国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

草津温泉とベルツ博士

2010-10-29 14:58:59 | Weblog

項目A 公務員組織の不合理 → 解体、小さな政府
     (冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

久しぶりに草津温泉の賽の河原を歩いてみましました。 傾斜地に広がった温泉の湧き口が湯煙をアチコチであげて温かい小さな池をつくっていて、そこに手を入れてみたり、温泉に逗留した今は亡き歌人の句碑を読んだりして家族連れや若者や外国人が楽しく散策していました。 一番熱い湯溜まりは96℃とか、手を入れてみるとやはり熱い、秋も深まったのにあまり冷めていない。

写真にあるベルツ博士の胸像を山陰にみつけたのは16年前だったけれど、相変わらず鎮座ましまして、しかも笑っているように見えました。 あの時以来、私は『ベルツの日記』上・下巻 岩波文庫 を読んで、ベルツ博士の生活ぶりと日本への愛情をもった思いと主張に共感して、猛烈サラリーマン家庭の核家族専業主婦として日常的に役所の窓口で見聞き体験する行政や政治のあり方の理不尽に気付きだしたのでした。

ベルツ博士が明治9年に東京医学校(のちの東大医学部)のお雇い外国人教師として‘2年くらいなら給料がよいから’と、母の賛同を得てはるばるドイツから日本にやってきたときは27歳の青年医師でした。 日本が江戸時代の鎖国から西洋列強に門戸を開き中央集権国家に変貌してゆく様を体験できるのだとハリキリ、興味をもって、医学を通じて、契約を更新することになり広く日本社会に分け入ったのです。 草津温泉が源頼朝の昔から病気療養に効く歴史ある強酸性温泉と知り、温泉療法をヨーロッパに紹介したり、日本人の‘はな’と結婚して二人の子供を持ち、天皇家の信頼を得て29年間(下賜休暇で明治17年、25年、33年の3回帰国していずれも翌年にかけて1年近くドイツに滞在)も、教授として25年、その後は宮内省御用掛・侍医局顧問となり日本で暮らしました。 日本語を話したり書いたり広く様々な提案や研究や業績をもって東京大学医学部(内科)の発展に左隣のスクリバ博士(外科)と共に尽くしたのです。 草津温泉に数回逗留し明治日本に貢献したお二人を草津の町は親しみをもって称え守っているのです。 お二人の同じ姿のオリジナルは本郷にある東京大学附属病院を見守っていられます。
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生物多様性と北海道旅行

2010-10-21 16:05:52 | Weblog
項目E 私のガーデニング(6,7年前に始めた初心者です)
     (冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

写真は今年の折り紙サークルでお習いした作品をまとめたものです。 花あり、動物ありで両面テープで固定して保管にも便利で題名が最近のキーワードの‘生物多様性’!

北海道は北の寒いところと思っていましたが海のもの山のもの自然風景も四季に応じて多様に豊富なところでした。 以下はA4で5ページの1週間の旅記録です。

9月半ばに北海道に用事ができて、一週間の旅行をしました。 高速道路料金が1000円の休日の夜中に東北道羽生から1時間交代の運転で青森へ昼の12:00着(ETCを出るときに本当に1000円なのかドキドキしてしまいました)、ちょっと時間があるので浅虫温泉の足湯へ、青函連絡船フェリーに乗るには2時間前に手続き、台風の雨が降ってきてちょっと厄介でしたが、大型トラック、バイクなど慣れた様子で元気に鉄板をガタガタいわせながら入船してゆきます、係りの交通整理の誘導は的確で予想外に広い船内でUターンしながら一番に来て待っていた私達は先頭に車を止めました(船がこんなに広くてたくさんの車を載せてゆくのかと吃驚)客室の方へ階段をあがって二等室の展望室は船の後方で広く平らな絨毯敷きの部屋に三々五々好きな場所を選んで窓から外を見たり小雨になったデッキに出たり2時間ほどで8:00PM函館港へ、車内からいきなり道路へ飛び出してハテ右か左か函館山からの夜景を見るためにはどこが山なのか暗くてわかりません、カーナビの案内で広い坂をあがってゆく、山への道は10時以後に解放するとのことでまずは夕食、でもお店は終わっていそう、一角に明るくなっている食堂をみつけて透明な‘活いか’四角いガラスの皿の上に透き通った細く切ったイカと一段高いところに足がまだ動いている、カニ丼とお茶をいただく、函館山の急カーブの道を走り、木の間から夜景がチラと見えた!あきらめていたのに雨も止んで展望台から両翼に拡がった多分95%合格の夜景、更に上の階段をものともせずに登って証拠写真(観光案内に負けない)を撮ってまずは大満足の一日目。 きれいな小さなホテルに落ち着き、やっと旅に出た気分。 24時間前の夜中に出発して緊張のほぐれる思い。

函館朝市へ、築地市場に似ていて、どんどん歩いて元祖朝市のひろーい総合売り場でおじいさんの薦める鮭とば、おばあさんの薦める松前漬けを買う、試食したら甘くて‘このイカを使っているから’と肉厚のするめもどうかと薦められたけれどヤメにして、有名な教会方面へ、旧函館区公会堂は薩摩藩の磯庭園と尚古集成館を思い出してしまった(海に降りる階段状の洋式庭園と前面に桜島のような函館山)(やはり、江戸時代を勉強すれば今の日本の風景も発展経過事情も解明できるなー、旅行はそういう意味で楽しい)、NHK美の壷で紹介された一階は和風、二階は洋風の旧い家の側面には愛想のよいおじさんのソフトクリーム屋さん、教会前の絵描きさんから小さな額入りの絵を1枚買って、団体客のガイドさんの説明を横に聞きながら散策、幕末の函館山には多くの外国人も来ていて本で読んだ坂道の様子などいろいろ想像していたけれど、とてもきれいに整備されていて実際の距離感を知る、五稜郭の方へ急ぐ、豪華で派手なタワーに上って五角形を確かめる、長距離ドライブ開始、栗本鋤雲の薬草園だった七飯町を脇にながして大沼、駒ケ岳の景色を走り抜け、噴火湾の海沿いは無料高速道路ができていて長万部、虻田の小さな町も寄ってみたいけれど通過、火口にベレー帽のような小山が見える樽前山かも、湯量豊富な登別温泉にとうとうやってきた、長時間いろいろな趣向のお風呂に入る、地獄谷を巡って、奥のほうまで行くにはもう一泊しなければ無理。

白老町に寄って伊達藩とアイヌの関係、白老川の自然たっぷりの川の様子、高速道路に乗って千歳を過ぎて人に会う約束、“一般道に出たら一つ目の信号を右に曲がって”と待ち合わせ場所を携帯電話で決めたけれどクネクネとした道でだいぶ行くと信号、ウーン間違っていないらしい、ところが四つの信号表示が○町△丁目と全部違う、住所はわかりやすいけれど十字路の名前が無いことにびっくり(北海道では当たり前のことらしい)、産地野菜店でジャガイモ(たくさんの種類がある、インカのめざめは栗味だった)、カボチャ(みやこが美味しくて、日持ちがするのはこちらなど10種類くらい並んでいる)、ツヤツヤと緑が光るししとうなども買う、野幌の原生林はフィトンチッドの散歩が出来るようになっている巨木の森、ベトナムで修業した店主のおいしいスープのラーメンをご馳走になる、北海道の食材は豊富で美味しいことを実感、体験なく間違った思い込みのままでは総改革は出来ないなーと思う。 期限付き無料高速道路を走って旭川へ、産業のトラックがばんばん走っている。 ホテル着。

旭川市は京都のように碁盤目に道路が走る町で条と丁目で整備されている、道も広くて駅前の大通りはイルミネーションと車の走らない散歩道になっていて高層建築のお店が並び、産業も盛んで予想外に発達した都市、旭山動物園でオランウータンの綱渡りや手長猿の空中飛びを皆で下から見上げる、北極クマの真っ白な巨体が毛皮をなびかせて水槽の壁をキックしながら方向転換をして小魚を確実に捕まえて口にする技、時間交代制でベンチに腰掛けて見るのだけれど感動してしまった、トラは自分の広い庭をぐるぐる廻って歩いてくれるサービス精神旺盛、いろいろな動物がきれいで動き回ってくれるさすが人気の動物園。 昔、小説‘氷点’を涙々で読んだけれど三浦綾子記念館は横に見て見本林を散策、酒造り資料館見学、試飲ができないのでお土産のお酒を買う、兵村記念文学館とは明治政府の屯田兵の歴史と開拓生活道具と明治38年に考案された蛸足(直播器)を見て原野への入植の苦労を知る、水のおもしろ館に寄って3Dで川の生き物を見たりトロッコ列車に乗って石狩川の源流から海への景色を旅する、そろそろ夕焼けの時間なので外へ出て本物の石狩川の堤にあがるとチョット赤くなった空に広い河原と対岸の景色が美しい、雨がポツポツ降ってきた‘ - それなら虹がかからないとー’と叫んでみたら何と本当に東の空に虹が出た! ホテルに戻って夕食にでかける、○条○条中通りと言われたらしいのを○条○丁目と間違えてどんどんどんどん歩いていってしまった、間違いがわかって戻ってきた和食料理で‘おいしいもの’をいただいたけれど毛ガニも刺身も煮魚も大きくて美味しくて、その他いろいろ今までに味わった中で一番のご馳走だった、長く生きて段々に良いものに巡りあえることが一番幸せで苦労少ない人生なのだと感謝の気持ちに浸る。 歩いてホテルへ帰るのでお酒もいただく、食事中に大雨が降ったらしいのだが何と満月が雲の間からくっきりと出ている、すばらしい一日!

大雪山を眺めながらのゴルフのはずが昨日は黒岳に雪が降ったとか、薄曇りのなかキャデイさんが‘もう少し晴れると思いましたが’とダメなゴルフに付き合ってくださった。 私もそろそろゴルフを上達しなければと再び決心をする。 美瑛のシーズンも終わったとか、でも30年も前に生前の母が‘美瑛はきれいー、オシンコシンの滝’などなど聞いたこともない地名のアレコレの一つなので行く、観光バスも観光客もまだまだ多いなかで観光地図を頼りにゆるい起伏の丘を車で走って有名な木をみつけたり花畑で写真を撮ったりする、富良野のホテルでは夜も朝もゆっくりと温泉につかった(家に帰ってから気付いたのだけれど良い食事と温泉で体調は本当によくなっていた)。

いつか行ってみようと思っていたアイヌ二風谷やイザベラバードの日本奥地旅行記に出てきた義経神社へ行く日、その前に頼まれた富良野メロンを買わなければならないけれど農園ではもう終りとのことで玉葱をトラックに山積み作業中で忙しそう、街道沿いの出店に車を止めてメロン、米なす、カボチャを買ったら見かけがよくないけれど巨大な大根を二本おまけ(家に帰ってダシで煮ただけなのに甘く、柔らかく、材料のよさを実感!)車のトランクはゴルフバックと野菜で満員。
アイヌ文化については少し学習していたので現地見学はその確かめで重要、最近は工芸やアートに発展しているらしい。 車を少し走らせて義経神社へ、京都の鞍馬山へ急いで登ったことがあるのだけれど、その雰囲気が残っていてまっすぐな階段をあがってゆくと年期の入った巨木があり義経は平泉から北海道へ逃れて来ていると感じることができる・・・。 
日本各地に義経伝説は100ヶ所以上、ここの場合は、義経は奥州平泉の藤原秀衡に身を寄せたが1189年嫡男泰衡に襲われ高館に火を放ち自刃したとあるが身代わりとの説もあり、ひそかに陸奥から蝦夷地白神(現福島町)に渡り西海岸を北上してアイヌの集落が栄えていたピラトリ(平取町本町)に一時居住し、住民を外敵より守り、カムイ(神)と尊敬された、その後新しく部下に加わった若者や藤原氏残党とともに大陸へ向けて出発したといわれ、蒙古のジンギスカンと史実上の共通点の多さから同一人物とする伝えもある。
義経公は滞在中にアイヌ民族をこよなく愛し、農耕や舟の作り方・操法、機織などの技能を伝授したことから住民は「判官様」または「ホンカンカムイ」と呼んで尊崇していた、1798年に近藤重蔵が東蝦夷地を探険の際、このことを知って、法橋善啓に義経公の像を作らせ1799年に平取の地に寄進安置させたのが義経神社の始まり。

1時間ほど太平洋に向かって走り苫小牧市勇払へ、勇武津資料館と蝦夷地開拓移住隊士の墓を見学、甲州武田氏滅亡後家臣等は徳川家康に随従し江戸時代を通じ10人の組頭に組織された千人の同心は槍奉行に所属し将軍上洛日光社参のお供や日光の火消役を本務としたが通常は半士半農として八王子近郊に定住した、1799年に風雲急を告げる蝦夷地の警護と開拓のために同心子弟100人が(半左衛門ひきいる50名が釧路白糠へ、弟新介ひきいる50名が勇武津へ)従事したが、慣れない気候風土のため極寒の地で亡くなり、大半は帰郷した。 墓石群は昭和31年に文化財史跡として保護管理されきれいになっていた。 少し千歳の方へ走ってウトナイ湖(日本初の野鳥サンクチュアリ)へ、鳥はあまり見られないので記念に雀とシマフクロウのバッチを買う。 旅程はここで終り。 

苫小牧からフェリーに乗って仙台までの2等寝台はスキーヤーズベッドのようになっていていろいろリーズナブル、それは仙台までの運転をしないのでガソリン代と労力が助かるし宿泊代も兼ねているから。 クルーズの予行演習みたいでピアノ演奏のサロン、シアターではフルート演奏で旧きよき時代の船旅の哀愁がただよって観客は感動、早朝に起きだして太平洋の日の出を見ながらお風呂に入ろうと思ったらクローズ中、なぜなら台風が来ていて船が揺れるから危険とのこと、2時間ほどしてオープンしたので利用した人に聞くと浴槽の湯が半分しかないのは船が右に揺れると左からこぼれ左に揺れると右にこぼれてしまうからとのこと、大笑いになってしまった。 天気が戻ってきて金華山沖から仙台湾へ入ってゆき地図と陸地をにらめっこしても遠すぎる山の前後の見分けがつかなくて何も見当がつかなかった。
仙台からの高速道路は那須近辺の渋滞が気になったけれどすべて順調、北の山々はまだ青々としていてすっきりときれいでした。

政府は地方主権の看板を掲げているけれど地方の暮らしのほうがよほど豊かに見える、本当の問題は首都圏の人口密集が心の貧しさと怠惰を人々に植え付けてしまうことなのだと思う。 教育行政が行き渡り文盲がいないと自慢しても心が育っていなければおもしろくない。 モッタイナイという表現しかできない。 日本の自然条件は生物多様性の恩恵大なのに、それを活かしていない。 森を守らないで熊の被害が続出とは政治が国土の利用を正しく理解していないことの証明。 人口減少にむかっても若者が自分達で自分達を守る知恵を高齢者が助言してあげなければいけないのに国会では政治家の権力と人間関係の勢力争いに終始しているようで無政府状態ではないでしょうか? 飽食の時代(確かに皆が豊かになった)に甘やかされて育った若者は年金保険料が不公平だと計算するより、戦後経済の間違い部分を仕分けし(=大切な知恵や物をお金に換えすぎてしまった間違い)、現場の勤勉な実働で戦災からの日本経済復活に生き抜いた年金受給者の意見を謙虚な気持ちで引き出すべきだと結論します。 言わない人と聞かない人の淋しい関係から脱却して、生物多様性の利点を活用できる社会の仕組みに乗り換えたいと思います。
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金木犀

2010-10-09 00:08:32 | Weblog
項目E 私のガーデニング(6,7年前に始めた初心者です)
     (冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)


今年の夏は異常な暑さが長く続きましたが、スイカも甘かったし、一度枯葉になったシャラや葡萄の木が葉芽を伸ばしてきて一安心です。 

写真の金木犀は10月4日のものですが、どことなく香りが漂って、秋の穏やかさがうれしかったのです。 昨日は金木犀の花が串ダンゴのように枝先まで見事に咲いているのを見かけました。 50年前は東京では咲かなかったと記憶するのですが、最近は賑やかにあちこちで香っています。
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