3月20日は黒田官兵衛(如水)公の命日である。播磨の黒田武士顕彰会さんから会報が届いた。その日、黒田家の菩提寺である福岡市の崇福寺にて官兵衛公の法要が催されるので姫路から大勢の方々が来られるそうで今参加者を募集中とのことだ。以前中津顕彰会でもこの法要に参加したことがありその荘厳さに心打たれたのを覚えている。播磨の顕彰会の神澤、新福さんから中津顕彰会も一緒に如何ですかとお誘いを戴いた。中津の心意気を示さねばならない。是非行きましょうとお答えした。播磨の方々はその後唐津方面へ足を伸ばし秀吉朝鮮出兵の拠点名護屋城跡を訪ねる予定とか。毎年、黒田武士ゆかりの地を訪ねて熱心に活動されています。素晴らしいことです。
姫路の顕彰会の皆さんの熱意にはいつも感心させられます。また、福岡の顕彰会や藤香会などゆかりの方々がこの法要を毎年催されていることに心から敬意を表したいと思います。JR中津駅コンコースにこの19日(土)から始まる中津ひな祭りに協賛して黒田官兵衛(如水)と母里太兵衛の案山子が並んだ。中津市山国町で毎年秋に案山子ワールドが開催され多くの観光客に好評であるところからこのたび中津駅長さんのご協力で初代中津城主として中津市の礎を築いた黒田官兵衛(如水)公を顕彰し多くの市民の方々に知っていただこうと小野会長の力添えで実現したものだ。豊前国中津黒田武士顕彰会の幟も立てられしっかり「黒田官兵衛をNHK大河ドラマへ」とアピールしている。(官兵衛の頭巾が今ひとつですが、、、)
皆さん中津ひな祭りにお出でください。そして中津駅構内にある黒田官兵衛(如水)公と母里太兵衛公の雄姿をぜひご覧ください。(写真右端にポーズをとってくださっているのは田畑中津駅長さんです。もしかしてお願いすれば気軽にツーショットに応じてくれるかも、、、。)
先日の新聞に龍馬伝の高知に於ける経済効果の最終発表が載っていた。昨春高知を訪れた時は町中が龍馬、龍馬でとても賑わっており当時その経済効果は200億円と言っていたが昨秋の発表では400億円と発表されていました。それが何と500億円を越えていたのです。高知だけで535億円と言うことは京都、長崎、下関、鹿児島、東京などゆかりの地域を含めると相当の観光客が龍馬の足跡を追って日本各地を訪れたことになる。恐るべしNHK大河ドラマ。やはり登場人物の生き様、歴史的背景等が人々の共感を得たことも一因であるがキャストやその脚本が素晴らしかったことにも大いに因ると思われます。
何時の日か黒田官兵衛(如水)公が日本国中の耳目を集める日が一日も早く来たらんことを皆さんと共に待ちましょう。ただしそれには官民一体となった地元の盛り上がりが不可欠である。日本全国の黒田武士ゆかりの方々「黒田官兵衛(如水)を大河ドラマへ」ともっと声を上げましょう。よろしくお願いいたします。
歴史と伝統ある大分県立中津工業高校は校舎が如水原の一角にあるゆえかそのOB会は「如水会」といいます。全国各地にその卒業生が大勢活躍しております。このたび最新の会報が届きました。文面を読むと昭和39年9月9日に現在の地に移転したそうで410年前のその日は丁度関が原の合戦の前、風雲急を告げようとしていた時に黒田如水(官兵衛)が如水原において九千余の兵に下知し九州の大坂方の城や武将なかんずく細川藩杵付城(大分県杵築市)を攻めていた豊後大友氏を討伐すべく中津の地を出立した日であると。当時の校長先生の地域の歴史を慮った英断であったことがうかがえる。今はその謂れも知る人も少なく現立石校長先生が歴史を掘り起こし教師や生徒、保護者の方々に広く知っていただこうと紹介したものだ。黒田官兵衛(如水)が立石校長先生のおかげで今に蘇った事に敬意を表したいと思います。因みに現如水会会長は我が豊前国中津黒田武士顕彰会の小野会長であることも紹介されているのが嬉しい。
如水原は何処だ?ということで下毛郡誌を紐解くと 「如水原 如水村大字助部の原野を云ふ。慶長5年黒田如水兵を率ゐて豊後に向かわんとし九月九日閲兵のことあり是より如水原と云ふ今は山村となれり」とある。
助部村,下池永村、是則村、合馬村、全徳村の5村が合併し助部村となっていたが明治22年如水村となった。土地の古老の言うには慶長五年、黒田如水が豊後大友氏を攻めんと九千余の兵を閲兵した際に黒田軍に「助勢した」と言うことで「助部」という地名が生まれたそうです。ただ読み方が「すけぶ」から俗に「すけべ」地区とからかい気味に呼ばれるようになりおまけに当地は地名が「下毛(しもげ)郡助部村」ゆえに「したのけのすけべむら」ともなれば若い娘さんには出身地の地名を説明する時に非常に恥ずかしかったそうで如水村と改称したとのこと。
如水原と呼ばれた地域、旧豊前国下毛郡如水村大字助部の原野は今は中津市上如水、下池永、是則、合馬、全徳の地区をさす。
中津へお出での方は黒田如水ゆかりの如水原に是非お出でになりそのかみの黒田如水が高声に下知したる広野の空気を味わってください。その地区には如水公民館、如水小学校、如水幼稚園、如水保育園、如水郵便局、如水歩道橋など冠に地名の如水を戴いた建物がたくさんあります。
1600年(慶長5年)徳川家康が上杉征伐へ出発し、大坂では石田三成が兵を挙げた。その情報を早船でいち早く得た黒田如水は今まで節約して中津城天守閣(当時は天守閣があったと近年の研究で解明した)に貯め置いた財、銭を大広間に積み上げ家臣となるべく応募してきた近郊の男子(その中に宮本武蔵がいた)に軍資金として配った。そのときに参集した新兵達を閲兵した広野が後に如水原と呼ばれる地域である。
黒田家譜によると「九月九日辰の刻、中津川の城を討立ち給ふ。如水は諸勢に先立ちて中津川より一里半東なる広き原の少高き所に床机を立て腰をかけ総勢の備押を見給ふ。一番に母里太兵衛一備、二番に黒田兵庫助同図書助一備、三番に栗山四郎右衛門、黒田五郎右衛門一備、四番に井上九郎右衛門一備~、都合其勢八千余人~。如水の本陣の勢千余人、すべて九千余人なり。広野に皆々留めおき高声に仰けるは今度上方にて治部少輔乱を起こして~是を聞し者どもいづれ心いさみ強くなり~士卒をいさめんための謀なるべし。右如水の床机に腰かけて下知し給ふ所を後年如水原と号す。」とある。
上図は中津市の地図である。左上方が中津城。傍を流れるのが中津川。そこより一里半(約6Km)東の地と記されている「如水原」は図の中央上如水地区近辺をさすと思われる。以前紹介した「如水野」と呼ばれる区域は定留地区との境にある。この広き原野一帯で黒田如水は九千余の兵に下知し大坂石田方についた豊後の大友義統(故大友宗麟の嫡子)軍を討つべく軍勢を整え下知したのだ。