おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

「スローライフ」と「QOL」

2013-01-30 17:36:35 | 自由投稿
 星川さんが取り上げていた「スローライフ」と並んで、最近、とても気になる言葉がある。「QOL(Quolity of Life):生活の質」がそれだ。
 自分の生の価値は、決して時間的長さでははかれない。どれだけそれに満足できるか・できたかが大事である。たとえ余命が数日とか数ヶ月であろうとも、本人が「これでいいのだ」と納得&満足できる事が一番大切だという思想を表わす言葉で、例えば、延命治療や尊厳死の問題とも関係する、どこかで必ず関わらざるを得ない論題だ。
 先日、41歳で急逝した流通ジャーナリスト/金子哲雄さんの『僕の死に方』という本を読んだ。余命 500日を見事に締めくくられた日々を記した記録で、「できれば僕も、こういう死に方をしたい」と思った。41歳という余りに若い彼の死だけど、彼のQOLレベルは極めて高かったと言えるのではないだろうか。

 「スローライフ」もなかなか味わい深い良い言葉だとは思うんだけど、今まで一度もしゃかりきになってハイスピード・ハイテンションで頑張ったこともない奴が「ノンビリいきましょうや~」などと言っていたりすると、「けっ、自分の怠け癖をカッコいい言葉で言い繕いやがってよ」と斜に構えてしまうのはなぜだろうなぁ… とくに20代の若いニイちゃんが「あ、おれ、スローっすから」なんて言おうもんなら、オジさんは思わす「ケッ」とガン見してしまうだろうなぁ… 
 「スローライフ」を語れるのは日本の場合、キッチリ仕事をしてきた世代に限られるんじゃないかな? もち論、そういう国民性や生活文化を持つ人たちが、外国には少なからずいるんだろうけど…




コメント to アミ~ゴ荊木さん

2013-01-30 16:56:00 | 一般向け連絡
 かけ算の式は「一つ分の数」×「いくつ分」の順に書く約束になっている…って、そんな事、誰がいつ決めたんだろう? 
 少なくとも、僕が小学生だった約半世紀前には、そんなルールはなかった。正しい答を出せているんだから、「8×6=6×8」の普遍的法則は認めてもいいのではないかと思います。
 というか、かけ算の式は「一つ分の数」×「いくつ分」の順に書く約束の根拠は何ですかね?

 商業高校の商業科教員だった親父(現82歳)は、何と!「掛け算九九が半分しかできない」のです。何でも、小学校の時の先生が、「どうせひっくり返して掛けても答えは同じなんだから」と、掛け算九九表の斜め半分しか教えなかったんだとか… そう、「3×7がわかれば7×3は考える必要なし!」という、ある意味でとても割り切った(掛け算なのに…)合理的な先生だったらしい。そして親父は、「だからと言って、その後の掛け算九九人生の中で困った事はなかった」と言っているのです(笑)。

 かけ算の式は「一つ分の数」×「いくつ分」の順に書く約束にこだわらなければならない理由が、僕にはちょっと理解できないです。
 高校の時に教わった数学の先生が、「問題の解き方は一つじゃない。美しい解き方もあれば、まどろっこしい不器用な解き方もある。それでも答えは一つってところが、数学の醍醐味なんだよな~」と、いつも言ってました。そして僕たちは、そのK先生に「あ、この解き方はきれいですね~」とほめられたくて、一生懸命に問題集の予習をしていったものです。

 というわけで、所与の問題を「8×6」で解こうと「6×8」で解こうと、ま、そんな事ぁ大した問題じゃない!と、数学門外漢の久保田は思うのですが、アミーゴ、反論してくれませんか?


どちらの「吉田さん」?

2013-01-28 11:05:02 | 一般向け連絡
 え~っと、くぼた組には「ゼミ名:烏鷺妙子ちゃん」と「アンヌ改めクララ吉田さん」という二人の吉田さんがいて、「挨拶」について良い事を書いてくれたのはどちらですか? それとも、第3の吉田さんが生まれたのか…(笑)

ちっとは推敲しようぜ from 久保田

2013-01-23 15:25:21 | 一般向け連絡
 「これから意気込み!」って一体、どういう日本語なんだろうか。「これからの意気込み」とか「これからに向けた意気込み」ならわかるんだけど…
 自分も人間だから少なからぬミスをするけど、それでも書き殴った原稿にある程度の推敲を施してからブログにアップするよ。
 何を書いてもいいし、たとえまだまだ稚拙な文章でもいいよ。でもさ、少しでも自分の日本語を練り上げようとする努力は続けようよ。書きっ放しでは、読んでもらう人に失礼になる…

レポートをいくつか読んでみたナウ by 久保田

2013-01-23 15:18:32 | 自由投稿
 僕は、試験の代わりにレポートを課すということをほとんどしない。ましてや、試験で不合格だった人にレポートを書いてもらい、それをもって「合格(C)」にしちゃうなんてことはない。だって、そんなことをしたら、試験でちゃんと合格している人に対する不公平や不平等になると思うからだ。

 「(最後には)レポートで救ってもらえる」的スウィート発想が、どうして学生間で蔓延しているのかはわからない。そんな甘えがあるから、僕みたいな「レポート嫌い」な人間は、「冷たい」とか「鬼」とか言われるのかもしれない。

 それでも、よんどころのないどうにもしようがない理由で「試験代わりのレポート」を読むはめになることもあり、今、何本かのそれを読んでいるのだが…
 残念ながら、「おいおい、3・4年にもなってこの程度の文章しか書けないのかよ?」というものが多い。「1・2年生の時、いったい何を勉強してきたんだよ?」と思うケースも多い。
 例えば、万が一コピペならコピペでもいいからせめて、ちゃんと筋のある切ったり貼ったりをするべきなのに、何の脈絡もなく新聞記事のスクラップみたいな文章を平気で出してくる。せめて、「~だから、こういう資料をパクって出すよ」くらいの言い方をしてほしいものだ。

 それにしても、スジのある文章を書き慣れていない人が多い気がする。こんなんで「卒業研究」が書けますか? そう問いたくなる気持ちを抑えられない久保田です。

インターネットと関わる以上は「宿命」かな? to 末永くん

2013-01-23 15:02:46 | 一般向け連絡
 仕事でもプライベートでも、インターネットとの関わり(主に電子メイルだけど)を持っている以上、末永さんが憤慨するようなジャンクメイル(屑にもならんようなくだらんメイル)が届いてしまうのは、悔しいけれど「仕方ない」と思うようになった。

 僕の場合、その数が多いは「ユキ、36歳。何だかとっても寂しくて…」系の糞メイルでありまして(笑)、「会ってください」とか言われても、「忙しいんだよっ!」としか返せないものばかりで… もち論、返信なんかしないで「即削除」してるけどさ。

 下手に返信すると、自分のアドレスの存在を教えているみたいなものだから、まさに相手の思う壺だ。世の中には、本当に暇な奴がいるもんだ。そして、こういう糞メイルが減らないのは、誰かがどこかで「ひっかかっている」からじゃないのかと思う。これだけ注意されているのに、相変わらず「振り込め詐欺」が減らないのと、どこか似ている。

 何の心当たりもないのに「あなたに無償で3600万円差し上げたいの」とか言われて、本気にするお馬鹿さんがいるんだろうか?いるんだろうね…

 防御法はやはり、ファイアウォール(防護壁)を高く立て、糞メイルをブロックするしかないんだろうな。そして逆に、本当に大事なメイルの場合は、相手にもそれがわかるようなちゃんとしたファイル名や【添付有】みたいなお知らせをするべきだろう。

 学生からのメイルには、ファイル名や名前など何も書いていないものがある。そういう眉唾メイルは、基本的に読まない事にしている。電話でも、キチンと名乗らない奴が時々いるけど、それと同じだ。仮に読むにしても、必ず後回しにしている。

 フェイスブック・ツイッター・ライン・ミクシー等、面白そうなモノにすぐさま飛びつきたがる人がいるけど、本当にそれが必要なのか、そして、それを利用する事によるリスクがちゃんとわかっているのかが気になる。何の見境もなく飛びついたあげく、余計な心配や作業が生まれてしまってはバカバカしい。以前、「さらばフェイスブック」宣言をしたけど、要するに僕には、電子メイルでのやり取りだけで十分だと気づいたからだ。

コメント to もみじ君 from 久保田

2013-01-13 10:16:51 | 一般向け連絡
 もみじ君の「無免許運転」記事を読みながら改めて、交通における≪自殺行為≫と≪無作為殺人≫の多さを思った。
 携帯電話で通話しながら、あるいは、メイルを読みながら・打ちながらの歩行・自転車走行・自動車運転など、明らかに「自分で自分の命を脅かす」行為や、万が一それに対象がいた場合の「他人の命を危険に曝す」行為が多過ぎる。
 「なくならないのはなぜなんだ?」というのがもみじ君の問題提起だ。「無免許運転」もそうだが、もっと不思議なのは「飲酒運転」だろう。これだけ多くの悲劇をくり返しながらも、残念ながらそれはなくならない。
 罰則がまだまだ甘いんだろうな…というのが、僕の今のところの考え方だ。罰則強化で人間のマナーやルールを変えるというのには、少なからぬ抵抗感がある。そんな事をしなくても何とかならないのか?とも思う。だけど、哀しいかな、現実問題として何ともならないじゃないか。少なくとも、これまでは何ともならなかった…
 気を付けても気を付けても起こってしまう交通事故は確かにある。だが、防ごうと思えば防げた事故に対する責任は、今よりももっとずっと重い形で取らせても良いのではないかと思う。

本当に「おめでたい」のだろうか? by 久保田

2013-01-13 10:01:47 | 自由投稿
 このブログの読者の中にはおそらく、少なからぬ数の「今年は成人式だも~ん」という方がいるだろう。巷には、それこそ「祝!成人」「成人式おめでとう!」という言葉が溢れているが、へそ曲がりの僕は、どうしてもその言葉が素直に言えない。成人するって、本当はものすごくたいへんなことだと思うからだ。

 選挙権が与えられるのを筆頭に、(大っぴらに)お酒が飲める&タバコが吸える、親の同意なくして結婚できる等、確かに「やったね」的側面はあるのだが、それを得るためには≪一人の社会人としての全責任≫を負わされるという確固たる自覚が前提だということを、果たしてどれくらいの新成人たちが理解把握してくれているんだろう。

 もち論、「成人」と呼ぶに値するような「ちゃんとしている人」は多い。だが、振袖だ羽織だ袴だなどのチャラチャラした外見のみに浮かれているだけような輩も少なくない。
 毎年、どこぞの成人式(後?)での乱痴気騒ぎがニュースで流される。そんな奴らを見ていると、「選挙権を18歳から」という論議の空虚さを強く思う。

 「成人(式)」とは本来、「オトナ扱い」されることに対する緊張感・責任感の中で進められるものであり、キラキラした似非ファッションショーのような会にしてはならないと思う。その本質を忘れた形ばかりの式典と言えば、大学の卒業式もそうだ。「君は果たして、その恰好をするだけの勉強をしたのか?」と問いかけたくなる人が少なくない。

 実は僕は、成人式を経験していない。どういうミスなのかはわからないが、地元の静岡県清水町からも、当時居住していた茨城県桜村(現つくば市)からも招待状が届かなかったのだ。呼ばれていないんだから、自分勝手に出て行くわけにはいかない。「成人式」に対する一種のヒガミ(笑)みたいなものは、そんな物悲しい経験から生まれたのかもしれない。否、そんな安っぽいものではない。

 とくに年齢とは関係なく、僕は大学生を「オトナ」として見たいし、「オトナ」としてつき合いたいと思っている。だが、「オトナ」を感じさせてくれる人は、残念ながら年々少なくなっているように思う。「それじゃあ、そう言うあんたはちゃんとしたオトナなのか?」と問われても困るが、少なくとも余分に生きてきた分だけは「オトナ」に近いと思ってはいる。

 成人式に浮かれるのもいいが、その本質だけは忘れないでいただきたいものだ。
  

「オヤジのきれい」について by 久保田

2013-01-11 14:15:32 | 自由投稿
 田中さんの「若者のきれい」記事を読んで、自分の研究室を見回してみた。
 客観的・第三者的にどうかはわかりかねるが、僕は僕なりに「きれいなんじゃね?」と思った。
 つまり、自宅以外で仕事をする場所としては、「とりあえずこれでいい」と考えるからだ。だが、ゼミテーブルの上は雑多な資料で埋めつくされ、4年生の卒業研究作業のための三台のパソコンと一台のプリンターものっかっている。
 しょせん、「きれい」とか「片付いている」とかは個々人の感覚によるものであり、その部屋の主が「これでいいのだ」と思っているんだったら、周りでごちゃごちゃ言わないでほしいものだ。自分でも十分わかっていながら片付ける時間がなく放置している場合もあって、そんな時に「追い撃ち」的に「きたない!散らかっている!」などと言われると、思わずムッとしたりもする。
 暑い・寒いの感覚もそうだ。エアコンの温かい空気を循環させようとして扇風機を回していたら、突然やって来た客人が、「寒いんですけど、消してください」と言った。部屋の主は僕なのに「消しても良いですか?」ではなく、いきなり「消せ」なのだ。この(おそらく無意識的なんだろうが)救い難い「上から目線」て、いったい何なのだろう。
 田中さんの記事のケースは、不特定多数との共用スペースの問題だから、彼女の言い分は理解できなくもない。つまり、「あたしゃヤダよ、こんな部屋っ!」という主張である。でも、もしかすると何にも気にしない人もいるかもしれない。逆に、吐き気を催し卒倒する人だっているのかもしれない。要するに、どっちの視点で判断するかの問題だろう。
 何でもかんでも自分の側に引きつけて考えることが不可能な場合だってある。「きったねえな~」と思ったら、自分なりの「きれい」レベルにすればいいだけではないか。でもまあ、常識的に考えて他人の「毛」が散らばっている部屋というのは辛いよな~
 共用スペースの使い方に関する彼女の問題提起の意味が、しみじみわかる人でありたいものだ。外国に出かけると、公衆トイレの有り様でその国の「民度」みたいなものが知れる。申し訳ないが、中国のそれは悲劇的であった…

田中君に反論する by 久保田

2013-01-11 12:30:24 | 一般向け連絡
 若者たちの「打たれ弱さ」を視点に、教員による部活動での「体罰(今回の場合は明らかに暴行)」を容認するかのような田中君に反論したい。その前に、「体罰の絶対禁止」規定は、学校教育法の第11条である。間違っちゃいかん…
 僕自身、中学・高校・大学(の途中まで)時代は体育会系、それも、バリバリの武道系部活動に参加していた。だから、文科系部活人間が一方的に体育系を攻撃するのとはわけが違うことを、まずは断わっておきたい。
 確かに、「強い」とこの指導者(顧問教員や監督など)の中には、今回の暴行犯(敢えてそう呼ぶ)のような凶暴な人間がいるし、また、悲しいことに父母たちの中にも、「強くしてくれるなら少々は…」みたいなことを言う人たちがいる。そういう人たちは決まって、やれ「先輩だ後輩だ」「上級生だ下級生だ」とやかましく、形式的で形骸的な人間関係上の「上下」を強制したがる。
 本当は学年や年齢の上下ではなく、その人の人格そのもので人間関係の主従や優劣が論じられなければならないのに、上級生だからと言って威張り散らし、下級生であるがゆえに怯えまくる。ところが、自分が上級生になると、今度は自分が威張り散らす。そうやって、形だけの上位の人間に対する絶対服従が形成され継続される。
 「何のために強くなるのか・どうやって強くなるのか」をキチンと考えず、旧態依然とした体育会系発想と行動の中でしか自分の居場所を見つけられない人間は、絶対に後輩たちの指導なんかしてはいけない。ましてや、殴る・蹴るを指導の一環だなどと考える輩が、学校教育の現場になどいてはいけない。
 「部活動だからいいのでは?」という発想は、根本のところで間違っている。暴力の肯定は、いかなる場合にも許されるものではない。相手が自分より下位、すなわち、守るべき存在である場合にはなおさらである。
 おそらく、今回の事件は、学校教育現場におけるほんの「氷山の一角」だろう。事実、田中君も「指導」という名の暴行を受けてきたのだろう。そして、それをキチンと暴行として糾弾してこなかったという点では、大阪市立某高校の周囲の教員たちと同罪であると思う。授業などで「体罰を受けた経験」の有無を尋ねると、今でも何人もが手をあげる。これが現実だとすれば、学校教育法第11条は文字通り、「ザル法」のそしりを免れない。
 身体的暴力は、「体罰」の中で最もわかり易い。これを機に全校規模での実態把握と、学校教育現場からの徹底した暴力追放が行なわれることを望みたい。「少しぐらいは」「場合によっては」「愛情があれば」という甘えや言い訳を許すべきではないだろう。また、父母たちにも毅然とした態度で部活動指導者の「指導」という名の暴力に対する反撃を期待する。虐待が虐待を生むのと同様、暴力は暴力を再生産する。
 僕が敬愛して止まない日本拳法の主席師範I氏(かつてのキックボクシングの世界チャンピオンで、格闘技K1のメインレフリーでもある)は、稽古中、間違っても練習生に手を挙げたりはしない。また、10年連続して全日本チャンピオンであった中量級の某氏は、普段は寡黙で穏やかな陶芸家である。ホンモノの武道家は、決して乱暴狼藉をはたらかない。それはおそらく、武道の目的が「自己修練」にあるからだろう。相手に対する「礼」を重んじる武道とは異なり、勝ち敗けにこだわるスポーツではそれが消えているのかもしれない。
 「強さ」を示す対象は自分自身であり、対戦相手ではない。それがわかっている本物の指導者であれば、年下・格下の相手に対しても敬いの心を持つ。手を挙げ足を向ける人間は、尊敬などに値しない。
 
 

Y君の原稿を推敲してみました(久保田)

2013-01-11 09:09:42 | 一般向け連絡
 昨年末の衆議院議員選挙で、自民党が約三年ぶりに民主党から政権を奪還した。もち論、政権を交代させたのは私たち国民なのだが、三年前といい今回といい、なぜかそこに一種の流行に安易に流されていると感じるのは、はたして私だけだろうか。ちなみに私は、まだ選挙権を与えられていない未成年である。

 政策の違いや論議の争点が、極めて抽象的で曖昧な選挙だった。「脱原発」にせよ「卒原発」にせよ、ほぼ同じ主張の人たちが乱立する複数の政党から立候補するのだから、選択する側は大いに混乱したと思う。各党の政治家たちにはもっと、事前に綿密な政策のすり合わせと合意を求めたい。十を超える政党による今回の野合と離散はまさに、政策後回しの単なる選挙対策に見えた。

 自民党の大勝は「漁夫の利」とか「タナボタ」とも揶揄されるが、何はともあれ、多くの国民から国の舵取りを任せられたことには違いない。東北三県の復興・発展や原発事故への対応ではなくむしろ、私たちは「経済」の立て直しを優先課題として選んだ。株価高騰や円高是正など、確かにその効果の一端が見え始めている。

 私たちの視点は目前のものに向きやすい。だが、常にもっと遠くを見つめた諸政策の展開こそ、当初支持率60%超の新政権には求められなければならない。

【コメント】
 原文には、何となく「新聞記事の切り抜き集め」的イメージを持ちました。そこで、筆者の視点・スタンスみたいなものを出せないかと思いながら、こんな風に推敲させてもらいました。Y君の執筆意図と異なってしまっていたら申し訳ないけど、一つの文章としては、多少なりとも焦点が明確化できたのではないと… どんなもんでしょう?

書きたいことナウ by 久保田

2013-01-10 13:10:58 | 一般向け連絡
 今、どうしても書きたいことが三つある。
 その1、大阪市立高校バスケ部での教師による指導死事件。これは単なる「体罰」事件ではなく、明らかに「殺人」事件だと思う。学校教育法第10条の「体罰絶対禁止」主義は、残念ながらまだまだ浸透していないということだろう。
 その2、オリンピックの東京招致。その前に、私たち日本人が全員でやらなければならないことがあるだろう。しょせん東京とその周辺だけの経済的盛り上がりを狙っての空騒ぎだろうが、大震災の現場を生で観てきた者の一人して、「東京五輪など要らない!」と言いたい。
 その3、冬山での遭難事故。山登りをする人たちにとっては憧れであり愉しみなのだろう。それならそれでいいが、「万が一自分に何かあっても、危ないから決して探したりしないでね」という書き置きをしてから出かけるべきだ。


ここ

2013-01-09 09:18:40 | 一般向け連絡
1月第2週から月末までの活動予定をお知らせします。
確定ではありませんので、必要に応じて直前確認をお願いします。

 9日(水) 出校12:30~18:00
10日(木) 出校15:00~18:00
11日(金) 出校08:30~16:30
12日(土) 自宅
13日(日) 出校10:00~16:00(AO入試事前面談など)
14日(祝) 出校10:30~16:00(後期試験など)
15日(火) 出校15:00~18:00(後期試験など)
16日(水) 出校13:00~17:00(卒研ゼミなど)
17日(木) 出校15:00~18:00
18日(金) 出校08:30~16:00(小学部で教育講演会)
19日(土) 自宅
20日(日) 出校08:30~19:00(センター試験監督)
21日(月) 出校10:30~16:00(成績処理など)
22日(火) 未定
23日(水) 未定
24日(木) 未定
25日(金) 未定
26日(土) 一般入試A日程(監督?)
27日(日) AO入試事前面談(予定)
28日(月) 未定
29日(火) 未定
30日(水) 未定
31日(木) 夕刻:世田谷区立上祖師谷保育園研修会

久保田の年賀状事情

2013-01-02 17:38:02 | 一般向け連絡
 かつて、年賀状枚数が 900枚を超えるという状況になった時期がある。友人・知人・仕事関係はもち論だけど、たった一回の名刺交換だけの人にも、あるいは、受講生でも現住所がわかれば送っていたんだから、年々もの凄い数の増加だった。一度出しちゃうと何だか止められなくなっちゃうし…
 
 近年の電子メイルの急速普及とともに、僕の年賀状や暑中&寒中見舞いは年二回の「近況報告」に変化していき、今では年賀状をいただいた方へのお返事が 約100通というところまで減った。
 だから、クソ忙しい年末に「あ~、年賀状を書かなくちゃ~」などと焦りまくる事もなくなって、元旦に届けられた年賀状にノンビリお返事すればいいのだという「怠け者」体制ができ上がってしまった。

 そう言えば子どもの頃、学校の先生だけにはよく年賀状を出していた。けっこう緊張しながらも、何だか楽しかったのを憶えている…
 時代や社会が変わったんだね、いわゆる教え子からの年賀状(年賀メイル)は極めて少ない。けど、くれる人はくれるし、そういう人とはつき合いも長続きしている。形ばかりのつき合いかどうかは、こんな時にわかるのかもしれない。

 

ミャンマー噺は面白かったよ

2013-01-02 17:21:41 | 一般向け連絡
 12月22日(土)にピョ~さんを招いて開いた「ミャンマー噺」は、とにかく面白かった。
 内容についてはニ~ニニ~オカさんが丁寧に報告してくれているのでそちらを読んでいただく事として、僕にとって一番面白かったのは、就学前教育に占めるお寺さん&お坊さんの位置づけでした。
 つまり、日本でいう幼稚園や保育園が制度として存在しないので、必要に応じてお寺さんやお坊さんが子どもたちを預かり、人間としての基礎の部分を叩き込んでくれるというわけで、これってどこか、昔の「寺子屋」の幼児版を思わせるものでした。
 宗教が日常生活と密接に結びついているという実感は、既にネパールで明確に持っていましたが、そうかそうか、仏教国ミャンマーでもそうなんですな。
 Good people but crazy governmentの国と呼ばれる事もあるミャンマー。アウン・サウン・スーチーさんの名前くらいしか知らない国だったけど、ピョーさんのレクチャーで一気に身近になったような気がしました。
 こういうせっかくの企画を土曜日に立てても、何だかんだと他の行事とバッティングしてしまうのは本当に惜しいな… せめて、≪選択の自由≫くらいは与えてあげたいと思う久保田です。