おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

子どもにとっての戦いは夏の終わりにやってくる・・・ byくまモン西田

2014-08-31 22:29:30 | 自由投稿
 夏休み終わりに子ども達に降りかかる試練。それは「夏休みの宿題」である。
 自由研究や工作、読書感想文に、動物愛護の絵を描く・・・今思い返すと何でこんなに夏休みにいっぺんに片付けないといけないんだ!と嫌々取り組んでいた自分を思い出す。

 最近では「宿題代行サービス」で算数ドリルが「1冊500円」、読書感想文は「原稿用紙1枚300円」の料金で筆跡まで真似て書いてくれるサービスを利用する家庭が急増していると言う。代行を利用する理由は様々あるようだが、「コンクールに入賞できる賞レベルでお願いします。」「子どもの絵心がある感じでお願いします。」様々な注文まであるそうで、そこまでして賞をとっても嬉しいものかな、たとえ受験のプラス点になるとしても将来子どもにとっての力にはならないのではないかと私は考える。

 先日、駅ビル内のあるブースで「牛乳パックで糸電話をつくろう!」と言う催し物が行われており、親子で楽しそうに取り組む様子を見た。この様に、例えば読書感想文を書くために本を一緒に探してみたり、絵日記に書くために風景や写真を撮ったり、夏休み特別企画の催し物に参加したりと親子で知恵を絞って「こんな工作作ってみようか!」と言ったやり取りも、普段仕事でなかなか話す時間が取りにくい親子にとって大切なコミュニケーションの機会になるのではと私は感じる。
また、毎年同じパターンの宿題を形式的に出すのではなく、先生側の課題の出し方にも工夫が必要なのではとも感じた。子どもができたぞ!と達成感を味わえるような量と内容の宿題になればいいのになと思う夏休みの終わりだった。

「24時間テレビ」はおだまりっ! by 久保田

2014-08-31 16:18:32 | エッセイ
【爺さん日記】
8月27日(水)

 静岡県富士市と三島市の保育園を実習巡回で訪問。午後早い時刻に帰宅し、そのまま昼寝。最近、時間があると寝てばっかりなぁ

8月28日(木)
 午前中は病院。小休止の後、八ヶ岳山麓のS先生の山荘へ。約三時間で到着し、久しぶりに談笑&夕食。午後8時半過ぎ、早くも寝てしまった。気温は14℃。毛布をかけてグッスリと眠った。

8月29日(金)
 八ヶ岳山麓のS先生山荘から南下し、山梨県北杜市と静岡県御殿場市の保育園を巡回して帰宅。予想より早く着いてしまったので昼寝したら、そのままグッスリ眠ってしまった。これが噂の「蓄積疲労」ってやつなのかな。

8月30日(土)
 午前中は病院。そのまま疲れて寝込む。「何もしない」というよりできない…

8月31日(日)
 午前10時半前に研究室入り。日曜出勤。メイルチェックをし、日本保育学会の自主シンポジウムとポスター発表のエントリーを完了する。今回からネットでのエントリーとなり、かえって面倒くさいような気もするがどうなんだ?
 午後4時半頃、力尽きて帰宅開始。

アイスバケツ・チャレンジについての私の意見 by猪俣

2014-08-27 15:43:40 | 自由投稿
 久保田先生の求める異論反論批判非難ではまったくないが、私も少しだけ意見を書こうかと思う。

 こんなチャレンジがあることを私は以前新聞で読んで知っていた。ソフトバンク社長の孫正義さんやレディーガガなど多くの有名人が参加していて驚いた。難病の一つであるALSの認識や理解を広げ、支援のための募金集めには私も賛成だ。だがアイスバケツ・チャレンジをすることにどんな意味があるのか分からない。新聞の記事を読み終えて、いろんな人がやっていておもしろいなぁとは感じたが、これと支援はまったくの別物ではないだろうかと思う。なぜ有名人はお金を持っているのに募金ではなく冷水を選ぶのか。冷水をかぶるというのは「私は支援したよ」とただその場限りの自己満足のようなものに感じる私がおかしいのだろうか。結局私はこの病気についてよくわからないままだし、募金だって、したくてもどこであつめているのか分からない。コンビニやお店のレジ付近に置いてあるような小銭からでも募金ができるようなものにしてくれないと、私たち一般人にはなかなか浸透しないだろう。この様に、もっと広く参加でき、効率の良い支援方法があるはずだ。

「24時間テレビ」と「アイスバケツ・チャレンジ」への疑問 by 久保田

2014-08-25 06:06:45 | エッセイ
【爺さん日記】
8月24日(日)
 オープンキャンパスだった。暑い中で「模擬授業(45分)」を二コマ(別内容)と「学科説明(40分)」を担当し、ヘロヘロになって研究室に戻った。参加者はかなり多かったようで、120部準備した資料の大半がはけてしまった。
 「模擬授業」はネパールの子どもたち、そして、ニュージーランドの子育て支援についての内容で、どちらかと言えば父母たちの方にウケていたようだ(笑)。「学科説明」では、「大学って勉強しに来る所なんだぜ」を強調。「学費を出してくれる親に対し、恩返しのつもりで学びに来いや~」という内容もまた、親側の賛同を得た(笑)。
 受験生(高校生)に媚びるばかりの「入ってね」的学科説明には、強い抵抗感がある。僕たちは教員であり、教育指導が仕事なのだ。単なるセールスパーソンではない。


 最近、「アイスバケツ・チャレンジ」なるものが流行している。
 難病のALSに対する認識や理解、そして、患者支援のための募金の呼びかけが目的なんだそうで、アメリカを震源地として世界中に広がりつつある。いかにも、お祭り好きでお調子モンのアメリカ人が考えつきそうなムーブメントであり、また、それに乗せられる人も多いのだろう。

 この運動に賛同し、「氷水を頭からかぶる」著名人や芸能人が日本人にも続出し、ブログやユーチューブなどでその様子を発信する人たちが出てきているようだ。しかし、そんな中、「百獣の王」とやらの 武井 壮君が、「それっておかしくない? 僕はやりませんよ!」と宣言した。大賛成である。よく言ったぞ百獣の王!

 難病に対する認識や理解や患者支援を呼びかけようとすること自体には、何ら反対する気はない。ALSだけでなく、割と人に知られていない難病で苦しんでいる人は多い。その人たちに対する社会的関心は、もち論、差別・偏見という意味でではなく、もっともっと広く、かつ、深められなければならないと思う。問題は、その方法なのだ。今回の場合で言えば、「なぜ氷水をかぶる」というパフォーマンス(見せびらかし)をするのかが問題であろう。簡単に言えば「募金でいいじゃん」ということだ。
 「氷水」は、一時的な単発的同情でしかない。僕はそう思う。僕なら黙って、「何かのために」と思って続けている「1・5・10円玉」貯金を募金するし、「次に氷水をかぶる人三人」を指名するなどいう馬鹿な事はしない。

 この「氷水」ですぐに思い浮かべるのが、この時期や年末恒例の「~時間テレビ」とか「~時間ラジオ」とかの≪年に一回 お涙頂戴番組≫である。事情や状況などをよく知りもしないような若手芸能人たちが、会場や視聴者に「感動と涙」を無理くり強要するというあの番組だ。
 毎回疑問に思うのだが、24時間マラソンを観ているのだったら、その分、どこかで人のために働こうや! 今だったらまさに、広島や礼文島で土砂に埋まっている人たちを掘り出してあげに行こうや! それができないのなら、パフォーマンスや番組なんかどうでもいいから、ちゃんとしたとこで募金でもしよう!

 「その場しのぎ」的な同情や感動だけのパフォーマンスに疑問を持つというのは、盟友/堀越喜晴クン(「点字の基礎」講師)とまったく同じである。かれもまた、反「24時間テレビ」族だ。「そんな番組を制作するお金があるのなら、『点字ブロック』や『音の出る信号機』の増設をよろしく!」と、色々な所で主張している。まったく同感だ。

 ブームに対して「おかしくね?」と言うのには、なかなか勇気が要る。これまで大した興味も持っていなかったが、今回の「百獣の王」の発言には大いに勇気づけられた。と同時に、一時の感動だけですぐに行動してしまう人たちに対して、「もうちょっと考えてからにしましょうね」「その方がもっと、相手のためになることができるかも」と申し上げたくなった。

 異論反論批判非難をお待ちしたい。


どこかに「甘え」があるんじゃないか? by 久保田

2014-08-24 03:31:59 | エッセイ
 僕が実習巡回を担当するはずだった学生の実習が、直前でポシャッた。
 聞けば、8月上旬から海外旅行に出かけていて、細菌検査を受けるのとその結果を提出するのをすっかり忘れていたのだとか・・・ 
 帰国直後はお腹を壊していて、それが治まってから検査を慌てて受けたとも聞いたが、いったい「実習」というものをどう考えているんだろう。
 実習一・二週間前と言えば、あれやこれやの準備に忙しい時期だろうし、そもそも、体調を整え「欠勤なんかするものぞ」体制を作る時期じゃあないのか。
 事前指導などで、このあたりの指示や助言は十分に受けているはずだからこそ、厳しく自己責任が問われるのは当然だろう。実習に行けなくなったのは、ごくごく常識論の中にある。
 サガジョに来てから、どうも実習に対する学生の態度、あるいは、僕たち教員の指導姿勢に「甘さ」を感じることが多い。例えば、「体調不良で休みます」というセリフをそこかしこで耳にするが、残念ながらそんな人は現場では使えない(複数の園長さんの話による)。休まなくていいような健康作りと体調管理ができなければ、保育士も教員も続けるのは無理だろう。もう一度、進路を考え直した方がいい。
 「子どもが好き」「子どもが可愛い」とか口で言うのは簡単だ。それを、行動や態度に具現化できそうにない人には、僕はこの仕事を奨めない。「免許や資格だけ」というのにも抵抗がある。できれば常に、「子ども」目線でいたいと思う。


【爺さん日記】
8月22日(金)
 午前中に「やるやる漢検隊8月班」を開く。総勢15名が挑戦(1名病欠)。
 やはり、四年制大学に学ぶ者としては「2級」を目標にしてほしいのだが、準2級との間の溝をなかなか埋められないメンバーが多い。「漢字を知らない」のではなく、明らかに「語彙(ボキャブラリー)が貧困」であることがとても気になる。
 例えば、「破顔一笑」とか「急転直下」とか、彼女たちの日常生活では使われないのだろうか。日本語は、加速度的に薄っぺらいものに成り下がりつつあるようだ。
 午後、1時から5時半まで「保育士資格取得特例講座」で喋る。幼稚園教諭免許状しか持っていない幼稚園の先生たちが対象で、年齢層は比較的高い。場合によると同世代の受講生もいるようだ。
 まさか、世の中が「保育所」主導の時代になるなんて思っていなかったのだろう。普段は幼児と飛び回っている人たちが、朝から夕方まで椅子に座らされ、話を聞かされるなんて同情に値する。カッタルイだろうなぁとは思うが、頑張ってもらうしかあんめい。

8月23日(土) 午前中は病院。午後、義理の兄&弟が来訪。二人とも100㌔を超える巨漢で、僕が小さく見える(笑)。千葉県市川市に住んでいながら、義兄とはなかなかゆっくり話ができないため、久しぶりに世間話の花を咲かせた。

8月24日(日)
 オープンキャンパスである。「模擬授業(45分×2回)」と「学科説明(40分)」のため、ほぼ一日がつぶれる。この仕事、嫌いではないのだが、十数人も専任教員がいるのだから、もっと上手に役割分担できてもいいのではないか?

別のボランティアに参加してみる by猪俣

2014-08-20 21:59:21 | 自由投稿
 今日もボランティアに参加。場所は前回の保育所とは異なり、最寄り駅近くにある複合施設の中の子育て支援センターだ。かなり広い所で、先生に聞いてみたところ、毎日30~40組程の親子が訪れるらしい。保育所が子どもたちだけの場所であるのに対し、ここは親子一緒にいられる場所。親同士、または先生と共に子育てについての相談が気兼ねなくでき、とてもいい施設だと思う。私にとっても、保育所や幼稚園のように同じ子どもと触れ合うのではなく、入れ代わり立ち代わりで様々な子どもと触れ合えるこの場所は、また違った発見を得られる可能性があり、やりがいを感じる。今日数時間参加しただけで、親から離れて子ども同士で遊んでいる子と親から一切離れず親と遊ぶ子、先生のもとに自ら向かう子と先生から話しかけても警戒心と解いてくれない子、この様な違いを見付けとても興味深かった。何度かこの施設でボランティアに参加すれば、違いの原因は見付かるのだろうか。
 さらに、今日は月に一度の地震を想定した避難訓練の日だった。子どもは親と離れないようにし、先生から防災頭巾を受け取った後3つ程のグループに分かれ、先生の指示に従って避難経路の確認という簡単なもの。地震大国である日本に住んでいる限り、避難訓練は絶対に欠かさずした方が良い。だが保育所や幼稚園以外の子ども施設でも行っているとは知らず、正直行うと聞いたとき驚いてしまった。毎日違う人たちがたくさん訪れるこの様な施設で、避難訓練などできるのだろうかと。しかしやってみて納得した。だからこそするべきなのだ。保育所や幼稚園での避難訓練は、先生の指示に従って子どもたちは自分たちで行動をしていく。だがこの様な施設ではそんなことは不可能だ。親子で訪れているため人数は多く、兄弟を連れた親、中には生後間もない子を連れた親だっている(それに今日は妊娠中の母親もいた)。訓練中驚いて泣き出してしまう子どももかなりいて(もらい泣きも含む)、親はそれをあやそうと必死になる。この様な混乱した状況が本当に地震が来たときに起こらないとは言えない。というより、確実に起こるだろう。その中で先生はどれだけ素早く対処できるかが大事な要となってくる。また親たちも経路を知っていることで、すべて先生頼みにならず、個人でも避難ができるようになる。勿論先生の指示に従って迅速に全員が一斉に避難できることが理想だが。しかし一人ひとりが意識することで助かる命は測り知れないだろう。繰り返し避難訓練を行うことで先生はより正確で迅速な動きが可能になり、常連の親子はかなり動きが確実になる。初めての親子は経路を知ることができ安心感が与えられる。これらを鑑みて、避難訓練を行っていない子どもの施設でも積極的に行うべきだと思う。ボランティアの一環としてでもこの様な避難訓練に参加できたことは、私にとって、今後とても役に立つ経験ができたと思う。来月の避難訓練日を確認して再び参加しようかと考えている。
 ボランティアは本当に色々なことを私に教えてくれる。先生の仰っていた「やりっ放し」にならないように、毎回ボランティアに参加したその日の内に感想や反省、気付いたことをまとめ、今後の役に立つようにしていきたい。

8月が終わってしまう… by 久保田

2014-08-20 04:42:13 | エッセイ
 前期試験の採点と成績評価作業がやっと終わり、「さぁて、何をしようかな?」と思い始めたら、何だよう、8月は早くも後半…

 教員免許状更新講習会はあるし、保育士資格取得特例講習会はあるし、保育実習の巡回はあるしで、結局のところ月末まで落ち着ける気配がない。来春の日本保育学会での発表準備、伊豆市未来づくりプロジェクトの取りまとめ、いくつかの小原稿もあったか・・・

 その合い間をぬって4年生の卒業研究指導やら病院通いやらをしなければならず、こりゃあもう9月に期待するしかないみたいだ。が、しかし、後期の授業準備にもとっかからなければならないし…

 「本当に能力がある人は『忙しい』とは言わない。それを言う前にやるべき事をこなしている。」という言葉を若い頃に聞いて、「なるほど!」と思って生きてきた。思っただけで、「いっそがし~な~」と言い続けているのだけど(笑)。

【爺さん日記】
8月18日(月
 午前中から午後早い時間帯にかけ、4年生二名との卒業研究関連ミーティング。マッキー西田君の調査データがなかなか面白く、今後のクロス分析のアイディアがいくつか浮かんできた。せっかくの調査を、単純集計だけで終わらせてはいけない。
 その後、吉岡先生とタッグを組んでの教員免許状更新講習会。試験の採点と評価まで含めて、午後6時過ぎまで作業が続いた。吉岡先生、お疲れさまでした。ヘロヘロになりながら、午後8時半頃に帰宅。
8月19日(火)
 午前中は通院。昼食&小昼寝してから原稿書き。マッキーの調査結果「速報」敲き台を完成させ、ホッとしてゴロゴロ。午後8時半には寝てしまったんじゃないか?

「やりっ放し」は止めようや by 久保田

2014-08-17 07:01:26 | エッセイ
 妙子&猪俣両嬢の投稿を読んで、しみじみと「ふり返り・反省・批判的思考・次なる課題の発見」の大切さを思った。ボランティアにせよアルバイトにせよ、どうもサガジョには「やるだけ・やりっ放すだけ」の人が多いような気がするからだ。
 小学生の日記じゃあるまいし、「~しました。面白かったです。」で終わるのではなく、「ここはもっとこうすべきであった・次回はこうしたい」をキチンと残さないボランティアやアルバイトには、大した意味はないと思う。
 とりわけボランティア活動については、「やらなくちゃいかん!」的気持ちだけが先行し、そこで観て・聴いて・考えて・学んだ事を書き記しておかないと、単なる時間・エネルギー・お金の無駄遣いにもなりかねない。
 僕は、基本的知識や教養を身につけてからこそのボランティア活動だと思うし、また、そう考えて自分自身の様々な活動を展開しているのだが、入学と同時に右も左もわからないままボラしちゃうってのは、どうなんだろう。

そういうもんなのかな… by 久保田

2014-08-17 06:51:23 | エッセイ
【爺さん日記】
8月15日(金)
 敗戦(「終戦」では責任の所在がわからんので)記念日でお盆中だというのに、研究室に出動。来週担当することになっている二種類の講習会関係資料を受け取り、それだけでグッタリとする(笑)。「授業のプロ」たる小・中・高の先生方に、大学教員ごときが何をどうはなせばいいっちゅうんじゃ!
 11:30頃から14:30頃まで、前任校(浜松大学)関係の軽い原稿「こども健康学科創設裏話」を書く。2,000字程度というオファーだったけど、3,500字も書けてしまった。どうすんだ、これ?
 久しぶりの集中原稿書きで疲れてしまい、「コメダ珈琲」でかき氷とグラタンとハムサラダを食べて帰宅。
8月16日(土)
 午前中は通院。午後はゴロゴロ。何の意味もない一日だった。
8月17日(日)
 午後、伊豆市での「未来づくりセッション」。午前中、そのための資料読みと議論のシミュレーションを、何と!午前4時半から。シンポジウムやパネルディスカッションのコーディネーター仕事は苦労が大きい。その割に軽く見られてガッカリする。


 先日、前任校時代の教え子の結婚披露宴に出席するため、一日出歩いていた。その席で周囲の方から、「大学の先生って、こういう機会が多くてたいへんでしょう?」と声をかけられたのだが、実はそうでもない。
 さすがに、七年めのサガジョ卒業生にはまだいないが、大学教員生活約30年を通しても、合計すれば10回くらいのものではないだろうか。
 僕たち世代だと、大学時代の指導教員(とりわけ「卒論」や「ゼミ」)と言えば、まずは招待客の筆頭にリストアップされる存在だった。事実、自分の結婚披露宴には卒業論文・修士論文・ゼミの指導をお願いしていた複数の先生をお呼びしたし、友人の式でも必ず、「大学時代の恩師」と呼ばれるゲストがいた。
 ところが今は、時代が変わったというのか、大学というものの重みが軽くなったというのか、「職場の上司・同僚」「親族・親類」以外では「~時代の友人」という肩書きの人が圧倒的に多い。そして、アトラクションも友だち中心のおちゃらけが多くなった。
 ま、それはそれで良いが、そして、「恩師」などと歯の浮くような呼ばれ方は真っ平御免なのだが、「卒業研究の指導担当者ってのは、今の連中にとってたかただそんなもんなのかなぁ」と思う。
 明らかに僕たちの頃よりは、色々な意味で(文章が書けない・論を構成できない・形式を整えられない等)手がかかる学生に対する指導はたいへんなのだ。時間とエネルギーと、ある場合にはお金(研究費)までかけて、「少しでもレベルの高い卒業論文になるように」と頑張っているのだが、どうもそれをそんな風には考えてくれていないきらいがあるのだ。「細かい・うるさい・厳しい!」とかの表情がゼミ生からうかがえたりすると、本当にガッカリする(もち論、全員ではない)。
 そう言えば、近年、学生さんからの暑中見舞いや年賀状も激減した。メイルやラインでも少ない。先日、さすがにショックで落ち込んでしまったのは、他の用事も絡めて学生たちに送った暑中見舞いに対し(数十通)、何らかの返事が返ってきたのはわずかに数通。
この人たち、本当に「コミュニケーション能力重視の学校教育」を受けてきた人たちなのかね。こんなに無礼で失礼な人たちが、いずれ子どもの前に立つ…
 常々、(連絡メイルに対しては)「即レスを心がけよ」と言い続けているが、こんな無礼な態度をこれ以上続けられたら、それこそ、指導に対するモチベーションは落ちまくるだろうな。何てことを考えていたら息子が、「それは単に嫌われているだけなんじゃね?」と言った。あはは、なんだそうなのか~
 学生と大学教員の関係ってのは、サガジョ的「距離が近い」ということだけで良いのだろうか。ケジメというかメリハリというか、そういうものがもっとあるべきだろう。
 反論を待ちたい。


ボランティア先の保育所にて by猪俣

2014-08-16 01:17:52 | 自由投稿
 こんばんは。この前投稿した日がいつなのか分からない位に久しぶりに書きます、1年の猪俣です。

 皆さん色々と思ったことや考えたことを書いていて、私もその位書けるようになりたいと思いました。毎日ニュースや新聞を見て気づくこと、考えることは多々ありますが、それを文章に起こすのはとても私には難しいです。だからと言って何もしないでいてはいつまでたっても書けるようにはならないので、拙いながら挑戦してみようと思います。

 8月上旬、私は家からすぐの保育所でボランティアを行った。行くのは中学生でのボランティア参加以来初めてで、ただただ緊張。4、5歳時クラスにお邪魔することになったのだが、朝からとんでもない元気さにかなり驚いた。その元気さは私にも影響して、その日はずっと私も疲れることもなく元気に楽しく取り組めたと思う。だがボランティアで一日子どもたちと触れ合い保育士の姿を見て、更に私の行動を振り返ってみて、ただ楽しかっただけではなく、様々なことに気づいた。その内2つをここでは書こうと思う。
 1つ目は、大人の虫嫌いだ。朝保育所にきた子どもが、持ってきたザリガニやカブト虫と遊んでいた。私は家で育てていたほどなので虫に関しては全く問題ではない。早速子どもたちに混ざって触ったり、餌をあげたりして楽しんだ。途中、ある子どもが別のベテランの先生のところにかごを持って行って、ザリガニの水を代えていいかと聞いた。すると先生は、遊びの時間がもうなくて出来ないことと、水道水ではザリガニにとって良くないということを分かりやすく説明していた。しかし、私はその時ふと違和感を感じた。原因はすぐに判明。先生がかごを見ようとしていないのだ。さらには子どもがかご近づけると避ける始末。それは子どもの成長を促し援助する保育士として問題はないのだろうか。これは保育士に限らず親にも当てはまる。虫が嫌いなことを直すのにこしたことはないが、さすがにそれは厳しい。ならばせめて触れずとも子どもとともに楽しく見るということはするべきである。大人がこれでは色々なものに興味を持つべき子どもも、興味を持つ前に嫌いと認識してしまうのではないだろうか。また現在の子どもはまず外で遊ぶこと(ここでは公園などで遊ぶことをさす)自体が少なくなり、それによって虫に出会うことすら減ってきている。外で遊べば汚れるし、夏は暑い上に虫も多いので、特に親は正直避けたいところだろう。だからと言って本当に避けていては子どもの興味範囲も著しく狭まってしまう。興味を持ったうえで嫌いとなってしまったらどうしようもないが、始めから子どもの興味を狭めることは決してあってはならないと私は思う。保育士も親も、虫嫌いを克服ないしは軽減する努力をするべきだ。その点では虫が好きな私はこれは大きな利点であると感じている。
 2つ目は、私の子どもに対しての注意の仕方だ。たとえボランティアということであっても、いけないことをしていたら注意をしないといけないと思う。友達に対して暴力を振るったり、食事中に足をブラブラさせたりと、それはもうたくさんの注意するべきところがあった。私は、これまで大学で様々な授業を受けて、決して「ダメ」と一方的な否定はあまり多用しないように気を付けようと考えていた。代わりに、「~だから、こうした方が良いよ」と肯定的に子どもたちに伝えようと決めていた。結果、ものの見事に「ダメ」とほとんどの場面で言ってしまった。頭で分かっていても反射的に「ダメ」と口からでてしまうのだ。これは私だけではなく保育士もかなりの頻度で使っていた。「ダメ」という言葉は非常に使いやすく、また意味も直接的で分かりやすい。だが、どうしてこれが「ダメ」なのか、これが「ダメ」なら何なら良いのかなど、必要な部分がだいぶ抜け落ちてしまってる。これでは「ダメ」だと分かっても理解や納得は到底子どもたちにはできないだろう。最近よく聞く親の気持ちが分からない、何を言っても聞かない子ども、の原因に少なからずこれらが含まれているろう。「ダメ」と言ってはいけないと言いたいのではなく、そこから子どもたちに自分のしたことがどうして「ダメ」なのかきちんと理解させることができるのかということが問題なのだ。そして私はこの通り全くできていない。更に言ってしまうとどうすればそれを改善することができるのか、その答えを出せていない。だから今後のボランティアや授業、実習を通して答えを見付けようと思う。
 このように、ボランティアに参加してみると、このように大学の講義では学べないこと、知りえないことに気づき、得ることができる。そしてそういう経験は今後の私にとって重要なものとして残るだろう。だから、もっと数多くの保育所や保育施設にボランティアとして参加して、ただ実践を経験するのではなく、他者の保育方法を見てみて、自分にとっての保育のあり方を追求していこうと思う。

似非オトナおやじと余りに無防備な若い女の子たち by 久保田

2014-08-15 07:51:02 | 一般向け連絡
 夏季休業中だというのに、毎日けっこうな数のブログ訪問者がいて、なかなか嬉しい。
 何度も言ってるけど、この時期は「授業がない」だけなのであって、普段できない勉強を自由に進めるのには打ってつけなのだ。せっかくの自由時間を「遊び」にだけ費やすのは、いくら何でももったいないと思うんだな…

【爺さん日記】
8月13日(水)
 お昼前から晩方まで、入院中のかみさんの付き添い。とくに何ができるというわけでもないので、傍らの椅子に座り、溜まってしまった(溜めてしまった)書類仕事を片づけた。お昼ご飯のコンビニ麻婆丼を電子レンジで「チン!」せずに食べてしまい、ボソボソご飯で胃が痛くなった。馬鹿な56歳である。
8月14日(木)
 午前中は自分自身の通院。午後はかみさんの退院のサポート。その後はほとんど何もせずに寝てしまった。それなりに疲れていたのだな…


 何とも腑に落ちないというかガッカリするというか、「だから何なんだよっ!」と言いたくなるようなオトナたちの事件が続いている。

 兵庫県議Nの「結局何も説明してね~じゃね~か」的号泣記者会見、女子中学生への恫喝メイルで頭を丸めた某大阪府議だけじゃなく、小学生に「窓から飛び降りるか?」と迫った浜松市の小学校教諭、わが子に「24時間以内に首を吊って死んでくれ」と言い渡した親、「自分好みの女性に育てたかった」と小学生を誘拐し監禁した49歳の自称イラストレーターおやじ、女子トイレでの盗撮を試み失敗した中学校教諭、女性の両膝の間にスマホを差し入れてつかまった警察官… いやいや、まったく枚挙に暇(いとま)がないな。

 「どうして男ばっかりなんだろう?」という疑問よりも、「何でこんなガキんちょのようなオトナが増えたんだろうなぁ」と思う。「もうそんな年齢じゃね~だろうよ」「我慢するだろうよ、普通」と言いたくなるんだけど、どうなんだろう、世の中全体(とくに成人男性)の精神年齢が低下したというか精神的成長が鈍化しているというか、そんな不吉な傾向があるのだろうか。

 このブログでも時々、父母やオトナのマナーに関する指摘や非難・批判が展開されるが、それらもまさに、この「オトナのガキ化」と繋がっているのかもしれない。年齢とともに自分に回ってくる社会的責任や役割に対する認識が薄くなってしまっている。「自分さえよければ」君が増えたとも言えるのか。

 ガキんちょオトナ(男性)による性的犯罪(痴漢や盗撮などの一切合財)を憂えていると、「ちょっと待て、それでは女性たちのあの無防備さは何なのだ?」と思いついた。

 僕はしばしば、「腹・臍・ケツ・胸出しファッション」などと揶揄的に発言し、その言葉を口にすると、「あ~、セクハラなんだ~」とか指弾されるのだが、おいおい、そうなのかよ、おいっ! オトナ男のガキ化や彼らによる性的犯罪を誘発しているのは、余りに無防備な若い女性たちの姿勢にもあるんじゃないか?
 「この服、人からどう見えるかな~」「パンツ見えないかな~」とか、ちゃんと気を遣わないのだろうか。中には、「アタイのお臍や胸の谷間、見る方がいやらしいのよね~」的な居直り方をする人もいて、正直言って「どっちもどっち」だと思う。自分で見せているつもりはなくても、だらしない座り方などにより「見せている」場合も、決して少なくないのだ。

 座り方によっては、パンツ見事に丸見えのスカートやキュロット(って言うのかな?)もあって、「もっとちゃんと気をつけろよ」と言いたくなる。あ、「見せちゃお!」というサービス精神旺盛(というのか?)な人にとっては、「大丈夫、これは見せパンだから~」ってことになるのかもしれないが、これってやはり、軽犯罪なのではないか?
  サッカーで「オフサイド・トラップ(罠)」という戦略があるが、最近の女性の無防備ファッションはまさに、「性的犯罪トラップ」狙いを感じる。
 「そんな風に女性のファッションを見ているなんてヤ~ネ」と言う人もきっといるだろうが、「見ている」のではなく「見えてしまう」のだ。そんなに自分の下着や肌を見せたいのか? 自惚れんなよ!とも思う。
 当ブログ連からの手厳しい反論を待ちたい。


 


保育者として    by妙子

2014-08-14 22:24:58 | 自由投稿
 和尚の記事の中で、スマホに夢中になり子どもを見ていない親もいるという部分に、私も引っかかった。
 近所の公園でも良く目にするのは、子どもは遊具や砂場で好きな遊びをしている。そんな時、親も一緒に遊んであげることが大切なのに、親はスマホとにらめっこである。近所の人と話すとき、「この間ここに行ったんだけど~」といい、写真を見せるためにスマホを取り出し、親の目線はスマホに集中する。本当の一瞬じゃん!と思う方もいるだろうが、その一瞬が命を落としてしまう可能性だってある。必ずしも、事故は起きない!!なんて言えないのだ。
 保育者の立場になると、子どもの一つひとつ行動を気にするようになる。私はその自分の視野の狭さを実習で痛感した。ちょっと気を抜いたりすると、子どもの行動が見えなくなり、一点に集中してしまった結果、子どもが転んだことに気付かないこともあった。
 幸い怪我はしていなかったが、その子どもを行動を見ていれば、転ぶことを防げたかもしれないと、反省した。私は経験を通して、自分の弱点を見つけることが出来た。
 実習で成功することは確かに嬉しい。だが、失敗することも大切なのではないかと感じた。失敗しなければいけないと言っているわけではない。失敗した時、失敗したことに関して、反省と「次は同じことを繰り返さない」という向上心が大切だということだ。私は失敗を通して、自分の弱点を知り、その弱点を克服しようと努力した。そして、その反省を生かすことが出来た時、自分の弱点が強みとなったこともある。きっと、3年生は初めての実習で不安でいっぱいの子や、現場に出るドキドキでいっぱいな子もいるだろう。実習は自分にとって大きな一歩になることは間違いないと思う。だからこそ、実習でたくさん学んできて欲しいと思う。
 これは以前久保田先生と話したことがあることだが、「楽しかった!」という実習だけにはして欲しくない。もちろん楽しかったという気持ちも大切だ。だが、せっかくの現場に出れるチャンスを「楽しかった」というひとくくりにして欲しくないという意味である。
 こんな偉そうに言っている私も9月で最後の実習を迎える。今まで学んだことを生かせるような実習にしたい。

父母(親)にはなれても「保護者」にはなれない by 久保田

2014-08-13 05:46:08 | 一般向け連絡
 先日(10日の日曜日)、浜松時代の教え子の結婚式&披露宴に出席させてもらった。
 とりあえず「恩師(この言葉は好きじゃないんだけど)」としてのスピーチを頼まれていたのだがなかなかご指名がなく、「今日の出番はないのだな、ラッキ~!」などと油断し、ほとんど何も考えないままでいたら、お色直しで戻ってきた直後、「それでは新婦の恩師でいらっしゃいます久保田様からお祝いのお言葉を」と言われてしまい焦った。
 その時に咄嗟で喋った内容が、まさに高山和尚の投稿記事とソックリだったので唸ってしまった。
 僕は以前から、「やって見せる」とキーワードとする≪保護者≫論を提唱している。明らかに、挨拶・返事・Yes or No・公衆マナーなどの教育指導は、家庭での父母の第一義的責任(出た!教育基本法第10条)だが、それが果たせていない父ちゃん&母ちゃんが多いように思う。ここからしてダメなのだから、自分では教えられそうにない「塾・習い事(英語だのスイミングだのピアノだの)」に頼りがちになるのは仕方なかろう。
 こういう「家庭ですべき事」の外注化(アウトソーシング)について、くぼた組3年生のカジッピ~が卒業研究で取り上げてくれるらしい。その研究成果に乞うご期待なのだ。


【爺さん日記】
8月11日(月)
入院&手術を受けるかみさんのつき添いで丸一日を過ごす。午後に行なわれた内視鏡手術は二時間半もかかり、その後、麻酔から醒めるまで(午後8時過ぎまで)グッスリ寝ていた。僕自身はする事もなく、つき添い者用の椅子でウツラウツラ…
8月12日(火)
午前中は自分の病院。帰宅し、お袋と一緒にお盆の墓参り。その後、再び入院中のかみさんの付き添い。術後の経過は良好だとの事。ただし、ご飯がまだ食べられないそうで、こりゃあもしかするとスリムなかみさん姿を拝めるかもしれない(笑)



親になりきれていない親?? by 和尚

2014-08-12 03:19:25 | 自由投稿

 今朝、某番組内で、「今、子どもに教えたいお作法!」の中に、「お箸の持ち方」が取り上げられていた。
 お箸を実際に持った親子のうち、大人は30人中10人、子どもは30人中3人しかお箸をちゃんと持てていないという結果が出た。なんだかとてもショックを受けた。
 インタビューにて親たちは、「正しい持ち方は知っているけれど、持てないんです・・・。」「教え方が難しいです。自分が間違っているから教えられないんですよね。子どもには正しく教えたかったのですが・・・」
 と、言い訳を交えながらどこか他人事のように話していた・・・。

 あらゆる場面でのマナーや作法は、両親や祖父母など、周りの大人から教えてもらうのが当たり前であると思う。
 私が子どもの頃、お箸の持ち方はもちろん、特に挨拶や礼儀については知らずのうちに身につけていたと感じる。私の家は特に教育熱心な家庭ではないが、事あるごとに両親や祖父母によく言われていたため、それが大きく影響したのではないかと思う。

 お箸の持ち方だけに限る話ではないが、こうした「親になりきれていない親」が、外部の教育機関に全てを委ねていることによってモンスターペアレント化しているのではないだろうか。
 本来家庭で教えること、教えなければならないことを外部に任せっきりにすることで、「どうして保育所(あるいは学校)で教えてくれないのですか!?」という状態になってしまう。
 以前、給食費を払っているのだから「いただきます」も「ごちそうさま」も言わせないでくれ、学校なのにどうして子どもにお箸の持ち方を教えてくれないんだ!などという理不尽極まりないクレームがあったという話を聞いたことがある。
 他にも、公共の場において子どもたちが好き勝手に騒いでいても、隣にいる両親はスマホに夢中になっていたり、平気でほったらかしにしたりしている姿を見かける。そうした子どもに注意をしない、あるいはできない、もしくはしようとも思わない周囲の大人にも違和感を感じる。
 保育所でも学校でももちろん「教わる」ことはできるが、子どもにとって影響力を持つのはまず「親」であると思う。というより、そうした基礎的な能力や当たり前のことを、親たちが子どもに身につけさせる責任をもっと感じてほしい。

 近頃、「親の教育」も熱心に叫ばれているが、何を、どこまでを視野に入れれば良いのだろうか。親である前に、まずは人として当たり前のことが出来る社会の一員として在るべきだと考えさせられた。
 私も将来子どもの前に立つ一人の保育者として、親にも子どもに良い影響を与えられる存在でありたい。


「何とかできなかったか・できないか?」的ニュースが多いね by 久保田

2014-08-06 07:32:53 | エッセイ
 「STAP細胞」論文騒動の渦中にいた一人、笹井さんが自ら命を断った。事の詳細は本人にしかわからないのだろうが、「これで全容解明は遠くなったな」と思う。
 個人的に一番心配していたのはやはり、オボカタさん自身だ。彼女、これでまた精神的に追い詰められてしまうのではないだろうか。
 この騒動、いったい何がどうなってこうなっているのか。山梨大学の若山さん(だっけ?)も、何だかもう一つよくわからん位置にいるみたいだし…

 佐世保で発生した「人を殺してみたかった」という、ネコちゃん解体&父ちゃんブン殴り女子高生による殺人事件。様々な予兆があり、周囲もそれなりに「これってヤバい」と思って動き出していたらしいから、ますます「何とかできなかったかな」と思う。
 もう何年も前だが、僕の母校(高校)で、母親に毒を盛り続け、少しずつ衰弱していく姿を記録していた女子高生がいた。今回の事件、何かそれと似たものを感じる。
 「あの子ちょっとヘンだよね」は、よほど気をつけないとイジメや差別を生みかねないのだが、今回の事件はまさに、そういう人物評の無視できない部分を曝け出している。
 どこまでが「ヘン」でどこからが「アブナイ」のかの判断は極めて難しいが、僕たちは「見てみないフリ」ではなく、もうちょっとちゃんと周囲を観察する必要があるのかもしれない。