(別所街道 旧南設楽郡鳳来町)
古来は川添道と呼ばれ、豊川、宇連川沿いを通り、北設別所村方面へ向かう道の一つである。これに対し、更に内陸部を通る道を山手道といった。
住みやすく食料も豊富だったのであろう、川に面した斜面には、縄文時代の遺跡も点在している。
戦国時代には長篠の戦いにより五つの砦が築かれ、要害の地となった。
「乗本」は、近隣の地名「大海」「舟着山」に関連し、海上の船着場という意味合いの伝説を残している。然し一般的には、寒狭川と宇連川の合流点のこの地から下流は、岩場が減り水量も増えることから水運を始められる場所、“のりもと”の意味からきているようである。
近世以降、街道と川湊で栄えたといわれている。
(関連記事:鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 舟津 乗本万灯)
古来は川添道と呼ばれ、豊川、宇連川沿いを通り、北設別所村方面へ向かう道の一つである。これに対し、更に内陸部を通る道を山手道といった。
住みやすく食料も豊富だったのであろう、川に面した斜面には、縄文時代の遺跡も点在している。
戦国時代には長篠の戦いにより五つの砦が築かれ、要害の地となった。
「乗本」は、近隣の地名「大海」「舟着山」に関連し、海上の船着場という意味合いの伝説を残している。然し一般的には、寒狭川と宇連川の合流点のこの地から下流は、岩場が減り水量も増えることから水運を始められる場所、“のりもと”の意味からきているようである。
近世以降、街道と川湊で栄えたといわれている。
(関連記事:鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 舟津 乗本万灯)
先祖が幕末に乗本菅沼氏と深く関わっていて、安政年間に焼失した江戸の武家屋敷などの用材を商っていたことがありますので、乗本に関して先祖の古文書をもとに調べています。
時間ができたら出かけてみます。
“街道”を意識している人は少ないかもしれません。
そうですか…菅沼氏との関わりがあるのですか…それは設楽郡にゆかりが深いですね。
うちにも乗本の「・・組」と書かれた江戸時代の図面があったように思いますので、探してみます。
我の先祖は北設楽と南設楽です。子孫が現在の屋敷に建て替えした天保期に、多くの古文書等を処分してしまい、助郷の図面が少々あるくらいです。昭和期にも焼却したことがあるらしく、残念です。
安政から慶応年間にかけて頻繁に商用や訴訟のため江戸や中泉代官所に出向いているので、道中記が残っています。そこには乗本小川の菅沼氏との交流も記載されています。将来的にはまとめて出版したいと思います。
父がどこかにしまっているようなので、なかなか見つかりませんが、私も見覚えあります。
くらじろうさんのご先祖は設楽地域では有力者の家柄だったんですね。
乗本小川といえば、鳳来では特に栄えたところですね。
鳳来地区は郷土史があまり発行されていないので、期待します!
菅沼姓に関してあれこれ検索していて、こちらに辿りつきました。
私の先祖は菅沼姓で、江戸後期に乗本に住んでいたのですが、
当時の乗本において菅沼という姓は多かったのでしょうか。
もし何かご存知でしたら、ご教授頂きたく書き込んだ次第です。
どうぞ宜しくお願い致します。
私も正直申しまして、乗本での菅沼氏の事柄は詳しくはわかりません。
この地区には、いろいろなご縁でお邪魔させていただき始めた状態です。
ご承知の範囲かもしれませんが、長篠菅沼氏の支流が、天正元年から乗本に移り、菅沼三郎左衛門定重氏が乗本菅沼氏の初代となったようです。
その後は帰農して名主などを務められ、数軒の分家もあるようですね。
江戸後期頃は名主が村内に二名ずついたようで、菅沼家のどこかが務めていたようでもあります。
現状で私が分かる範囲はこの程度です。
参考にならないかもしれませんが、気長にお待ちいただければ、もう少しわかってくるかもしれません。
1800年頃の乗本での菅沼姓は、この菅沼三郎左衛門定重からの流れと思っても差し支えないのでしょうか・・・。
自分でも色々と調べてみます。
また度々お話を拝見しに参ります。
私も勉強不足ですので、何かお分かりになったら是非お教えくださいませ。
以前、三郎左衛門定昌(定重)の父親にあたる弾正左衛門貞俊(琉山)の関係を調べていた際、旧鳳来町富保(吉村)を訪ねたことがありました。現在も立派な五輪塔がまつられています。
定重の代になって乗本移住し、代々乗本で回漕業を営み、為屋(山為)を名乗っていますね。これが乗本菅沼本家で、八左衛門家です。幕末は12代菅沼八左衛門定春、13代定雄(遠山氏からの養子?)、14代耕一郎定道・・・さらに昭和期の16代恵一郎氏と続いています。現地で聞き取りしたわけではないので不明な点はありますが、定道の父親が分家の耕兵衛定敬のように思われますので、本家に後継がない場合は分家から養子が入っていたように思われます。
分家、耕兵衛家は酒造業を営む庄屋だったようであり、定敬は寺子屋として地域の教育にも貢献し、明治維新後は八名郡副郡長となり、養蚕業にも力を尽くしたようです。
幕末は、私の先祖と特に耕兵衛定敬との交流があり、慶応年間に平田国学の関係(羽田野敬雄)においてもつながりが深かったようです。
まだ余り調べたていたわけではないので、この程度の知識ですいません。
手元にある、菅沼家文書の家系図からの知識しかないのですが、
定敬の父である定年は、知多郡出身の養子だそうですね。
その出身地と以前の姓から推測するに、私の主人の家系と繋がりがありそうで、これも何かの縁なのかなと思ったりもしました。
説明が遅れましたが、先述の乗本在住の菅沼姓というのは私の高曾祖父なのですが、
年代から考えると定年と同時代に生きた人かと思われます。
どんな繋がりがあったのか、現段階ではわかりませんが
時間を見つけて現地まで足を運んでみようと思っています。
また何かわかりましたら、お邪魔いたします。