おじいクボマ~ル@青空保育園 since 2023

定年前に大学教授から保育園長に転身した「おじい」のブログです。誰にでも開放していますので、ご投稿も歓迎です!

堀越クンの佐村河内論

2014-03-31 11:11:49 | エッセイ
 盟友/堀越君(「点字の基礎」担当)から、某新聞用のエッセイ原稿が届きましたので、ここでも紹介させていただきます。元々は点字原稿なので、句読点などの表記法を若干変えさせてもらっています。ご了承ください。

「堀越喜晴のちょいと指触り」(40) ― 裸の佐村河内氏 ―
 この事件について、今さら私ごときが申し上げられることなど何一つないだろう。既にインターネットや週刊誌などを通じ、さまざまな情報や意見が開陳されている。事件の火付け役とも言うべきNHKをはじめ、新聞各紙も相次いで「検証」のための番組や記事を打った。が、それでもなお私の中には名状しがたい、もやもやした感覚がわだかまっているのである。
 被爆二世、全聾の作曲家、義手のバイオリニストのために、震災で両親を失った少女のために…。まるで空中から見えない糸を繰り出し、虚構の綾錦を織り上げるようにしていた彼、佐村河内氏は、これらのイメージを巧みに織り交ぜて「美しい物語」を紡いでいった。本職の作曲家を影武者に雇い、専門外の仕事をさせながら。「魂の旋律」「現代のベートーベン」。メディアはこぞってこれに飛びついた。ここにあたかも、「嘘つきの目には見えぬのだ」という魔法がかかったような異様な空気が醸成された。だれもが懸命にこの「魂の楽曲」に耳をこらし、賛美を奮発した。
 そこへ突然、こんな声が上がった。「あいつは裸だ!」。すると、今度はみんなして一斉に彼を嘲り笑い始めた。たったさっきまで、あんなに持ち上げていたことなどすっかり忘れてしまったかのように。というのが、私に読めたこの「物語」のあらすじである。
 これに対しメディアの「検証報道」からは、こんな声ばかりが聞こえてくる。「なぜ見抜けなかったのか」「『物語』の魅力に抗する手立てはなかっただろうか」。
 「おい、そこかよ?!」、私の心の中に虚しく行き場のない、そんな叫びが上がった。本当は、この「物語」をこんなにも抗い難くしているそもそもの原因は何かという事をこそ、メディアは「検証」すべきだったのではなかっただろうか。
 私には常々、不思議でならないことがある。どうして障害を持った芸術家のかかわるコンサートや展覧会などには、決まって「魂の」だの「心の」だの「命の」だのといった枕ことばがつかないでは、済まされないのだろうか。およそ芸術家というものは、障害の持ち合わせがあろうがなかろうが、誰しも己の芸術に魂を込め、命をかけて心のうちの何ものかを表現しようとしているはずなのに。もしかすると、「障害を持ちながら一生懸命やっているのだから、技術や技法には多少目をつぶろうじゃないか」ということなのだろうか。だとすれば、これほどに障害者芸術家を愚弄した話もあるまい!
 それとも、「彼らは常人にはうかがいしれない異界の美を見ている」という神話のせいなのだろうか。いずれにしても、障害者にまつわるそんな未熟な意識が、これらの枕ことばの下に、人々の目を障害者が生み出す芸術(いや、芸術だけに限らずあらゆる業績)そのものから背けさせ、それらを一律に「美しい(ないしは、けなげな)物語」の中に、封印して批判から守ってあげなければならないという不文律をいつしか作ってしまっていたというようなことはないだろうか。佐村河内氏とは、してみるとその辺りのことを熟知して見事に突いた、とんだトリックスターだったということになりそうだ。
 年の瀬、ベートーベンの第九交響曲を聞きながら、「音を失った作曲家の魂の叫び」などと思い巡らす人がいるだろうか。
 明けて正月、のどかに流れる「春の海」を、「全盲の作曲家が心の目で捉えた風景」だなどと考えないでは聴けないような人がいるだろうか。
 時間という容赦のない炉で精錬され、あらゆるノイズが焼き尽くされた後になお残るキラリと光るもの、それこそがきっと本当の美というものなのだろう。見たくもない佐村河内氏の裸を見せられながら、私はそんなことを考えた。


初めての投稿です。 自主ゼミ1年 望月捺未

2014-03-21 13:05:47 | 自由投稿

はじめまして。
初めてのブログ投稿です!

教職教養の自主ゼミで久保田先生に
お世話になっている望月捺未です。

私は、小学校の先生になりたいと
思っています。
そのため、久保田先生の自主ゼミに
参加しました。
自主ゼミでは、勉強をしたり
文章を書いたりとてもタメに
なることをさせていただいていますが、
その中で自分の力不足を痛感しました。

そして、普段から少しずつでも
勉強すること、文章を読むことの
大切さを感じました。

私は山梨から大学に通っているため
なかなか時間がとれないのですが、
それを言い訳にせず頑張ります!

山梨での教員採用試験合格は
難しいと言われていますが、
今から勉強を積み、合格できるよう
頑張って行きたいです!

よろしくお願いいたします。







久々にヒドい風邪をひいてしまいました by 久保田

2014-03-19 10:27:58 | 自由投稿
 先週末15日(土)の午前中から寒気がして、何となく嫌ぁな予感はあったのですが・・・
 理事をしているS保育園での会議が終わって自宅に戻ったところで、胃のムカムカに耐えられずトイレで吐きました。そして、そのままダウン…
 日曜日丸一日倒れていましたが回復せず、今度は下痢。再びダウンして布団の中へ。明けて月曜日には熱が出だし、38.3℃まで上昇。子どもだったらよくある38度台だけど、56歳のオヤジにはさすが辛く、頭痛もジンジン…体の節々も微妙に痛く…
 氷枕と熱冷まシートで完全武装、夜になって漸く熱が退き始め37度台に。ウツラウツラしながら火曜日の朝を迎え、午前8時の時点で36.7℃の「平熱+α」となりました。
 つごう四日間のダウンでしたが、これがインフル君であったのかどうかは不明です。知り合いの保育園長さんは「インフルエンザB型ですね」とキッパリ言うのですが、38度ちょっとでは「そっか~」と納得もできず、とりあえず、「ちょっとヒドめのお腹にくる風邪をひいちゃった」ということにしました。
 このくらいの年齢になり、健康状態にも不安だらけのオヤジには、風邪といっても「命取り」の危険があり、舐めてはかかれません。女子大生お得意のドタキャンとかで人に迷惑をかけちゃいかん!と気をつけていたつもりなんだけど、ここへきて遂にひいたか、風邪。悔しい…
 皆さん、ご自愛くださいまし。


子どもの興味関心はどこから? by あずさ86号

2014-03-15 09:07:26 | エッセイ
※ 花堂あずさ君の原稿に、久保田が手を入れました。

 子どもの興味関心は、一体どこから生まれてくるのか、そのきっかけは何か、そして、それは本当に子ども本人のものなのか。そんな疑問を以前から持っている。
 おそらく、その根源は子どもがおかれている「環境(場や人間関係を含む)」だ。例えば、根っからの野球少女である私を作ったのは紛れもなく父親と弟だ。
 子どもの興味関心と「環境」との関係について言えば、最近の冬季オリンピックでの選手インタビューでもそのような事を感じた。たまたま雪が降り、氷が張る寒い地域に生まれ、かつ、幼い頃から練習に励める状況を周囲に作ってもらえたからこそ、彼らのチャレンジャー精神や向上心が生まれたのだろう。
 子どもの興味関心が「環境」によって生み出されるのだとしたら、それは本当に彼ら自身のものなのか。少なくとも、父母や周囲のオトナにより「作り出された興味」は、本人起源の「やりたい!」に基づく「真の興味」とは異なる。
 父母やオトナにできる事やすべき事とは、子どもの内側から自然に湧いてくる興味関心を静かに待ち、それを拡げ深める手伝いだけだ。助言や相談に乗る事と、指示や命令は似ているが違う。
 もち論、周囲の無関心は、せっかく芽生え始めた子どもの興味を萎えさせるから注意しなければならない。子どもとの適切な距離を保つ事が、「真の興味」を育てるコツだと思う。

【コメント】
 長ったらしい原稿だったので、贅肉をバッサリと切り落としてみたらこんな風に…
 

「震災」を風化させているのは観客としての私たち by カホリン小出

2014-03-15 06:47:40 | エッセイ
※小出かほりさんの原稿に、久保田が手を加えました。

 あの未曾有の大災害(東日本大震災)から三年が経った。ということを新聞で読み、そこで思い出した自分に嫌気がさした。あの時、あれだけ「頑張ろう」だの「絆」だのと言っていた自分なのに、新聞記事やTVニュースを見聞きしなければ「忘れている」からである。一日も早い復興と発展を目指して必死に生きている方々と自分との意識差に唖然としながらも哀しくなった。
 「震災」が風化しつつあるのは誰のせいだろう。直後には、ほぼ24時間体制で現地の様子を伝えていたマスコミは今、切れが良いタイミングでしかそれを報道してくれない。風化の原因を、このようなマスコミの態度に求めることは可能だ。
 しかし私は、それを見聞して「やっと思い出す」という多くの国民の観客的姿勢(「しょせんは他人事」というニュースウォッチャー的姿勢)こそ、「震災」風化の主原因だと思っている。
 あまりに多種多様で膨大な情報が、あまりに速いスピードで私たちの前を通り過ぎていく。その中で、いつしか私たちは「何が大切で重要なのか」を、自分で判断できなくなっているのかもしれない。だから、「言ってもらわないと・書いてもらわないと忘れてしまう(考えられなくなってしまう)」のだろう。
 情報化社会は一面において、私たちから自分で情報を集め・整理し・考える力を奪い取っている。 それこそ、津波のように押し寄せ氾濫する情報に対して受け身になっている私たちこそ、「震災」を風化させる元凶だということを忘れてはならない。

【コメント】
 原稿は、同じ場所をグルグルと這い回っている感じがしました。こんな風に書き直してしまうと怒られるだろうか?  

先送りされる解決すべき諸問題 by ショコタン伊藤

2014-03-15 06:19:06 | エッセイ
※伊藤祥子さんの原稿に久保田が手を加えました

 ほんの少し前まで、竹島や尖閣諸島の領有をめぐる韓国や中国との険悪な関係が盛んに報道されていたが、ふと気がつくと、「全聾のベートーベン」「STAP細胞」「消えたマレーシア航空機」「東日本大震災から三年」についての議論が喧しくなっている。
 時流を追うのがマスコミの常であり本性なのは理解できるが、その中で私たちは、絶対に見過ごせない・忘れてはいけない本質的な最重要問題が何であるかを見極めなければならない。
 例えば、被災地の復興が進んでいないこと、超巨額な国家的借金のこと、日本国憲法のご都合主義による解釈ともとられかねない集団的自衛権のこと等である。
 時間が流れ時代が変わるにつれ、私たちの前には次から次へと新しい社会問題が生じるのだが、それらの解決をマスコミ的に一律先送りするのではなく、腰を据えた本気の対応をすべきものを精選する必要がある。
 2020年の東京オリンピック開催に浮かれていないで、一つでも多くの問題を解決できるように努力したい。

【コメント】
 原稿では「何が言いたい」かが不明確だったので、こんな風に書き換えてみた。何となく「ゴーストライター」になった気分です(笑) 

子どもたちの行動に対するオトナの責任 by マザ~さや

2014-03-15 05:57:19 | エッセイ
※嶽間澤さんの原稿に久保田が推敲を加えたものです

 学童クラブや小学校でのボランティア活動の中で、実は気になることがある。それは、すぐに暴力をふるう・感情的に相手をとことん痛めつける・親の目が離れるととたんにワガママになる子どもたちの存在だ。どうしてこのような子どもが生まれるのだろう。
 その原因の一つを私は、子どもの話をじっくり聴いてやる時間的・精神的余裕が親にない点に見ている。自分の苛立ちや葛藤をそのまま子どもにぶつけてしまう親も、もしかしたらいるのかもしれない。
 このような親の前では、子どもは「いい子」を演じざるを得ないだろう。親子間での会話が少なくなれば当然、自分の感情を整理して言語化する前に行動してしまうということになる。
 また、子どもたちが荒れる原因は、子どもたちが置かれている社会的経験の貧困状況にもあるようだ。親との会話のきっかけとなる具体的で能動的な日常生活の体験が減少してしまい、変化のない平板な時間の中で、子どもたちは自ら刺激を作り出そうとするのではないか。
 子どもたちの問題行動を少しでも減らすため、親やオトナたちはもっと彼らとの会話に対する関心を持ち、共通の話題作りに努めなければならないと考える。


【コメント】
 原稿で使われていた「文脈形成力」「行動化」という語が消化不良だったため、このように言い換えてみました(久保田)

一緒にやれないもんかな パラリンピック by 久保田

2014-03-08 08:19:37 | エッセイ
 先日閉幕したオリンピックに続いて、ロシアのソチでパラリンピックが始まった。
 接頭語の「パラ」とは、「パラレル(もう一つの・併存する)」という言葉の略であって、確かに、「もう一つ別の(障害者たちによる)オリンピック」である事は間違いないのだが…
 毎度の勝手な主張なのだが、どうしてオリンピックを一度閉じてから改めて開会式をやるんだろう。二つの国際大会をプロデュースする開催国にとっては、むしろ、まとめちゃった方が楽になるんじゃないか。そう思わない?
 もともと多種多様な競技があるオリンピックなんだから、そこに例えば「チェアスキー」なんかも雑ぜてしまい、開催期間を延ばしてもっと盛り上がりを楽しむというわけにはいかんのだろうか。
 もち論、障害の有無によって有利不利が生じる種目があるのは当然だが、もっと頭を使って工夫すれば、そんな事には関係なく誰でもが競い合える競技が生まれる可能性だってあろう。盟友H君に教えてもらったのだが、「立ち高跳び(助走なしでバーを越えるのだ!)」「立ち幅跳び」等は明らかに、障害の有無に関係なく競い合える種目だと思うのだ。
 要するに、オリンピックとパラリンピックを別開催するというのは、やはりどこかに「差別」の臭いがする。オピンピックはオリンピック。一つだけでいいんじゃないだろうか。
 ロンドン五輪が終わりパラリンピックが始まるまでの間、ロンドンの街中にはこんな幟が掲げられていたという。
 「(オリンピックよ)前座を務めてくれてありがとう!」 ちょっと皮肉にも聞こえるけど、なかなか素敵な言葉ではないか。オリンピックはパラリンピックの前座だという発想が何とも素敵だ。
 凄い人たちはここにもいる。そういう視点で、数少ないパラリンピック中継をオリンピック以上に見つめてしまうのだ。



何もしなければ何もしないで終わってしまう春休み by 久保田

2014-03-07 17:53:00 | エッセイ
 春休みが、早くも半分以上過ぎてしまった。
 ソチでの冬季オリンピックがあったりして何となく気忙しかった二月が終わり(別に僕は必死になってTV観戦したわけじゃないけど)、気がつけば三月も十日が目前になっている。
 授業期間中だとドタバタしてなかなか進まない教職教養の自主ゼミを開いたり、オープンキャンパスでの公開ゼミを企画したり、山中湖での集中学習会があったり、3&4年生合同の「卒業研究」集中ゼミを開催したり、僕は何だかんだと忙しい(=充実している)のだが、さて、学生諸君はどんな毎日や時間をお過ごしだろうか。
 アルバイトやボランティアも良いだろうが、一番長い休みである春休みこそ、落ち着いて机に向かえる時間でもある事をお忘れなく。自由な時間が思うように作れる絶好のチャンスなのだから是非、自分にとって価値ある勉強時間としてほしい。
 何もしなければ何もしない(進まない)まま終わるのが長期休みであり、「何もしなかった」という後悔は、思いの外ココロに重く圧し掛かるものだ。今からでも決して遅くはない、やらないで放ってある事に手をつけよう!
 どうせ4月になれば、いつも通りの「したい事ができない」ドタバタ生活が再開する。「やっときゃよかった」の気持ちを少しでも軽くするため、一歩を踏み出してみよう!
 「卒業研究」の構想をめぐって議論をしに来る3年生がいて、「卒業研究」用に早々に実施した調査の集計作業をしに来る4年生がいて、あるいは、調査票作成のための「敲き台」を持ってくる学生がいて、ありがたい事に久保田研究室は繁盛している。
 もっとも、店主がかなり疲れ気味で、週に二回くらいしか出校しないというのが申し訳ないのだが…
 


ブログメンバーズについて by 久保田

2014-03-03 18:20:10 | 一般向け連絡
 現在、この「くぼた組ブログ」に投稿できるのは、①くぼた組(ゼミ)のメンバー ②新2年生久保田クラスのメンバー ③教職自主ゼミのメンバー ④公立幼保勉強会のメンバー ⑤スペシャルゲスト連 に限られています。
 それは、不特定多数に完全開放してしまうと、いわゆる「荒らし」や「炎上」の危険性が増すからで、かつてのBBS(電子掲示板)での個人的失敗をふまえての事です。
 いずれ投稿メンバーを増やしたいとは思っているのですが、当面はこのままでいかせてください。よろしくご理解をいただきたく。
 なお、「どうしてもアタイも書きたいも~ん」という方がいたら、ご遠慮なく久保田までお申し出ください(メイルアドレスはご存知だと思うので・・・)。 


いわゆる「採点競技」ってどうなんだろう by 久保田

2014-03-01 05:01:44 | エッセイ
 ソチ冬季オリンピックでの女子フィギュアスケートの採点や順位をめぐり、何だかちょっと騒がしい事になっている。

 銀メダルになったキム・ヨナちゃん(なれなれしくてごめんよ)の応援団(韓国の人たち)は、ロシア選手の金メダルに対して「そりゃあないだろうよ!」と、もの凄い数の署名を集めて抗議しているのだそうだし、日本でも、「マオちゃんの初戦16位は厳し過ぎたんじゃないの?」という意見が、相変わらずそこら辺から聞こえてくる。あ、元首相M氏による「大事な時にいつも転ぶ」という無思慮発言も、この騒動の一片と言えば一片かもしれない。
 
 いやいや、しょせんは「採点競技」なのだ。
 採点者や審判の主観や偏見や先入観が入り込む余地をゼロにできないシステムを採らざるを得ない以上、TV観戦しかできない(しない)シロウトやにわか評論家・ファンくんだりが、何だかんだと周辺から不要で不毛な攻撃を行なったり文句をつけたりするのは止めないか?
 専門家たちが採点しているんだから、それはそれでいいじゃん。よもや主観・先入観・偏見があったとしても、それをはね返せるだけのモノがあるかどうかが問題なんじゃないの? というのが、僕の基本的な見方だ。

 だってさ、オリンピック選手ってのは、それぞれの国のトップなんだよ。全員みんな「凄い!」人たちなんだよ。だから、みんなを「うわぁ、凄いな~綺麗だな~」と言って観ていればいいだけの話であって、どうしてこの種の競技に一等賞や金メダルを決めなきゃならんのか、門外漢の僕にはわからない。

 「何メートル飛んだ!」とか「何秒で走った!」とかが明確に測定でき、みんなが納得できる競技にだけ順位やメダルを出すというのではいかんのか。聞いた話によれば、ジャンプ競技にも風向きや飛行スタイルや着地姿勢などについての採点が付いてまわるみたいで、「わざわざ競技を難しくしてんじゃないの?」と思ったりもする。
 単純明快に、「たくさん飛んだモン勝ち! 不恰好でも転んじゃっても可! 風向きは運次第だから文句言わない!」みたいにはならないんだろうか?

 この話、実は大学での試験における「客観(例:記号式)テスト」と「主観(例:論述式)テスト」との関係に酷似していて、評価者にはどちらを採るかの選択はできても、どちらが正しいのかという価値判断は非常に難しい。

 「採点競技」については、「私は誰のファンなんだよ~」というだけでいいんじゃないか。これは暴論だろうか?
 ちなみに久保田、濃いめの化粧の鈴木明子ちゃんのファンだったりするのだが…