flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

今帰仁城

2008-05-11 03:00:40 | 城郭・城下町
(なきじんぐすく 北山城 山北今帰仁城 沖縄県国頭郡今帰仁村今泊 世界文化遺産 国指定史跡 日本100名城98番)
 本部から「氷ぜんざい」を持ったまま今帰仁に向かう。
思いのほか起伏の激しい本部半島を進むと、標高100mにある今帰仁城跡に辿り着く。やはりこの地も、世界遺産登録後に観光地化されたところのようであった。早速、この地で先程の氷ぜんざいを食した。

 調査及び整備が行われている外郭から、復元された平郎門(正門)をくぐり大庭(うーみや)へ向かう。
(外郭)(大隅:兵馬訓練場所石垣)
(平郎門狭間)
  
 大庭の北東上段には、女官住居跡「御内原:うーちばる」があり、その南には主郭があって、廃城後に建てられた火の神(ひぬかん)の祠がある。
 (御内原から大隅、東シナ海を望む)(主郭跡に建つ、火の神)
 火の神の前には、寛延二年(1749)今帰仁按司十世宣謨によって「山北今帰仁城監守来歴碑記」が建立されている。

 今帰仁城は、志慶真川に面した要害の地に築かれた城であり、昭和57年から61年にかけて行われた主郭部発掘調査によって、13世紀末には簡素な城が存在していたことが分かっている。その後石材を用い、城郭拡大が行われたようだが、中国の史書『明実録』に、この地方の統治者として伯尼芝(はにし)、(みん)、攀安知(はんあんち)の北山国王(山北王)の名が見える。そして、明朝永楽年間に中山国王の第一尚氏である尚巴志(しょうはし)によって滅ぼされ、城は琉球王国の北山監守として利用された。そして、第二尚氏支配を経て、万暦(明朝)三十七年(1609)薩摩藩によって攻撃を受け、琉球は薩摩藩の付庸国となり、寛文五年(1665)まで監守所(見張り)として使われ、廃城となった。
(城跡にある茶屋で、サトウキビ(うーじ)を煮詰めてつくる飲み物「さーたーゆー」の調理風景)

 二日目の日没が近づいた。中城からご一緒いただいた、私の生涯学習での仲間、現地初めてお会いする方から、いろいろご案内いただき、沖縄のことを知るにあたりその厚みを格段に増すことができた。また、本土の者が憧れるこの地方の風土と食物、人間の闇の部分は何処でもあるものだが、様々な人と接して分かったことは、それを浄化する作用が、他所よりも多くあるのだろうとも感じ取れた。
 本土は広く大勢の者がおり、それ故に区切ったり、区別したりという習慣が生まれた。
知人の方曰く、「島の人は、全部繋がっているんですよ」…つまり、「境目」という概念で物事を考えない、考えないようにしているのだろう。私はこの言葉がいつまでも残った。また、知人の方に時間を割いて接していただいたことを、改めて感謝したい。

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