俺が毎月、あるNPOにささやかながら寄付金を送金していることは前に書いた。
昨日、そのNPOの代表から礼の電話が掛かった。
彼は元、警察官だ。
奇しくも、現職の頃は俺を逮捕する為に部下を指揮していた人だ。
たまたま彼の活動を追ったTV番組を見て、資金難を言っていたから寄付を思い立ち、
その後に彼がかつての俺の「敵」だったことを知ったのだが、
しかしその事は俺の寄付行為の決断には何の影響もなかった。
俺が真面目にヤクザをしていたように、彼は彼の職務を真面目にこなしたに
過ぎないからだ。
電話で彼は「毎月、毎月こんな事をしてくれなくても・・・」と言っていたが、
俺は「別にあんたに寄付してるんじゃない、あんたの活動に寄付してる」
そう答えた。
彼は「有り難く使わせて貰います」といって電話を切ったが、
要はそう言うことなのだ。
彼が過去、俺とどういう関係であろうと、
或いは彼が別のまったく縁のない人だったとしても俺は寄付をしたと思うし、
同じように毎月、自分の小遣いの中から送り続けるだろう。
俺自身、これまでに多くの人に迷惑をかけ、たくさんの人に救われて今がある。
恩はリレーで回すべきモノだと考えているし、出来るときにやることだ。
そして、俺のモットーは
「やった、あげたは忘れろ。貰った、頂いたは忘れるな」 だから。
などと、カッコ良いことを書いているがしかし、
俺が誰かにさせて貰った事よりも、知ってか知らずかは別にして、
迷惑をかけたりお世話になった事の方がはるかに多いだろう。
俺を得度してくれた真言宗の師が、かつてこういった。
「金を儲ける事を考えるのは罪ではない。
自分が喰えない状態で、人は救えない・・・」と。
儲けた金を自分の為に浪費するか、人助けに使うかで金の値打ちが変わる。
貨幣価値は同じでも、額面以上に金を生かすか殺すかだろう。
自分の為に消費すれば嬉しいのは自分だけだが、
誰かの為に使えばその「誰か」が喜ぶ。
その喜ぶ顔を見れば自分も嬉しい。
同じ金額で誰かと自分が良い気持ちになれるのだ。
俺はそんな思考回路で生きていたい。
昨日、そのNPOの代表から礼の電話が掛かった。
彼は元、警察官だ。
奇しくも、現職の頃は俺を逮捕する為に部下を指揮していた人だ。
たまたま彼の活動を追ったTV番組を見て、資金難を言っていたから寄付を思い立ち、
その後に彼がかつての俺の「敵」だったことを知ったのだが、
しかしその事は俺の寄付行為の決断には何の影響もなかった。
俺が真面目にヤクザをしていたように、彼は彼の職務を真面目にこなしたに
過ぎないからだ。
電話で彼は「毎月、毎月こんな事をしてくれなくても・・・」と言っていたが、
俺は「別にあんたに寄付してるんじゃない、あんたの活動に寄付してる」
そう答えた。
彼は「有り難く使わせて貰います」といって電話を切ったが、
要はそう言うことなのだ。
彼が過去、俺とどういう関係であろうと、
或いは彼が別のまったく縁のない人だったとしても俺は寄付をしたと思うし、
同じように毎月、自分の小遣いの中から送り続けるだろう。
俺自身、これまでに多くの人に迷惑をかけ、たくさんの人に救われて今がある。
恩はリレーで回すべきモノだと考えているし、出来るときにやることだ。
そして、俺のモットーは
「やった、あげたは忘れろ。貰った、頂いたは忘れるな」 だから。
などと、カッコ良いことを書いているがしかし、
俺が誰かにさせて貰った事よりも、知ってか知らずかは別にして、
迷惑をかけたりお世話になった事の方がはるかに多いだろう。
俺を得度してくれた真言宗の師が、かつてこういった。
「金を儲ける事を考えるのは罪ではない。
自分が喰えない状態で、人は救えない・・・」と。
儲けた金を自分の為に浪費するか、人助けに使うかで金の値打ちが変わる。
貨幣価値は同じでも、額面以上に金を生かすか殺すかだろう。
自分の為に消費すれば嬉しいのは自分だけだが、
誰かの為に使えばその「誰か」が喜ぶ。
その喜ぶ顔を見れば自分も嬉しい。
同じ金額で誰かと自分が良い気持ちになれるのだ。
俺はそんな思考回路で生きていたい。