豊前六郡について

2009-01-28 17:57:16 | Weblog
黒田如水公は秀吉の九州攻めの軍功により豊前六郡を拝領した。この豊前六郡の位置であるが著名な歴史家の著書に誤解があるようですので正したいと思います。当時の豊前国は八郡ありました。企救(きく)、田川、京都(みやこ)、仲津、築城、上毛(こうげ)、下毛(しもげ)、宇佐ですがその内企救、田川及び宇佐の妙見、竜王を除いた六郡が如水に与えられた領地です。ここで誤解が生じるのは仲津郡についてで中津城がある中津は仲津郡と間違えられています。正しくは京都(みやこ)郡と築城郡の間にあるのが仲津郡です。書物に出てきている地図を2枚並べましたが右が正しい図です。中津城のある中津は下毛郡に属し仲津郡にはありません。歴史家の方々の勘違いを誘うような仲津と中津ですがこれが正しい説ですので黒田家や黒田如水公の歴史を調べられる方々は注意をお願いいたします。


閑話休題3

2009-01-24 16:41:07 | Weblog
ミシュラン三ツ星レストラン「ロジェ」のメインディッシュです。和牛フィレ肉のブーシェ、シャンピニオンと黒トリュフのクスクス、ピキヨースクのリーリィという料理でした。上に載っている黒いトリュフは香りも素晴らしく厳選された最上の材料を使っている様が舌にじわーと伝わってきました。流石に予約が数ヶ月前でないと取れないお店だけはありました。料理もさることながらお店のスタッフの動きや気配りにおもてなしの心が十分に行き届いていて、上品な雰囲気の中で心地よく食事の時が流れていくことに満足感を覚えました。スタッフ全員で一所懸命一期一会のおもてなしをしようという心遣いがひしひしと伝わってきて気持ちよく食事をすることが出来ました。

閑話休題2

2009-01-23 11:58:09 | Weblog
ミシュラン三ツ星レストラン「ロジェ」の料理長ムッシュブルーノ・メナールさんとのツーショットです。我々小売業に携わっているものにとって世界最高の料理はもちろんサービス、店の雰囲気などを感じ学ぶことはとても大事なことの一つです。黒田如水公も自分の感性と情報力により当時最高の権力者を見極め黒田家の行く末を託したのです。いずれの道を歩もうともその世界の最高のものを見、学ぶことは自分を高めるために重要なことであるといわざるを得ません。

閑話休題

2009-01-20 21:09:35 | Weblog
昨日から東京出帳です。昨夜は友人が予約してくれた銀座並木通りのミシュランの三ツ星レストラン「ロジェ」に行ってきました。前回お寄りした三ツ星の和食のお店とはがらりと違った店構えですがフランス料理店はかくあるべしという店の雰囲気、スタッフのサービスや気遣いが素晴らしく感動しました。もちろん美味しかったです。

あっ官兵衛饅頭

2009-01-19 11:03:39 | Weblog
講演会へおいでの皆さんに殿畑双葉堂社長より新製品の「あっ官兵衛饅頭」がプレゼントされました。しおりも中々良く考えられていましたが、官兵衛の赤兜をモチーフにしたことが不足していましたのでお伝えしました。社長によるこだわりの厳選された原材料が使用されていますので味は顕彰会のお墨付きです。多くの皆さんに御遣物にしていただきたいとお礼をこめて敢えてここにご紹介した次第です。ゆるきゃら「あっ官兵衛ストラップ」ともども皆様宜しくお願いいたします。

「黒田如水公と中津」講演会2

2009-01-18 07:54:29 | Weblog
今回、私が伝えたかった講演内容は端的に「豊臣秀吉に最も頼りにされ、最も恐れられた戦国武将それが黒田官兵衛(如水)である」の一言であった。勿論、会場には中津市の企業の奥方様方の研修会であるので中津市と黒田如水との関わりが如何に深かったかを中心にお話した。皆さん始めて黒田如水公がそんなすごい武将だったのかと関心を持っていただけたようで嬉しく思ったことでした。写真にあるーあっ官兵衛ーのゆるきゃら人形もかわいくて大人気でした。

「黒田如水公と中津」講演会

2009-01-17 13:51:35 | Weblog
昨夜、中津法人会女性部会の新年研修会によばれ「黒田如水と中津」の演題で講演をしてきました。会の中尾英治氏の黒田武士の舞のあと如水公のことを皆さんに伝えることが出来ました。皆さん中津にこんな凄い武将がいたのか今更ながら知りましたという意見も多く、無事話し終わってほっとしているところです。30分ではすべてをお話できませんがそれなりに分かっていただけたのではないかと思います。また機会があればいろんなところへ出向いて戦国時代の名軍師黒田如水公、長政公そして黒田武士の凄さ勇猛さを語り続けていこうと思っています。それから「あっ官兵衛」のゆるきゃらとストラップ、そして老舗殿畑双葉堂さんが皆さんにと差し入れてくれた「あっ官兵衛銅鑼焼」の紹介もばっちり!今後出張で大坂や東京へ行かれるときは是非このグッズと銅鑼焼を持参して欲しいむねお願いしました。徐々に如水公がNHK大河ドラマへ近ずいて行っている様で頼もしく思います。皆さんも応援宜しくお願いします。

石垣原の合戦6

2009-01-13 10:57:33 | Weblog
別府市誌の石垣原の合戦には大友家の武将の勇猛さとともに合戦後の新しい領地の割り振りがかなり詳しく記述されています。今まで統治していた土地を秀吉や家康の一声で離れゆき、新領地で治政を行うべく転封されていきました。大名や領主にとってそれはすべてを一から行わざるを得ない大事業でした。肥後熊本50万石をもらった佐々成政は地元の国人一揆を抑えられず秀吉に切腹させられ、佐々家は滅亡、一族郎党は浪人となり道に迷いました。また名将上杉謙信の後を継いだ上杉景勝(軍師は今NHK大河ドラマの直江兼継)は秀吉の鶴の一声で謙信が守り育てた越後の国から見も知らぬ会津若松へ転封、景勝は悔し涙を流すも天下人秀吉に逆らえず泣く泣く従った。会津若松といえば上杉景勝の前の城主蒲生氏郷は会津若松へ転封の命が出たときもう俺は天下が狙えない(田舎に飛ばされたので)とさめざめと泣いた。また秀吉の命令で徳川家康が駿府から当時淋しい漁村だった江戸へ転封を言い渡された時、秀吉は家康がもし断ったら会津若松へとばす予定だったとか。もしそうなっていたら日本の歴史は大きく変わっていた。棟梁たるもの情報を集め分析し如何に進むかに全神経を研ぎ澄まし一瞬たりとも油断の出来ない身の処し方をせねば生き残っていけない時代でした。今は無理を言わなければ衣食住労は叶います。幸せな時代と思わねばなりません。

石垣原の合戦5

2009-01-11 14:49:42 | Weblog
別府市誌の続きですがこれは平成15年3月発行なので先の市誌に比べて誤述もなく正確に記されています。石垣原の真ん中にある朝見神社に合戦模様の地図や古文書が残されているようなので何時の日にか拝見したいと思います。また朝見神社といえば神(こう)宮司は高校の同級生ですので神社にお尋ねして詳しくお聞き出来るのではないかと期待しています。楽しみがまた一つ増えました。

石垣原の合戦4

2009-01-09 12:21:37 | Weblog
別府市誌にある石垣原の合戦の続続です。残念ながら大友宗麟と嫡子義統を同一人物としていたり、官兵衛をもと赤松氏の被官(家来)と記述していますが、赤松家だけでなく主には小寺家の家臣とすべき誤記もある。地元の歴史家がこのような間違いをするはずがないのだが誤植であろうか。別府市としても一日も早く訂正してほしいところだ。なぜなら黒田如水公を語るとき、姫路、中津、福岡はその関わりに於いて最も密度の濃い重要な都市であるが中津城を出陣して石垣原の合戦に到るまでは如水公の軍史において「九州の関が原」と後世の歴史家がその智略を天才の域を超えていると称えるほどのものである故に石垣原のある別府市は前3都市に準ずるほどの歴史的価値は高いといえよう。別府市において黒田武士がもっと身近に市民の方々に知っていただけるようになることを願ってやみません。