軍師黒田官兵衛 VOL.25 名将吉弘嘉兵衛統幸

2015-04-30 07:51:06 | Weblog

大友義統(よしむね/宗麟の嫡子)は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に於いて,明軍の攻撃を受け敗走していた小西幸長軍の救援に行かず、秀吉の逆鱗に触れ領国召し上げとなり、家臣は牢人となった。

大友家の重臣吉弘嘉兵衛統幸(むねゆき)を高く評価していた官兵衛は中津に迎え、暫く客将として好遇したが、その後嘉兵衛は親族である柳川立花家へ招かれた。

関が原の合戦の前に官兵衛も嘉兵衛も大友義統を東軍へ付けるべく進言するも、義統は西軍に付いた。

別府石垣原の合戦では東軍の黒田軍と西軍に付いた大友軍が激突した。

お互い朝鮮の地で共に敵と戦った旧知の間なれど、戦は家の存続を賭けた、殺るか殺られるかの世界である。

大友軍の総大将吉弘嘉兵衛と黒田軍の二番家老井上九郎右衛門の一騎打ちで破れた嘉兵衛の首は、黒田本陣のある実相寺山に晒された。

今でもその地に立つと飄々と無常の風が頬を撫でて行くのが感じられます。

 

 

 

 

 

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黒田官兵衛と菅原道真

2015-04-25 22:51:03 | Weblog

官兵衛は文武に優れ神と崇められている菅原道真を崇敬していた。

福岡城が出来上がるまで滞在しようと選んだ場所が太宰府天満宮の一隅である事からも分かります。

当時、太宰府天満宮は戦禍で焼け落ちていたので、心を痛めた官兵衛は社殿を再興した。

菅原道真は讒言により左遷され都から太宰府に流されたが、その途中に防府(山口県)から門司経由で太宰府を目指すも、旧暦二月の海流の流れが激しく海が荒れ豊前国下毛郡中尾の浜に漂着した。

そこは丁度官兵衛が築城した中津城の東二里ほどの所で、道真は二十一日間中尾の村に滞在した。

村長はじめ村人たちに大事に迎えられたことは想像に難くない。

道真の薨去後、都に天変地異が起きその怒りを鎮める勅命が出て、五十五年後道真の孫文時が訪れて犬丸八満宮が建立された。

それから数百年の後、官兵衛が豊前国に入部し十四年ほど領国とし治政したのです。

いま、その地に「菅公御着舩旧跡」碑が建ち往時を思い起こすよすがとなっていますが、暫し眼をつぶり遥かに時空を超えて接点のあった官兵衛と道真を偲ぶのも一興かと思います。

*道真公一行は二艘の舩(小さな船)でお供を入れても七名ほど(途中立ち寄り先には国府より道真を援助すべからずとのお触れが出ていたほどの淋しい左遷の旅であった)で中津中尾の浜を出立し門司を目指しましたが、途中嵐で船が破損し築上町高塚の浜(福岡県)に漂着(後に綱敷天満宮建立さる)し暫し逗留した。

船の修理が終わり、無事海路門司を経て太宰府へ向かった。

 

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軍師黒田官兵衛Vol.24 官兵衛と太宰府天満宮

2015-04-20 08:09:04 | Weblog

菅原道真公を祀る太宰府天満宮は戦国時代の戦禍に荒廃していました。

黒田官兵衛が豊前国から筑前福岡52万石へ転封した時、福岡城築城の間に2年間ほど滞在した太宰府天満宮の荒れ果てた姿に胸を痛め、社殿を再興しました。

菅原道真は学問の神様だけでなく、茶道、弓道などの神様としても崇められており、官兵衛にとって戦の時代が終わり平穏な世の中になったことから、心ゆくまで和歌や茶道に親しむ日々をおくることができました。

生涯で最も心の安らう日々であったと思われます。

 また、太宰府天満宮に滞在していた間、官兵衛が「中津の時代は良かった。もう暫く中津に居たかった」と心境を吐露した文献が天満宮に残っている。

平和な世の中を希求した官兵衛であるが、生涯に最も活躍し天下を窺った中津の時代は殊の外懐かしく、心に残った日々であったのであろう。

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軍師黒田官兵衛Vol.23 黒田軍の虎退治

2015-04-14 08:17:50 | Weblog

講談では加藤清正の虎退治が有名ですが、実はその物語は黒田軍の朝鮮出兵の時の出来事でした。

文禄の役で大活躍した黒田軍はある時虎退治に出掛けました。

長政が鉄砲で、黒田二十四騎の二人、剣の達人菅六之助は刀で切り殺し、槍の名人林掃部が自慢の槍で大虎を見事に仕留めたのです。

虎の肉は滋養強壮に良いというので秀吉に献上されましたが、頭蓋骨は中津城に持ち帰られ、福岡転封後は福岡城へ、そして残念なことに先の第二次大戦の空襲で城とともに灰と化し、今では写真でしか見ることはできません。

 

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軍師黒田官兵衛 Vol.22 正室光姫(照福院)

2015-04-10 08:21:41 | Weblog

黒田官兵衛の正室は光姫、出家後は照福院。

歴史家の間で長い間正式な名前が不明で、近年やっと和歌の短冊に署名されていた「幸圓」と紹介されてきました。

黒田官兵衛が大河ドラマに決定されて各地で関連した史実が発見され、正式には「光姫」と判明した。

ただ最初は福岡市西公園にある黒田官兵衛、長政を祀っている光雲(てるも)神社から「てる」と読むのではないかと紹介され、多くの歴史家はすぐさま著書に記してきましたが、2013年菩提寺である福岡市の円応寺さんで「ミツ」というフリガナが記されている書物が発見された。

実家の櫛橋家御子孫の方にお聞きしましたら、代々「みつ」と呼ばれていたそうです。

NHKでは大河ドラマが放送直前だったので、「てる」で通しましたが正式には「みつ」ということです。

光姫も泉下で正しい名前で呼ばれ、ホッとしていることでしょう。

 

 

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軍師黒田官兵衛 桜狩り

2015-04-06 08:32:12 | Weblog

今まさに桜の花便りが日本列島を駆け巡っています。

黒田官兵衛も豊前国に入部して間もなく、桜狩りをしました。

福岡県豊前市求菩提山資料館に官兵衛が桜狩りをした時の和歌が残っています。

 山深く分け入花のかつ散りて春の名残もけふのゆふ暮     

求菩提山資料館の傍の芭蕉塚に山桜の古木があり、官兵衛が桜狩りをした場所ではないかと伝えられています。

丁度桜の花が満開の頃となりました。

一度はお訪ねになり、官兵衛の桜狩りを偲んでいただければと思います。

 

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軍師黒田官兵衛Vol21-2 宇都宮鎮房

2015-04-03 00:31:03 | Weblog

中津近辺では宇都宮家ゆかりの御子孫が沢山いらっしゃいます。

新領主として黒田官兵衛が入封後、秀吉の伊予転封の朱印状(命令)に逆らった当主鎮房が黒田家に討たれたことを未だに根に持っていましたが、官兵衛が大河ドラマになったことで宇都宮一族も大河に登場し全国に知れたことは官兵衛のお陰だという方も出てきました。

いくら秀吉の命といえども、黒田官兵衛に討たれた悲運の武将ということで歴史に名が残ったのです。

石垣原の合戦で黒田軍の井上九郎右衛門と一騎打ちをして討ち取られた大友軍の総大将吉弘嘉兵衛もその見事な散り様に人々は感動し名が残りました。

歴史とは面白いですね。

 

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