古里の暮らしの中で

私の住んでいる地域の文化を紹介する

夫婦は他人・・・?

2009-08-26 19:39:06 | 乳がん
以前、夫に尋ねたことがある。
私と子供と同時に溺れたらどちらを先に助ける?
「お前」と言えば、うそに感じられるようだし、「子供」と言えば妻に対して冷たい感じになる。この答えはむずかしい。
夫の答えは、どちらとも言わず、それなのにあっぱれな、でも単純な答えだった。
{答えはこの文章の最後に発表します}

3ヶ月に一度の診察日。
私はこの日は判決を受けるような気持ちだ。
今回はOKと言われても、それは次回の3ヶ月先の検査日まで執行猶予を受けた感じである。
再発すれば完治はないといわれる病気ゆえ、それは仕方がないと思っている。

前回の検査後、3ヶ月先の検査日が決まった時、私はすぐにその日を夫に伝え必ず空けておいてもらい送り迎えを頼む。
二人で共有しているカレンダーにもしっかり赤丸をつけ、記入しておく。
もし再発の兆候を告げられたら、帰りの車の運転に自信がない。

今回も10日前にも再確認したはずだった。
それなのに3日前に、「友達から電話があり昼食会に行くことが決まった。その日昼飯はいらないから」と言う。
エエ~ と私は叫ぶ。
夫はきょとんとして、「あれ、その日なんかあったかいな、こっちの都合に合わせてもらって決まったんだけど」

普段、私のことは無視したように、自由に動き回っているように見える夫。
でも、内心は私のことを心配し特にこの検診日のことは、私と同じ気持ちでいてくれるものと思い込んでいた。

電車もある、バスもある、それでもダメならタクシーだってある。
でも、私が問題にするのは「その気持ち」
困っている夫に私は次の言葉をのど元まで出しておしとどめる。
「あーあ、やっぱり夫婦は他人なんだ」

舅が亡くなった時、姑が言った言葉がある。
子は120日、妻は90日の忌中(キチがあると言っていた)だから、
その日がきたら、海へ行って海水を身体にかけて清めるようにと。

「なんでお母さんの方が早いんですか」間違えておられると思って私はたづねた。
「夫婦は他人だ」間髪を入れないはっきりした返事だった。

今回、私はこれを思い出した。
生まれるのも死ぬのも自分ひとり。誰も付き添ってはくれない。

この話をしたら女性は共感してくれる。
男性の一人は、「いやー覚えていると思っても、書いておかんといけんということですわ」
もう一人の男性は「私も気をつけよう~」でした。

皆さんはどうですか?


最初の話の答え
「自分に近い所にいる方から先に助ける」









行方不明事件

2009-08-25 22:05:11 | Weblog
叔父から電話があった。

子供のいない一人暮らしの姉(私の叔母)がいない。
昨日の昼、家へ行ったが留守だった。
夕べも今朝も電話するけど出ない。出かけるとか聞いているか。

私は、何も聞いていなかったので、叔母の近所の友人に電話してみた。
そうしたら、昨日は数人でいっしょに買い物に出かけたとのこと。
じゃあ、大丈夫。今日は用事で出かけたんじゃないか。
でも、何か出かける用事があるなら昨日言われたはずなのに、何も聞いていない。
変だよ。まあ、もう少ししたらまた電話してみます。

と、言ったものの先日病院の検査結果が悪かったとか言っていたしな。
電話もやはり出ない。
心配になり、15分ほど車を走らせ叔母の家に行ってみた。

そうしたら、家の前にサッシ屋さんの車が停まり、近所の叔母の友人が2人おられた。
鍵のところのガラスを切ってもらい、家の中へ入り、捜されたがいなかった様子。
私が鍵を出したら、サッシ屋さんがそれがあるならガラスを切らなかったのにと、恐縮される。

私は、病院へ行ったかも知れないと思い、病院へ行ってみたがいない。
まあ、倒れていないからどっかに行ったんだろうという事になり
サッシ屋さんにガラスの入れ替えを頼んで家に帰った。

夫に報告すると、ちょっと見えないくらいで他人がそこまでするのか、と言う。

午後、叔母が電話してきた。
義姉が今朝、亡くなったとの連絡を受け出かけていたという。
私も様子は聞いてみたけど、まさかガラスを切ってもらってまで、家に入られると思わなかったものでと言った。

まあ、そこまで心配してもらってありがたいことだ。
有名な女優さんでさえ、亡くなって何日も経ってから発見されたというのに、と叔母が言う。

ガラス代6000円を叔母が支払って一件落着。
サッシ屋さんも恐縮して、ガラス代だけで手間賃は要りませんからと言われたそうだ。

都会では考えられない、濃い近所づきあいのひとこまでした。







向井亜紀さんの講演

2009-08-24 19:53:23 | 乳がん
8月23日の午後、地元の医療・福祉法人の55周年記念の講演会を聴きに行った。
500人くらいの入場者数と聞いたが、私が思っていたより多く、がんに対する関心の高さを感じた。
入り口では手を消毒し、一人ひとりにマスクが配られた。

「がんの医学的知識と予防」で(財)癌研究会有明病院化学療法科・血管腫瘍科部長 畠 清彦氏と
「がんと向き合う」で向井亜紀さんの講演会だった。

はじめに話されたお医者さんは会場を指差し、ここから左の席の方はがんで死にます。
ここの部分の方は心筋梗塞か脳血管障害、ここの部分は、等と言われ、会場は大笑いだった。
コロリと死にたいとたいていの方が言われるが、コロリと死ねる方は少ないと言われた。
がんの予防では、タバコを止めることで発生率を3割落とせる。検診による早期発見でまた3割落とせるそうだ。
ところがそれで試算すると平均寿命がかなり伸び、女性は平均寿命が90代になるので、
それはそれで新たな別の問題が出てくるそうだ。

がん検診は、いろいろ受けるに越したことはないが、特に男性は、大腸がん・胃がん・肺がんの検診を受け、
女性は大腸がん・乳がん・子宮がんの検診を受けると良いと話された。

いろいろのがんの説明があったが、子宮頸がんは不潔にすると起り中東などで発生が多いと言われた。(これが、あとで・・・)

島根県ではがん治療の水準が低いのではないかとの問題については、「島根県」がということはない。
ただ、全国的に7割はいいが、3割の医療機関に抗がん剤の量を控える傾向が見られるので、
標準治療(世界的に認められたガイドラインにそった治療)を受けるには
医者・医療機関の選択も大事だとのことだった。

また、がんの告知についても最近は本人に伝えるとのこと。
本人以外には、本人が希望する人にのみ伝えるそうだ。
この先生の病院はがん専門病院なので、子供の骨肉腫で足を切断などの場合がままあり、
本人にこれを伝えるのはつらいと話された。
子供と親、カウンセラーが同席して時間をかけて説明していくとのことだった。

乳がんにかなりの時間を割いて話しておられるような気がした。
乳がんでも種類があって、今まで女性ホルモンを断つことでの治療がきかず、治療が難しかった乳がんが、
新しい薬が出来たためにこの方がかえって治療効果が良くなったとの話もされた。医療は日進月歩とのこと。

また抗がん剤治療のなかで、3週間に1度を4回するか、1週間に1度を12回するか本人が選択しないといけない場面がある。
最近になって、1週間に1度を12回の方が効果があることがわかってきたと言われ、
そちらを選択していた私は少しだけほっとした部分があった。

ただ、この乳がんの説明は経験者や勉強した人しかわからない言葉がたくさん出ていて、
一般の人はどうだったかなと思った。(たとえばハーセプチンとかハウツーとか)

まとめとして予防はすぐ始めよう!遅すぎることはない。
治療では適切に診断を受け、早く標準治療を受ける。
再発しても転移してもあきらめない。
でもとことん受けて駄目な時は潔くしましょう。

「がんと向き合う」~自分の身体と時間を大切に~では、向井亜紀さんが話された。
身長170センチで53キロとか、ハイヒールをはいておられるので、かなり背が高く見えた。

結婚6年目で、もうすぐ36歳になるときに癌が見つかり、36歳で授かった命を失ったこと。
その時に子宮頸がんになったと思っていたが、お医者さんからこのがんの芽は10年前に出来ていたもので、
発見されたのが今だったにすぎないと言われたこと。
自分の身体を過信し、検診には行っていなかったと言われた。

また、先ほど先生が子宮頸がんは不潔にしていると起ると言われたが、自分は子宮けい癌だった。
祖母も子宮頸がんだったので、祖母の生活を見ていても決して不潔にしていたからだとは思わない。
他人のあんな言葉にいちいち傷ついていてはいけないと言われた。

この点は、私もがんが生活習慣病と言われていることや、善意の言葉さえ傷つくことがあるので、なるほどと思った。

癌とわかってからもおなかの子供のため、はじめは少し切り、だめでまた少し大きく切り、結局ダメで全部切られたこと。
その後、おなかに菌が繁殖し14回の手術を受け、合計17回の手術を受けたと話され驚いた。

自分の身体のうちなる声を聴き、自分をいとおしく思うこと。
「自分の身体の外側だけでなく、内側の自分も興味を持って接していこう」
楽しい想像をすること。
自分のやりたいことを、小さなノートに書いて実現したら好きなカラーペンで色をつけていくといいことなど話された。

自分のことを一番思ってくれる人の笑顔を思い浮かべてみよう。と言われた時、
「そうだ、私も夫の笑顔を見るために生きよう」
と、とてもいいことをその時思ったのに、数時間のうちに折角のいい考えもいつの間にか消えていた。


精霊送り・お盆の仏さんごと

2009-08-16 13:41:46 | 地域の行事

15日夜、精霊送りに行く。
どしゃ降りの雨の中、息子と二人で夜8時過ぎ歩いて会場へ向う。

舞台の上に、お盆にお供えした花やご馳走を入れた袋を納め、舞台下の線香立てにお線香をたてて、手を合わせる。

その後のテントの中では、地元の4ケ寺のお寺さんの読経と、
ご詠歌の方の声と鐘の音が仏さん送りにふさわしい雰囲気をかもし出している。

いつもの年は、懐かしい知り合いに会って声を掛け合うのだが、この雨では
みんな早々に帰っていく。

写真を撮りたかったがこの雨ではどうにもならない。

お供えした馬と牛

きゅうりを馬にみたて麻がらで足を作り、うち側に向ける。
なすびは牛にみたて、外側へ向ける。
仏さんに馬に乗って早く来てもらい、牛に乗ってゆっくり帰ってもらうのだと聞く。

お膳

15日朝のお膳。昨年からは朝昼兼用で、お昼にお供えしている。

13日昼は、迎え団子できな粉の団子または小豆のお汁粉ふう。
   夜は、四つもの(白いご飯にこのお膳のように4品)
14日朝は、ぼた餅
   昼は、四つもの
   夜は、そうめん
15日朝は、赤飯
   昼は、四つもの
   夜は、いなされ団子、いなされ飯、四つもの


送り団子(いなされ団子)

15日の夕方作ってお供えする

現代風仏さん送り

燃える紙の袋に入れ、塔婆供養の時にお寺からいただいた竹ひごではさんだ色紙をつける。
これがないお寺もあるが、昔、麦わらで作った船にこれをつけて海に流したなごり。

裏話

例年、仏間から位牌さんを床の間に出し、祭壇にお祭りするのだが昨年から
仏壇で済ませている。
御前灯篭も省略して出さなかった。
もっと来年は元気にならなければと思う。
私が出さないといけない決まりはないはずだが。

夫に馬と牛を頼んだら、足を割り箸で作ろうとするのでびっくり。
麻がらで作ってもらったら、へたり込みそうな足。
でも、これから少しづつ褒めて育てなければ・・・と黙っていた。

以前は夜11時ごろ、家の後の海へ流していた。
海を綺麗にとの声が出て、社会福祉協議会による今の形になった。
安来の街の会場では、ごみを捨てるように収集車に入れられるのだが、
この会場では、仏さんを送るという雰囲気が残っている。
今年は雨でなかったが、例年は歩き道に竹で作った万灯籠もある。
また車でも来られるため、他の地区から来られる方も多いと聞く。
安来の街の方と話したが、それにはお世話役がないと出来ない。

当日は、1時から3時半頃までテント張りや机や椅子を並べる。
お寺さんやご詠歌の方も大変だ。
交通整理の方、送る袋を受け取って舞台に並べる方。
段ボールの箱に入れるのは、禁止されているのにわからず持ってきた人には
袋に詰め替えてもらう。
それでも、中に缶を入れていた人もあったそうで昨日は特に雨の中、大変だったようだ。
皆が帰った後、お世話役は市の職員さんと共に、舞台からごみ収集車に入れ込む。
この作業が後であるからこそ、あのおごそかな雰囲気が保たれている。

16日朝は、テントの片付けに行く。幸い晴れてテントも乾いたそうだ。

各家では16日朝は、替花をする。
墓の花をみんな取り替える。仏壇にも新しい花を供える。
夕方、墓の灯篭にろうそくを灯しに行ってお盆行事はすべて終わり。

昔は、長期の泊り客さんやら仏さん拝みの方で、私はお盆の間中、
台所にいる感じだった。それに比べると今は楽になり、昔が懐かしい気もする。

来年は、古里の暮らしの記録としてもっときちんとした形で残せればいいなと思う。








ちょっとがっかり

2009-08-14 10:40:00 | 乳がん
中学時代の同級生で、地元にいる女性だけの7~8人集まりがある。
同窓会の際は、世話役になる。
1年に1,2回、私の家やFさんの家でおしゃべりをする。

久しぶりに集まりたいね との声が出ていた時期に、私が病気になった。
私はFさんに詳しく話をし、病名を公表するのはみんなに検診に行って欲しいためだから、
見舞いはいらないし、来ないでとお願いした。

1年後の先日、久しぶりにFさんの家に6名が集まった。
みんな、私が元気になったことを喜んでくれた。

ところが誰一人、検診に行っていなかったし、これから行く気もない。
特に、そのメンバーには看護師さんが2人いて、どちらも婦長の経験者である。
マンモグラフィーって痛いんでしょ。とか何とか言っている。

自分は兄弟がみんな癌でなくなっているから、どうせ自分も癌で死ぬから検診は受けないと言う人。
怖いから受けないと言う人。
今、癌と言われても経済的にどうしようもないからという人。

わたしの「早期発見のために検診を受けて」の思いはこの仲間には全く通じていなかった。

島根県で乳がん検診の受診者が増えたとの報道があった際、このうち10人位は私の勧めだよ などと話していた。
実際、地元の町内の知り合いは「車を運転できない人を誘ってあげて一緒に検診に行ったよ」と声をかけてくれる人もいて、
私の願いが通じた面はあった。

大切な友人たちよ。私はちょっとがっかりだよ。

地震と洪水

2009-08-11 10:18:15 | Weblog
昨夜、娘に電話した。
その前夜、関東地方で震度4、とか3とかと放送しているのに
娘の住んでいる市は画面に出なかった。

鳥取県西部地震の際、私の住んでいる市は機械の故障のため
震度が放送されなかったことを思い出し、電話してみた。

震度は4だったそうだ。
丁度、自宅で夕食中で娘たちはいつもより大きいと感じ、
食卓の下にもぐったという。
娘婿は震度3だと言って、そのまま椅子に座っていたとか。

地震は、すぐに収まりたいしたことはなかったけど
今日の方がたいへんだったのよ という。

午後、駅前通りが雨のため洪水状態になった。
車輪の半分位が水に浸かっているのに、自分は子供を塾へ迎えに行かなければ、
この雨できっと不安がっていると思うと、必死で
危険なこととは考えずに運転していたと言う。

大雨は2時間ほどで止んだので、今は何事もなかったようになっている。
丁度、塾への迎えの時間と大雨が重なったらしい。

いつ、どんなところで出会うかもしれない災害。
遠く離れた親は、これからは気をつけて と
いい歳になった娘に言うしかない。

夏の行事

2009-08-10 21:45:59 | Weblog
今年の夏は天候不順で、夏の行事・祭りの主催者はいろいろ大変だったようだ。

私が、「もし雷でも落ちて事故があったら誰の責任になるの」と聞くと
「いくら当職(あてしょく)でお飾りでも実行委員長の名前がある限り、最終的にはわしの責任だ」と夫は言う。
家族まで巻き込まれて、数ヶ月前から自分の力ではどうにもならない天気の心配をした。
雨で人出が少なく、出店や抽選券の売り上げも落ちた様子。
踊りも中止にしたら、決定した後は雨が止んで、やれば良かったのにという声も出たらしいが、
あの状態では校庭が荒れてしまうのでだめだったのだそうだ。

安来節の若者のグループが出演予定になっていたのに
雨で三味線の革がだめになるとかで急にキャンセルされたのだそうだ。
その舞台に一部、出演予定だった地元の安来節教室の方に
急遽、1時間すべての出演をお願いし、間をとってもらったらしい。

安来節教室の方も、急いで歌のテープを準備したり、プログラムを組み立てたりおおわらわだったそうだ。
それでも、「全員が唄うことができない予定だったのに、みんなが唄うことができてよかった」との声を聞き、私がそのことを夫に告げると、迷惑をかけたのにそういってもらえれば救われる思いがする。と、言っていた。

花火は中止だろうと思っていたら、山の向こうに花火が見えた。
少々の雨なら花火師さんはあげられるのだそうだ。
むしろ、風が問題だと言われたそうで、なるほどと思った。

いろいろの団体が協力して、今年の祭りも無事終わった。

夜遅く、帰ってきた夫はひとこと。......「雨には勝てない」




自転車視察旅行記・復刻版発行

2009-08-04 11:26:41 | 
      
昭和30年ごろの田植え風景
(荒島今昔写真集より)

今から53年前の昭和31年8月、地元の農業青年7名が山陽地方農業先進地視察として、山陽の農業青年たちと交流しながら、自転車で474キロを8日間、旅行した記録誌が出てきた。

今回、この謄写版刷りの記録誌をパソコンで新しく作りなおして欲しいと頼まれ、復刻版として作り直し、発行することになった。

復刻版は以前に出来上がっていたが、当時の参加者に、これを読んでの感想を入れてもらったらなどと欲が出て、とうとう今日に至った。A4版で31ページになった。
また当時、新聞社の取材を受け新聞に載ったとのことで、参加者の方が新聞社に問い合わせをされたりして、当時の新聞記事も取り入れた。

まだ、一家に一台の自転車があるかないかの時代、自転車には「自転車・荷車税」がかかっていた。しかも砂利道を夏のさなか、坂道やパンクに悩まされながらの旅行である。
自転車の都合がつかず、汽車で岡山まで行き、3日間だけ合流された方もある。
当時、20歳から24歳の若者も今は70歳代。亡くなられた方もある。

児島湾の干拓を見て、中海干拓に思いをはせる部分もある。
また、無事に着いたという連絡は電報で行われている。
当時の農業青年たちの熱い思いが伝わってくる。

当時の参加者の方に見ていただいたら、自分の遺品が出来た と喜んでおられた。
また、交流センターでもこれを元に講演会をしようという話も出てきた。
図書館におけば、貴重な郷土資料になるのだそうだ。

このコースを今度は車でまわってみたら1日で回れるのではないか。これらの地区の農業は今、どうなっているだろうと話したりしている。

パソコンでの入力のことについては、

2段組にしたためか、セクション区切りを使っても私の技術では、下段に入れる会計報告の部分がワードの表の挿入ではうまく入らなかった。
このため、エクセルの表を挿入したら、今度は罫線が見た目では良いのに印刷すると太い線が出てきて困った。
いろいろやってみたが、最終的には罫線なしにしワードの図形描画の直線をエクセルの枠線上に引き、解決した。

また、地図は白地図をインターネットから持ってきて挿入し、オートシェイプのフリーハンドを使って、行程を地図上に書き入れた。

両面印刷にしたので、最初は余白をページごとに変えたりしていたが、追加ページがあったりして面倒なので左右の余白を同じにしてしまった。

インクジェットの印刷では、思いのほかインクがたくさんいった。
白黒ページなら交流センターで安く印刷できることが途中でわかったが、途中で変えるわけにもいかず高くついた。

インク、用紙、製本テープ代で約15,000円。50冊で一冊が300円かかったことになる。

技術料?はボランティア。いい勉強をさせてもらった。