平成22年(2010)1月8日の「米内内閣」のブログは、字数が多くて前半後半にわけました。 前半を先に読んでください。
p301 海軍は簡単に三国同盟に同意、「自動的参戦の条文は抜いてあるので、何も問題はないんだよ」 現在はドイツ軍によるロンドン猛攻撃の最中なのにこんなときに軍事同盟を結んだら自動参戦も何もあったものじゃない。 10月12日大政翼賛会 11月10日宮城前広場において紀元2600年の大祝賀式典
p302 運命の昭和16年が明けた。 1月8日東条陸相が「戦陣訓」生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すなかれ(玉砕の悲劇を生み出した手引書)
p306 4月22日、ドイツ軍はソ連領内に進撃、独ソ不可侵条約(S14,8,23)の意味なかった
松岡外相は上気した声で上奏「三国同盟によりソ連を打つべきです。 南方は一時手控えるべきですが、いずれはソ連だけではなくイギリス、アメリカとも戦わなくてはなりません」 天皇は日ソ中立条約を調印(4月12日)してきた本人からソ連と開戦するよう言われ、あきれかえった。
p308 支那からの撤兵は絶対に譲れない、英霊に相すまない―東条
海軍は強いというが、それは米艦隊と決戦すれば負けないという意味であって、戦争が長期にわたればいかなる結果となるか速断できない。 持久戦となったならば屈敵の方法はない。―米内光政
近衛は内閣を投げ出す腹、10月18日東条内閣成立、陸相、内相を兼任
p316 11月28日の閣議、もはや開戦しかない 12月1日の御前会議で最終決断することを決めた。 すでに26日の朝、択捉島の単冠湾に集結していた南雲忠一中将率いる機動部隊は抜錨し、ハワイに向けて出撃、日米会談の進捗により引き返すことになっていたが、その可能性はほとんどなくなった。
p317 12月1日、「帝国は米英蘭に対し開戦する」ことを決定。
8日未明、英米軍と開戦状態に入れリ、正午には宣戦の詔書
「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」かつて陸軍や右翼から国賊とまでののしられた山本五十六連合艦隊司令長官はたった一日で英雄視されるようになった。
日本は破滅への一歩を踏み出した。
p319 開戦とともに大東亜戦争と呼称された。 12月25日、香港のイギリスが降伏。
昭和17年1月2日、マニラ占領。 2月15日、シンガポール陥落。 3月8日、ラングーン陥落。 翌9日、ジャワの蘭印軍降伏。
p320 4月18日、東京上空にアメリカ軍の奇襲、真珠湾のしかえし
ミッドウエー策戦を敢行するしかない。
が、暗号電報はアメリカに筒抜けだった。 形勢逆転。 8月、全滅。
p323 9月1日、大東亜省、11月1日発足。 3日、500人の各界名士晩餐会
p326 光政は、年末休暇の江田島からの生徒を水交社に迎えて手を振るぐらいしかない。 あの若人たちの多くは戦死する、いくらナイヤガラの一歩手前にいたとはいえ、戦死に至る激流をとめられなかった自分にも、責任があるように思われたが。
p327 井上が着任したとき、71期から73期の生徒が在籍しており、12月1日には1000人を越す74期の新入生が入校してきた。 戦争とともに航空要員の必要性が高まり、兵学校の定員枠は年を追うごとに増加し、翌年には約3500人も入校する。 井上は消耗品のように戦場に赴く生徒に心を痛め、けっして死を美化することなく、海軍士官としての心構えを説き、自己啓発を促した。
p328 昭和18年、2月1日、日本軍はガダルカナル島から撤退を開始、大本営は転進という言葉を用いて、惨憺たる敗北を覆い隠そうとした。
p329 4月18日、山本五十六は機銃弾を頭と胸に浴び機上で死、ジャングルに突っ込んだ。 享年59歳。
p330 6月5日、国葬。 我々は、元帥に続き、仇敵米英の徹底的撃滅を期せねばならぬのでありまして・・・
p331 5月30日、アッツ島日本軍守備隊約2600人玉砕
7月29日、キスカ島約5600人は奇跡的に撤収したものの、アメリカ軍の大規模な反攻作戦はアリューシャン列島だけでなく南太平洋方面でも始まった。
p332 9月8日、イタリアが無条件降伏。
10月21日、雨の明治神宮競技場で出陣学徒壮行会。
昭和19年2月17日、トラック島急襲で、日本軍に壊滅的打撃。
東条首相は21日、参謀総長を兼任
p333 4月14日、海軍盛岡人事部開庁式に出席
これより前、上京した新田校長に「盛岡の者は偏狭で人が偉くなると、若いころはこうだと欠点をあげつらったりするし、よその人を入れないところがある、それに比べて薩摩の人間は、人が要職につくといよいよ高くなるようにする。 同時に自分もひかれて、自分の長所も伸ばす。 そんな教育をしてほしい。」
p334 山本五十六の後任、古賀大将が3月31日殉職、日本海軍の凋落を実感。
海軍はその後の策戦がアメリカ側に筒抜けも知らず、作戦を実行した。
p336 6月19日、マリアナ沖海戦。 空母3隻、400機近い艦載機を失う。
インパール策戦も敗走が続き最終的に3万人が戦死。 7日、サイパン陥落、3万人の守備隊が玉砕し、1万人の住民が死んだ。 海軍の指揮をとっていた南雲忠一も自決。
p340 7月22日、小磯内閣、米内海軍大臣、杉山陸軍大臣、重光外相、
最高戦争指導会議、1億国民総武装、竹槍訓練、学童疎開
8月、テ二ヤン、グアム陥落。マリアナ諸島は完全に米軍の手に渡った
p342 陛下より、燃料の現状についてのご下問。 「本当のことを書きますか? 今まではメイキング(=体裁よく作った)資料でしたが。」
p344 10月、神風特攻隊
p345 12月15日、米軍はミンドロ島に上陸し、ルソン島レイテ島を遮断。
小磯内閣はレイテ決戦を天王山としたが、空しい。
p346 昭和20年2月19日、米軍7万5千人が硫黄島に上陸
3月、本土への無差別空襲が本格化、10日東京の約4割が焦土、12万人が死傷(8万人以上が焼死)、100万人が家を失った。
4月1日、英米18万3千人が沖縄本島嘉手納に上陸開始
天皇は一連の和平工作を中止するよう小磯首相に命じた。
4月5日、小磯内閣総辞職
p349 4月7日、菊水作戦の一環として前日のうちに沖縄に向かっていた戦艦「大和」が九州坊ノ津沖、徳之島北方で撃沈された。 残ったのは駆逐艦4隻のみ、連合艦隊は事実上壊滅。
8時間後、「大和」の悲報が届いたあと鈴木内閣の親任式。 海軍にはもう石油も、まともに動ける空母も戦艦も残っていない。 新閣僚と並んでも米内うつむく。
p350 4月12日、ルーズベルト大統領が病没。 ヒトラーはドイツ全軍に、最大の戦争犯罪人が取り除かれ戦争は決定的な転機を迎える、と大々的に報じた。 鈴木首相は、敵国にもかかわらず哀悼の意を表明。 スイスが武士道精神と絶賛し、トーマスマンも騎士道精神であると持ち上げた。
4月13日、大空襲、四谷一帯、赤坂、麹町、渋谷など焼け野原。
p351 4月28日、ムッソリーニ銃殺、逆さ吊り
4月30日、ヒトラーピストル自殺 5月7日ドイツ無条件降伏
p353 5月25日、東京上空にB29が500機で焼夷弾 赤レンガに燃え移るのは時間の問題、光政は海軍省から首相官邸へ移動。
p354 自宅が火災、貴重な書籍や資料が灰になった。 官邸も宮城も炎上。
p356 海軍大臣室は旧三条公爵邸に写った。
7月16日、アメリカはニューメキシコで原爆実験に成功
7月26日、ポツダム宣言(ソ連の仲介を待つまでもなく、連合国から直接、和平の条件)
p357 統帥部は拒絶、
7月28日、鈴木首相は‘黙殺で戦争に完遂と邁進’と記者会見で答弁
8月6日8時15分、広島に原爆、死者推定十数万人
トルーマン大統領が日本がポツダム宣言を受諾しない限り連続使用すると公式声明。 なるべくすみやかに戦争の終結をみるよう努力せよ。- 天皇
p359 ソビエトが日本に宣戦布告(ソ連はヤルタ会談の約束通りにドイツの降伏3ヶ月後)
p360 8月9日、午前11時、宮中で最高戦争指導会議6人激論中に
午前11時半、長崎で原爆。
午後11時50分、御文庫地下防空壕で御前会議11人
p365 8月10日、午前6時45分、留保つきのポツダム宣言受諾の電文
p370 8月14日御前10時50分、日本帝国最後の御前会議(20人以上)
聖断「この際、堪えがたきを堪え、・・・」
午後11時、詔書に各大臣の署名、連合国にポツダム宣言受諾の電報
8月15日正午に玉音放送と決まる。
戦後処理
p378 ポツダム宣言受諾後の内閣 17日東久邇宮稔彦殿下組閣
p379 30日午後2時過ぎ、厚木飛行場に連合軍総司令官マッカーサー元帥
p380 9月2日午前9時、ミズーリ号で、降伏調印
日本全権は重光外相と梅津参謀総長 海軍からは、豊田軍令部総長が拒否、自決した大西次長のあとの高柳儀八中将も応じず、軍令部策戦部長の富岡少将
GHQは11日、39人を戦争犯罪人容疑者として逮捕するよう命じた。
11日、東条英機 弾丸が急所をはずれた
12日、杉山元帥が第一総軍司令官室で拳銃自殺、自宅で啓子夫人は短剣であとを追う。 東条内閣の、厚生大臣だった小泉親彦(13日)、文部大臣の橋田邦彦(14日)自殺。 海軍大臣だった嶋田繁太郎は連行に応じた。
p381 9月17日、第一相互ビルに連合国軍最高司令部(GHQ)に星条旗
が翻り、日本が敗戦国であることを実感させた。
10日後、天皇はアメリカ大使館でマッカーサー元帥に会見、写真
10月5日、東久邇内閣総辞職 6日、幣原喜重郎に組閣の大命
p382 本土の武装解除は順調に進み、ほぼ完了。 GHQの意向で陸海軍は11月末に解体され復員省に変わることも決まっていた。
11月1日、光政は吉田外相の根回しで、銀座で診療所を開いていた武見太郎(吉田の親戚でのちに医師会会長)の診察を受けた。慢性腎炎の症状、血圧260
17日、光政は米海軍少将R・Hオフステイから細かい質問、合衆国第5艦隊司令長官のJ・H・タワーズらも列席。
p383 光政は魔性の時代を回想しながら答えた。 日米の海軍が友好関係にあった戦前の良き時代をしのぶように話し合った。 少将は海軍の先輩として畏敬の念。
○ 最初の戦争計画が妥当なものだったか
○ 陸海軍の摩擦対立の主な原因は何でしたか?
○ どこが戦争の転機だったと思うか
○ どれが日本海軍の戦力に主要な打撃だったと思うか
○ 仮に海軍最高統帥部だけで終戦が決定できた場合、どの段階で対策をとったか
○ ドイツへの希望的観測が終戦を遅らせたのでは
・・ドイツとの提携に反対して首相の地位から引きずり落とされた経緯を述べた
p385 15日の放送のあと、不慮の事態の発生を心配して出来るだけの手段をとりましたが、結局のところ重大事なくおさまったというのも、私どもや陸軍側で打った手のおかげというよりも、むしろ天皇のお力でした。
p386 29日夜、光政はGHQでウイロビー少将同席でマッカーサー元帥と会見、写真で見た海軍大臣が別人のように憔悴しているので終戦に至る心労を悟った。
30日、陸軍省と海軍省が廃止された 明治5年の創設から73年
p388 陸軍省は盛大な解散式 海軍は葬儀さながらひっそりと終焉
p391 近衛文麿は荻外荘で服毒自殺(出頭命令期限の12月16日朝)
p392 昭和21年元旦 「天皇の人間宣言」
p394 3月6日、光政はマッカーサーの軍事補佐官であるフェラーズ准将の要請に応じ、総司令部を訪れた。 GHQ側は、天皇の戦争責任を回避するため、東条に全責任を負わせたい趣旨を伝え、東条に東京裁判で天皇に有利な発言をさせるよう協力を求めた。 光政も基本的には同意した。 天皇を無罪にするためには、開戦時の首相兼陸相だった東条と海相だった嶋田繁太郎に責任を被ってもらうしかないと判断したのである。
p395 4月10日、光政が小泉信三邸を訪ね、親密な付き合いが始まる
4月29日、A級戦犯28人が起訴された
5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が市谷の元陸軍士官学校で
p396 昭和22年1月5日、巣鴨拘置所に収容されていた元軍令部総長の永野修身が米軍病院で病死。 67歳で光政と同年 前年6月には松岡洋右が結核で亡
光政は前年秋から神経痛に加え、帯状疱疹に悩まされていた。
戦犯として収容された海軍関係者の弁護費用を捻出するため、岡田啓介や野村吉三郎とともに募金運動の発起人。 夏には北海道へ渡った。 光政は前年5月、北海道興発株式会社の会長になっていた(旧海軍関係者が共同出資して設立)釧路に土地をもっていた社長が米内の家計の一助になればと会長に就けた 末っ子がスタッフの一人
p397 9月2日、故郷の盛岡駅に 墓前
19日、東京に戻って、東京裁判で畑陸軍大臣の弁護側承認
連合国側の情報とは明らかに異なるウソの証言
p402 昭和23年3月10日、芦田内閣
4月17日、鈴木貫太郎が肝臓癌で逝去、「永遠の平和」臨終の言葉
20日、光政臨終 享年68歳 巨木倒れるを目にした緒方竹虎、枕頭に黙礼しながら、いつまでも頭をあげようとしない母堂の姿
24日、葬儀 天徳院殿仁海光政大居士
p404 エピローグ
12月23日、死刑判決を受けていたA級戦犯の7人が絞首刑
東条英機、板垣征四郎、松井石根、武藤章、土肥原賢二、広田弘毅、木村兵太郎
p405 母トミは昭和27年大晦日に94歳の生涯を閉じた。
読後に残念に思うことは、(1)戦争現場にいたことがない人が首脳部? (2)山本五十六の機上での派手な死は、‘戦争を止めよ’のサイン(わからずやの首脳部に対して、たった一人で出来た)だったのに、国葬で兵士に‘元帥に続き、仇敵米英の徹底的撃滅を期せねばならぬのでありまして・・・’と述べて、方向を違えた。 (3)陸軍がソ連と国境線について張鼓峰ほかで悲惨に闘ったのに、ソ連の仲介を待つ姿勢だった?(p356)
p301 海軍は簡単に三国同盟に同意、「自動的参戦の条文は抜いてあるので、何も問題はないんだよ」 現在はドイツ軍によるロンドン猛攻撃の最中なのにこんなときに軍事同盟を結んだら自動参戦も何もあったものじゃない。 10月12日大政翼賛会 11月10日宮城前広場において紀元2600年の大祝賀式典
p302 運命の昭和16年が明けた。 1月8日東条陸相が「戦陣訓」生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すなかれ(玉砕の悲劇を生み出した手引書)
p306 4月22日、ドイツ軍はソ連領内に進撃、独ソ不可侵条約(S14,8,23)の意味なかった
松岡外相は上気した声で上奏「三国同盟によりソ連を打つべきです。 南方は一時手控えるべきですが、いずれはソ連だけではなくイギリス、アメリカとも戦わなくてはなりません」 天皇は日ソ中立条約を調印(4月12日)してきた本人からソ連と開戦するよう言われ、あきれかえった。
p308 支那からの撤兵は絶対に譲れない、英霊に相すまない―東条
海軍は強いというが、それは米艦隊と決戦すれば負けないという意味であって、戦争が長期にわたればいかなる結果となるか速断できない。 持久戦となったならば屈敵の方法はない。―米内光政
近衛は内閣を投げ出す腹、10月18日東条内閣成立、陸相、内相を兼任
p316 11月28日の閣議、もはや開戦しかない 12月1日の御前会議で最終決断することを決めた。 すでに26日の朝、択捉島の単冠湾に集結していた南雲忠一中将率いる機動部隊は抜錨し、ハワイに向けて出撃、日米会談の進捗により引き返すことになっていたが、その可能性はほとんどなくなった。
p317 12月1日、「帝国は米英蘭に対し開戦する」ことを決定。
8日未明、英米軍と開戦状態に入れリ、正午には宣戦の詔書
「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」かつて陸軍や右翼から国賊とまでののしられた山本五十六連合艦隊司令長官はたった一日で英雄視されるようになった。
日本は破滅への一歩を踏み出した。
p319 開戦とともに大東亜戦争と呼称された。 12月25日、香港のイギリスが降伏。
昭和17年1月2日、マニラ占領。 2月15日、シンガポール陥落。 3月8日、ラングーン陥落。 翌9日、ジャワの蘭印軍降伏。
p320 4月18日、東京上空にアメリカ軍の奇襲、真珠湾のしかえし
ミッドウエー策戦を敢行するしかない。
が、暗号電報はアメリカに筒抜けだった。 形勢逆転。 8月、全滅。
p323 9月1日、大東亜省、11月1日発足。 3日、500人の各界名士晩餐会
p326 光政は、年末休暇の江田島からの生徒を水交社に迎えて手を振るぐらいしかない。 あの若人たちの多くは戦死する、いくらナイヤガラの一歩手前にいたとはいえ、戦死に至る激流をとめられなかった自分にも、責任があるように思われたが。
p327 井上が着任したとき、71期から73期の生徒が在籍しており、12月1日には1000人を越す74期の新入生が入校してきた。 戦争とともに航空要員の必要性が高まり、兵学校の定員枠は年を追うごとに増加し、翌年には約3500人も入校する。 井上は消耗品のように戦場に赴く生徒に心を痛め、けっして死を美化することなく、海軍士官としての心構えを説き、自己啓発を促した。
p328 昭和18年、2月1日、日本軍はガダルカナル島から撤退を開始、大本営は転進という言葉を用いて、惨憺たる敗北を覆い隠そうとした。
p329 4月18日、山本五十六は機銃弾を頭と胸に浴び機上で死、ジャングルに突っ込んだ。 享年59歳。
p330 6月5日、国葬。 我々は、元帥に続き、仇敵米英の徹底的撃滅を期せねばならぬのでありまして・・・
p331 5月30日、アッツ島日本軍守備隊約2600人玉砕
7月29日、キスカ島約5600人は奇跡的に撤収したものの、アメリカ軍の大規模な反攻作戦はアリューシャン列島だけでなく南太平洋方面でも始まった。
p332 9月8日、イタリアが無条件降伏。
10月21日、雨の明治神宮競技場で出陣学徒壮行会。
昭和19年2月17日、トラック島急襲で、日本軍に壊滅的打撃。
東条首相は21日、参謀総長を兼任
p333 4月14日、海軍盛岡人事部開庁式に出席
これより前、上京した新田校長に「盛岡の者は偏狭で人が偉くなると、若いころはこうだと欠点をあげつらったりするし、よその人を入れないところがある、それに比べて薩摩の人間は、人が要職につくといよいよ高くなるようにする。 同時に自分もひかれて、自分の長所も伸ばす。 そんな教育をしてほしい。」
p334 山本五十六の後任、古賀大将が3月31日殉職、日本海軍の凋落を実感。
海軍はその後の策戦がアメリカ側に筒抜けも知らず、作戦を実行した。
p336 6月19日、マリアナ沖海戦。 空母3隻、400機近い艦載機を失う。
インパール策戦も敗走が続き最終的に3万人が戦死。 7日、サイパン陥落、3万人の守備隊が玉砕し、1万人の住民が死んだ。 海軍の指揮をとっていた南雲忠一も自決。
p340 7月22日、小磯内閣、米内海軍大臣、杉山陸軍大臣、重光外相、
最高戦争指導会議、1億国民総武装、竹槍訓練、学童疎開
8月、テ二ヤン、グアム陥落。マリアナ諸島は完全に米軍の手に渡った
p342 陛下より、燃料の現状についてのご下問。 「本当のことを書きますか? 今まではメイキング(=体裁よく作った)資料でしたが。」
p344 10月、神風特攻隊
p345 12月15日、米軍はミンドロ島に上陸し、ルソン島レイテ島を遮断。
小磯内閣はレイテ決戦を天王山としたが、空しい。
p346 昭和20年2月19日、米軍7万5千人が硫黄島に上陸
3月、本土への無差別空襲が本格化、10日東京の約4割が焦土、12万人が死傷(8万人以上が焼死)、100万人が家を失った。
4月1日、英米18万3千人が沖縄本島嘉手納に上陸開始
天皇は一連の和平工作を中止するよう小磯首相に命じた。
4月5日、小磯内閣総辞職
p349 4月7日、菊水作戦の一環として前日のうちに沖縄に向かっていた戦艦「大和」が九州坊ノ津沖、徳之島北方で撃沈された。 残ったのは駆逐艦4隻のみ、連合艦隊は事実上壊滅。
8時間後、「大和」の悲報が届いたあと鈴木内閣の親任式。 海軍にはもう石油も、まともに動ける空母も戦艦も残っていない。 新閣僚と並んでも米内うつむく。
p350 4月12日、ルーズベルト大統領が病没。 ヒトラーはドイツ全軍に、最大の戦争犯罪人が取り除かれ戦争は決定的な転機を迎える、と大々的に報じた。 鈴木首相は、敵国にもかかわらず哀悼の意を表明。 スイスが武士道精神と絶賛し、トーマスマンも騎士道精神であると持ち上げた。
4月13日、大空襲、四谷一帯、赤坂、麹町、渋谷など焼け野原。
p351 4月28日、ムッソリーニ銃殺、逆さ吊り
4月30日、ヒトラーピストル自殺 5月7日ドイツ無条件降伏
p353 5月25日、東京上空にB29が500機で焼夷弾 赤レンガに燃え移るのは時間の問題、光政は海軍省から首相官邸へ移動。
p354 自宅が火災、貴重な書籍や資料が灰になった。 官邸も宮城も炎上。
p356 海軍大臣室は旧三条公爵邸に写った。
7月16日、アメリカはニューメキシコで原爆実験に成功
7月26日、ポツダム宣言(ソ連の仲介を待つまでもなく、連合国から直接、和平の条件)
p357 統帥部は拒絶、
7月28日、鈴木首相は‘黙殺で戦争に完遂と邁進’と記者会見で答弁
8月6日8時15分、広島に原爆、死者推定十数万人
トルーマン大統領が日本がポツダム宣言を受諾しない限り連続使用すると公式声明。 なるべくすみやかに戦争の終結をみるよう努力せよ。- 天皇
p359 ソビエトが日本に宣戦布告(ソ連はヤルタ会談の約束通りにドイツの降伏3ヶ月後)
p360 8月9日、午前11時、宮中で最高戦争指導会議6人激論中に
午前11時半、長崎で原爆。
午後11時50分、御文庫地下防空壕で御前会議11人
p365 8月10日、午前6時45分、留保つきのポツダム宣言受諾の電文
p370 8月14日御前10時50分、日本帝国最後の御前会議(20人以上)
聖断「この際、堪えがたきを堪え、・・・」
午後11時、詔書に各大臣の署名、連合国にポツダム宣言受諾の電報
8月15日正午に玉音放送と決まる。
戦後処理
p378 ポツダム宣言受諾後の内閣 17日東久邇宮稔彦殿下組閣
p379 30日午後2時過ぎ、厚木飛行場に連合軍総司令官マッカーサー元帥
p380 9月2日午前9時、ミズーリ号で、降伏調印
日本全権は重光外相と梅津参謀総長 海軍からは、豊田軍令部総長が拒否、自決した大西次長のあとの高柳儀八中将も応じず、軍令部策戦部長の富岡少将
GHQは11日、39人を戦争犯罪人容疑者として逮捕するよう命じた。
11日、東条英機 弾丸が急所をはずれた
12日、杉山元帥が第一総軍司令官室で拳銃自殺、自宅で啓子夫人は短剣であとを追う。 東条内閣の、厚生大臣だった小泉親彦(13日)、文部大臣の橋田邦彦(14日)自殺。 海軍大臣だった嶋田繁太郎は連行に応じた。
p381 9月17日、第一相互ビルに連合国軍最高司令部(GHQ)に星条旗
が翻り、日本が敗戦国であることを実感させた。
10日後、天皇はアメリカ大使館でマッカーサー元帥に会見、写真
10月5日、東久邇内閣総辞職 6日、幣原喜重郎に組閣の大命
p382 本土の武装解除は順調に進み、ほぼ完了。 GHQの意向で陸海軍は11月末に解体され復員省に変わることも決まっていた。
11月1日、光政は吉田外相の根回しで、銀座で診療所を開いていた武見太郎(吉田の親戚でのちに医師会会長)の診察を受けた。慢性腎炎の症状、血圧260
17日、光政は米海軍少将R・Hオフステイから細かい質問、合衆国第5艦隊司令長官のJ・H・タワーズらも列席。
p383 光政は魔性の時代を回想しながら答えた。 日米の海軍が友好関係にあった戦前の良き時代をしのぶように話し合った。 少将は海軍の先輩として畏敬の念。
○ 最初の戦争計画が妥当なものだったか
○ 陸海軍の摩擦対立の主な原因は何でしたか?
○ どこが戦争の転機だったと思うか
○ どれが日本海軍の戦力に主要な打撃だったと思うか
○ 仮に海軍最高統帥部だけで終戦が決定できた場合、どの段階で対策をとったか
○ ドイツへの希望的観測が終戦を遅らせたのでは
・・ドイツとの提携に反対して首相の地位から引きずり落とされた経緯を述べた
p385 15日の放送のあと、不慮の事態の発生を心配して出来るだけの手段をとりましたが、結局のところ重大事なくおさまったというのも、私どもや陸軍側で打った手のおかげというよりも、むしろ天皇のお力でした。
p386 29日夜、光政はGHQでウイロビー少将同席でマッカーサー元帥と会見、写真で見た海軍大臣が別人のように憔悴しているので終戦に至る心労を悟った。
30日、陸軍省と海軍省が廃止された 明治5年の創設から73年
p388 陸軍省は盛大な解散式 海軍は葬儀さながらひっそりと終焉
p391 近衛文麿は荻外荘で服毒自殺(出頭命令期限の12月16日朝)
p392 昭和21年元旦 「天皇の人間宣言」
p394 3月6日、光政はマッカーサーの軍事補佐官であるフェラーズ准将の要請に応じ、総司令部を訪れた。 GHQ側は、天皇の戦争責任を回避するため、東条に全責任を負わせたい趣旨を伝え、東条に東京裁判で天皇に有利な発言をさせるよう協力を求めた。 光政も基本的には同意した。 天皇を無罪にするためには、開戦時の首相兼陸相だった東条と海相だった嶋田繁太郎に責任を被ってもらうしかないと判断したのである。
p395 4月10日、光政が小泉信三邸を訪ね、親密な付き合いが始まる
4月29日、A級戦犯28人が起訴された
5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が市谷の元陸軍士官学校で
p396 昭和22年1月5日、巣鴨拘置所に収容されていた元軍令部総長の永野修身が米軍病院で病死。 67歳で光政と同年 前年6月には松岡洋右が結核で亡
光政は前年秋から神経痛に加え、帯状疱疹に悩まされていた。
戦犯として収容された海軍関係者の弁護費用を捻出するため、岡田啓介や野村吉三郎とともに募金運動の発起人。 夏には北海道へ渡った。 光政は前年5月、北海道興発株式会社の会長になっていた(旧海軍関係者が共同出資して設立)釧路に土地をもっていた社長が米内の家計の一助になればと会長に就けた 末っ子がスタッフの一人
p397 9月2日、故郷の盛岡駅に 墓前
19日、東京に戻って、東京裁判で畑陸軍大臣の弁護側承認
連合国側の情報とは明らかに異なるウソの証言
p402 昭和23年3月10日、芦田内閣
4月17日、鈴木貫太郎が肝臓癌で逝去、「永遠の平和」臨終の言葉
20日、光政臨終 享年68歳 巨木倒れるを目にした緒方竹虎、枕頭に黙礼しながら、いつまでも頭をあげようとしない母堂の姿
24日、葬儀 天徳院殿仁海光政大居士
p404 エピローグ
12月23日、死刑判決を受けていたA級戦犯の7人が絞首刑
東条英機、板垣征四郎、松井石根、武藤章、土肥原賢二、広田弘毅、木村兵太郎
p405 母トミは昭和27年大晦日に94歳の生涯を閉じた。
読後に残念に思うことは、(1)戦争現場にいたことがない人が首脳部? (2)山本五十六の機上での派手な死は、‘戦争を止めよ’のサイン(わからずやの首脳部に対して、たった一人で出来た)だったのに、国葬で兵士に‘元帥に続き、仇敵米英の徹底的撃滅を期せねばならぬのでありまして・・・’と述べて、方向を違えた。 (3)陸軍がソ連と国境線について張鼓峰ほかで悲惨に闘ったのに、ソ連の仲介を待つ姿勢だった?(p356)