NHK大河ドラマ「風林火山」でも有名な「川中島の戦い」
詩吟「鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過る」で知られる川中島合戦。
僕も詩吟を習っていたころ、よく練習しました。
http://www.kangin.or.jp/what_shigin/shigin_2.html
本当に上杉謙信と武田信玄の一騎打ちがあったかどうかは別にして、世にいう川中島の合戦は、5回にわたって戦われ、謙信と信玄の一騎打ちはこのうち第4回、永禄4年(1561)9月10日のことと言われています。
この戦いで、山本勘助は戦死するんです。
勘助の取った戦法「啄木鳥戦法」
武田軍を二手に分け、一隊を上杉謙信の背後から衝き信玄の居る前に追い出し前後からの挟み撃ちで上杉軍を叩く作戦。
上杉謙信は武田軍の動きを察知して山を静に降ります。
朝、川霧が晴れると上杉軍の目の前に武田軍の本陣があり、こうして両軍の戦いの火ぶたが斬って落とされます。
多勢に勝る上杉軍に対し劣勢の武田軍、武田軍の将が次々に討ち死にしていく。
そんな中、山本勘助も親方様を守る為に戦いそして討ち死にをします。
午前は上杉軍が優勢でしたが、午後になると「啄木鳥(きつつき)戦法」で上杉軍の背後に回っていた武田の別働隊が戦場に到着し、形勢が逆転し上杉軍は敗走します。
この戦いの最中、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちが有ったと言われています。
さて、話は戻って詩吟「川中島」。
鞭聲肅肅夜河を過る べんせい しゅくしゅく よるかわをわたる
曉に見る千兵の大牙を擁するを あかつきにみる せんぺいの たいがをようするを
遺恨十年一劍を磨き いこん じゅうねん いっけんをみがき
流星光底長蛇を逸す りゅうせいこうてい ちょうだをいっす
【詩訳】
上杉謙信の軍は鞭(むち)の音もたてないように静かに夜に乗じて川を渡った。
相対する武田軍は、明け方霧の晴れ間、上杉軍の大将の旗を立てた数千の大軍が突然面前に現れたのを見て驚いた。
しかしながら、無念!この十年来、武田信玄を倒すべく一剣を磨いてきた謙信は、刀光一閃のうちに信玄を切りつけたのだが、 軍配で防ぐ信玄を打ちもらしてしまったのである
昔、子供のころ結婚式など人が集まると詩吟を吟じる親戚の伯父さんがいました。
その頃は意味もわからずただ民謡かなんかだと思って聞いていましたが、詩吟を習ってやっとこの詩の意味がわかりました。
日本の戦国時代に起こった「川中島の戦い」は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄と越後国(現在の新潟県)の戦国大名・上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って行われた五次に亘る戦いをいいます。
漢詩「川中島 ~不識庵機山を撃つの図に題す~」の舞台は、最大の激戦となった第4次の戦いを書いています。
この戦は永禄4年(1561年)9月10日、千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島を中心に行われました。
この乱戦の最中、上杉謙信は手薄となった武田信玄の本陣に斬り込みをかけます。
愛馬・放生月毛に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げた謙信は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけます。
信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらしました。
歴史上に有名なこの場面を頼山陽が詩にしたためたのです。
詩吟「鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過る」で知られる川中島合戦。
僕も詩吟を習っていたころ、よく練習しました。
http://www.kangin.or.jp/what_shigin/shigin_2.html
本当に上杉謙信と武田信玄の一騎打ちがあったかどうかは別にして、世にいう川中島の合戦は、5回にわたって戦われ、謙信と信玄の一騎打ちはこのうち第4回、永禄4年(1561)9月10日のことと言われています。
この戦いで、山本勘助は戦死するんです。
勘助の取った戦法「啄木鳥戦法」
武田軍を二手に分け、一隊を上杉謙信の背後から衝き信玄の居る前に追い出し前後からの挟み撃ちで上杉軍を叩く作戦。
上杉謙信は武田軍の動きを察知して山を静に降ります。
朝、川霧が晴れると上杉軍の目の前に武田軍の本陣があり、こうして両軍の戦いの火ぶたが斬って落とされます。
多勢に勝る上杉軍に対し劣勢の武田軍、武田軍の将が次々に討ち死にしていく。
そんな中、山本勘助も親方様を守る為に戦いそして討ち死にをします。
午前は上杉軍が優勢でしたが、午後になると「啄木鳥(きつつき)戦法」で上杉軍の背後に回っていた武田の別働隊が戦場に到着し、形勢が逆転し上杉軍は敗走します。
この戦いの最中、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちが有ったと言われています。
さて、話は戻って詩吟「川中島」。
鞭聲肅肅夜河を過る べんせい しゅくしゅく よるかわをわたる
曉に見る千兵の大牙を擁するを あかつきにみる せんぺいの たいがをようするを
遺恨十年一劍を磨き いこん じゅうねん いっけんをみがき
流星光底長蛇を逸す りゅうせいこうてい ちょうだをいっす
【詩訳】
上杉謙信の軍は鞭(むち)の音もたてないように静かに夜に乗じて川を渡った。
相対する武田軍は、明け方霧の晴れ間、上杉軍の大将の旗を立てた数千の大軍が突然面前に現れたのを見て驚いた。
しかしながら、無念!この十年来、武田信玄を倒すべく一剣を磨いてきた謙信は、刀光一閃のうちに信玄を切りつけたのだが、 軍配で防ぐ信玄を打ちもらしてしまったのである
昔、子供のころ結婚式など人が集まると詩吟を吟じる親戚の伯父さんがいました。
その頃は意味もわからずただ民謡かなんかだと思って聞いていましたが、詩吟を習ってやっとこの詩の意味がわかりました。
日本の戦国時代に起こった「川中島の戦い」は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄と越後国(現在の新潟県)の戦国大名・上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って行われた五次に亘る戦いをいいます。
漢詩「川中島 ~不識庵機山を撃つの図に題す~」の舞台は、最大の激戦となった第4次の戦いを書いています。
この戦は永禄4年(1561年)9月10日、千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島を中心に行われました。
この乱戦の最中、上杉謙信は手薄となった武田信玄の本陣に斬り込みをかけます。
愛馬・放生月毛に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げた謙信は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけます。
信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらしました。
歴史上に有名なこの場面を頼山陽が詩にしたためたのです。