項目A 公務員組織の不合理 → 解体、小さな政府
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
(ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)
久しぶりに草津温泉の賽の河原を歩いてみましました。 傾斜地に広がった温泉の湧き口が湯煙をアチコチであげて温かい小さな池をつくっていて、そこに手を入れてみたり、温泉に逗留した今は亡き歌人の句碑を読んだりして家族連れや若者や外国人が楽しく散策していました。 一番熱い湯溜まりは96℃とか、手を入れてみるとやはり熱い、秋も深まったのにあまり冷めていない。
写真にあるベルツ博士の胸像を山陰にみつけたのは16年前だったけれど、相変わらず鎮座ましまして、しかも笑っているように見えました。 あの時以来、私は『ベルツの日記』上・下巻 岩波文庫 を読んで、ベルツ博士の生活ぶりと日本への愛情をもった思いと主張に共感して、猛烈サラリーマン家庭の核家族専業主婦として日常的に役所の窓口で見聞き体験する行政や政治のあり方の理不尽に気付きだしたのでした。
ベルツ博士が明治9年に東京医学校(のちの東大医学部)のお雇い外国人教師として‘2年くらいなら給料がよいから’と、母の賛同を得てはるばるドイツから日本にやってきたときは27歳の青年医師でした。 日本が江戸時代の鎖国から西洋列強に門戸を開き中央集権国家に変貌してゆく様を体験できるのだとハリキリ、興味をもって、医学を通じて、契約を更新することになり広く日本社会に分け入ったのです。 草津温泉が源頼朝の昔から病気療養に効く歴史ある強酸性温泉と知り、温泉療法をヨーロッパに紹介したり、日本人の‘はな’と結婚して二人の子供を持ち、天皇家の信頼を得て29年間(下賜休暇で明治17年、25年、33年の3回帰国していずれも翌年にかけて1年近くドイツに滞在)も、教授として25年、その後は宮内省御用掛・侍医局顧問となり日本で暮らしました。 日本語を話したり書いたり広く様々な提案や研究や業績をもって東京大学医学部(内科)の発展に左隣のスクリバ博士(外科)と共に尽くしたのです。 草津温泉に数回逗留し明治日本に貢献したお二人を草津の町は親しみをもって称え守っているのです。 お二人の同じ姿のオリジナルは本郷にある東京大学附属病院を見守っていられます。