おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

これもまた不可思議な報道だと思う by 久保田

2015-09-30 04:50:40 | エッセイ
 前(↓)の原稿を書き終えた後、もう一つ事件報道の不可思議さを思い出した。
 気のせいかもしれないけど、最近、若い女の子が犠牲になる殺人事件が増えている。女子高生だの看護師だの、若い命を落とされた女性たちには本当にお気の毒だと思う。
 そこで気になるのが、こういう事件の場合、かなりの確率で「全裸の遺体で」とか「着衣に乱れがなく」風の余計な情報が付加されていることだ。例えば、被害者が82歳のおばあちゃんであったり、57歳のオヤジであったりすると、こんな「全裸かどうか」情報なんかくっついてこないのではないだろうか。
 縁起でもないんだけど、仮にあなたが何らかの殺人事件の被害者になってしまったとする。これも仮に、「全裸」であなたの遺体が発見されたとして、それを世間に報じられたいだろうか。あたしゃ、ごめんこうむりたいな。「恥ずかしいからほっといておくれよ~」と言うと思う。
 犯人捜しのための重要情報だと考える向きもあろうが、それはごくごく一部の警察・捜査関係者の間でのものであり、ほぼ全員の一般人(とくにスケベチックな男ども)にとってそれは、妄想をかきたてるための道具の一つでしかないのではないか。被害者が全裸であろうと着衣が乱れていようといまいと、別に僕たちが「知らなくてもいい情報」だなのではないだろうか。
 「死人に口なし」と言う。死んでしまったら、反論も「恥ずかしいから止めてよ!」も何もないのだ。僕たちには、彼らの人間としての尊厳を守ってあげる義務があるんじゃないのかな。「真面目で物静かな女子大生」と思われていた被害者が、マスコミの報道によって次から次へと別の側面(出会い系サイトで男漁りをしていたとか、キャバクラで働いていたとか)を暴かれていくなんてことがあるじゃないか。「ほっといてあげようよ」と、思わないか?
 犯罪の犠牲者の個人情報で遊んだり、それを楽しんだりするのは止めようよ。とくに、若い女性絡みの「全裸」報道はヒドいなと思うんだけど、どうですか?


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ふと気になったことがある by 久保田

2015-09-30 04:22:32 | エッセイ
 独身大物男性の代表格である福山雅治くん(桜坂・家族になろうよ等いいね~)が、吹石さんとかいう(ごめん、よく知らないんだな)女優さんと結婚したというニュースが日本中をかけめぐり、そこかしこで大パニック(笑)を引き起こしているらしい。何てことはどうでもいい。
 お笑い芸人の千原ジュニア君は同じ日に結婚報告をしてしまったため、何となくそのニュースがかすんでしまって可哀想だった。何てこともどうだっていい。
 最近、奇妙なのは芸能人の結婚が報道される時、ほぼ確実に「なお、まだ妊娠はしていなません」とか「ちなみに新婦は妊娠四ヶ月だそうです」のような付録がつけられることだ。いくら「『注目されてなんぼ』の芸能人にはプライバシーなどない!」などと言われようが、あまりと言えばあまりの個人情報への土足での踏み込み方に、本人ではないが腹が立つことがある。尾野マチコちゃんの時も堀北マキちゃんの時も、必ず「妊娠」云々の余計な情報を付けての報道だらけだった。
 プライバシー保護の問題もそうだが、だいたい「結婚」と「子どもができる」との順序関係がおかしくないか。「結婚して親になる」という順序の逆転を、つまり、「子どもができちゃったから結婚する」という「できちゃった婚」を、いつしか社会全体で「なあなあ&まあまあ」的に容認してしまっているということだ。「できちゃった」婚の割合は確かに増えているらしいが、その分、その後の離婚率やシングルマザー発生率も高まっている。
 「できちゃった」婚という言い方は子どもに対して失礼だから、これからは「授かり」婚と呼ぼう!みたいな的外れの議論もあるが、要するに、「結婚」が家庭なり家族(子どもを持つ)を作っていくための責任をともなうものだというキチンとしたスジを通せるかどうかが大事なんだろうになぁ。
 「子どもが生まれる・生まれた」という情報は、ちゃんと結果が出てからみんなでお祝いすれば良いことなのであり、「結婚=妊娠」的な短絡発想には賛成できないと思うのだが、どう思いますかね?
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リコピン原稿を推敲してみた by 久保田

2015-09-29 05:45:15 | エッセイ
 せっかくリコピンが熱い投稿をしてくれたので、お礼に久保田流の推敲をさせてもらった。主旨や趣旨は変えていないつもりだが、どうだろう?

 「ハゲワシと少女」という一枚の写真がある。1994年、内戦が続く北アフリカのスーダンで撮られたもので、深刻な干ばつも加わり餓死寸前となった少女の近くにいるハゲワシが、彼女を獲物として狙っている瞬間が画面に収められている。
 この写真が発表された当初、少女を助けることなくシャッターを切り続けたカメラマンの姿勢が厳しい批判や避難にさらされた。しかし、真に根本的な問題は、このカメラマンの行動にあるのだろうか。私はむしろ、彼女を死に直面させているオトナたちの都合=「内戦」にあると思っている。過日、シリアの内戦から逃れるために地中海をボートで渡ろうとし、母親や兄弟とともに溺死した幼い男児の写真が、世界中を怒りで震わせた。
 しかし、今も同様の悲劇が続いている。地球の上では、今日もどこかでオトナ同士の紛争が起きているのだ。とりあえず平和な日本にいる私たちにはとても理解できないことが、毎 日々々、この世界のどこかでくり返されている。悲しいが、これが現実なのだ。
悲劇のニュースは瞬間的に世界に拡散し、私たちの目の前を通り過ぎて行くが、決して私たちの記憶に留まることはない。私たちはそこから何も学ばないまま、次の悲劇を待っているだけだ。それは、日本に暮らす私たちが、世界のでき事にリアリティを感じていないからだろう。異国でのでき事はしょせん、あくまで他人事だ。
 スーダンで荒れシリアであれ、オトナの都合に最も翻弄されるのは子どもたち、次代の世界を担う人たちだ。彼らのために何をすべきか・何ができるのか、悔しいが今の私にはわからない。だが、彼らの未来に責任を持たなければならないという気持ちだけはある。平穏な国に暮らす余裕のある私たちだからこそ、彼らのために何かを始めるべきなのだろう。
 私たちは決して、無知や無関心でいてはならない。自分の娯楽にばかり時間とエネルギーとお金を費やすのではなく、自分の周囲で起きている現実問題を知り、それに目を向け、考え、学び続けなければならない。そして、困難な諸々の問題の解決策を提案していくことこそ、四年制大学に籍を置く私たちの義務だと思う。
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お詫びとお知らせ from 久保田

2015-09-23 15:07:25 | 一般向け連絡
 「漢字能力検定および語彙・読解力検定にエントリーを申し込んだのに、返信が来ない」という声を複数から聞きました。
 どうやら、スマホからのメイルの一部が自動的に弾かれてしまうという状況にあるようです。
 エントリーを確認した人には必ず何らかの返信をしていますので、「返事が来ないじゃんか!」という心当たりがある方は、パソコンからの送信を試みるか、c-kubota@star.sagami-wu.ac.jp への再送信をお願いします。
 金曜日の正午過ぎに、最終エントリーのファックスを漢検協会に送ります。


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映画「テッド2」を真面目に観てしまった by 久保田

2015-09-21 08:35:45 | エッセイ
 映画「Ted 2」を観た。見かけは可愛らしいぬいぐるみのテディベアだが、中身(人となり?熊となり?)はどうしょうもない助平オヤジの物語で、卑猥なコトバが次から次へと連射される実に猥雑なで下品で下劣な娯楽映画だ。
 テディベアのぬいぐるみが持ち主の男の子のために神様から生を受け、あれやこれやの騒動を起こすという第1作も観たが、今回はそのテッドが何と、ガールフレンドと結婚して「子どもが欲しい」と言い出すところから物語が展開する。
 まったく、どうしようもなく品のない映画で、とてもJD(女子大生)たちにお薦めできる作品ではないが、実は僕は、この映画の中盤から後半部分をかなり真剣に見ていた。それはテッドが、「自分は人間であり、基本的人権を与えられるべき」として裁判を起こし、自分の結婚や「親になる」ことの是非を問おうと戦っている姿に、「人間である」ということの定義は何かを問いたくなり、「各種の差別の根源は、『自分たちとは違う』ものの存在を認めないというところから生じている」ことに、改めて気づかされたからだと思う。
 くり返すが、どうでもいい下品な映画だ(テッドは可愛いけど)。真面目なJDは、こんな映画を観ちゃいかんな。しかし、何かを考えたいJDには格好の題材かもしれない。僕は、強烈な反戦映画として有名な「ジョニーは戦場へ行った」と同じ香りを、奇妙に思われるだろうが、この「テッド2」に感じたのだった。


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リコピン原稿を推敲させてもらった by 久保田

2015-09-21 08:29:27 | 自由投稿
リコピンが投稿してくれた原稿を、趣旨を変えずに久保田流に推敲してみました。参考までに比較してみてください。

 ファミリーレストランでのアルバイトも、既に五年めを迎えた。
 客たちの食事マナーについて、以前から気になっていることがある。例えば、大声が騒がしい、クチャクチャと音を立てて咀嚼する、子どもたちが店内を走り回り、食べ物や飲み物を混ぜて遊び、肘をついたり足を通路に放り出したり等だ。
 親子連れの客の中には、子どもが騒いだり、店内を走り回ったり、行儀悪くしていたりと、明らかに他人に迷惑をかけているにもかかわらず何の注意もせず、平然と食事を続けている人がいる。
 幼い子どもが飽きて泣き出すのは仕方ないだろう。だが、それをまったく放置し、逆に、大声で怒鳴りつけるのは感心しない。なぜ、あやしてやらないのか。どうして、子どもの言葉に耳を傾けてやらないのかがわからない。
 店内を走り回る子どもを注意しない親もおかしい。他の客や従業員に迷惑なのは当然だが、何より、子どもがケガをしてトラブルになる危険性も高いからだ。子どもがテーブルの角に頭を角にぶつけないか、従業員とぶつかり火傷やケガをしないかと、私は常にハラハラしている。子どもに注意しても聞いてもらえないため、遠慮がちに親に目を離さないようにお願いすれば、ギロリと鋭い視線を返されることもある。
 子どもの面倒を看るのは親の義務だ。人前での基本的マナーや食事での行儀を教えてもらえないとは、子どもが可愛そうでならない。オトナになってから他人に指摘され、恥をかくまで気づけないとは、気の毒にもほどがある。
 保育所・幼稚園・小学校などでの給食は、貴重な「食育」の時間だ。しかし、保育士や教員にできることには限りがあるし、また、それは彼らの仕事なのだろうか。ありがたいことに、私が子どもの時は、否、今でもそうだが、母親からあれこれ厳しく躾けられてきた。それが普通なのではないか。そうでなければ、親の出番は一体、どこにあると言うのだろう。
 しかし、今の親たちを一方的に責めるのは酷かもしれない。「子は親を観て育つ」のだとすれば、彼らの親世代が「お手本」を示せなかったのだ。この負の連鎖を断つために、やはり保育所・幼稚園・小学校が大きな役割を果たすべきなのか。それは、ある意味で哀しいことなのかもしれない。
 オトナになった時、「これを親から学んだ」と言えるものがないというのは、むしろ、不気味なことでもある。子どもとの関わりの重要な側面として、親たちにはもっと「食育」に注目してもらいたい。
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13発も撃ち込まれて絶命したワンコを想う by 久保田

2015-09-16 12:59:49 | エッセイ
 千葉県松戸市(だったと思う)で、飼い主の下から脱走したあげく、飼い主だけでなく通行人や駆けつけた警察官にまで咬みついて暴れたワンコ(体長120㎝の紀州件犬だとか)が、警官たちの「緊急避難」による13発もの銃弾を受けて死んだ。
 ワンコに命中したのは8発程度に過ぎなかったらしいし(残りは外れ!)、ワンコ一頭に銃を持った警官が三人がかりだったせいもあるのか、マスコミでも大きく取り上げられていた。
 「本当に銃を撃つ必要があったのか? それも、止めを刺すために13発もか?」とか、「射撃、下手くそなんじゃね?」とか、「何でまた夜中なのだ?」とか、まあ色々なことを考えるわけなのだが、どうやらこのワンコ、かなり劣悪な環境の中に閉じ込められていたらしい。ほとんど散歩にも出かけられず、ベランダに幽閉されていたという話も漏れ伝わってくる。哀れなワンコ… フラストレーションやストレスの極致にまで追い込まれていたんじゃないのかな。
 ワンコだけでなく、何だか近年、やたらとペットを飼う人たちが急激に増えているように思う。それも、「いい時・いいとこ」取りだけの無責任でむらっけだらけの飼い方だ。
 例えば、さすがに散歩途中でのワンコのウンコを拾って帰らない人は減ってきたみたいだが(否、まだいるぞ!)、オシッコについては事実上「垂れ流し」である。「こんな所にまで連れて来るなよ」と言いたくなるようなケースだって少なくない。実に自己中心的、いや、ワンコ中心的な思考であり行動だ。土佐犬が幼児を噛み殺したなんて事件もあったが、要は飼い主の「本当の優しさ」不足だったのではないか?
 さて、自由と解放を求めて有頂天になり、13発も撃ち込まれて昇天したワンコの冥福を祈ろう。もし僕がこのワンコだったら、今際の際に何を思い、何を呟くだろう。「ふ、それなりに良い人(犬)生だったぜ」などとは、絶対に言うまい。「なぜなんだ?」だろうか。
 ワンコの飼い主たちよ、「ご主人」とか呼ばれていい気になっているんじゃないか? ワンコとの本当の意味での「共生」とは何だろう。ふと、そんなことを考えてしまう水曜日のお昼過ぎなのだった。
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大事なお知らせ from 久保田

2015-09-16 12:22:46 | 一般向け連絡
 9月末日(水曜日)正午をもちまして、以下の諸資料を廃棄いたします。必要な方は、お早めに!久保田研究室までおいでください。

 1.「保育の原理」採点済み用案
 2.「教育の制度」採点済み答案
 3.語彙・読解力検定(6月)合否結果
 4.漢字能力検定(6月)合否結果
 5.公立系幼保採用模擬試験(5月)結果


 ※ 後期に備えての研究室整理を実施するためです。
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今年の流行色は やはりピンク! by 久保田

2015-09-16 05:36:35 | 一般向け連絡
堀越先生ご担当の「点字の基礎」で使われる「小型点字練習機」の事前予約をとってみた。
なぜなんだろうなぁ、今年もまた、一番人気はピンクなのだ。
「女の子=ピンク」という構図は、それこそ典型的なジェンダーであるように思うのだが、どこでそれが形成されているのかわからない。
一昨年だったか、クリームが馬鹿流行りしたことがあった。それもまた、理由がよくわからない。
ファッション界の流行は、結局のところ誰か(会社?)が仕掛けているのだろう。点字機の色もまた、誰かがどこかで何か言っているんだろうか?
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川は元の通りに流れたがるのだ by 久保田

2015-09-14 15:08:08 | エッセイ
 茨城県常総市で鬼怒川が氾濫し、深刻で悲惨な大水害が起きた。
 「常総市(じょうそうし)」という市名にはほとんどなじみがないが、合併前の「水海道(みつかいどう)」だの「石下(いしげ)」だのいう地名や「関東鉄道常総線」となると、とたんに懐かしさや親しみが蘇る。
 大学と大学院時代を茨城県新治郡桜村(現・つくば市)で暮らした僕にとってはまさに、今回大水につかってしまった辺りはホームグラウンドだったのだ。鬼怒川の川原では、戦国大河ドラマの雑兵役エキストラとして一日に三回も、武将に刀で切られて川の中に倒れ込み死ぬ(笑)というアルバイトをした事だってある。あの辺りが今回、一面の泥海になってしまったのだ。
 利根川水系の治水工事は、それこそ二宮金次郎さんが活躍した江戸時代から続けられてきた。川の流れを真っ直ぐにしたり、延々と堤防を築いて、人間にとって暮らしやすい土地を少しでもたくさん作り出し、確保してきた。
 確かに、洪水の回数は減ったかもしれない。しかし、洪水はまた、土地に新たな栄養や活力を与えるものであった。エジプトは、毎年のナイル川の氾濫で肥沃化したという話をどこかで聞いたことがある。化学肥料の普及や農業技術の向上や人家の急増は、ある意味で、そういう自然が与えてくれた豊かになるチャンスを放棄してきたのかもしれない。そりゃあ、洪水なんか起きない方が良いに決まっているから…
 ある人がラジオで呟いていた。「やはり川は、元あったように流れたがるんですよ」と。ドキッとした。彼は、「それがその川本来の姿なんだし」とも言っていた。そうか、そうなのだ。「人間のために」をスローガンに進められてきた治水工事は、当の川にとっては迷惑千万なことだったのかもしれない。
 「千と千尋の神隠し」のハクが思い浮かんだ。湯屋を訪れていたドロドロの化け物たちも思い出した。彼らはおそらく、人間の自己中心的で独善的な川や沼や湖の変形作業を、歯ぎしりしながら見ているのではないか。
 宮城県でも堤防の決壊があった。僕には、溢れた泥水に削り取られた堤防の傷口から「ざまあ(みろ)!」という声が聞こえてくるのだが、頭がおかしくなったのだろうか?
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「に」ではなく 「までに」である by 久保田

2015-09-14 14:38:54 | エッセイ
 17日から始まる山中湖合宿学習会のための準備作業をしようと思って大学へ出てきたが、それが一向に進まない。なぜか? 印刷しておくべき原稿が、ゼミ生たちから届かないためだ。
 誤解している人がいるかもしれないので言っておきたいのだが、例えば、「13日午後6時締切」という言葉の意味は、「13日の午後6時に提出」ではなく、「13日の午後6時までに提出」である。
 〆切そのものが守れないのは言語道断だが、この「までに」の意味を理解しない人にも困ってしまうのだ。「までに」出してくれれば、印刷作業は余裕をもって進めることができる。しかし、「に」で出されると、万が一の場合の臨機応変的対応ができなくなる。
 具体的資料や敲き台のない話し合いは、必ず「その場限り」の空虚なものになる。
 せっかくの合宿学習会だ、山中湖へ遊びに行くのではない。お互いのステップアップのために、ちゃんとした資料を事前にちゃんと出してほしい。幹事とか世話人とかの経験がない人はおそらく、この「までに」の重要性がわからないのだと思うが、違うか?
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もっと「筆まめ」に! 脱「筆不精」への道 by 久保田

2015-09-05 05:38:18 | エッセイ
「不精」って言葉、わかる?
面倒臭がって何かをサボることだよね。
だから、「筆不精」ってのは、書くべき手紙や文章を後回しにしてしまう癖がついてしまっている人たちのことだ。
これが、ここ最近の大学生に多くて困る。
社会常識として、あるいは、人間関係上の基本的コミュニケーションマナーとして、目上の人からの手紙やメイルにはできるだけ早く、そして、たとえ短くても返信するのが当然なのだが、ウンでもスンでもなく、こちらからの一方通行風音信不通にされてしまう事が余りに多い。実に腹立たしいし、もうそろそろ堪忍袋の緒が切れるというか、連絡モチベーションが底をつくというか、学生のための連絡が馬鹿々々しくなり、「ええい、もう止めちまえ!」と思いそうだ。
「筆不精」の反対語は「筆まめ」であるが、何かにつけ書くという癖がある人、書くことに抵抗感がない人は、必然的に文章が上手くなる。「どうすれば効率的に良い文章が書けるか」を、常に考えている(意識的・無意識的を問わず)からだと思う。
今時、「小論文」を書かないで済むなんて事はあり得ない。そんな時、「筆不精」たちはどうするのだろう。普段から書いていない人間が、評価に耐え得るような文章を書けるわけはないのだが…
「筆まめ」を目指してほしい。書けば書くほど、文章は上手くなる(推敲すればだけど)。そして、返信すべき内容かどうかを悩む前に、「迷惑メイル」でない限りは返信するクセをつけたらどうだろう。
今、世代全体に「コミュ障」が蔓延しているように思う。


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もっと「筆まめ」に! 脱「筆不精」への道 by 久保田

2015-09-05 05:38:00 | エッセイ
「不精」って言葉、わかる?
面倒臭がって何かをサボることだよね。
だから、「筆不精」ってのは、書くべき手紙や文章を後回しにしてしまう癖がついてしまっている人たちのことだ。
これが、ここ最近の大学生に多くて困る。
社会常識として、あるいは、人間関係上の基本的コミュニケーションマナーとして、目上の人からの手紙やメイルにはできるだけ早く、そして、たとえ短くても返信するのが当然なのだが、ウンでもスンでもなく、こちらからの一方通行風音信不通にされてしまう事が余りに多い。実に腹立たしいし、もうそろそろ堪忍袋の緒が切れるというか、連絡モチベーションが底をつくというか、学生のための連絡が馬鹿々々しくなり、「ええい、もう止めちまえ!」と思いそうだ。
「筆不精」の反対語は「筆まめ」であるが、何かにつけ書くという癖がある人、書くことに抵抗感がない人は、必然的に文章が上手くなる。「どうすれば効率的に良い文章が書けるか」を、常に考えている(意識的・無意識的を問わず)からだと思う。
今時、「小論文」を書かないで済むなんて事はあり得ない。そんな時、「筆不精」たちはどうするのだろう。普段から書いていない人間が、評価に耐え得るような文章を書けるわけはないのだが…
「筆まめ」を目指してほしい。書けば書くほど、文章は上手くなる(推敲すればだけど)。そして、返信すべき内容かどうかを悩む前に、「迷惑メイル」でない限りは返信するクセをつけたらどうだろう。
今、世代全体に「コミュ障」が蔓延しているように思う。


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長野偏愛者の安曇野旅 by 久保田

2015-09-01 06:28:38 | エッセイ
ゼミ生お花坊の保育実習巡回に引っかけ、半日だけだが五年以上ぶりで安曇野をブラついてきた。
穂高神社鳥居横のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べ、その隣のお煎餅屋さんで「味噌ザラメ煎餅」を齧り、夕方には「すずむし荘」でノンビリと温泉につかった。
今回の発見と言えば、JR篠ノ井線のルート変更により廃線となった線路跡に作られた遊歩道だ。明科駅から歩き始めて2㌔くらい行くと、「三五山(サゴヤマ)トンネル」の入口に前に出るのだが、わずか120㍍余りの短いトンネルなのに、途中でカーブしているらしく、中を覗くと見事に真っ暗!なのだ。
「どうせ電車は通らないんだから行ってみようかな~」と一瞬思ったのだが、「いかん、これは何か出るな」を直感し(笑)、写真も撮らずに(だって、そこに何か写り込みそうだもの)一目散に戻ってきた。別に、特別霊感が強いというわけでもないのだが、わかる? 背中がゾワワワ~という感じ。
次回は是非、複数メンバーで懐中電灯持参、トトロの「さんぽ」かなんかを大声で歌いながらこのトンネルを攻めてみたい。間違っても、「くる~きっとくる~」なんか歌っちゃダメなんだかんね!

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