネットで、この慢性疲労症候群という言葉を知り、まさに自分に当てはまると興味を持ち始めています。ドイツ語でもある言葉だった。でも、ここドイツでその診察をしてくれる先生をどうやって探していいのかわからない。
  もともと私はパソコンを使う人ではないので、こうやってインターネットを使うようになったのもごく最近。でも上手に使えば色々な情報が集められるし、親切に教えてくれる人とも交流が出来ると望みこのブログを書き始めました。

 はじめに書いた、11年前から始まった病歴は、まだ4年分も書き終えてませんが、後日また書き足していこうと思います。長いこと通ったカウンセリングもはっきり言って役に立たず、ここに悩みや苦労話を書いていく方がよっぽど精神的に良いのかも。 情報、お願いします。励まし、同じように悩んでいる人と出会えるのも心強いです。