手垢のついたメモ帳

ヤクザが出家して、障害者福祉に従事。必死に歩いた過去の懺悔帳?

寄付という行為

2009年06月30日 | Weblog
俺が毎月、あるNPOにささやかながら寄付金を送金していることは前に書いた。

昨日、そのNPOの代表から礼の電話が掛かった。

彼は元、警察官だ。

奇しくも、現職の頃は俺を逮捕する為に部下を指揮していた人だ。

たまたま彼の活動を追ったTV番組を見て、資金難を言っていたから寄付を思い立ち、

その後に彼がかつての俺の「敵」だったことを知ったのだが、

しかしその事は俺の寄付行為の決断には何の影響もなかった。

俺が真面目にヤクザをしていたように、彼は彼の職務を真面目にこなしたに

過ぎないからだ。

電話で彼は「毎月、毎月こんな事をしてくれなくても・・・」と言っていたが、

俺は「別にあんたに寄付してるんじゃない、あんたの活動に寄付してる」

そう答えた。

彼は「有り難く使わせて貰います」といって電話を切ったが、

要はそう言うことなのだ。

彼が過去、俺とどういう関係であろうと、

或いは彼が別のまったく縁のない人だったとしても俺は寄付をしたと思うし、

同じように毎月、自分の小遣いの中から送り続けるだろう。

俺自身、これまでに多くの人に迷惑をかけ、たくさんの人に救われて今がある。

恩はリレーで回すべきモノだと考えているし、出来るときにやることだ。

そして、俺のモットーは

「やった、あげたは忘れろ。貰った、頂いたは忘れるな」 だから。

などと、カッコ良いことを書いているがしかし、

俺が誰かにさせて貰った事よりも、知ってか知らずかは別にして、

迷惑をかけたりお世話になった事の方がはるかに多いだろう。


俺を得度してくれた真言宗の師が、かつてこういった。

「金を儲ける事を考えるのは罪ではない。

 自分が喰えない状態で、人は救えない・・・」と。

儲けた金を自分の為に浪費するか、人助けに使うかで金の値打ちが変わる。

貨幣価値は同じでも、額面以上に金を生かすか殺すかだろう。

自分の為に消費すれば嬉しいのは自分だけだが、

誰かの為に使えばその「誰か」が喜ぶ。

その喜ぶ顔を見れば自分も嬉しい。

同じ金額で誰かと自分が良い気持ちになれるのだ。

俺はそんな思考回路で生きていたい。


俯瞰

2009年06月29日 | Weblog
アフリカのキリマンジャロに登る番組が、テレビで放映された。

それを見ていて思い出したのが、いつか飛行機から見た雲海だった。

離陸時に雨が降っていても、機体が雲海を抜けて雲の上に出るとそこは快晴だ。

人は「見えるモノ」に左右され、「雨」と思っていても実は、

その雲の上が晴れている事を忘れる。

しかも、その「雨」が数日続くと、ずっと雨が降り続く気分に陥りがちだ。

逆に、高い山から見れば雲の下の雨のことも思い浮かべないかも知れない。

つまりは、「見えるモノから見えないモノを見る」事が大事なのだと思う。

日本は「上に厚く、下に薄い」国だ。

人情や行政施策、経済etc・・・。

これは多分、「変な豊かさ」からの弊害なのかも知れない。

昔はみんなが貧しくて、お互いに補い合い助け合うしかなかったから、

気遣いや感謝や遠慮などが育まれ、思い合うことが生きる温もりを産んだ。

ところがなまじ「高度経済発展」を目指し、「経済優先政策」で、心が枯れていったのだ。

そこから人情は薄情に換わり、恩や義理というものは、

「割り切り」とか「合理的」という言葉で切り捨てられてきたのだ。

「弱肉強食」が自然界の絶対真理ならば、

だからこそ「他者への労り」が人間の尊厳と言えるのではなかろうか。

人間は無力だ。

無力故に「武器」を作って他の動物を排除し、君臨しているのだ。

他の動物は自分の力量の中で生きているのに比較すると、

武器という、自分の力以外の力を用いる人間という生き物は卑怯だとも言える。

「国家権力」という、「自分の力ではない力」にあぐらを掻いてふんぞり返る

どこかの国の政治屋さん達は、その典型に見え、滑稽でもの哀しい。


2009年06月26日 | Weblog
行きつけの喫茶店のマスターと喋っていると、俺の兄弟・姉妹の話になった。

ずっと前に書いた気がするが、俺は4人兄弟の2番目で長男だ。

俺は生後100日で他所に貰われて行き、そこには同じように貰われて来た

6歳違いの男の子が居て、それがいわば「兄弟」として育った兄貴だが、

血の繋がりで言えば、姉・俺・弟・妹の四人兄弟姉妹となる。

昭和32年3月12日が妹の生年月日だ。

初めて妹に会ったのが、彼女が小学校3年生くらいだろうか。

当時、彼女はキリスト系養護施設に収容され、そこから学校に通っていた。

俺は少年院を出て、自分の姉や弟達に逢いたくて、色々と探して見つけた妹だった。

初めて逢った妹は、俺には「あぁ、これが妹か・・・」と、思わせた程度の感情で

これといった感激も湧かなかった事を覚えている。

その後、俺が山口刑務所に服役中に、何かのきっかけで妹の事を想いだし、

妹の誕生日が近かった事もあり、俺は俺の「作業賞与金」の一部を、

前述の「兄貴」に送り、オルゴールを買って俺の名前で妹に送ってもらった。

妹から手紙が届き、短い文面に絵が描かれていたのは覚えているが、

どんな絵だったかは忘れた。

妹にしても、子供でもあり、更には一度しか逢っていない兄から突然誕生日の

祝いを送りつけられても、文面に困ったと思う。

次に妹に会ったのは、彼女が20歳位ではなかったろうか・・・。

埼玉・川口の古くて狭いアパートに尋ねて行った。

妹は男と同棲していたが、男は妹より年下だった。

それまでの軌跡を聞くと、

中学校卒業と同時に養護施設を出て、横浜の「森永」のキャラメル・チョコレート

の工場に就職し、そのうちそこを辞めて横浜市内のホテルに住み込みで働き、

そこでそのホテルの支配人と関係ができ、妊娠、中絶、そして捨てられたらしい。

よくある話しだ。

その支配人は妻子持ちだったそうだが、何も知らない小娘が弄ばれたということだ。

以後、水商売に入り、何人かの男と出会い、別れて、川口に辿り着いたようだ。

そのアパートも、同棲相手の男の部屋だった。

そして、妹は「パセドー氏病」を患っていた。

20歳そこそこで、甲状腺機能障害を患っていた妹も、生きていれば50歳そこそこ。

生きているのか鬼籍に入っているのか・・・・。

あれからもう、30年以上が経過した。

感謝の理由付け

2009年06月23日 | Weblog
愚痴や不平の理由付けはいくらでも出来るが、

感謝の理由付けも、同じようにいくらでも出来る。

最近、ある出来事でそう考えるようになった。

極端に言えば、例えば新宿中央公園に起居せざるを得ないホームレスが、

三畳一間のアパートに入れたとしたら、必ず感謝の念を持つはずだ。

畳の上で雨露をしのげるスペースに横たわって、

「あ~、有り難い」と思うはずだ。

ところがその生活に慣れてくると、「狭い・・・」「風呂が付いていれば・・・」と不満になる。

最初の感謝を忘れてしまうのだ。

そんな時こそ、最初の感謝の気持ちを思い返し、

「中央公園よりはるかに恵まれてる」事を肝に銘じ直すべきだが、

往々にして人はそうは考えないモノだ。

不満のタネがいくらでもあるように、感謝のタネもたくさんあるのに、

人は不満ばかりを考えて自分を不幸に追い立てる・・・。

空気一つ、水一杯さえ自分では作り出せない人間は、その事だけでも感謝に値する。

水があり、空気があり、住む場所があり、誰かに支えられて生きる毎日は感謝以外の何物でもない。

「有って当然」が実は「当然ではない」と言うことを知れば、自ずと感謝は芽生えるのだが、

哀しいことに人間は愚かだから、「当然ではない」事実を見過ごしてしまうのだろう。

もっとも、愚かしいから人間は愛しいのも紛れない事実なのだが・・・。



話題を変えよう。

久しぶりに思い出したエピソードだ。

昔、俺の兄貴分に当たる「畑田洋二」のオンナが寝取られた。

畑田が警察に逮捕されて、娑婆に居なかった時の出来事だった。

寝取った相手は俺にとっては「叔父貴」にあたる人間だった。

つまりは、畑田にとっては兄貴筋となる。

畑田はヤクザとしての筋を通すため、相手にケジメと落とし前を付けさせる必要があった。

俺は畑田を再び服役させる訳にはいかなかった。

そんな事をさせてしまっては、俺の侠がすたる。

俺は畑田から全面的に任されて、ハジキを抱いて相手に会った。

「ワシが何の話しに来たかは分かってまっしゃろ。

 すべてを任されて来ましてん」

そう切り出すと、相手の「T組組長」は

「ご苦労さん、分かってる。腹を括って来てるのも分かってる。

 子供の使いにはさせへんから、三日だけ時間をくれへんか」

そう返してきた。

相手も古いヤクザだから、俺も好きな先輩だったがしかし筋は筋だ。

ケジメと落とし前は付けなければならない。

「わかりました。三日待ちますゎ」


三日後再び会うと、

「中身の厚い、薄いは言わんといてくれ。これが精一杯や。

納得いかんならタマ上げてくれて良いぞ」

 (タマを上げるとは、命を取られても構わないという意味)

封筒とハンカチに包んだ小指だった。

「分かりました。中身は見ずに受け取りまっさ。

 そやけど、オンナ一人が小指一節となんぼかの銭でっか?

 高いんか、安いんかどっちでっしゃろうな」

俺はその指と封筒を持ち帰り、畑田に渡した。





向き合う

2009年06月23日 | Weblog
人は、思いがけない場面や想定外の展開で自分が不利な状況に陥ると、

得てしてまずは「逃げ」を考える。

逃げられないと判ると、一気に諦めに似た気持ちになり、次にやっと現実に向き合う気になり、

そこから「現実を克服する手段、方法」を考える。

それは俺も同じだった。

若い頃、少年院や刑務所に収容されると、まず、脱走を考えた。

何とか脱走する手だてはないかを真剣に考え、模索したものだ。

脱走不可能と判ったら、次は諦めてただ時間の経過のみを待つ。

そのうち無為に過ごしても1日なら、何かに打ち込んでも同じ1日だと、

当たり前の事に気付く。

そうすると、どうせ1日なら何かに打ち込んだり学んだりする方が得だと思うようになり、

その方向に気持を切り替える。

その積み重ねが今の俺を創ったのだろう。

そして人は、はっきりとした理由もないまま何かに対してイヤだと思ったり、

何となく意欲を無くしたりするときがある。

それは誰でもが経験する気持のアヤだと思うが、

そんな時、そのアヤをどう処理するかで人生が大きく変わる。

漫然と「イヤだ」と思っていれば、その思いはずんずん膨らみ、

やがては苦痛にまで発展してしまうモノだ。

俺はそんな時には「イヤ」な原因を冷静に見直すようにしている。

なぜイヤになったのか、イヤと思うようになったのかを探る訳だ。

つまり、向き合うということ。

向き合うことで原因が分かる。分かれば処理のしようも見えてくる。

処理せずにやりすごせば、それは後で必ず良くない結果として出てくるからだ。


国政では、この「向き合う」事をしないままに来たツケが諸処に噴き出している。

俺は政治を語れるほど高邁な人生は歩いていないが、

根本はまったく同じだと思う。

時間や時代の変化で状況はもちろん変わるが、

状況が変わっても理念や根本は変えてはならないはず。

しかし今は、「あの時はそうでも、今は違うから・・・」という、理由付けが多すぎる。

様々な問題に向き合わずに済ませる口実にしか見えないし、

解決しないままに逃げ出す理由付けではなかろうか?

法務教官逮捕 2

2009年06月11日 | Weblog
昨日に続き、広島少年院事件をもう少し書くことにする。

あちこちのブログ等を見ると、圧倒的に教官を責める記述が大多数だ。

俺は、昨日書いたとおり行き過ぎは有ったにせよ、それほど騒ぎ立てる事ではないと考える。

「用便にも行かせずに失禁させ、紙おむつを・・・」ともあったが、

少年院や刑務所は決められた時間以外は、用便も許可が要るのだ。

知らない者は「人権侵害」などと言うだろうが、

受刑者や少年院の院生の中には、刑務作業や院内作業などの時間になると

「用便」名目で作業をさぼる奴が居る。

全員を公平に扱うという主旨で、休憩や用便時間を決めているのだ。

さらに、少年院の場合自分が院内の規則を破って、

例えば教官室の前の廊下に正座でもさせられて居るときに、

足が痛いので「小便したい」と言って便所まで行き、

少しでも座る時間を免れようとする。

最初は教官も用便を許可するだろうが、何度もになれば当然許さないと思う。

俺が思うに、「小便事件」は多分そんなところだろう。

娑婆の人間は「便所はいつでも行けるのが当たり前」と考えているが、

少年院や刑務所は娑婆ではないのだ。


さらに、マスコミも無責任に騒ぎすぎだろう。

祭りの御輿の周囲で、担ぎもせずにかけ声だけで騒ぐ奴と同じレベルだ。

実際に自分で担いで、御輿の重さや肩の痛みに耐えてから騒げと言いたい。

娑婆のルールからはみ出した奴らと日夜向き合う少年院の教官の身にもなってみろ。

彼等だって家族が居るのだ。

どこかのブログ記事に「少年達の更正の手助けのために教官になったはず」とあったが、

そういった教官も確かに居るだろうが、大部分は「就職」したに過ぎない。

「国家公務員」になっただけだ。

或いは、「少年達の更正の手助け」という志を抱いて「法務教官」になった人も、

在院中は模範少年でしっかり更正したふりをして、

仮退院(少年院の場合、ほとんどは仮退院で保護観察が付く)してすぐに行方不明や、

再犯を犯し、新聞などでそれを知り裏切られた気分を積み重ねれば「少年不信」にもなる。

「広島少年院事件」の根底には、そういった根深いモノが横たわっているのだ。

俺も少年院、刑務所と渡り歩いて生きてきた。

幸いにして今はまともな生活が送れているが、矯正施設出身者のどの位がまともになってるだろう?

その「まとも」になった人間達は、

今回の事件をどう受け止めているのか知りたいものだ。

この事件の「被疑者」となった家族は辛いだろう。

「仕事熱心だっただけ」と、受け止めているはずだから。

なにはともあれ、過去にお世話になった少年院の教官や刑務所の看守に感謝。

そして、今の生活と、今の俺を支えてくれるたくさんの周囲の人々に感謝・・・。


法務教官逮捕!

2009年06月10日 | Weblog
今日の新聞に「広島少年院の教官逮捕」の記事があった。

4人の教官が、院生に暴行を加えたそうだが、

そんなことは今に始まったことではない。

院生の保護者が、かなり騒ぎ立てているようだが、矯正施設とはそういったところだ。

そもそも、なぜそうしたところに送られたのかを忘れている。

非行や犯罪に走り、いわゆる「一般社会」に迷惑を掛け、

学校や親の教育や指導では矯正できないから「少年院送致」になったはずだ。

自分が社会で誰かを傷つけたり、汗を流して稼いだ金を盗んだり脅し取ったりしたのに、

警察や少年鑑別所で殴られたり、体罰を加えられることはない。

親も親で、自分の子供が人様に迷惑や被害を与えた事は棚にあげ、

自分の子供が殴られたら騒ぐなんて、この親にしてこの子あり、の典型だろう。

俺は暴力を肯定しているわけではない。

そうではなく、「因果応報」を言っているのだ。

少年院や刑務所とは、指示や命令に従わなければ実力で従わされる場所なんだ。

実力で支配されるのがイヤなら、指示に従えばいい。

いや、それ以前にそういった場所に送られるような事をしなければ良いのだ。

親も、自分の子供が他人に殴られるのがイヤなら、自分で殴ればいい。

人に危害を加えるのは良いけれど、自分が危害を加えられるのはイヤだなんて

都合が良すぎる。

世の中は「やったらやられる」ようになっているのだ。

無論、やった側の教官にも行き過ぎはあったろう。

暴力は、一度行使するとエスカレートするものだし、

他の教官にしても、制止出来なかったのも無理はない。

なぜなら、少年院や刑務所はそれぞれに「担当」が決まっているし、

典型的な縦割りの組織だから、院生指導についても他の教官に口出しはできない。

また、上司の職員も見て見ぬふり、或いは黙認の形、場面もおおいに有ったはずだが、

それにも「それなりの院生の言動」が有ったからこそだと思う。

何れにしても、矯正施設内の「実力行使」は必要だとおもう。

そうしないと、弱い院生や受刑者は施設の中でも虐げられて暮らすことになる。

秩序は、力の裏打ちで保たれるのではなかろうか?

旧交の温もり

2009年06月08日 | Weblog
先日、此処に書いた「昔の兄貴分」の見舞いに大阪まで行ってきた。

思ったより元気で、見た限りではまったく深刻な状態に見えなかった。

しかし、それ故か、彼自身も深刻さを自覚していないように感じられ、

しつこく現状の自覚を説教してきた。

彼と俺とが話しをしていると、いったいどっちが兄貴分か判らない会話となる。

ともあれ、自分の人生なのだから病没の最後くらいは、

周りに迷惑や心配を掛けないように気配りをするように話し、

病院を後にした。

そしてその足で北陸へ。

小6の女の子に会うのが主目的だった。

実は、その子の誕生に俺が大きく関わっているのだ。

事情の詳細は省くが、とにかくその子にとっては俺は「命の恩人」とも言える。

その子が産まれて病院を退院してきた次の日、

俺は早速顔を見に行き、抱き上げた腕の中の赤ん坊の温もりを味わいながら、

「産まれて来れて良かったな。俺はお前の命を守れて嬉しいぞ」

そう心の中で呟いたことを覚えている。

それからの俺は、よくその子を連れ歩いた。

俺の車の中にちゅうちゅうと、紙おむつをいつも積んでおき、

よちよち歩きの頃まで、けっこう子守をかって出たものだ。

その後俺が北陸を離れ、かれこれ10年位ぶりにその子に会ったのだが、

あの赤ん坊が小学校6年生になって、妹が小学校2年生になっていた。

妹の方は無論初めて会ったのだが、やはり俺は上の娘に愛着が湧く。

その娘の母親も、幼稚園くらいからよく可愛がったが、

年齢を訊くともう40歳が目前という。

まったく変わっていない。

幼稚園時代、俺の頭や肩にすぐよじ登ってはじゃれついた娘が、

もう40歳を前にして、二人の娘の母親なんて信じられないけど嬉しいものだ。

その母親は、両親よりも俺に色々と相談をしたり、悩みを打ち明けていた。

思春期や大学時代にも、両親の知らない事でも俺には打ち明けていた。

そして今は、自分が母親になって、娘に向き合い、

娘に振り回されている姿が、俺にはとても微笑ましい。

親から子へ、母から娘へ、命が受け継がれる事の手伝いをした、

その結果を目の当たりに出来た1日だった。

小6のその娘に対しては、なんだか孫娘のような感覚を否めない。

その小6の娘が孫娘で、その子の母親は娘で、そのまた母親は身内のような感覚だ。

皆に幸あれ・・・・。

24

2009年06月07日 | Weblog
奇しくも、俺が最後の服役を終えて富山刑務所を満期出所したのは、

昭和60年6月7日だった。

前日の6月6日が刑の終了日(満期日)で、翌7日に出所したわけだ。

早朝出所で、午前6時には刑務所正門前に正確ではないが数百人が出迎えに来ていた。

あれから24年・・・・。

短いような、長いような24年だ。

盛衰の理 2

2009年06月03日 | Weblog
昔、俺が所属した組織の「本部長」が破門となったことを聞いた。

俺の現役時代、彼の兄貴分が俺に対して「叔父貴」と呼ぶ立場だった。

その、彼の兄貴分は金銭面で行き詰まり、組織から抜けて今は沖縄に居るらしいが、

舎弟分だった彼は組織に残り、やがて本部直系の「直参」となり、

「○○組 関東責任者」を努めていた。

その彼が、本部の「本部長」に出世したのは、それほど前の事ではない。

彼が本部長昇進したとき、俺は

 「本部長なんて、なんでなるねん! 本部の役を持つとしょっちゅう本部に

  詰めなあかんし、銭は余計要るし、自分のシノギをする暇がなくなるし、

  エエことはなぁ~んもない。アホやのう・・・」

そう言ったことがある。

確かに本部長といえば、執行部3役(若頭、舎弟頭、本部長)だから対外的にも一目置かれ、

どんな席に出ても丁重な扱いを受ける。

しかし、同時に体面の保持も半端では済まなくなる。

事実、その後の彼から

「ほとんど本部に躰を持っていかれて、出物ばっかり増えるし、へたってますわ」と

電話を貰ったことがある。

つまり、本部の用事が多くてどうしても大阪に居ることが多く、

しかも、立場上出費も増えて苦しいということだ。

それに、大阪に隣接する「総本部」への上納金が膨らみ、

その負担は結局、各下部組織の組員に分担され、

組員達は上納の為に無理なシノギをやらざるを得ず、

しかも「組織に尽すのがヤクザ」みたいな事を上層部から言い聞かされ、

組織の代紋がないと何も出来ないような輩は、

代紋をカサに悪さを働いて、その金を上納して組織に貢献したと勘違いをするのだ。

確かに組織で有る以上、そして看板を掲げた事務所がある以上、経費はかかる。

しかし、仁侠とか、仁義とか恩とか義理と金はあまり関係はないと、

俺は思っている。

侠の値打ちは財布の厚さで測る物じゃないし、測れない。

なのに前述の「本部長」だが、組織から破門処分を受けたらしい。

最近の暴力団(敢えてそう書く)は、上納金を滞らせるとすぐに破門する風潮だから

特段珍しい事ではないが、しかし、ヤクザという「生き様」が時代の流れの中で変化し、

「金がすべて」の一般社会と同じ価値観が蔓延ったゆえだ。

侠の値打ちも随分と堕ちたものだ。

「金最優先」の人間に限って、筋やケジメも弁えていないしここ一番の命を投げ出しても、

人生を捨てても誰かのために闘ったり、尽くしたりができない。

    「将、将たらずんば卒、卒ならず」
   (親方が親方らしくなければ、子方も子方らしくなくなる)の意

やっぱり、ヤクザは「生き様」ではなく、ヤクザという商売に成り下がったのか?