言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

なぜなぜアート?

2008-02-05 | 美の葉
近頃は、ちょっとアートな日々を過ごしております。大学の時はアートが副専攻だったので色々やってましたけど、その後ESL教師として働いていた時や、大学院で勉強していた時は、たまに頼まれた時ぐらいにしか描いていませんでした。。が、ここに来てから美術のクラスを教え始め、がぜん絵を描く機会が増えてきた!はいいんだけど、つまり私は置かれた状況によって、描いたり描かなかったりってことか? そこで、そんな自分が何故アートするのか?なーんてちょっと考えてみたりしました。。。(注: ちょっと、のつもりが、かなり長ーくなってます。)

小さい頃からお絵描きや工作が大好きだった私は、単にアートな時間が楽しくて取り組んでいたと思う。でも、人から褒められるようになったり、他の友達と自分の作品を比べたりする年頃になってから、造るプロセスの楽しさよりも、完成品であるプロダクトを眺めて「なかなかいいじゃん。」って自己満足に浸る喜びの方が大きくなっていったような気がする。でも実際には100%満足できるモノなんてなかなか出来ない。自分の思い描くものをはっきりカタチに出来ない、ピントのずれたカメラを扱っているようなもどかしさ。やり始めたら没頭するくせに、出来上がったらケチつけたくなるだけだし、めんどくさいなぁ、と。まぁ、そんな時期があったのでした。

その頃、絵を描くプロセスそのものが好きな人に会ったんですよね。暇さえあれば、目に入るものを描き散らしている。使うのもその辺にあるペンとか付箋つきの紙。「描くのどうして好きなんですか?」って聞いたら、「紙の上で自分の手が動いているだけで楽しい。」だって。「出来た絵がたいして上手くなくても、なんか不完全なところに愛着がわくんだよね。自分が描いたものだし。」とも言ってたなぁ。書道をする私の母は、筆を持っただけでワクワクするらしい。あと誰か忘れたけど、有名な画家がどうして絵を描くのか聞かれた時、「絵の具の匂いが好きなんだよね。」って言ったとか。(カッコええ。)「楽しい42.5キロでした!」で有名な走るの大好き高橋尚子選手とか、「そこに山があるから登る。」って言った登山家にも似たものを感じるわ。でも、自分はプロセスを楽しむ余裕がなくなっていた… それに好きな事だって、いつもいつも楽しいわけじゃないし、つらい時も続ける努力に意味があるはずだし。(ロンバケ瀬名君のようだ。←懐かし~。)でもその時は、描く事を純粋に楽しんでいるその人が、かなり羨ましかったなぁ。

さて私には、受動的に座っていると、いつでもどこでも居眠りできるという特技(?)があるのですが、絵を描くとなぜか目が覚めてくるという習性も持ち合わせているのです。再び教職に戻ってから、会議中や礼拝中に寝てしまうと他の先生や生徒達の手前よろしくないので(っていうか手前じゃなくてもよろしくないし)、ひそかに絵を描いておりました。そんなある日、難易度を上げてより目を覚まそうと利き手ではない左手スケッチにチャレンジ!これが結構面白いんですよ。上手く描けなくて当たり前。で、不器用に動く左手の描く線を客観的に楽しめる。そうして集まった線の中に浮かび上がった不恰好な像に、けっこう愛着を感じたりして。で、同じ人物を右手と左手で描いてみたら、「右手の方が正確だけど、左手スケッチの方が味があっていいわ。」と友達。視覚をつかさどる右脳と左手がつながっているから…かどうかはよくわかんないけど、とにかく左手スケッチに一時ハマってました。プロセスもプロダクトも楽しめて、上手くなくても愛せる絵。今思うと、いいセラピーになってたのかもしれません。

ところで最近、「アートのクラスに入りたいんですけど、でも…」と私のところにやって来る高校生達が「でも」の後によく口にするのは、「私そんなに上手くないから…」とか「自分は完璧主義だから、上手く描けないとイライラする!」とか「誰それみたいに上手くないから。」という言葉。おいおい、どっかで聞いたような台詞だな~と思いつつ、(←自分だろ)「いや~、そんなの気にしなくても、楽しめればいいんじゃない?」と答えていた私。でも、ちょっと違うかな。素直に楽しめない自分がいるからそう訴えているのに、「楽しめばいいよ」じゃ答えになってないし。それにプロセスが楽しければ仕上がり(プロダクト)なんてどうでもいい、では困る。(「楽しいだけじゃどうしていけないんですか!?」ってのだめも苦悩したのだ。←またドラマネタ)多分、色んなプロセスを通して、自分がなぜアートするのか、楽しめない自分がいるのはどうしてか、どうしたらプロセスを楽しみつつも意味があるプロダクトを生む事ができるのか、自問自答しながら自分で答えを見つけるしかないんだろうな。自分もまだまだ試行錯誤中…

これまでの私にとって、絵を描いたりモノを造ることは、一人作業を意味していたんですよね。例えば音楽ならソロもできるけど、オーケストラや合唱のようにその他大勢と協力して創り上げることもできる。でも、アートは孤島でやるものだな、と勝手に思ってた。自分の、自分による、自分のための芸術、みたいな。人とコラボして何か造るのは苦手だったな~、自分のイメージと違うモノが混じってくるから。でも最近いい感じに、私のアート孤島が壊されてきたんです。大陸続きの半島になるつつある。(コミュニティー・アートやワーシップ・アートというものに触れたからでもあるのですが、それについては長くなるので、また今度。)ただアートのためのアートじゃなく、何か別の目的のためにアートする。自分のためだけじゃなく、誰かのためにアートする。…そんな転換期が来ている気がする。いわゆる目的と手段の入れ替わりなんだけど、アートを通して何を成し遂げるってことを体験的に考えさせられていますね。

例えば小さい事なんですが… 今の職場では、放課後とか週末の高校生の自由時間の見張り役が回ってくるんで、始めはただブラブラしたり、マル付けしたり、本を読んだり、寄って来る高校生の相手をしてました。でもある日、上野駅周辺の似顔絵描き屋みたいに似顔絵スケッチをすることにしたんですよ。すると、今まで馴染みの薄かった生徒達も「描いて~!」とやって来るようになって。で、描いている間に、色んな話してくれたり。この週末も何人か描いたけど、将来の夢を語る子あり、自分の生い立ちを語る子あり、政治論を語る子あり、アートが今までは届かなかった生徒に対しての橋になってるんだな、と思えて嬉しかった。描きながらおしゃべりなんて、今までじゃありえない。まぁ「人物画が苦手だから練習させてね。」って言って描いてるんで、技術アップという表向きの「目的」も一応あるけど、生徒とコミュニケーションを図る「手段」の方が、この場面では大きかったな。孤島を抜け出し、上手く描く以上の意味を感じられた時間でした。

そうそう、語学についても、同じ事が言えますね~。ある言語能力を取得する事自体が「目的」の時期が過ぎ、その言語が自分にとって意義ある事の為の「手段」になる時期がくる。(恋しちゃったりとかね、古今物語集の女好き僧侶みたいに。)それから新しい次元に進んで、そこで新しい課題=目的を見つける。もともと明確な目的を持ってその手段として外国語を勉強する人ももちろんいるけど、(外交官になりたいとかね、ノルウェイの森の永沢さんさんみたいに。)学ぶ事そのものに目覚めちゃう時期が来ると、よりパワーアップ出来るはず。第二言語環境に放り込まれる留学生や移住者は、この目的と手段が否応なしに激しく交互に繰り出されるハシゴを必死で登るから、語学力が身につくのかも。(あんまり激しいハシゴだと疲れてあきらめてしまうケースもあるか…歩幅とハシゴ段の間隔が合うのが大事。)私の場合、留学してなかったら英語なんて苦手で嫌いなままだったと思われる。アートほどセルフメイド・モチベーションが持てないもん。(そのアートだって、冒頭で書いたように、置かれた状況や自分の心境によって、やる気がかなり左右されているんですけど…)でも、そういう「やらなきゃヤバイ!」環境にいない場合、モチベーションが外からザクザク降ってこないから、ハシゴの段も自分の中で見つけて足していく責任感と根気と成熟さが問われますよね。それに長くアメリカに住んでいると、ハシゴの段差も狭くなって登るのも楽になってくるから、自発的に英語を学ばないとだめだな~、と思う今日この頃。まぁ、神様はうまくしたもので、ESLに加えて、高校英語教えなきゃいけないという「やばい」状況をお与えになったので、そうじゃなきゃ勉強しなかったであろう英文学やシェイクスピアに取り組んでおります。はぁ~、結局、何の道を極めるにも、「目的と手段」「外的モチベーションと内的モチベーション」「孤島と大陸」「完成度と愛着度」「楽しむ事と努力する事」「プロセスとプロダクト」が交互に繰り出されるハシゴを地道に登るようなものかもしれない。思いがけない時に絶景が現われたり、はたまた雲の中に入ってしまったり。他の誰のものとも比べられない、そんな終わりなき旅っすね。