国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

朝の月と民族紛争と明治維新

2016-01-25 22:42:56 | Weblog
項目A 公務員組織の不合理 → 解体、小さな政府
    A-1 高齢者が元気に活躍する社会システム
項目C 国境をなくすために → 歴史
項目D 国境をなくすために → 国際間の問題
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

今朝は、巨大な月がまん丸く、見えました。 18日に降った雪が道の端や屋根にまだ残っている朝6時45分ごろ、あわてて撮った写真です。 東京は氷点下2度の快晴とか、東京へ通勤のために駅まで車で送った帰り道の運転で、遠くの山の雪が薄いオレンジ色に染まり、近くの枯れた木々も赤く霞み、もっともっと遠い地方都市は美しい風景がいっぱいの季節です。

とは言え、今は強い寒気が来ていて、長崎や奄美大島まで雪で大わらわです。 雪かきは都市の場合、踏みつけずに新雪のうちにサーっとかきよせて、労力を使わずに危険をなくしておくに限ります。 腰を痛めるので作業は30分くらいで休まなければなりません。 40歳のころ、東京から3年間の金沢へ転勤生活をしたことで、私は住む土地が変わった時の大きな学習を体験しました。 ちょうど’56豪雪’(昭和56年)のころでした。

このブログは「戦争をしないために国境をなくす」というテーマです。 ISのテロ行為により中東のほうで戦いが続いているニュースが繰り返し報道されています。 ヨーロッパの難民問題も日本ではわかりにくく、アラビア、月の砂漠、イスラム教、石油など、とびとびの知識と今では天を衝く高層建築群とターバンと髭の人々を思い浮かべる程度です。 日本が、芸者、刀とサムライ、電化製品と想定されているのと同じです。 最近になって、日本の文化を評価するテレビ番組が盛んですが。

約150年前の明治時代の日本の人口は3000万人と言われます。 明治維新により江戸時代のサムライが100万人くらい行方知れずだそうです(戊辰戦争もありましたが、海外へ行った人も多いはずと私は思っています)。 NHK朝ドラ『あさが来た』で庶民側の日常生活変化を知らせていますが、薩長政府の明治維新政府は江戸時代のことを都合よく取捨選択した教科書知識にまとめてしまい、今では学校で教えられたことが本物の歴史だと大方の人が信じ込んでいます。 最近は薩長明治政府のいけなかったところを平気で述べるようになりました。 ほとんど闇に葬られていた幕末の歴史が研究されるようになり、興味深いところです。

明治政府の廃藩置県は、ものすごい勢いで社会の仕組みを実質的に変えたことに驚きます。 276の藩は、江戸時代徳川政権の下で、各殿様を中心に他藩への交通も不自由なままそれぞれの自治で賢いエコ生活ができていたと思われます。 例えば、大奥の女性の衣類や持ち物が出入り業者に払い下げられ全国へ流行を発信したなど、無駄のないうまいやり方を様々に考えていたのでしょう。 そして、見事な工芸品を創り出していたのでしょう。 明治政府は下級武士が主体なので、文化面はめちゃめちゃに踏みにじられました。 しかし、人々の生活のなかでは、細々と伝えられた知識や習慣や礼儀が生きていて、それらを見直す風潮になっているのが現在です。

一方で明治政府の廃藩置県は、日本をやみくもに一つにしたので日本列島の中で戦争をしようと思う人はいないのです。 よく見ると本当は、東京、大阪、名古屋、それぞれの気風が違うことがわかってきます。 価値観も違うのです。 しかし、それぞれがグループとなって争いをしようとは誰も思いません。 それくらい、もはや人々はぐちゃぐちゃにまざってしまっているからです。 

中東もヨーロッパも、民族国家の考え方を持ち出すと、戦争好きの一部の人に利用されてしまうのでしょう。 宗教や民族のそれぞれのリーダー(日本でのかつての藩主=殿様が廃藩置県で動けなかった)を中心に動かないように、地球を日本列島にみたてて、世界の国々(藩)がたちあがってくだされば、戦争をなくしながら、人々の文化を保持して、気持ちよく生活できる、できるにちがいないと思うのです。

『暗夜行路』志賀直哉著 志賀直哉全集第5巻 1973、岩波書店

2016-01-13 23:33:32 | Weblog
項目C 国境をなくすために → 歴史
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

中高時代に手にとっても読めなかった暗夜行路の著者志賀直哉は昭和46年に亡くなった人なので、耳になじんでいた作家名としてとてもえらい人だと思っていたのですが、ちょっとちがっていて、非常にやさしいというか繊細な心(多分ひそやかに女性の手で可愛がって育てられた人だから)という特別な心情の人が生涯にわたってそれを文学にした人らしいと感じました。 たしかに、社会には主人公のような感じ方をする人は案外多いかもと思います。

女性を仲間に入れた数人の男性友達の日常生活を述べながら、旅行(小説に出てくる旅行先は、尾道、小豆島から金比羅山辺へ、京都、朝鮮、大山などです)を多くして風景描写、時代背景を最後まで読ませながら、結論は全く予想できないまま、主人公謙作の生きざまを丁寧に深くほりさげる小説でした。

読んでいる途中で、百科事典で志賀直哉の項を見ますと、宮城県石巻生まれ(明治16年~昭和46年)、東京山の手で育つ、父は慶応義塾出身の実業家、祖父は相馬藩の家臣だった。 学習院、東大などを落第したり中退したりで、短編小説が多く、それらをまとめた唯一の長編が(昭和12年ころ書き上げた)暗夜行路とのことでした。 妻は武者小路実篤のいとこ、長男の兄が夭折のため次男の直哉は祖母の手で育てられた。 

私流メモ:
p150 冬にしては珍しく長閑(のどか)な日だった。 謙作の乗った船は何時か岸壁を離れて居た。・・・船が進むにつれ、陸の方は段々ぼんやりと霞んで行った。 そして一寸傍見(わきみ)をしても今出て来た岸壁を彼は見失った。 艦尾にミノタワと書いた英国の軍艦が烟突から僅かばかりの烟をたてながら海底に根を張っているかのようにどっしりと海面に置かれてあった。(20歳くらいで明治36年ころでしょうか?)

p240 自分が不義の子であったといふ事についても肯定的な明るい考を彼は持ったが、時がたつにつれ、心の緊張が去るにつれ、彼は時々参る事が多くなった。 彼は妙に落ちつけなくなった。

p492 彼は前にも尾道で一寸これに近い気持ちになったことがある。 それは自分が祖父と母との不純な関係に生まれた児だといふ事を知ったときであるが、その時はそれを弾ね返すだけの力が何処かに感ぜられた。 そして実際弾ね返すことができたのだが、今度の事では何故かそういふ力は身内の何所にも感ずることができなかった。 こんな事では仕方がない、かう思って、踏ん張ってみても、泥沼に落ち込んだやうに足掻きがとれず、気持ちは下へ沈むばかりだった。 独身の時あって、二人になって何時かさういふ力を失って了った事を思ふと淋しかった。

p499 妻の過失がその儘肉情の刺激になるといふ事は此上ない恥づべきことだ、彼はさう思ひながら、二人の間に間隙がどうにも気になるところから、そんな事ででも尚、直子に対する元通りになる愛情を呼び起こしたかったのである。 病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を精しく描写させようとさへした。

p540 永年、人と人との関係に疲れ切って了った謙作には此所の生活はよかった。 彼はよく阿弥陀堂といふ三四町登った森の中にある堂へ行った。 特別保護建造物だが、縁など朽ち腐れ、甚く荒れはててゐた。 然しそれが却って彼には親しい感じをさせた。 縁へ登る石段に腰かけていると、よく前を大きなヤンマが十間程の所を往ったり来たりした。 両方に強く翅を張って地上三尺ばかりの高さを真直ぐに飛ぶ。 そして或る所で向きを変へると又真直ぐに帰って来る。 翡翠の大きな眼、黒と黄の段だら染め、細くひきしまった腰から尾への強い線、――みんな美しい。 殊にその如何にもしっかりした動作が謙作にはよく思はれた。 彼は人間の小人、――例へば水谷のやうな人間の動作とこれを較べ、どれだけか此小さなヤンマの方が上等か知れない気がした。 二三年前京都の博物館で見た鷹と金鶏鳥に心を惹かれたのも要するに同じ気持ちだったらうと、それを憶ひ出した。
彼は石の上で二匹の蜥蜴が後足で立上ったり、跳ねたり、からまり合ったり、軽快な動作で遊び戯れているのを見、自らも快活な気分になった。 彼は又此所にきて鶺鴒が駆けて歩く小鳥で、決して跳んで歩かないのに気が付いた。 さう云へば烏は歩いたり、跳んだりすると思った。
よく見ているといろいろなものが総べて面白かった。 彼は阿弥陀堂の森で葉の真中に黒い小豆粒のやうな実を一つづつ載せてゐる小さな灌木を見た。 掌に大切さうにそれを一つ載せてゐる様子が、彼には如何にも信心深く思はれた。
人と人との下らぬ交渉で日々を浪費してきたやうな自身の過去を顧み、彼は更に広い世界が展けたやうに感じた。
彼は青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。 彼は三四年前自身の仕事に対する執着から海上を、海中を、空中を征服して行く人間の意志を賛美していたが、不知(いつか)、全(まる)で反対な気持ちになっていた。 人間が鳥のやうに飛び、魚のやうに水中を行くといふ事は果たして自然の意志であらうか。 かういふ無制限な人間の欲望がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなからうか。 人智におもひあがっている人間は何時かその為め酷い罰を被る事があるのではなからうかと思った。

巻末の説明より;

父との永い不和の体験が、祖父との子という想像にとりつかれて暗夜行路というフィクション(母が亡くなる6歳の時まで、母だけが自分を可愛がって他の兄妹たちとは別扱い。2か月後に祖父の家にひきとられて祖父の妾が育てるようになった。)を創造したと、同時代の人が書いていました。

私は体験だと思って読んでいましたので、なぞのままなのかなーという小説でした。

兄信行に相当する実在者はいないとのことですが、確かに読んでいるときにカラマーゾフの兄弟の兄に似た動きをする人だなーと思いました。

武者小路実篤は、自伝のような顔をした作品と述べました。

かぶら寿司出来上がり

2016-01-03 23:13:50 | Weblog
項目E 私のガーデニング(6,7年前に始めた初心者です)
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

レシピにそって、一日目はかぶら(1cm厚さに切って真ん中に切れ目のポケットをつくる)を塩づけ、鰤のさくに塩をまぶしてサランラップでねかせる。 二日目は鰤の塩を洗い水気を拭きとって5mmの薄切りにしてラッキョウ酢と5倍に薄めた酢のなかに漬けおく。 米麹をばらして3合のごはん(餅米2合、うるち米1合)を人肌にさまして麹とまぜるところまでは順調でした。 ごはんの発酵(40℃、8時間以上)
装置がないので、風呂、あんか、蒸し器、太陽、など三つに分けてメチャメチャになってしまいました。 ごはんがとろっとはならず、丸一日もたつきましたが、いよいよビニールを敷いた漬物樽に、発酵ごはん、ポケットに鰤を挟んだかぶ、交互に隙間なく積み上げて最後に多めの発酵ごはんをしきつめ、ビニールのなかに空気がないように締めつけてきっちり縛り、漬物樽のふたをして5日後を待ちました。

・・・で、写真(12月30日)のごとく、取り出したのですが、香りも悪くなく、かびたりしなかったけれど下に水がたまり小さな穴から捨ててしまいましたが、煮物などに使えばよかったのでしょうか。 かぶら寿司の味は上出来! お正月に食べてもらうと皆が美味しいと言ってくれたのです。 まずは成功のようです。 昔味わった香りや味が出来ていると思います。 かぶがあれば、また挑戦したいと思います。 発酵をしっかりして、やってみたいと思います。