玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

ニセ科学と「断章取義」

2008年02月20日 | 「水からの伝言」
「水からの伝言」をニセ科学と知りつつ「いい話だから」と受け入れる人たちがいる。

 「水からの伝言」とカードの城
 受益者は当事者

彼らの姿を見て「断章取義」という言葉を思い出した。

だんしょう-しゅぎ 【断章取義】|〈―スル〉 - goo 辞書
断章取義 意味
書物や詩を引用するときなどに、その一部だけを取り出して自分の都合のいいように解釈すること。▽「章」は文章。また、詩文の一編。「断章」は文章の一部を取り出すこと。「取義」はその意味をとること。「章しょうを断たち義ぎを取とる」と訓読する。


山本七平によれば、日本人の思考法の底には体系的思想の「一部だけを取り出して自分の都合のいいように」解釈して利用する断章取義があるのだという。谷沢永一によるまとめがわかりやすいのでそちらから引用する。


 元亀・天正、少なくとも秀吉の時代までの戦国武士は主を選んだ。島左近のように、あるいは渡辺勘兵衛のように、幾人もの主に仕えたところで、それは武士の名誉であった。「七たび浪人せざるものは武士にあらず」という言葉が言われたように、武士が主を選択したのである。仕えている者はその主が意に叶わなければ、それを捨てて退散することが善であった。したがって、渡辺勘兵衛が藤堂高虎に仕えて、藤堂高虎の武将だか商売人だか分からないような処世態度に見切りをつけ、一万石をほうって逃げている。これに世間はヤンヤと喝采した。
 それと同じことが日本の思想と個人との関係にある。日本においては、人が思想を選択する。第一に選択である。非常に大まかな一つの思想体系、あるいは宗教体系があるとして、それを個人が選ぶのであって、そこに自分が全身を没入するわけではない。
 そうすると、すぐ次に、それなら丸ごと選ばなくてもよいではないかという議論が出てくる。こんどは部分的に、これを「断章取義」というが、儒学の体系、キリスト教の体系のなかから、自分にこれは真実だと思えるものだけをピックアップして、それだけを信じる、あるいはそれを最優先する。だから日本の場合に、おそらく宗教を信じるということがあり得ない。換骨奪胎して採用するのである。

「山本七平の知恵」谷沢永一 PHP文庫(64p)


よく言えば「欠点を捨て利点だけを取る」柔軟で賢いやり方だが、悪く言えば「おいしいところだけつまみ食い」である。お行儀が悪い。
だが日本人はそれを恥としない。「空気」を読んで自分を合わせるのが利口者だと考える。明治時代には華夷秩序と儒教で凝り固まった朝鮮の頑固さを蔑み、今はイスラム原理主義者の狂信に恐れを抱く。もちろん私も確かな思想を持たない日本人の一人である。
とはいえ、柔軟性も度がすぎるとご都合主義に堕ちる。極端な相対主義はアパシーやニヒリズムに繋がる。状況に適応するのは結構だが、時と場合で言うことをコロコロ変える人間は信用できない。
「科学」と「水からの伝言」という矛盾する考えを都合よく使い分けるのはどうだろう。私にとっては「その人を信用できるかどうか」の一線を越えている。「健常者なのに身障者用スペースに駐車する奴」とか「弱い立場の人に威張り散らす輩」「食器を灰皿代わりに使う喫煙者」と同じくらい不快である。

「水からの伝言」のようなニセ科学をニセモノと思わず、現在の科学を越えた真実と信じ込む人たちがいる。いわゆるビリーバーだ。
彼らはほぼ確実に間違っている。説得するのは不可能に近い。場合によっては狂信的で危険なこともある。だが私はビリーバーさんをあまり嫌いになれない。頑固さにうんざりしたり呆れたりしながら、彼らの奇妙な信念に潔さを感じる。もちろんニセ科学を使って金儲けをたくらむ手合いは別である。連中は単に浅ましいだけだ。

むしろ「水伝がニセ科学なのは知ってるよ、でもいい話じゃないか」としたり顔で容認し二重基準をもてあそぶ人たちのほうが嫌いだ。
不潔である。いやらしい。ご都合主義に過ぎる。本人は大人の知恵とか余裕ある態度を気取っているが、私にはステーキとケーキを一度に口に詰め込むような卑しい振舞に見える。マナーを知らないのか恥を感じないのか、それとも味覚がおかしいのか。どちらにしても見苦しい。

ニセ科学のようなニセモノを「いい話」と認めたとき何が起きるか。
一貫して「いい話」でありうるのは本物だけだ。ニセモノを「いい話」にしてしまうと「いい話」がニセモノになる。おとぎ話や小説・映画が「いい話」になりうるのはフィクションとして本物だからだ。ニセ歴史やニセ実話を「いい話」にしてはいけない。もちろんニセ科学もそうだ。
「水からの伝言はサンタクロースのようなもの」と言う人がいるが間違っている。サンタクロースは正直なファンタジーである。決してニセ歴史やニセ宗教ではない。トルコにいた実在人物の聖ニコラオスと、空想されたキャラクターのサンタクロースは区別される。「聖ニコラオスがフィンランドに移住してサンタクロースになった」「やがてそれが明らかになる」と真顔で主張する人を見たことがない。「水からの伝言」のように意図的に虚実をごたまぜにするインチキは存在しない。
野菜で肉や魚の料理を再現する精進料理は本物だが、消費者を騙す偽装食品はニセモノだ。シェルビー・コブラランチア・ストラトスのレプリカをレプリカとして製造販売するのは結構なことだが(できれば私も買いたい)、本物を称してはいけない。

現在の日本で身の回りにあるものが「本物ばかり」と言える幸せな人はそれほど多くないだろう。町にも家のなかにも胡散臭いものがあふれている。こんな世の中でわざわざニセモノを擁護し珍重する必要があるのだろうか。私はせめて「いい話」は本物であってほしいと願う。


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