盟友/堀越君(「点字の基礎」担当)から、某新聞用のエッセイ原稿が届きましたので、ここでも紹介させていただきます。元々は点字原稿なので、句読点などの表記法を若干変えさせてもらっています。ご了承ください。
「堀越喜晴のちょいと指触り」(40) ― 裸の佐村河内氏 ―
この事件について、今さら私ごときが申し上げられることなど何一つないだろう。既にインターネットや週刊誌などを通じ、さまざまな情報や意見が開陳されている。事件の火付け役とも言うべきNHKをはじめ、新聞各紙も相次いで「検証」のための番組や記事を打った。が、それでもなお私の中には名状しがたい、もやもやした感覚がわだかまっているのである。
被爆二世、全聾の作曲家、義手のバイオリニストのために、震災で両親を失った少女のために…。まるで空中から見えない糸を繰り出し、虚構の綾錦を織り上げるようにしていた彼、佐村河内氏は、これらのイメージを巧みに織り交ぜて「美しい物語」を紡いでいった。本職の作曲家を影武者に雇い、専門外の仕事をさせながら。「魂の旋律」「現代のベートーベン」。メディアはこぞってこれに飛びついた。ここにあたかも、「嘘つきの目には見えぬのだ」という魔法がかかったような異様な空気が醸成された。だれもが懸命にこの「魂の楽曲」に耳をこらし、賛美を奮発した。
そこへ突然、こんな声が上がった。「あいつは裸だ!」。すると、今度はみんなして一斉に彼を嘲り笑い始めた。たったさっきまで、あんなに持ち上げていたことなどすっかり忘れてしまったかのように。というのが、私に読めたこの「物語」のあらすじである。
これに対しメディアの「検証報道」からは、こんな声ばかりが聞こえてくる。「なぜ見抜けなかったのか」「『物語』の魅力に抗する手立てはなかっただろうか」。
「おい、そこかよ?!」、私の心の中に虚しく行き場のない、そんな叫びが上がった。本当は、この「物語」をこんなにも抗い難くしているそもそもの原因は何かという事をこそ、メディアは「検証」すべきだったのではなかっただろうか。
私には常々、不思議でならないことがある。どうして障害を持った芸術家のかかわるコンサートや展覧会などには、決まって「魂の」だの「心の」だの「命の」だのといった枕ことばがつかないでは、済まされないのだろうか。およそ芸術家というものは、障害の持ち合わせがあろうがなかろうが、誰しも己の芸術に魂を込め、命をかけて心のうちの何ものかを表現しようとしているはずなのに。もしかすると、「障害を持ちながら一生懸命やっているのだから、技術や技法には多少目をつぶろうじゃないか」ということなのだろうか。だとすれば、これほどに障害者芸術家を愚弄した話もあるまい!
それとも、「彼らは常人にはうかがいしれない異界の美を見ている」という神話のせいなのだろうか。いずれにしても、障害者にまつわるそんな未熟な意識が、これらの枕ことばの下に、人々の目を障害者が生み出す芸術(いや、芸術だけに限らずあらゆる業績)そのものから背けさせ、それらを一律に「美しい(ないしは、けなげな)物語」の中に、封印して批判から守ってあげなければならないという不文律をいつしか作ってしまっていたというようなことはないだろうか。佐村河内氏とは、してみるとその辺りのことを熟知して見事に突いた、とんだトリックスターだったということになりそうだ。
年の瀬、ベートーベンの第九交響曲を聞きながら、「音を失った作曲家の魂の叫び」などと思い巡らす人がいるだろうか。
明けて正月、のどかに流れる「春の海」を、「全盲の作曲家が心の目で捉えた風景」だなどと考えないでは聴けないような人がいるだろうか。
時間という容赦のない炉で精錬され、あらゆるノイズが焼き尽くされた後になお残るキラリと光るもの、それこそがきっと本当の美というものなのだろう。見たくもない佐村河内氏の裸を見せられながら、私はそんなことを考えた。
「堀越喜晴のちょいと指触り」(40) ― 裸の佐村河内氏 ―
この事件について、今さら私ごときが申し上げられることなど何一つないだろう。既にインターネットや週刊誌などを通じ、さまざまな情報や意見が開陳されている。事件の火付け役とも言うべきNHKをはじめ、新聞各紙も相次いで「検証」のための番組や記事を打った。が、それでもなお私の中には名状しがたい、もやもやした感覚がわだかまっているのである。
被爆二世、全聾の作曲家、義手のバイオリニストのために、震災で両親を失った少女のために…。まるで空中から見えない糸を繰り出し、虚構の綾錦を織り上げるようにしていた彼、佐村河内氏は、これらのイメージを巧みに織り交ぜて「美しい物語」を紡いでいった。本職の作曲家を影武者に雇い、専門外の仕事をさせながら。「魂の旋律」「現代のベートーベン」。メディアはこぞってこれに飛びついた。ここにあたかも、「嘘つきの目には見えぬのだ」という魔法がかかったような異様な空気が醸成された。だれもが懸命にこの「魂の楽曲」に耳をこらし、賛美を奮発した。
そこへ突然、こんな声が上がった。「あいつは裸だ!」。すると、今度はみんなして一斉に彼を嘲り笑い始めた。たったさっきまで、あんなに持ち上げていたことなどすっかり忘れてしまったかのように。というのが、私に読めたこの「物語」のあらすじである。
これに対しメディアの「検証報道」からは、こんな声ばかりが聞こえてくる。「なぜ見抜けなかったのか」「『物語』の魅力に抗する手立てはなかっただろうか」。
「おい、そこかよ?!」、私の心の中に虚しく行き場のない、そんな叫びが上がった。本当は、この「物語」をこんなにも抗い難くしているそもそもの原因は何かという事をこそ、メディアは「検証」すべきだったのではなかっただろうか。
私には常々、不思議でならないことがある。どうして障害を持った芸術家のかかわるコンサートや展覧会などには、決まって「魂の」だの「心の」だの「命の」だのといった枕ことばがつかないでは、済まされないのだろうか。およそ芸術家というものは、障害の持ち合わせがあろうがなかろうが、誰しも己の芸術に魂を込め、命をかけて心のうちの何ものかを表現しようとしているはずなのに。もしかすると、「障害を持ちながら一生懸命やっているのだから、技術や技法には多少目をつぶろうじゃないか」ということなのだろうか。だとすれば、これほどに障害者芸術家を愚弄した話もあるまい!
それとも、「彼らは常人にはうかがいしれない異界の美を見ている」という神話のせいなのだろうか。いずれにしても、障害者にまつわるそんな未熟な意識が、これらの枕ことばの下に、人々の目を障害者が生み出す芸術(いや、芸術だけに限らずあらゆる業績)そのものから背けさせ、それらを一律に「美しい(ないしは、けなげな)物語」の中に、封印して批判から守ってあげなければならないという不文律をいつしか作ってしまっていたというようなことはないだろうか。佐村河内氏とは、してみるとその辺りのことを熟知して見事に突いた、とんだトリックスターだったということになりそうだ。
年の瀬、ベートーベンの第九交響曲を聞きながら、「音を失った作曲家の魂の叫び」などと思い巡らす人がいるだろうか。
明けて正月、のどかに流れる「春の海」を、「全盲の作曲家が心の目で捉えた風景」だなどと考えないでは聴けないような人がいるだろうか。
時間という容赦のない炉で精錬され、あらゆるノイズが焼き尽くされた後になお残るキラリと光るもの、それこそがきっと本当の美というものなのだろう。見たくもない佐村河内氏の裸を見せられながら、私はそんなことを考えた。