二週間ほど前、生徒達が帰省していた週末にちょっとワシントンDCまで出かけ、元生徒を訪ねたり、小学校時代の知り合いを訪ねたり、日本食や日本の本を仕入れてきたんですけど、その中の一冊、「俳句的生活」(長谷川櫂)という本を今読んでいます。なかなか面白い本です。単なる俳句の解説にとどまらず、俳句的人生の美学や哲学を感じさせるというのか… 一見バラバラなものに食指を伸ばしていると、意外なシンクロがあって面白いものですが、彼の俳句人生の中にも、近頃の私がアートに思う事とだいぶ重なるところがありました。「孤島と大陸」と私が呼んだものが、ここでは「孤心とうたげ」と言われております。長いのですが、ずずいと引用させていただくと…
「これでも私はすでに三十年以上も俳句を詠んでいるが、あらためて振り返ると初めの頃とは詠み方がずいぶん変わった。大きな流れをいえば十代、二十代のころは自然や素材と一人向き合って詠んでいたのであるが、三十代の半ばからは友人や親しい人々の間で詠むようになった。…私の詠み方の変化は単に私だけの問題ではなく、実は日本の詩歌の基本的な構造に触れる問題であることにその後、気がついた。たしかに詩歌は宇宙の闇黒の中で輝き始める星の子どものように孤独な人間の奥底で産声をあげる。これは洋の東西を問わず詩歌と名のつくすべてにあてはまることだろう。ところが西洋の詩歌はそれ以外の何ものでもないが、日本の詩歌、中でも俳句や短歌は人々の集まりの中で読まれてきた。この二者合一の境地をみごとに言い表している西行の歌がある。
さびしさに堪へたる人の又もあれな いほりならべん冬の山ざと
「私と同じように淋しさに耐えている人がもう一人いたら訪ねてくれる人もまれなこの冬の山里に庵を二つ並べて暮らしたいという歌である。いつも仲間と一緒にいて淋しさなど味わう暇もない賑やかな人ではなく、淋しさの味を知り尽くしている人とこそ友達になりたいというのである。
「俳句や短歌が孤独な心から生まれ、同時に人々の集まりの中で生まれるということは互いに相容れぬことのようにきこえるかもしれないが実のところは何の矛盾もない。…日本の詩歌を織りなしてきたこの二本の糸を大岡信氏は「孤心」と「うたげ」という言葉で表わした。…短歌の源である相聞は恋の孤独に耐えかねた二つの心の間で交わされた和歌のやりとりであったし、俳句の産屋となった連句は「さびしさに堪へたる人」を主客とする連衆の座で成り立つものであった。日本の詩歌の二つの大きな流れである和歌と俳諧、そのどちらも孤独な心とその集まりという異質な二つの要素が縦糸と横糸になって織りなしてきた言葉の織物なのである。」
なかなか奥が深いですよね~。「孤心」が人の数だけあるからこそ、「うたげ」においてその共鳴のハーモニーが重厚になるのでしょうか。この孤心とうたげが織りなす世界って、いつか書いた「騒がしい詩」で引用した谷川俊太郎氏の言われた「集合的無意識」に近いものがあるような気がします。一人掘り下げた深い井戸の底には、他の人の井戸の底にも通ずる水が流れているのかもしれません。私のいち押し映画「永久の愛に生きて」(C.S.ルイスの実話)に「人は一人ではないことを知るために本を読む。」という台詞があるのですが、いい本を読んだり、素晴らしい芸術に触れたりすると、「おお、この人も頑張って掘ってきたんだな。」って思えたりしますよね。まぁ、自分はずーっと「冬の山里」に籠もっているのは嫌な半ば「賑やかな人」なんで、掘りがまだまだ浅くて届かない流れが多いんですけどね。お恥ずかしながら、解説なしでは殆どの俳句の意味がちゃんとはわからなかったですから… 一詠まれたところに十を、いや百を読み取るような解説に「なるほど~」と唸っていたのであります。俳句や芸術としっかり向き合うには、作者と同じ「冬の山里」の景色を知らないと、なかなかその心を見ることはできないんだろうなぁ。(ここで槇原敬之のBGM♪)
ここで、もう一冊。前回もお話したec07で日本語クリスチャン・ブックの買いだめをしたのですが、その中でも大当たり!だったのは前から読みたかった「魂の窓」でした。(っていうかこれしかまだ読んでないけど。)でもこれは今まで読んできた本のうちでも、マイ・クリスチャン・ブック・ベスト5に入りますよ!超お勧め。この本の著者ケン・ガイアも一を見て十を知る眼を持つ大切さを語っています。普通の人が見過ごしてしまうような人々の「魂の窓」の奥底の痛みを見ることがイエスの生き方だった、と。ガイア氏も「冬の山里」の景色を知る人。彼は、イエスが見つめられた聖書の中の人物の話も多く書いていますが、自分の家族や身近な人達、ゴッホやノーマン・ロックウェルといった画家、文学作品、映画の中で見い出した「魂の窓」についても語っています。ゴッホといえば、生きている間は絵が売れず、自分の耳を切ったりした挙句に自殺したヤバイ画家、という認識くらいしかなくって、彼が牧師の息子で信徒伝道者だったとはこの本を読むまで知らなかった。彼は「貧しい労働者階級の人々に聖書の言葉を蒔くために絵を描こう」としていたらしいです。そんな彼が、どうしてあんな最後を迎えたのか、まぁこの本を読んで頂けばわかるのですが、一言で言えばそれは彼の魂の窓が人々に理解されなかったからだ、といえると思います。激しい「孤心」のみで「うたげ」の場がない人だったのですね。辛いわ。
そういえば、冬休みにフィラデルフィア美術館にて駆け足でルノアール風景画展示会を見てきたのですが、印象派の代表格であるルノアールとモネは仲良しだったみたいです。これも知らんかったわ。(美術史のクラスを真面目にやらなかったせいか?)二人で野山に絵を描きに行ってたり、モネが絵を描いている姿をルノアールが描いたスナップ撮影さながらのスケッチがあったり。互いにいい影響を与えて合っていたご様子で。「西洋の詩歌には孤心があってもうたげがない」と前述の長谷川氏が述べておられましたが、西洋美術にもうたげがない、とは言えないのでは。きっとどの文化においても、孤心とうたげの両方を求める精神があるのであるのでしょう。人間の世界だけでなく、神様の世界にはもっと深い孤心と大きなうたげがあるように思えてなりません…(ここでNicole NordmanのBGM♪)しかし、こうしてブログを書いたり、コメントを頂くことが私にとっては「うたげ」になっているのかもな。それをこうして可能にして下さる皆さん、今日もここまで読んで下さってありがとうございました~!
「これでも私はすでに三十年以上も俳句を詠んでいるが、あらためて振り返ると初めの頃とは詠み方がずいぶん変わった。大きな流れをいえば十代、二十代のころは自然や素材と一人向き合って詠んでいたのであるが、三十代の半ばからは友人や親しい人々の間で詠むようになった。…私の詠み方の変化は単に私だけの問題ではなく、実は日本の詩歌の基本的な構造に触れる問題であることにその後、気がついた。たしかに詩歌は宇宙の闇黒の中で輝き始める星の子どものように孤独な人間の奥底で産声をあげる。これは洋の東西を問わず詩歌と名のつくすべてにあてはまることだろう。ところが西洋の詩歌はそれ以外の何ものでもないが、日本の詩歌、中でも俳句や短歌は人々の集まりの中で読まれてきた。この二者合一の境地をみごとに言い表している西行の歌がある。
さびしさに堪へたる人の又もあれな いほりならべん冬の山ざと
「私と同じように淋しさに耐えている人がもう一人いたら訪ねてくれる人もまれなこの冬の山里に庵を二つ並べて暮らしたいという歌である。いつも仲間と一緒にいて淋しさなど味わう暇もない賑やかな人ではなく、淋しさの味を知り尽くしている人とこそ友達になりたいというのである。
「俳句や短歌が孤独な心から生まれ、同時に人々の集まりの中で生まれるということは互いに相容れぬことのようにきこえるかもしれないが実のところは何の矛盾もない。…日本の詩歌を織りなしてきたこの二本の糸を大岡信氏は「孤心」と「うたげ」という言葉で表わした。…短歌の源である相聞は恋の孤独に耐えかねた二つの心の間で交わされた和歌のやりとりであったし、俳句の産屋となった連句は「さびしさに堪へたる人」を主客とする連衆の座で成り立つものであった。日本の詩歌の二つの大きな流れである和歌と俳諧、そのどちらも孤独な心とその集まりという異質な二つの要素が縦糸と横糸になって織りなしてきた言葉の織物なのである。」
なかなか奥が深いですよね~。「孤心」が人の数だけあるからこそ、「うたげ」においてその共鳴のハーモニーが重厚になるのでしょうか。この孤心とうたげが織りなす世界って、いつか書いた「騒がしい詩」で引用した谷川俊太郎氏の言われた「集合的無意識」に近いものがあるような気がします。一人掘り下げた深い井戸の底には、他の人の井戸の底にも通ずる水が流れているのかもしれません。私のいち押し映画「永久の愛に生きて」(C.S.ルイスの実話)に「人は一人ではないことを知るために本を読む。」という台詞があるのですが、いい本を読んだり、素晴らしい芸術に触れたりすると、「おお、この人も頑張って掘ってきたんだな。」って思えたりしますよね。まぁ、自分はずーっと「冬の山里」に籠もっているのは嫌な半ば「賑やかな人」なんで、掘りがまだまだ浅くて届かない流れが多いんですけどね。お恥ずかしながら、解説なしでは殆どの俳句の意味がちゃんとはわからなかったですから… 一詠まれたところに十を、いや百を読み取るような解説に「なるほど~」と唸っていたのであります。俳句や芸術としっかり向き合うには、作者と同じ「冬の山里」の景色を知らないと、なかなかその心を見ることはできないんだろうなぁ。(ここで槇原敬之のBGM♪)
ここで、もう一冊。前回もお話したec07で日本語クリスチャン・ブックの買いだめをしたのですが、その中でも大当たり!だったのは前から読みたかった「魂の窓」でした。(っていうかこれしかまだ読んでないけど。)でもこれは今まで読んできた本のうちでも、マイ・クリスチャン・ブック・ベスト5に入りますよ!超お勧め。この本の著者ケン・ガイアも一を見て十を知る眼を持つ大切さを語っています。普通の人が見過ごしてしまうような人々の「魂の窓」の奥底の痛みを見ることがイエスの生き方だった、と。ガイア氏も「冬の山里」の景色を知る人。彼は、イエスが見つめられた聖書の中の人物の話も多く書いていますが、自分の家族や身近な人達、ゴッホやノーマン・ロックウェルといった画家、文学作品、映画の中で見い出した「魂の窓」についても語っています。ゴッホといえば、生きている間は絵が売れず、自分の耳を切ったりした挙句に自殺したヤバイ画家、という認識くらいしかなくって、彼が牧師の息子で信徒伝道者だったとはこの本を読むまで知らなかった。彼は「貧しい労働者階級の人々に聖書の言葉を蒔くために絵を描こう」としていたらしいです。そんな彼が、どうしてあんな最後を迎えたのか、まぁこの本を読んで頂けばわかるのですが、一言で言えばそれは彼の魂の窓が人々に理解されなかったからだ、といえると思います。激しい「孤心」のみで「うたげ」の場がない人だったのですね。辛いわ。
そういえば、冬休みにフィラデルフィア美術館にて駆け足でルノアール風景画展示会を見てきたのですが、印象派の代表格であるルノアールとモネは仲良しだったみたいです。これも知らんかったわ。(美術史のクラスを真面目にやらなかったせいか?)二人で野山に絵を描きに行ってたり、モネが絵を描いている姿をルノアールが描いたスナップ撮影さながらのスケッチがあったり。互いにいい影響を与えて合っていたご様子で。「西洋の詩歌には孤心があってもうたげがない」と前述の長谷川氏が述べておられましたが、西洋美術にもうたげがない、とは言えないのでは。きっとどの文化においても、孤心とうたげの両方を求める精神があるのであるのでしょう。人間の世界だけでなく、神様の世界にはもっと深い孤心と大きなうたげがあるように思えてなりません…(ここでNicole NordmanのBGM♪)しかし、こうしてブログを書いたり、コメントを頂くことが私にとっては「うたげ」になっているのかもな。それをこうして可能にして下さる皆さん、今日もここまで読んで下さってありがとうございました~!