国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

母の日の花束

2015-05-18 09:57:57 | Weblog
項目E 私のガーデニング(6,7年前に始めた初心者です)
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

娘から、孫が選んだ母の日の花束が届いて、白い鉢の中のオアシスに入っていて、蕾だったバラが12cmまでになって大きく咲きました。 クリーム色のカーネーションも最初は白色だったのですが、最近はレモン色に変わって、小さいピンクのカーネーションも蕾からあちこちに咲いてきて、こんなにたくさん入っていたのです。 まだまだ大きな花になりそうです。 グリーンのバラがしっかり咲きますように毎日少しずつ水遣りをしています。

近くに置いて、真上から見たり、横から見たり、鉢いっぱいのボリュームになって、ほのかな香りです。
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四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念へんろ旅

2015-05-12 09:53:43 | Weblog
項目A 公務員組織の不合理 → 解体、小さな政府
   A-1 高齢者が元気に活動する社会システム
項目C 国境をなくすために → 歴史
項目D 国境をなくすために → 国際間の問題
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

世界遺産をめざす「へんろ文化」について、どう考えたらよいのだろうとの思いで、ろうそくを灯したり線香をたてたりしながら般若心経を読み、夫が納経所で朱印・墨書をしていただく間、境内のたたずまいや特徴などを観察していました。

高知県のやり残した分と香川県、結願をめざして計画した5泊6日でしたが、初日の高速道路が順調だったため高知県の宿を直前キャンセルして(高知の海辺の石の道も少しは歩いてみたいと計画していましたが、車をどこへ置き、どのようにあるけるのか考える時間もなく)2日目の予定だった三角寺と雲辺寺(ケーブルカーの時間や状況が予測できない)をすませてしまった。 やり残しは絶対に困るので時間があまったら88番大窪寺へゆっくりと歩けばよいとの心つもりで、次へ進むことにしました。

さまざまな思いで、へんろ旅を続けている方々で常に人が行き交い、5月の新緑の中、天候が晴れでもなく雨が降るでもなく静かな自然につつまれて移動を続けました。
〇 スポーツ感覚で山伏のように強い人
〇 癒しを願う人
〇 キョウヨウ(今日ゆく所と用事)の頂点策となる個人の知恵の人
〇 介護施設で毎日を決められた生活より、近場で親切な扱いをされる老人(香川うどん店でみかけた、自分で歩いてきて自分でいただく)
〇 ひどく荒れ果てた庭(先生と観光協会の指導で歴史ある庭を現代風に復元したけれど、あとの管理やメンテナンスができない)。 ‘寺の意志’に委ねたほうが運営がうまくいっていると感じました。 歴史財産に甘えた態度を戒めるべきは、個人の家庭でもあてはまることですが。

弥谷寺から曼荼羅寺へ山を降りる部分くらいは歩いてみたいと思い、女性二人連れの方に混じり、夫が途中で車でひろってくれることにしました。 
最終日の87番長尾寺から88番大窪寺へ向かう日の天気予報は“フィリピンで台風が発生して九州はすでに雨が降っている、四国は午前中雨が降るかもしれないが時には雷が発生するかも、午後からは雨雲が海へむかうので晴れるかも”とあり、朝9時ころは雨がパラつくが傘は不要、残った時間はたっぷりあるのでへんろ交流館に車を置いて、そこから2時間半ほど女体山経由の奥の院を経て結願できたら、バスが13:30と15時ころにあるので、車に戻れると考えました。 夫はガンとして歩くつもりはない。 一人では危険だと思うし、途中の天気変更が気になって、私も車で20分ほどの88番大窪寺に着いてしまいました。 ご本尊の薬師如来様の拝観も別料金で奥の拝殿に参加できました。 夫は満足して結願証を受け、御影(みえ)の額を注文して、午後1時には完了。
宿がとってあるので、あまった時間は栗林公園まで戻って、早足で園内を歩き16世紀に始まる庭の松の剪定に感心しながら一周し、イサム・ノグチ美術館が宿への通り道なので立ち寄ってみると予約制のためダメ。 宿に着いて、明日の日曜日早朝からの高速道路運転帰宅にそなえることにしました。

かくして、区切り打ち3回目は、山にはケーブルカーに乗り、車へんろでスタンプラリーのように終わったので、私としては生前の父が行きたいと言っていた言葉で始めたことですが、「全部無事に行ってきたわよ」と告げる旅に終わった。


「自然の中で人間が組み立てる社会」

立身出世、不運、幸運、何があっても何もかわっていない“空”と述べる悟りが何の意味かよくわからなかった。 けれど、無とか空とか結論づける考え方が少しわかった、それでいいではないか、それが人間のいとなみなのだ、生きるということはそういうことだと感じたら怖いものはないし、自分が善の人間になれる、あれこれ悩まず、ありのままで頑張ろうという自分の力がついてくるのだなーと心から感じたことが、私の結願の感想でした。 

3日目だったか、5時に目が覚めた。 映画館の巨大スクリーンのような大きな窓のカーテンを開けてみました。 5月の新緑と堀のような池の向こうのモヤに香川県のポコポコと連なる山が右半分、左は瀬戸内海の海らしい手前の平らにたくさんの民家のキラキラ・チラホラと電光が残り、真ん中を左右に横切る道路に車が時々走ってくる、音もない静かな自然の景色だけれど、何だかみんな生きている、そんな風景がひろがった。 さっそく鳥が飛んできた、山のふもとは蒸気があがってきた、薄い雲で晴れはしないけれどそろそろ夜が明けて昼の動く世界に変わるのですね。

納経所で、団体と個人の場合、係の人が何十冊もどかっと出すので
1時間半も待たされる現象が起きて、スケジュールの大番狂わせが起きた、北海道から来たのに、と嘆く人に 「本当に申し訳ない」で済まされるのには吃驚、これも修行のひとつかと結論づけるしかなかった。

このたびは自然から得るものは何もなく、緑のなかをカーナビで移動しただけだったが、出会った人々の顔を思い出す・・・結願の証を同じくいただいた方に「おめでとうございます。 私は2度目ですが」と、いろいろ教えてくださったスッキリした笑顔、二人連れの女性の方、バスが1時間以上こないので車に乗せてくださいと言われた方は足が腫れて針と糸で水を抜いて今は治ったとのこと、これから3時間の道を歩くと言われた方が私達が手続きをしているうちに到着されて再びめぐり合えた方、宿のフロントの方々、納経所で墨書される方々・・・、私自身は、ある悩みが一つ消えて、考え方のステージが一つ上がったと思うことができた。


「四国遍路を世界遺産にするために」

寺は、もともと過去帳を管理していて、地域の人々の事務・総務・教育を担っていた。
明治維新で神仏習合、天皇の名の下で公務員組織による住民管理の仕事がデザインされて、文部省による教育、厚生省による福利厚生、などなど縦割り行政事務が税金を使って動きだした。

150年の歴史を経た今、寺は税金免除でも公務員に頼らなければ寺の運営規模を拡大できない、習慣的に両者の不十分な考え方とノウハウで、お互いに感覚的に乗り越えられないのではないかと思う。 今や人々全員が、何事も公務員に頼る姿勢、公務員を通さなければ仕事ができないという図式が、私には災いに見える。 現代人のスリコミの中にある公務員組織のあり方について、それぞれの立場別に分析・研究をしていただきたい。 大学生のボランテアとは何を目的としているのだろうか?

へんろ文化がスタンプラリーに終わってはもったいない、歴史的に人々の精神を育てたこと、境内の建築と古木、庭、脈々と手入れ管理をしてきた人々、本堂へたどりつくまでのとてつもない山中の石の階段と脇の様々な石像など、誰の心にも伝わるものがある。 

自転車へんろには、部分的にでも快適な道を。

自動車遍路には、数ヶ寺歩いて廻れるモータープールの設置と、連絡バス便の時刻表をインターネットで表示(歩きたいけれど車に戻る手段に苦労したので)を。 

人々の心意気がまだまだまとまっていないように見受けるので、農業など先進的考えの産業を推進しながら、へんろ文化の大成もお願いしたいと思う。

外国人への紹介は、19世紀末のジャポニズムの再来のような勢いの今、例えば錦鯉の模様などの説明解釈に西洋人は興味を持つようだし、茶道においては所作(動き)の合理性
や扱う道具の工芸技術を詳しく説明すれば(日本人でも知らなかった知識に感動)よいと思うのだが、遍路文化も上手な説明が必要だと思う。
私にはまだ忍耐と慈悲の関係の精神修養がよくわからないし、へんろの交通路を上手に按配するパズルの要素も追加できる。
宗教は人々の精神的拠り所だから、世界各地いろいろあってよいけれど、仏教は自分の心を磨く力に主体があって、他への攻撃を認めてはいないような気がする。 誇れる教えだと思う。 日本でも一揆があったではないかと言う人がいたが、たまたまその人たちが同じ宗教だったという解釈を学校教科書に書いていただきたい。
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『天璋院篤姫』上・下巻 宮尾登美子著 2007、講談社

2015-05-02 10:54:28 | Weblog
項目C 国境をなくすために → 歴史
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

篤姫は、直感鋭く 疑うことをしない一途な気持ちのお嬢様だった、男に生まれていたらよかったと実家和今泉家の人々が言っていたことを思い出すように、15代徳川将軍との話し合いで、天皇家への恭順には和宮と共に賛同するが、大奥への関与はとことん断る。緊迫する江戸城の先行きが不明の時に大奥3000人の統率に責任感を発揮した様子が下巻の「動乱」の章に詳しくあり、私にはバラバラな知識のままだった幕末歴史事件の経過が順序だてて説明されていました。

以下は印象に残る場面を抜書きしたものです。
下巻
p302 慶応3年の暮、篤姫は滝山(大奥老女)を呼び、来る新年の行事以降、大奥のさまざまの催事は一切取りやめるようにと命じた。 江戸城内に閉じ込められての一生奉公ともなれば、何より楽しみなのは大奥の年中行事で、これで心をなだめられて長い歳月の勤めを果たして来た感がある。 滝山はそれについて、「我々は正月行事取りやめについては承服いたしますなれど、天璋院さまのみは年頭の賀をお受けいただきたく 切に、切に」、というのは年が明ければ篤姫は33歳を迎えるためであった。33は女の大厄故に、この数字を口にすることさえ日頃から忌み、大奥ではみそさざいと呼んでいる。 みそさざいの祝いを略した者には災い降りかかるとされているだけに、とりわけこの祝いは大奥で盛大に催されるのであった。 しかし、篤姫は、それをも斥け、「節倹は神君よりのおん戒めのみならず、国内には明日にも戦の火蓋が切られようとする時勢に一人だけ厄逃れの祝いでもあるまい。 むしろ当家の厄は私が全部背負う心づもり故に、何もせぬが良い」

p321 薩摩から篤姫引き取りの伺いが出たとき、すでに自分は死を覚悟していたのだと思い、いま洋服を着ているというその官軍の、地をゆるがす靴音が夜半の耳に聞こえて来ても、死ぬこと自体は少しも恐ろしいとは思わなかった。

p323 慶喜が上野に謹慎してより、大奥女中たちの両派(和宮の京公家派 & 篤姫の徳川武家派)の争いは下火となっており、それはいま、東征大総督の有栖川宮は和宮のかつての婚約者、また参謀西郷のその昔、島津斉彬の命を受けて篤姫入輿の支度一切を受け持ったという縁を、お互いの従者は頼る気持ちが強い。 もとより篤姫は、島津家に自分を救出してもらおうとは考えていないが、徳川家の安泰とその拠点たる江戸城だけは残しておいて欲しい思いから、今度は朝廷へではなく、進発してくる官軍のまっただなかへ使者を派遣しようというものであった。

p334 ‘三日のうちに移去’、というのを、‘三日間だけ移去’、とおきかえてすすめたこの手段はすこぶる姑息だが、主だった閣老去り、残りの幕臣ではこれしか知恵は出せず、一方篤姫も、情報はすべて表方の役人から受け取るのであれば、それを信じる他なかった。

「余生」
p337 安政3年の秋、21歳でこの江戸城に入輿してから足掛け13年、幾多の思い出を刻みつけた住まいともこれが永遠の別れとなるのも知らず、つい隣へという気安さで出立した篤姫の姿を見て、虚偽の進言をした岩佐摂津守は身のおきどころもない思いであったという。 

p342 思えば滝山14の歳から奉公に上がってすでに50年、その間四代の将軍に仕えて大奥を掌握し、こんにちまで宿下がりの一日とてなく働きづめであった身が、いまはほんのわずかな手廻りの品だけでこの城を追われる運命にある。 人間一代で4人の将軍に仕えた栄は誇るべきものではあるけれど、いままたお家の終焉に立ち会うのも、これはよくよくのめぐり合わせかと嘆かれるのであった。 生々流転、人の世のはかなさをしみじみとおぼえつつも、いまこうして去るにあたって唯ひとつ心残りは篤姫と最後の別れをしていないことであった。

その後の篤姫は、千駄ヶ谷の徳川家達(16代)本家でともに暮らし、薩摩にいたころのように家族的安泰を得た。 一度京都へ戻った和宮が東京へ戻り、一緒にでかけるなどの生活(明治10年、和宮32歳で脚気衝心)。 明治16年、篤姫は耳鳴りやめまいがひどくなり48歳の多難な生涯をとじる。

篤姫が夫の家定(13代)の死後1ヵ月後に棺をあおぎ見た様子、家茂(14代)が急遽亡くなって関西から江戸へ帰った時の棺の中を見た様子が書かれていて、毒殺を疑っているのですが、あきらかではありません。 孝明天皇(天然痘が治りかかっていたのに)の死も岩倉具視による毒殺かもと言われていますが、この時期のあわただしい事情は、まだまだ本当のことが隠されていると感じました。 篤姫も岩倉具視も明治16年に亡くなったのですね。
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