竹森家は平安時代出羽国の出で後に日岡神社(兵庫県加古川市)の宮司となり田畑数十町、家僕数十人を有する二千石ほどの神官武人であった。
司馬遼太郎の播磨灘物語では落ちぶれた黒田が頼ってきたが住居を貸した竹森家は気品あるその佇まいに大いに感銘し自分の屋敷を黒田に譲り自分はその家臣となったという件がありますが、勿論それは後世に作られた講談の世界である。
永禄時代別所安治に攻められ逃亡、黒田職隆を頼り幼い新次郎(新右衛門次貞)は官兵衛の小姓となる。
天正5年(1577)秀吉の赤松氏の上月城攻めで高名し後に黒田家の旗奉行となり鳥取城攻め、備中高松城攻め、山崎の合戦、城井谷攻め、賤ケ岳合戦、朝鮮の役、九州西軍征伐で活躍し生涯21首を挙げた。
元和7年(1621)戦国の世を戦に明け暮れた72歳の生涯を福岡で閉じた。
この程豊前国中津黒田武士顕彰会小野会長が就任したライオンズクラブ337-B地区キャビネットで小野ガバナーが制作した赤合子形兜をモチーフにしたピンバッチが密かに話題となっています。
ガバナーに就任して間もなく広瀬大分県知事を表敬訪問した時に、この赤兜のピンバッチを贈呈し、官兵衛の赤兜は57戦無敗のとても縁起の良いものですと説明しましたが、その後しばらくしてもう一つどうにかならないかと連絡があり送ってあげましたが、果たしてどのようにお使いになったか?
広瀬県知事も大事にお持ちになっているようです。
この八月から九月にかけて337-B地区(大分・宮崎)の69ライオンズクラブを表敬訪問した時に、各クラブ三役の方々に贈呈しました。
何か勝負事にはこのバッチを握りしめて対峙すれば官兵衛公の魂が乗り移って必勝のこと間違いなしと説明しましたら、三役だけでなくほかの方々が我も我もと希われたので贈りました。
くれぐれもパチンコやマージャン、競馬など欲にかられてのお願いはだめですと念を押してお渡ししましたが、、、、。
入試などの試験合格、お見合い、運命好転など人生を賭けた時に心込めてお願いして戴ければ官兵衛公もきっと力を与えてくださることでしょう。
皆さん縁起物ですので大事に持っておられることと思います。
桐山孫兵衛の先祖は飛騨高山の桐山村、伝えによると鎮西八郎為朝が身を隠していた折、村の長者の娘との間に生まれた子と言われています。
丁度、中津市犬丸中尾の浜の菅原道真公御着船地にある伝説に似ています。
菅公が左遷され都から太宰府へ向かう途中嵐に遭い中津市犬丸中尾の浜に辿り着いた。
船の修理の間、村の長は美しい娘を身の回りの世話をさせたが菅公もひと時心の安穏を覚えた。
船の修理が出来上がり菅公が太宰府へ去ったあと、お世話をした村長の娘の御腹が膨れ玉のような男子を生んだ、、、、。*後年官公のご子孫がこの地を訪ねられ犬丸天満宮を建てた。官公のご従者のご子孫が代々今も犬丸の地に棲まれて犬丸天満宮をお祀りしている。
さて、桐山の子孫は後々長浜に移り孫兵衛は黒田家に仕えた。
黒田家が豊前国へ入府ごは城井谷攻め、文禄・慶長の役、石垣原の合戦で高名を挙げる。
黒田家筑前入国後は五千石を拝領し中老に列し黒田家の重鎮として徳川幕府命による大坂城の大改築などで活躍。
職隆、官兵衛、長政、忠之と4代に仕えた生涯は激動の世を生き抜き、元和10年(1624)72歳の長寿を全うした。