手垢のついたメモ帳

ヤクザが出家して、障害者福祉に従事。必死に歩いた過去の懺悔帳?

笑う逃亡者 4

2008年08月30日 | Weblog
一旦、兄貴分の畑田洋二が用意してくれたマンションに潜伏し、

その後の対策を練った。

大阪に戻って1週間ほどしたある夜、俺はとうとう女を抱いた。

俺について来る以上、面倒を見るしかない。

そう胆を括ったわけだ。

女は名前を美子といった。 年齢はまだ19歳だったが大柄で全体的に大人びて見えた。

中学2年の、まだ身体が成長しきっていない頃からの性体験の履歴が、表れていた。

今、思い返しても不憫な娘だった。

やがて、俺達二人は北海道に飛んだ。

冬の札幌で潜伏する事にしたのだ。

札幌市豊平区中の島二条7丁目・・・・。

二十二条橋の袂で、韓国人オーナーのマンションに偽名で潜り込む事に成功した。


毎日、コレクトコールで大阪に電話を入れて捜査状況の情報を聞く。

一年を過ぎた頃、それもやがて、緊張感が薄れた単なる暇つぶしの電話に変わっていった。

そんな日々の中で、俺は写真に凝ってみたり、海にヨットで出てみたりと好きに暮らしていた。

「捕まったら最低で5年、下手をしたら7年の服役」と思っていたから、

「今のうちに遊ぼう」と考えていた。

札幌・丘珠空港に電話をかけてセスナを借り切って、

札幌上空を飛んで航空写真を撮ってみたり、手稲の山の上を旋回させて札幌冬期オリンピックの

会場を撮したり、時には積丹半島まで飛んで古平上空からろうそく岩を撮ったり・・・。

海遊びは、札幌で知り合ったタクシー運転手が「自作のヨットに乗せてやる」と言うので、

大した期待もせずに、付き合いのつもりで彼の小さな手作りヨットに乗ったのが病みつきとなり、

すぐに中古のヨットを買い入れ、毎日、札幌から南小樽のハーバーに通ってヨット遊びをしていた。

俺が持ったヨットは「ディンギーヨット」という種類で、

いわゆる「モータークルーザー」や「セーリング・クルーザー」とは違う。

1~4人乗りくらいの、まったく風だけで走るヨットだ。

俺のヨットはその中でも「ミニホッパー」という艇で、通常は一人乗り、

乗っても二人だが、これがまた面白いのだ。

完全に自分と自然、風を読み波と闘って走る醍醐味はやってみないと分からないものだ。


札幌で2度目の冬、畑田洋二が仙台をまわったついでに北海道に来た。

久しぶりに会う畑田は俺の顔を見るなり

「お前が毎日電話を掛けてくるから、コレステロールが高くて堪らん・・」

 「? コレステロール? 病院は行ったのかな?」

 「病院? 何故病院や?」  畑田が怪訝そうに問い返してきた。

 「コレステロールが高いんやろう?」

 「電話代やぞ?」

 「なんや、それはコレステロールじゃなくて、コレクトコールや!

  まぁ、どっちも高いより低いに越したことはないけどな・・・」と、俺。




笑う逃亡者 3

2008年08月29日 | Weblog
指定された駅の前で待っていると、ほどなく3台の車がやってきた。

それぞれの車には、2~3人ずつ乗っており、

俺はその中の1台に乗り込んだ。

組事務所は、その駅からさほど遠くない住宅街の中にあった。

事務所の中に案内されると、革張りのソファーに座った男が電話中だった。

どうやら、会話の様子から察すると俺の兄貴分と話している感じだった。

電話を切ると、早速本題の「若い衆」の振る舞いについて俺が切り出した。

その組長は俺の正面に座り、両脇に若い衆が立ったまま俺に向き合う。

俺の後ろの両脇にも二人、その後ろには2~3人が立っている。

俺がおかしな言動をとれば、即座にねじ伏せられる態勢だ。


一応の話しが終わり、「パチンコに来るなとは言わないから、もう少し行儀良く遊んで欲しい」というと、

相手組長は 「おたくの話しは分かりました。 しかし、うちの若い衆の話しも聞かないと判断できないので、

後日返事を持って行きます」とのことで、その場は俺を待ち合わせの場所まで若い衆に送らせた。

さすがは、関東有数の名門組織の直系組長だ。

筋がきっちり通っていた。

後日、その組長の舎弟分が問題の若い衆を連れて謝罪に来てくれた。

以後、その若い衆は店に遊びに来ても、俺と顔を合わせると頭を下げるようになった。

ところが、店で鼻つまみだったその若い衆が俺に頭を下げるので、

今度は俺が「今度の支配人は何者?」と、陰で言われ始めた・・・。



俺が山梨を離れるところに話しを戻す。

俺は、前回に出てきた女に「事情が変わってお前を親父から守ってやれなくなった。

急な話なので、とりあえず一旦大阪に行って、あとは日本中の何処に行くか分からない」 そう伝えた。

女は、「私も連れて行って」「父親の側に居たら、また(SEX)される」と、泣き出した。

聞けば、されるのが嫌で家出して、腹を空かして駅前に居たらサラリーマンに声をかけられ、

ラーメンを喰わせて貰って、替わりにSEXをさせた事も有ったという。

ラーメン一杯でSEXさせるのも、父親にされるよりはいいと考えていたらしい。

そんな話しを聞いた俺は、その娘を置いて行けなくなった。

結局、大阪に連れて行ったのだが、本部に到着時間を知らせておいたので、

新大阪の駅に出迎えが来ていた。

親分のキャデラックと若い衆の車とで、2台の車が来ていたが、

出札口の前に、若い衆が並んで「お疲れ様です!」と、大声で頭を下げると

娘が驚いて俺の後ろに隠れた。

そりゃあ、堅気の若い女の子が人相の良くない男何人もが並んで頭を下げれば、

ビビルのもムリはない。

キャデラックに乗り込むと、小声で俺に「実はえらかったんだね・・・」とささやいた。

その子にすれば、パチンコ屋の支配人の姿しか見ていないのだから、ムリはなかった。


笑う逃亡者 2

2008年08月28日 | Weblog
山梨でのエピソードを書いておこう。

俺は小さなパチンコ屋のマネージャーに潜り込んでいたが、

その店は倒産寸前で、新しいマネージャーの手配もできなかったところに、

中古パチンコ台の販売商の紹介で俺が入った。

125台のこじんまりとした田舎町の店で、一日の売り上げは30万弱。

これではいくら小さい店でも赤字だ。

俺はオーナーに「必ず黒字にする」と確約し、20台の機種の入れ替えをした。

途端に売り上げは平均で三倍以上に跳ね上がり、俺の面目が立ったうえオーナーからの信頼も得た。

そんな折り、毎日出入りしていた若い男がいた。

ある時、俺が店に居ると「シマランプ」が点いた。

   註  シマランプ とは、パチンコ台が並ぶ列の一番はしに点いたランプで、

      列の中間で台上のランプを点けた時に分かるようにしたランプ。

ランプの点いた列を見ると、誰も座っていない台の呼び出しランプが点いていた。

注意して見ていると、くだんの若い男が嫌がらせに点けて歩いていたのを見つけた。

俺は男を外に引き出し、

  「嫌がらせか・・・」と、詰め寄った。

男は、 「○○に喧嘩売るのか!」と、言い出した。

男が出した名前は、関東を基盤とした有名組織の直系で、

俺が潜伏していた街が、もともとの地盤だった。

  「そうか、お前は○○さんの若い衆か。わかった。名前を出されたら手は出せん。

  お前の事務所と話しをするから帰れ」

そう言って帰らせた。

すぐに大阪の俺が所属する組織の本部に電話を掛け、○○組の電話番号と事務所の所在地を調べた。

○○組本部に電話を入れ、

  「お宅の若い衆さんが、俺が預かる店で行儀が悪いので一度話しをさせて欲しい」

そういうと、車3台で迎えに来た。

迎えを待つ間に、大阪の本部から俺の兄貴分に連絡が行ったらしく、

  「何かあったのか」

と、電話が入った。

かいつまんで経緯を説明し、

  「言葉のやりとりで命のやりとりになるかも。殺されたら骨は拾ってくれ」

そう頼んで電話を切った。

笑う逃亡者

2008年08月27日 | Weblog
俺の最後の服役は割と長い刑期だったが、

その服役の前に2年半ほど全国を逃げ回っていた。

滋賀、島根、山梨、北海道と逃げ回ったが、逃亡資金は潤沢だった。

逃亡生活の原因となった事件そのものは、俺の舎弟分と兄貴分が犯した事件で、

俺には関係はなかった。

最初に俺の舎弟分が逮捕され、サツに責められて居るときに俺が依頼した弁護士を通じて、

「絶対に俺の兄貴分の名前は出すな。どうしても我慢出来なくなったら俺の名前を出せ」と指示しておいた。

俺の舎弟である以上、舎弟の不始末は俺がケジメるのが筋だからだ。

結局、舎弟はサツの調べに屈して俺の名前を出したので、俺が指名手配になったのが真相だ。


さて、晴れて全国重要指名手配犯になった俺は、サツとの知恵比べとなった。

ある時、女房の店に(焼き肉屋をしていた)サツが訪れ、

「亭主は何処にいる、言わないと営業できなくなるぞ」みたいな言葉を吐いたことがあり、

それを聞いた俺は即座にサツに電話を入れた。

そして、「俺を捜すのがお前らの仕事だろう。逃げるのは俺の権利だ。

女房が事件を起こした訳でもないのに、営業出来なくするとはどういう事だ。

生存権の侵害だ!」と抗議してすぐに電話を切った事がある。

電話に出た暴力担当課長は

「若い刑事だからちょっと張り切りすぎたんだと思う。謝りに行かせる」

と応じたが、逆探知されたら居所がばれるから早々電話を切ったわけだ。


私ごとの事件ではなかったから、俺の逃亡資金は「あるところ」から支給されていた。

ただ、支給が開始されるまでの数ヶ月は金に困っていた。

女に養って貰った時期もあった。

逃亡先で堅気の友人になりすまし、その友人の本籍・生年月日を使って

パチンコ屋の支配人をしていた時、ある女を助けた。

その女は当時、実の父親と関係を持っていた。

小学3年の頃に母親が亡くなり、弟と施設に預けられて育ったが、

弟は先に父親に引き取られたが、その娘は中学に入るまで引き取って貰えなかったらしい。

中学生になって引き取られ、父・娘・弟の三人で暮らすようになり、

中学2年の夏休みの頃、夜中に下半身がモジモジするのに目覚めたが、

その犯人が父親だと気づき、寝たふりをしている間に犯された。

以後、それの行為が当たり前になってしまい、

それが嫌で何度も家出をしたが、警察に保護されてもその出来事を話せないまま過ぎ、

やがて、逃げ出しても行く当てのないことを知り、諦めたらしい。

父娘の関係は、町内でも噂になるほどだった。

俺がその事実を知ったのも、町内の人間に聞いて事実確認したほど、人に知られていたのだ。

父娘がホテルから出てくるのを見たとか、街から離れたホテル街を二人で歩いていた・・・とか。

それを知った俺は、その親父を呼んで「お前のやってる事は人の親のする事ではない、

今日からお前の娘は俺の女にするから、一切手を出すな」と釘を刺した。

そして、その夜から俺の部屋に寝起きさせるようになったが、

「俺の女にする」とは言っても、簡単に手を出せば俺の男がすたる。

それに、俺はパチンコ屋の二階の寮に住んでいたから、他の従業員の目もある。

しばらくは、夜だけ俺の部屋に泊まらせて、日中は家に帰して親父や弟の世話をさせていた。


当時、俺は毎日家に電話を入れていた。

ある日、突然女房から電話が掛かってきた。

「警察があんたの居所を突き止めたかも知れない。すぐに逃げて!!」

訳を訊くと、知り合いの電話局の者が「警察が家の電話の通話先を調べてる」と、

教えてくれたらしい。

俺はその日のうちに、山梨を後にした。


「侠(おとこ)たちの実像」 俺が出会った侠たち 6

2008年08月26日 | Weblog
俺の「兄貴分」にあたる人間は、日本最大の組織の直系組織で最高幹部を務めていた。

最近、稼業を引退して、今はただの「おっちゃん」になっているが、

彼の兄弟分の一人に、四国のある組織に所属しながらテキヤをやっている組長がいた。

俺の「兄貴分」と兄弟分ということは、俺にとって同じように「兄貴分」にあたる。

年齢は俺より若いが、自分の兄貴と兄弟分なら年齢は関係なく立てるのが筋だ。


人は、自分ではい上がる者、人に押し上げて貰う者、上から引き上げて貰う者等、

色々な上がり方がある。

この組長は、どちらかと言えば引き上げて貰うタイプだった。

他組織のそれなりのポジションの者と親しくなり、

やがて兄弟分の盃を交わし、

その縁で人脈を築くやりかたで、顔は広かった。

しかし、所詮は自分の器量でないために、ここ一番では軽んじられる事もあったようだ。


テキヤの親分だから、祭りや、花火大会などが自分の縄張りで催される時は、

その組長が「ショバワリ」をする。

「ショバワリ」とは、様々な出店の種類と場所によっての客の寄りつき具合、

その出店の力量などを考えながら、場所の割り振りを決めるのだ。

テキヤとは、本来は露天商であるから堅気の商売人だったのだが、

いつの間にか彼等の中からヤクザの盃を受けて二足のわらじを履く者が出てきて、

ヤクザのバックアップを得て、良い場所を強引に取る輩が出てきた。

逆に、ヤクザの側も積極的にテキヤを舎弟分や子分に組み入れて、

テキヤの領域を浸食していった。

昔は縁日くらいしか、お好み焼きや、焼きそば、たこ焼きなどは買えなかったが、

今は平日のスーパーなどでも売っているし、珍しくもなくなった。

したがって、テキヤも売り上げが落ちているし、しかもヤクザ系が仕切る縁日などは

所場代が高騰しているので、益々シノギが苦しい。

  註 所場代とは場所代のこと  シノギとは生活・稼ぎの意味。

そこで、材料を削ってみたり品質を落としたり、量を少なくする。

すると、ますます客が寄りつかなくなる・・・。悪循環だ。

ある縁日で、お好み焼きに使うキャベツが足りなくなって、

近くの八百屋に仕入れに行ったが、時間が遅くて閉店していたので、

とりあえず、三寸の裏に生えた草をむしって刻んで混ぜ込んだという話しも聞いた事がある。

  註 三寸とは、テキヤの店構えのテント張りの総称をいうテキヤ用語

俺が四国の兄貴分の所に遊びに行って、暇つぶしに「ジク」を手伝ったことがある。

一等はプレイステーションのゲーム機だが、くだんのプレステはデンと棚に飾ってあった。

ところが、中身は抜いてあり重さを出すためにブロックのかけらが入っていた。

俺は、「子供の銭を巻き上げるのは気が引ける」と兄貴分に言ったことがあるが、

兄貴分いわく「アホか!子供の銭と違う。親の銭や。ジクは夢を売ってるんやから、気にせんでエェ」

そう言われたら、なるほどと納得した事もある。

  註 「ジク」とは、くじ引きのこと。

まぁ、しかしテキヤとは朝早くから、夜遅くまで体力勝負の商売だ。

しかも縁日が続くと、此処が終わればすぐに三寸を畳んで次の縁日に直行してすぐに三寸を組む。

縁日や祭りの時期は、稼ぎ時だから睡眠不足でフラフラも珍しくはない。

ともあれ、楽な金儲けはどこにもないという事だ・・・。






「侠(おとこ)たちの実像」 俺が出会った侠たち  5

2008年08月25日 | Weblog
俺は今年、還暦を迎えた。

俺自身、自分が60歳になるまで生きているなんて思ってもいなかったし、

若い頃の俺は、30歳位までに殺されるか、誰かを殺して死刑になるだろうと覚悟していた。

そして、それでも構わないと考えていた。

ところが、死刑どころか今は堅気になって障害者福祉事業のすみっこに関わっている。

我ながら思いがけない人生の転換だ。

俺の周囲には、JRの列車にはねられて命を落とした者、

布団をかぶって、自分で頭を撃ち抜いた人、

ヤクザではないが、日本で一番最初の多額生命保険金詐欺を企て、

最高裁で死刑判決を受けて、結局、獄中で病死した人などが居るが、

俺の最後も似たような終焉だと予想し、覚悟もしていたのだ。

ところが今のこの穏やかな毎日の生活に出会えて、

「あの頃」のキリキリと尖った時間に無縁の日々を送っている。

相変わらず金にはあまり縁がないが、気持ち的には大きく豊かになっていると実感している。


俺が出会った侠たちも、貧乏人が多かったが気持は豊かな侠が多かった。

他人の為に奔走し、金策をし、時には身体をかけてもめ事の解決に動く侠をたくさん見てきた。

その反対に、綺麗事を並べながら汚い金儲けに専念する輩も、それ以上に多く見たが・・・。

俺が現役の頃、俺の所属した組織の若頭にYという男が抜擢された。

俺は、普段は本部当番にも出ないし、会費も納めた事がないが、

その人事を知ったとき、親分に即座に電話を入れて苦言を呈した。

「親分、Yなんぞを若頭に据えたら、絶対に親分が下手をうちまっせ!」

そう進言したが、結局はその人事は変わらなかった。

そして、その二年ほど後にYは大阪府警本部に、拳銃27丁と実弾800発の所持で逮捕された。

ところが、その内の2丁が親分の手元にあり、

事もあろうに、Yはその事実をサツに喋ってしまい、親分も逮捕されてしまった。

ヤクザ稼業をしてるなら、自分がどうなっても親分は守るべきであり、

しかも、子分の中のトップたる「若頭」が親分を売るようなこの出来事は、

組織内に少なからず波紋を起こした。

俺は、俺の予見が当たった事で、自分のカンと洞察の鋭さに多少の自信を持ち、

それ以上に、Yへの軽蔑心が大きく膨らんだ。

その事件で、Yは組織からは絶縁、家や持っていた店(喫茶店)も没収、

関西所払いとなって、懲役6年の刑で下獄した。

その服役中に、余罪発覚。

認知症の独り身のお婆さんと自分の若い衆を養子縁組させ、

お婆さんの土地を売り飛ばして金にした詐欺で、再び刑を増やしたらしい。


そんな奴が居るから、任侠道が暴力団と言われてしまうのだ。

そして、現実はそういった稼ぎであっても本部に上納金を納めれば評価されてしまう。

俺が知るヤクザとは、犯罪集団ではない。

ヤクザの憲法には、弱い者を騙したり脅して金をむさぼれ、

盗人をしても金を上納しろとは書いていない。

あくまでも、「恩とか義理は着せるものでなく、自分が着るもの」

「やった、あげたは忘れろ。貰った、頂いたは忘れるな」

それがヤクザの憲法だろう。






「侠(おとこ)たちの実像」 俺が出会った侠たち 4

2008年08月22日 | Weblog
話しを侠(おとこ)達に戻そう。

どんな世界でも華やいだ時間はつかの間で、それ以外の大部分は苦節と困難と試練に満ちている。

ヤクザの世界もその点は変わりない。

いつも身綺麗にして、金離れよく、仕事もせずに遊び歩いているように見えるヤクザ稼業も、

その実態は毎日が闘いの連続だ。

闘う相手は自分・・・。

前にも書いたが、ヤクザとは男を磨く稼業である以上、苦しみや困難は普通の世界より多いだろう。

良い思いが出来る時間、時期なんてほんの瞬間に等しいと思う。

「男前」という言葉があるが、一般的には「顔立ちが良い」とか「スタイルがいい」とか、

見栄えを評した言葉と解釈されているが、俺の解釈は違う。

「男が、男らしさを前面に押し出す」のが「男前」の意味だと受け止めている。


男は、女より女々しいから殊更に「男前」を意識せざるを得ないのではないか?

そして、「男前」を貫くため、自分を鼓舞するために「男の修行」とか、

「義理と情け」などと言う言葉に酔うのかも知れない。

男として産まれた限り、男を前面に押し出して生きる姿勢を貫く。

それが「男前」の意味だと思う。

人はどうか知らないが、少なくとも俺はそうだ。


仕事もせずに美味い物を喰って、遊び歩いて・・・と見せるのも、

実は「男の見栄」もある。

ヤクザという生き様は、いつ命を的に動かざるを得ない場面に遭遇するかもしれず、

あるいは長い服役生活を背負うかも知れない日々があるから、真面目に遊ぶのだ。

ただ、その遊びの裏側にある精神的、金銭的しんどさは見せないが。

水面を滑るが如く移動する水鳥の優雅さに隠された、

水面下の激しい足の動きのようなものだ。


俺が出会った多くの「ヤクザと呼ばれた人々」の大部分は、金銭的に貧乏だった。

一時的に大金を握っても、あっという間に使い果たして元の貧乏に戻っていった。

それは多分、「その場を精一杯生きる」生き様の所以ではなかろうか?

「男の財産は器量」と考えている俺の思いこみかも知れないが、

金銭は生きるための道具でしかないという、古典ヤクザの美学なのだろう。


「金で動く男になりたくない」「損得で生きたくない」と言うヤクザは多い。

それは、俺を含めて建て前の言葉だが、本音はやはり金が欲しい。

金がないと、本部に納める会費や付き合い事の包み金も出ない。

哀しい事に今のヤクザは(その大部分はヤクザ屋かヤクザもどきだが)

上納金の高によって評価される時代になった。

いくら男の器量が大きくて、ここ一番の度胸を持っていても、

戦国時代の勲功豊かな武将が、太平の世で疎んじられるのに似た有様だ。

そして、殿(組織・親分・兄貴分)に忠誠を誓い、滅私奉公で人生を投げ出せる侠は

今では「馬鹿」と評されてしまうのだ。

巷では、子が親を殺める時代だが同じような事は稼業の世界でもおきている。

無論、昔から有った事ではあるが、それが多くなっている。

この前出会った時は○○組だった奴が、

次に出会ったときは××組の代紋を付けてるなんて、珍しくもなくなった。

昔は「親分・子分」は生涯一人のはずだったが、今は就職感覚のようだ。

あっちが駄目ならこっち・・・といった風潮も、時代なのか・・・。

そういえば、随分前に俺が大阪府警本部に逮捕されたとき、

俺を調べた刑事が、「お前はヤクザの化石みたいな奴だな」と言ったっけ。

俺の弁護士も、「あんたはアナログ人間だな。今はデジタルの時代なのだから、

せめて、デジアナの賢さを持ちなさい」と言われたなぁ。


「侠(おとこ)たちの実像」 俺が出会った侠たち 3

2008年08月21日 | Weblog
正確に調べ直すと、俺が小倉に出たのは1962年らしい。

昭和37年の初夏の計算になる。 と言うことは、俺は満14歳になったばかり。

板前見習で働いた翌年の秋の終わりに、この店が火事になり半焼したが、

火災後、再建までのしばらく避難した先で正月を迎え、

そこで見たテレビの紅白歌合戦で「下町の太陽」が唱われていたのを覚えているからだ。


この後の数年で、警察による逮捕、少年鑑別所、保護処分、

中等少年院、特別少年院、少年刑務所・・・・等、

様々な経験を立て続けにすることになるが、この頃はまだ、

暴力で俺を支配していたおっさんからの避難生活の楽しさを満喫していた。

一ヶ月の給料は3000円だったが、衣食住に不満はなかった。

数枚の下着類と、普段着の一式があれば充分で、

毎日のほとんどは白衣とズボンに歯先三寸の差し下駄で過ごした。

差し下駄とは、下駄の歯の部分が桜材で作られた高下駄で、

裏側は普通の下駄は平らだが、差し下駄は船の底のようになっている。

もっと大きな違いは、普通の下駄は歯がすり減ったらそれでおしまいだが、

差し下駄はすり減った歯の部分を外して、新しい歯を入れ替えて使えるところだ。

厨房の床はいつも濡れているので、足もとを濡らさぬ為の高下駄なのだが、

一番下っ端(追い回しという)の俺は三寸の歯、少し古い先輩は五寸、

一人前の板前になれば七寸の歯を差している。

一寸は約三センチだから、俺は十センチくらいの高下駄を履いていたのだ。

七寸なんて、二十一センチだから格好良かった。

追い回しが低い高下駄を履くのは、雑用で常に動き回るため、動きやすいようにと言うことなのだろう。

普通、和食の調理師は五寸の差し下駄が多く、七寸となれば寿司職人が多く愛用していたように思う。


さて、俺が働いていた店の料理長は、敗戦後シベリアの抑留生活を経験した人だった。

帰国後に所帯を持ったらしく、細君はまだ若かったように記憶している。

子供が小さかったから、そう思いこんでいるのかも知れないが、

腕の良い、部下の面倒見のいい人だった。

調理場はこの人が親方で「本板」を努め、「脇板」「煮方」「焼き方」が従う。

俺はそのまた下で、みんなの邪魔にならないように洗い片付けや、

野菜の下ごしらえ、タマネギの皮むきや金糸焼き、焼いた金糸を細く切ったりをしていたのだ。

  註 金糸とは、玉子を薄く焼いて細く切った、ちらし寿司などの上にのっている玉子焼き


調理場の人間関係、上下関係は「本板」が親父で、「脇板」は女房役、

以下、「煮方」が長男で「焼き方」は次男のような感じだ。

彼等の絆は強く、その上下関係は職場を移動して別の店に移っても続く。

有る意味では、ヤクザ組織のそれに通ずる部分がある。

もっとも、職人の世界全般に上下関係は厳しい時代ではあった。

「侠(おとこ)たちの実像」 俺が出会った侠たち 2

2008年08月20日 | Weblog
その店は、一階は大衆食堂で二階が座敷の割烹料理の店だった。

店のうりは「かしわメシ」とすき焼きだが、一階の店をはいってすぐ右側に炉があって、

鳥のもも肉を炭火で焼いた「ターザン焼き」も人気だった。

オーナーは北九州市内の造り酒屋の社長らしく、その愛人が取り仕切っていた。

店にはちょくちょく、地元の有名な組織の組員が出入りしていたが、

営業に支障が出るような振る舞いはなかったし、俺もよく可愛がって貰った。

何人かの組員と知り合ったが、中でも「つんちゃん」という人が特に可愛がってくれた。

本名はツネユキと言うそうだが、いつも洒落たスーツ姿で穏やかな表情の人だった。


ある時、店が休みの日に、俺は小倉駅前のビルの二階にあった「オリエンタル」というダンスホールに遊びに行ったが、

そのホールにたむろする不良達に目をつけられて、いつ因縁をつけられて殴られるか分からない状態になった。

そのホールも、「つんちゃん」の組織が面倒をみている店だったので、

当然「つんちゃん」も出入りしている。

それを知っていた俺は、「つんちゃん」を探してホールの中を歩き回って見つけた。

 俺 「つんちゃん、ちょっと来て」

   「どうした?」

 俺 「いいから、ちょっと一緒に歩いて・・・」


つんちゃんは、苦笑いしながら俺の後を歩いてくれた。

ホールの一階と二階を一通り歩いたが、くだんの不良達は黙って俺とつんちゃんを見ていた。

つんちゃんは総てを察したように「俺をダシにして・・・」と笑っていた。

俺がいわゆる「やくざ」と関わりを持ったのはこの頃が最初だった。


俺が働く店のすぐ隣に、ユニバースというクラブがあって、

さらにもう一軒隣にリンダという喫茶店があった。

リンダのバーテンは「田中紀久」といった。

日本テレビのバードのニックネームのアナウンサーによく似た男前で、

この人も俺を可愛がってくれた。


ある時、俺がリンダに遊びに行くと、のりさんは居なくて替わりにチーフが店にいた。

ちょうどペティナイフを研いでるところで、俺が何気なく「よう切れそうやなぁ」と言うと、

チーフが「切れるか切れんか自分の手でも切って見ろ」というので、

俺はそのペティナイフを自分の左腕の、腕時計の辺りに突き立てぎしぎしと手首の方向に引いた。

もともと色黒の俺の腕の皮膚がザックリとピンク色に裂け、

すぐに血が滴り始めた。

チーフは瞬時に青ざめて、ガーゼなどを持ってきて傷の手当てをしてくれたが、

その事がまもなくつんちゃん達の耳にも入った。

それ以来、一層俺を可愛がってくれるようになった。

何をやらかすか分からない俺の、そんな所が気に入られたらしい。



俺は、幼稚園の時から人に「やってみろ、出来ないだろう!」と言われると、必ずやってしまう所があった。

この時も、その性根が取らせた行動だろう。

後年、あるトラブルの折、俺が「俺は命を張って来ている」と、相手に言ったところ、

相手が「命を張ってる? じゃあ、性根を見せて貰おうか」というので、

俺は側に有った灯油缶のフタを取り、肩から灯油をかぶって自分のライターで火を付けた事がある。

「よし、見てろ!!」と、自らの身体に火を放った所までは格好良かったが、

焔が身体を包むと、当然、熱い!

熱さで本能的に火を消そうと、地面を転げ回った。

相手も慌てて俺の身体の火を消したが、そのあと、火傷のショックで俺の全身が大きく震えた。

歯の根が合わないほど震える自分が嫌で、俺は声に出して「しっかりせんかい」と、

自分に怒鳴った事もある。

俺は、男の値打ちは「どこまで意地を張り通せるか」だと、思っている。

侠とは、そういった生き方、生き様だと堅気になった今でも思っている。

俺の基本的な価値観と、物事の受け止め方、咀嚼の基礎はこの頃出来上がったのかも知れない。








「侠(おとこ)たちの実像」 俺が出会った侠たち

2008年08月19日 | Weblog
俺は中学二年の一学期の終わりに大分から家出をして北九州・小倉に行った。

当時、紫川に掛かる常盤橋という橋のたもとに、50円で観れる映画館があった。

行く当てもなく、金もない俺はその映画館に入った。

夏の暑い時期だった。

俺はそこで、中年の男と知り合った。

その男は、俺が家出をしてきたと知ると仕事を紹介してくれるという。

俺は、所持金もなく寝るところもないのだから、男の話にのった。

警戒心はあったが、本能的に危険の匂いは感じなかったからだ。

否、危険の匂いを察知したとしても俺はその話に乗っていただろう。

生きるために・・・。


男は、近くの「氷屋」に俺を連れて行った。

偽名の履歴書を、下手な字で書いて氷屋の主人に見せた。

男は俺の叔父という触れ込みで面接したわけだ。

その日から、俺はその店に住み込みで働く事になったが、

話しが決まると、男は去っていった。

翌日から、俺は氷の配達に汗を流した。

自分より重い荷物を自転車で運ぶのは慣れているが、氷鋸で氷をまっすぐに切るのは難しかった。

その店に働きだしていくらもしないうちに、

俺が氷を配達していた得意先の料亭で、何人かの板前がいる調理場の一番偉そうな板前が俺に声をかけてきた。

  「ぼうず、歳はいくつだ」

 俺「16です」  (本当は14か、15になってすぐだったと思う)

  「お前、板前になる気はないか?」

 俺「やってみたい」

  「よし、お前の店の親方に話してやる」

そんな流れで、俺はその店に移る事になった。

ところが、俺を氷屋に紹介してくれた男は、俺が知らないところで俺の給料の前借りをしているのが分かった。

金額は3千円だったと思う。

俺は、3千円で売られたに等しい状態だったらしい。

その金は、新しい店の板長が払ってくれて話しは付いたらしいが、

売られた先がサーカスでなくて良かった・・・。


毎日早く起きて、旦過市場から船で紫川河口の小さな船着き場に届く野菜類を自転車で取りに行き、

それを開梱して冷蔵庫や野菜の保存場所に仕分けるのが最初の仕事だった。

それにしても、俺はガキの頃から自転車で物を運ぶのが使命らしい。


タマネギは皮を剥いて刻み、白菜も綺麗に洗う。

それぞれの処理が終わると、次は包丁研ぎが待っている。

調理場の全部の包丁を一本づつ研いでゆく。

菜切り包丁は両刃だから、両面の刃を同じような力と角度で研ぐ。

柳刃包丁は、切っ先から柄もとまでが長いから難しい。

刃の一部分ばかりを研ぐと、刃に波が出てしまう。

波の凹んだ部分ができると、食材を切っても完全に切れない。

下手な新米主婦が沢庵やネギなどを切ると、つながっているような状態になるのだ。

そして、切れ味も全体が同じように切れるように研がなければならない。

俺は子供の頃から刃物がすきだったから、包丁研ぎは楽しい仕事だった。

俺が研いだ包丁は髭はもちろん、産毛さえも剃れるほどに切れた。

そのかわり、その切れ味は長持ちしないようだった。

まぁ、薪割り斧とカミソリの違いと言えば判りやすいかな。