たぶん古くからある言葉なのだろうけど、最近どうも耳障りだ。その言葉とは「道義的責任」。
ホリエモンが逮捕されたとき「小泉総理と武部幹事長には道義的責任がある」と野党は追及した。
日銀の福井総裁が村上ファンドに出資して利益を得ていたことに「道義的責任を問われる」とマスコミは伝える。
そして、私の愛読する人気ブログ「世に倦む日日」ではこのように道義的責任の大切さを説いてくださる。
「世に倦む日日:本村洋の道義的責任論の説得力 - 最高裁差し戻し判決を寿ぐ」
だが、私にはどうも「道義的責任」という言葉の意味がわからない。
たぶん私が道義的人間ではないからだろう。恥を忍んで告白すると、自分のことを「道徳心が弱く、悪いことをしてもあまり罪悪感を感じないタイプ」だと思うことはあっても「人並み優れた道徳心を持っている」と感じたことは一度もない。
幸いにも法律に触れる悪事は犯していない(スピード違反などはある)けれど、それは単に小心者だからだ。法律には触れない不道徳を(たぶん)それほど犯していないのも、単に「そうしたいと思わなかった」「そうする機会がなかった」からのような気がする。自分の道義心をそれほど信じていない私は、韓非子の「人の道徳心を当てにせず、法の峻厳さを頼りにせよ」という論に納得してしまう。
私自身のことはともかく、「道義」あるいは「道徳」という概念と「責任」という言葉は反りが合わないと思う。前者は心の問題、後者は社会や法律の問題ではないのか。「道義(道徳)の問題」「社会的(法律的)責任」という言葉であればわかりやすいのだけれど。
Googleで検索してみても納得できる説明が見つからない。goo辞書で検索してみると、
どうぎ だう― 1 【道義】 人としてふみ行うべき道。道徳。道理。
どうぎ-しん だう― 3 【道義心】 道義を守る心。道徳心。
どうぎ-てき だう― 0 【道義的】 (形動)道義にかかわるさま。「―な責任」
となっている。
どうやら「道義的責任」という言葉は「不道徳だ」「破廉恥だ」「職業倫理に反する」などの批判と同じ意味で使われるらしい。
それならわかりやすい言葉を使えばいいのに、と思ってしまうが、たぶん「道義的責任」といかめしい言葉を使ったほうが立派に見えるし、相手に「責任」を負わせることができて好都合なのだろう。
約2000年の昔、パレスチナに住んでいたナザレのイエスという人がこんなことを言ったそうだ。
「あなた方の間で罪のない者が,この女に向かって最初に石を投げなさい」
「わたしもあなたを罪に定めない。帰りなさい。今からは,もう罪を犯してはならない」 (ヨハネによる福音書)
私はイエスという人のことも、彼の死後にできたキリスト教という宗教のこともそれほど知りはしないが、「道義的責任」という言葉を聞くたびにこのエピソードを思い出してしまう。
本当に「道義的責任」を問い、罪びとを責めることができるのはその人の内にある良心だけだろう。他人が居丈高に「道義的責任」を糾弾しても、罪びとの心に響かなければ道義的解決は得られない。だが、今の世の中で「道義的責任を追及する」人たちの多くは罪びとの良心を共鳴させるよりも「道義的責任」という言葉で社会的・政治的に批判し攻撃することを目的としているようだ。
道義心のうすい私がこんなことを言うのも変だが、なんだか悲しいことである。
ホリエモンが逮捕されたとき「小泉総理と武部幹事長には道義的責任がある」と野党は追及した。
日銀の福井総裁が村上ファンドに出資して利益を得ていたことに「道義的責任を問われる」とマスコミは伝える。
そして、私の愛読する人気ブログ「世に倦む日日」ではこのように道義的責任の大切さを説いてくださる。
「世に倦む日日:本村洋の道義的責任論の説得力 - 最高裁差し戻し判決を寿ぐ」
昨夜の道義的責任論にも覚醒させられた。本村洋の説明として出ると、道義的責任という言葉も本来の意味を蘇生して重々しく胸の奥に入る。罪を犯した人間は法的責任とは別に道義的責任がある。法的責任を全うするのは当然で、しかしそれとは別に、道義的責任から逃れることはできない。そして道義的責任を果たした上で法的責任を果たさなければならない。二つは違う。両方の責任を正しく果たす必要がある。
だが、私にはどうも「道義的責任」という言葉の意味がわからない。
たぶん私が道義的人間ではないからだろう。恥を忍んで告白すると、自分のことを「道徳心が弱く、悪いことをしてもあまり罪悪感を感じないタイプ」だと思うことはあっても「人並み優れた道徳心を持っている」と感じたことは一度もない。
幸いにも法律に触れる悪事は犯していない(スピード違反などはある)けれど、それは単に小心者だからだ。法律には触れない不道徳を(たぶん)それほど犯していないのも、単に「そうしたいと思わなかった」「そうする機会がなかった」からのような気がする。自分の道義心をそれほど信じていない私は、韓非子の「人の道徳心を当てにせず、法の峻厳さを頼りにせよ」という論に納得してしまう。
私自身のことはともかく、「道義」あるいは「道徳」という概念と「責任」という言葉は反りが合わないと思う。前者は心の問題、後者は社会や法律の問題ではないのか。「道義(道徳)の問題」「社会的(法律的)責任」という言葉であればわかりやすいのだけれど。
Googleで検索してみても納得できる説明が見つからない。goo辞書で検索してみると、
どうぎ だう― 1 【道義】 人としてふみ行うべき道。道徳。道理。
どうぎ-しん だう― 3 【道義心】 道義を守る心。道徳心。
どうぎ-てき だう― 0 【道義的】 (形動)道義にかかわるさま。「―な責任」
となっている。
どうやら「道義的責任」という言葉は「不道徳だ」「破廉恥だ」「職業倫理に反する」などの批判と同じ意味で使われるらしい。
それならわかりやすい言葉を使えばいいのに、と思ってしまうが、たぶん「道義的責任」といかめしい言葉を使ったほうが立派に見えるし、相手に「責任」を負わせることができて好都合なのだろう。
約2000年の昔、パレスチナに住んでいたナザレのイエスという人がこんなことを言ったそうだ。
「あなた方の間で罪のない者が,この女に向かって最初に石を投げなさい」
「わたしもあなたを罪に定めない。帰りなさい。今からは,もう罪を犯してはならない」 (ヨハネによる福音書)
私はイエスという人のことも、彼の死後にできたキリスト教という宗教のこともそれほど知りはしないが、「道義的責任」という言葉を聞くたびにこのエピソードを思い出してしまう。
本当に「道義的責任」を問い、罪びとを責めることができるのはその人の内にある良心だけだろう。他人が居丈高に「道義的責任」を糾弾しても、罪びとの心に響かなければ道義的解決は得られない。だが、今の世の中で「道義的責任を追及する」人たちの多くは罪びとの良心を共鳴させるよりも「道義的責任」という言葉で社会的・政治的に批判し攻撃することを目的としているようだ。
道義心のうすい私がこんなことを言うのも変だが、なんだか悲しいことである。
このくだりの解釈は諸説あって、イエスが律法に厳格だったという解釈もあります。
姦淫は相手がいないとできないが、その相手がいないし証拠もない。石打ちは正当な裁判を経て判決が下った後、実行されねばならない。女を連れてきた司祭達は証拠と裁判の二つの重要な手順を無視している。律法を守るべき者が律法を無視して石打ちにかけようとした事を恥じ入ったという解釈もできます。ま、諸説あると。ま、石打ちにしろと言ったら律法で定めた裁きの手続きを無視したと訴えるつもりだったのでしょうが。
私も道義的ではないです。というか道義的であるより不道徳でいたいと思っている方です。そういう言葉で人のことをごちゃごちゃ言う人物に、道義的な奴はいません。だから道義的云々という事は人に言いたくないし言われたくない。逆に言われたらキレて暴れる奴しかいませんしね。
自分は人より一段高い所からご高説をたれ、他は黙って聞くべきだと根拠無く思い込みたくて仕方がない。世に倦む日々にはそういう嫌らしさを感じて読む気になれません。からかうネタにできる玄倉川殿は根性と体力があるなあ等と思ってしまいます。
木村さんの件について言えば、自分のやった事を後悔しながら刑死してくれでいいのではないかと。家族を殺された者としてはそれが一番妥当でしょう。
私的には、死刑執行のボタンを押す権利を被害者遺族が持つ様にして良いのではないかと思いますが。仇討ちは近代社会では許容できませんが、自分で殺したいと思うのはまあ解りますし。復讐として殺す権利を行使した後、その事実に遺族が耐えられるかという問題がありますが。死刑は廃止されるべきではない。加害者の人権より、被害者から生存権を奪った罰として死刑という手段はあるべきでしょう。人権は生存していて初めて享受できるものですからね。
死刑は廃止されず、断固として行使されるべき。個人としてはそう思っています。厳正な手続きの上でですが。
テサロニケさんの意見には傲慢なところも、 なところもあり、玄倉川さんの軽妙なつっこみを楽しみにしている一人です。
しかし、今回の文章だけは「つっこみのためのつっこみ」という印象を持ちました。本村さんがただの怒りに任せて「殺してやる」と叫んだあの日から、ニュースステーションで淡々と事故の感情を抑制しつつ、法治主義に基づいて加害者と対峙する姿へと成長する姿は感動します。と同時に彼がそうならざるを得なかったこれまでの月日を思うと胸が痛みます。
テサロニケさんの本村さんへの思いは、そんなろところから出てきたのではないでしょうか?「道義的責任」の言葉だけを取り上げてつっこむのは、少々違和感を覚えました。
あの方が「石を投げろ」と扇動する姿なら何度も見たことがありますが、その逆は想像しにくいです。
>暇人さん
「イエスが律法に厳格だったという解釈」は知りませんでした。面白いですね。
「世に倦む日日」の人はとても「頭がよく」て「正義感が強い」のに変てこなことばかり言ってるのが不思議です。
私は消極的な死刑廃止論ですが、現在の法律と世論ではあの事件の判決は死刑以外にありえないと思います。
>synonymousさん
テサロニケ氏もご自分のブログで世の中を変えるつもりのようですから、「どこまでも清潔で純粋な私生活を全う」なさっているのでしょう。
>とおりすがりさん
本村さんのことは良く知りませんが、彼をカリスマとして賛美するテサロニケ氏の文章は(いつものことですが)大げさすぎて変です。
今日の「世に倦む日日」のエントリ「日本の死刑容認世論は「逆行」か「先行」か - 現代の忠臣蔵」を読んでも、テサロニケ氏が本当のところ死刑賛成なのか反対なのかわかりません。日本が「いい世の中」であれば死刑はないほうがいいけれど「悪い世の中」なので死刑は必要だ、ということなのでしょうか。その割には忠臣蔵とか山鹿素行を持ち出してやたら嬉しそうなのですが。
本村氏のファンはテサロニケ氏以外にも多いようですね。私はニュースなどで本村氏の姿が映るとチャンネルを変えてしまうので、どこがそんなに魅力的なのかわかりません。
テサ氏みたいなカン違い人間においては「自由」=「アクセス」=「権力」であって、死刑うんぬんや本村氏はとどのつまりどうでもいいんだと思いますよ。だからブッシュに90%支持を与えた米国民と同じ熱狂で本村氏支持と。ついでにまた暴論で凶悪犯罪が増えたとか書いてますが、少年犯罪も凶悪犯罪も昔より減ってますよ。ただネット等含め注目度が比較的にアップして、テサ氏みたいな尻馬系の論調は激しく急増したでしょうがね。あと忠臣蔵に関しては日本人の復讐心について一番有名な講釈なんでしょうが司馬遼太郎のめりの受売りであって、そこに何か深い洞察や歴史認識は無さ気ですね。徂徠とか宣長あたりは読んでないっぽいし。