国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

米内内閣(後半)

2010-01-08 13:43:43 | Weblog
平成22年(2010)1月8日の「米内内閣」のブログは、字数が多くて前半後半にわけました。 前半を先に読んでください。


p301 海軍は簡単に三国同盟に同意、「自動的参戦の条文は抜いてあるので、何も問題はないんだよ」 現在はドイツ軍によるロンドン猛攻撃の最中なのにこんなときに軍事同盟を結んだら自動参戦も何もあったものじゃない。 10月12日大政翼賛会 11月10日宮城前広場において紀元2600年の大祝賀式典
p302 運命の昭和16年が明けた。 1月8日東条陸相が「戦陣訓」生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すなかれ(玉砕の悲劇を生み出した手引書)
p306 4月22日、ドイツ軍はソ連領内に進撃、独ソ不可侵条約(S14,8,23)の意味なかった
松岡外相は上気した声で上奏「三国同盟によりソ連を打つべきです。 南方は一時手控えるべきですが、いずれはソ連だけではなくイギリス、アメリカとも戦わなくてはなりません」 天皇は日ソ中立条約を調印(4月12日)してきた本人からソ連と開戦するよう言われ、あきれかえった。
p308 支那からの撤兵は絶対に譲れない、英霊に相すまない―東条
        海軍は強いというが、それは米艦隊と決戦すれば負けないという意味であって、戦争が長期にわたればいかなる結果となるか速断できない。 持久戦となったならば屈敵の方法はない。―米内光政
近衛は内閣を投げ出す腹、10月18日東条内閣成立、陸相、内相を兼任
p316 11月28日の閣議、もはや開戦しかない  12月1日の御前会議で最終決断することを決めた。 すでに26日の朝、択捉島の単冠湾に集結していた南雲忠一中将率いる機動部隊は抜錨し、ハワイに向けて出撃、日米会談の進捗により引き返すことになっていたが、その可能性はほとんどなくなった。
p317 12月1日、「帝国は米英蘭に対し開戦する」ことを決定。
8日未明、英米軍と開戦状態に入れリ、正午には宣戦の詔書
「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」かつて陸軍や右翼から国賊とまでののしられた山本五十六連合艦隊司令長官はたった一日で英雄視されるようになった。
日本は破滅への一歩を踏み出した。
p319 開戦とともに大東亜戦争と呼称された。 12月25日、香港のイギリスが降伏。 
昭和17年1月2日、マニラ占領。 2月15日、シンガポール陥落。 3月8日、ラングーン陥落。 翌9日、ジャワの蘭印軍降伏。
p320 4月18日、東京上空にアメリカ軍の奇襲、真珠湾のしかえし
        ミッドウエー策戦を敢行するしかない。
        が、暗号電報はアメリカに筒抜けだった。 形勢逆転。 8月、全滅。
p323 9月1日、大東亜省、11月1日発足。 3日、500人の各界名士晩餐会
p326 光政は、年末休暇の江田島からの生徒を水交社に迎えて手を振るぐらいしかない。 あの若人たちの多くは戦死する、いくらナイヤガラの一歩手前にいたとはいえ、戦死に至る激流をとめられなかった自分にも、責任があるように思われたが。
p327 井上が着任したとき、71期から73期の生徒が在籍しており、12月1日には1000人を越す74期の新入生が入校してきた。 戦争とともに航空要員の必要性が高まり、兵学校の定員枠は年を追うごとに増加し、翌年には約3500人も入校する。 井上は消耗品のように戦場に赴く生徒に心を痛め、けっして死を美化することなく、海軍士官としての心構えを説き、自己啓発を促した。

p328 昭和18年、2月1日、日本軍はガダルカナル島から撤退を開始、大本営は転進という言葉を用いて、惨憺たる敗北を覆い隠そうとした。
p329 4月18日、山本五十六は機銃弾を頭と胸に浴び機上で死、ジャングルに突っ込んだ。 享年59歳。
p330 6月5日、国葬。 我々は、元帥に続き、仇敵米英の徹底的撃滅を期せねばならぬのでありまして・・・
p331 5月30日、アッツ島日本軍守備隊約2600人玉砕
7月29日、キスカ島約5600人は奇跡的に撤収したものの、アメリカ軍の大規模な反攻作戦はアリューシャン列島だけでなく南太平洋方面でも始まった。
p332 9月8日、イタリアが無条件降伏。
        10月21日、雨の明治神宮競技場で出陣学徒壮行会。

        昭和19年2月17日、トラック島急襲で、日本軍に壊滅的打撃。
        東条首相は21日、参謀総長を兼任
p333 4月14日、海軍盛岡人事部開庁式に出席
これより前、上京した新田校長に「盛岡の者は偏狭で人が偉くなると、若いころはこうだと欠点をあげつらったりするし、よその人を入れないところがある、それに比べて薩摩の人間は、人が要職につくといよいよ高くなるようにする。 同時に自分もひかれて、自分の長所も伸ばす。 そんな教育をしてほしい。」
p334 山本五十六の後任、古賀大将が3月31日殉職、日本海軍の凋落を実感。
海軍はその後の策戦がアメリカ側に筒抜けも知らず、作戦を実行した。
p336 6月19日、マリアナ沖海戦。 空母3隻、400機近い艦載機を失う。
インパール策戦も敗走が続き最終的に3万人が戦死。 7日、サイパン陥落、3万人の守備隊が玉砕し、1万人の住民が死んだ。 海軍の指揮をとっていた南雲忠一も自決。
p340 7月22日、小磯内閣、米内海軍大臣、杉山陸軍大臣、重光外相、
        最高戦争指導会議、1億国民総武装、竹槍訓練、学童疎開
8月、テ二ヤン、グアム陥落。マリアナ諸島は完全に米軍の手に渡った
p342    陛下より、燃料の現状についてのご下問。 「本当のことを書きますか?  今まではメイキング(=体裁よく作った)資料でしたが。」
p344 10月、神風特攻隊
p345 12月15日、米軍はミンドロ島に上陸し、ルソン島レイテ島を遮断。
小磯内閣はレイテ決戦を天王山としたが、空しい。

p346 昭和20年2月19日、米軍7万5千人が硫黄島に上陸
3月、本土への無差別空襲が本格化、10日東京の約4割が焦土、12万人が死傷(8万人以上が焼死)、100万人が家を失った。
4月1日、英米18万3千人が沖縄本島嘉手納に上陸開始          
天皇は一連の和平工作を中止するよう小磯首相に命じた。
4月5日、小磯内閣総辞職
p349 4月7日、菊水作戦の一環として前日のうちに沖縄に向かっていた戦艦「大和」が九州坊ノ津沖、徳之島北方で撃沈された。 残ったのは駆逐艦4隻のみ、連合艦隊は事実上壊滅。 
8時間後、「大和」の悲報が届いたあと鈴木内閣の親任式。 海軍にはもう石油も、まともに動ける空母も戦艦も残っていない。 新閣僚と並んでも米内うつむく。
p350 4月12日、ルーズベルト大統領が病没。 ヒトラーはドイツ全軍に、最大の戦争犯罪人が取り除かれ戦争は決定的な転機を迎える、と大々的に報じた。 鈴木首相は、敵国にもかかわらず哀悼の意を表明。 スイスが武士道精神と絶賛し、トーマスマンも騎士道精神であると持ち上げた。
4月13日、大空襲、四谷一帯、赤坂、麹町、渋谷など焼け野原。
p351 4月28日、ムッソリーニ銃殺、逆さ吊り
4月30日、ヒトラーピストル自殺  5月7日ドイツ無条件降伏
p353 5月25日、東京上空にB29が500機で焼夷弾 赤レンガに燃え移るのは時間の問題、光政は海軍省から首相官邸へ移動。 
p354 自宅が火災、貴重な書籍や資料が灰になった。 官邸も宮城も炎上。
p356 海軍大臣室は旧三条公爵邸に写った。
7月16日、アメリカはニューメキシコで原爆実験に成功
        7月26日、ポツダム宣言(ソ連の仲介を待つまでもなく、連合国から直接、和平の条件) 
p357 統帥部は拒絶、
7月28日、鈴木首相は‘黙殺で戦争に完遂と邁進’と記者会見で答弁
8月6日8時15分、広島に原爆、死者推定十数万人
        トルーマン大統領が日本がポツダム宣言を受諾しない限り連続使用すると公式声明。  なるべくすみやかに戦争の終結をみるよう努力せよ。- 天皇
p359 ソビエトが日本に宣戦布告(ソ連はヤルタ会談の約束通りにドイツの降伏3ヶ月後)
p360 8月9日、午前11時、宮中で最高戦争指導会議6人激論中に
             午前11時半、長崎で原爆。
 午後11時50分、御文庫地下防空壕で御前会議11人
p365 8月10日、午前6時45分、留保つきのポツダム宣言受諾の電文
p370 8月14日御前10時50分、日本帝国最後の御前会議(20人以上)
         聖断「この際、堪えがたきを堪え、・・・」
 午後11時、詔書に各大臣の署名、連合国にポツダム宣言受諾の電報
        8月15日正午に玉音放送と決まる。

戦後処理
p378 ポツダム宣言受諾後の内閣 17日東久邇宮稔彦殿下組閣
p379 30日午後2時過ぎ、厚木飛行場に連合軍総司令官マッカーサー元帥
p380 9月2日午前9時、ミズーリ号で、降伏調印
日本全権は重光外相と梅津参謀総長 海軍からは、豊田軍令部総長が拒否、自決した大西次長のあとの高柳儀八中将も応じず、軍令部策戦部長の富岡少将
GHQは11日、39人を戦争犯罪人容疑者として逮捕するよう命じた。
        11日、東条英機 弾丸が急所をはずれた
        12日、杉山元帥が第一総軍司令官室で拳銃自殺、自宅で啓子夫人は短剣であとを追う。 東条内閣の、厚生大臣だった小泉親彦(13日)、文部大臣の橋田邦彦(14日)自殺。 海軍大臣だった嶋田繁太郎は連行に応じた。
p381 9月17日、第一相互ビルに連合国軍最高司令部(GHQ)に星条旗
が翻り、日本が敗戦国であることを実感させた。
10日後、天皇はアメリカ大使館でマッカーサー元帥に会見、写真
10月5日、東久邇内閣総辞職 6日、幣原喜重郎に組閣の大命
p382 本土の武装解除は順調に進み、ほぼ完了。 GHQの意向で陸海軍は11月末に解体され復員省に変わることも決まっていた。
11月1日、光政は吉田外相の根回しで、銀座で診療所を開いていた武見太郎(吉田の親戚でのちに医師会会長)の診察を受けた。慢性腎炎の症状、血圧260
17日、光政は米海軍少将R・Hオフステイから細かい質問、合衆国第5艦隊司令長官のJ・H・タワーズらも列席。 
p383 光政は魔性の時代を回想しながら答えた。 日米の海軍が友好関係にあった戦前の良き時代をしのぶように話し合った。 少将は海軍の先輩として畏敬の念。 
○ 最初の戦争計画が妥当なものだったか
○ 陸海軍の摩擦対立の主な原因は何でしたか?
○ どこが戦争の転機だったと思うか
○ どれが日本海軍の戦力に主要な打撃だったと思うか
○ 仮に海軍最高統帥部だけで終戦が決定できた場合、どの段階で対策をとったか
○ ドイツへの希望的観測が終戦を遅らせたのでは
    ・・ドイツとの提携に反対して首相の地位から引きずり落とされた経緯を述べた
p385 15日の放送のあと、不慮の事態の発生を心配して出来るだけの手段をとりましたが、結局のところ重大事なくおさまったというのも、私どもや陸軍側で打った手のおかげというよりも、むしろ天皇のお力でした。
p386 29日夜、光政はGHQでウイロビー少将同席でマッカーサー元帥と会見、写真で見た海軍大臣が別人のように憔悴しているので終戦に至る心労を悟った。
        30日、陸軍省と海軍省が廃止された 明治5年の創設から73年
p388 陸軍省は盛大な解散式 海軍は葬儀さながらひっそりと終焉
p391 近衛文麿は荻外荘で服毒自殺(出頭命令期限の12月16日朝)

p392 昭和21年元旦 「天皇の人間宣言」
p394 3月6日、光政はマッカーサーの軍事補佐官であるフェラーズ准将の要請に応じ、総司令部を訪れた。 GHQ側は、天皇の戦争責任を回避するため、東条に全責任を負わせたい趣旨を伝え、東条に東京裁判で天皇に有利な発言をさせるよう協力を求めた。 光政も基本的には同意した。 天皇を無罪にするためには、開戦時の首相兼陸相だった東条と海相だった嶋田繁太郎に責任を被ってもらうしかないと判断したのである。
p395 4月10日、光政が小泉信三邸を訪ね、親密な付き合いが始まる
4月29日、A級戦犯28人が起訴された
5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が市谷の元陸軍士官学校で

p396 昭和22年1月5日、巣鴨拘置所に収容されていた元軍令部総長の永野修身が米軍病院で病死。 67歳で光政と同年 前年6月には松岡洋右が結核で亡
光政は前年秋から神経痛に加え、帯状疱疹に悩まされていた。
戦犯として収容された海軍関係者の弁護費用を捻出するため、岡田啓介や野村吉三郎とともに募金運動の発起人。 夏には北海道へ渡った。 光政は前年5月、北海道興発株式会社の会長になっていた(旧海軍関係者が共同出資して設立)釧路に土地をもっていた社長が米内の家計の一助になればと会長に就けた 末っ子がスタッフの一人
p397 9月2日、故郷の盛岡駅に 墓前
19日、東京に戻って、東京裁判で畑陸軍大臣の弁護側承認
            連合国側の情報とは明らかに異なるウソの証言

p402 昭和23年3月10日、芦田内閣
4月17日、鈴木貫太郎が肝臓癌で逝去、「永遠の平和」臨終の言葉
  20日、光政臨終 享年68歳  巨木倒れるを目にした緒方竹虎、枕頭に黙礼しながら、いつまでも頭をあげようとしない母堂の姿
  24日、葬儀 天徳院殿仁海光政大居士
p404 エピローグ
12月23日、死刑判決を受けていたA級戦犯の7人が絞首刑
東条英機、板垣征四郎、松井石根、武藤章、土肥原賢二、広田弘毅、木村兵太郎
p405 母トミは昭和27年大晦日に94歳の生涯を閉じた。

読後に残念に思うことは、(1)戦争現場にいたことがない人が首脳部? (2)山本五十六の機上での派手な死は、‘戦争を止めよ’のサイン(わからずやの首脳部に対して、たった一人で出来た)だったのに、国葬で兵士に‘元帥に続き、仇敵米英の徹底的撃滅を期せねばならぬのでありまして・・・’と述べて、方向を違えた。 (3)陸軍がソ連と国境線について張鼓峰ほかで悲惨に闘ったのに、ソ連の仲介を待つ姿勢だった?(p356)

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米内内閣

2010-01-08 13:35:06 | Weblog
項目A 公務員組織の不合理 → 解体、小さな政府
     (冊子『国境をなくすために』の送り状は10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

『海軍一軍人の生涯』高橋文彦著 1998、光人社

副題: 肝脳(肝臓と脳髄、肉体と精神)を
国にささげ尽くした宰相(首相、総理大臣、昔の中国で天子を助けて政治を行う官、丞相ジョウショウ)の
深淵(深い淵、奥深さや限界が底知れないことのたとえ)

米内光政についての本や批判が多数あるそうですが、私は教科書の米内内閣という一行を思い出しただけで図書館でこの本をフト手にしました。 おとなしい優柔不断な人という印象でしたが、読み進むうちにとてつもないドンというか自分中心のしきりで社会の人々に多大な影響を与えてしまった人ということを感じました。

岩手県盛岡市に誕生し、父の豪快さと母の強くキッチリした性格を受け継ぎ、父の没落と逃避のため残された母子は貧しい子供時代をガキ大将(多分)で過ごし、海軍草創期に中学卒業とともに勧誘されて明治31年(18歳)海軍兵学校入学、卒業(21歳)少尉候補、金剛乗り組みで海上生活を始めました。 日清戦争の勝利のあとの日本の裕福の始まりのころです。 24歳(明治37年)の日露戦争には盲腸炎で佐賀県下へ療養、佐世保勤務(26歳、明治39年)昇進昇級見合い結婚、海軍砲術練習所学生を経て海軍大尉、砲術職に27歳~30歳、31歳英国へ回航、32歳海軍大学校、34歳第一次世界大戦が始まり日本はドイツと開戦、35歳ロシア駐在、37歳佐世保鎮守府参謀兼望楼監督官補、38歳で4子長男誕生、軍事視察のためロシア出張
39歳、海軍大学校教官補、海軍軍令部参謀補
40歳、海軍軍令部、欧州出張、海軍大佐
41歳、ポーランド駐在員監督
42歳、春日艦長補、葬儀海軍儀状隊指揮官付
44歳、陸奥艦長
45歳、少将
46歳、参謀
47歳、支那及びシベリア出張、4月1日帰朝
昭和2~5年 叙勲、大礼記念章、賜与、揚子江、上海などをまわり49歳、
蒋介石に会う、孫文の国葬に参列
50歳、中将
53歳、海軍軍令部出仕補、流行性感冒兼両胸膜炎にて佐世保市に転養(21日間)
54歳、第二艦隊司令長官補
56歳(昭和11年)、連合艦隊司令長官
57歳、海軍大臣 海軍大将
60歳(昭和15年)、1/16 内閣総理大臣 
7/16総辞職 7/22第二次近衛内閣成立
61歳、こま夫人死去
昭和16年12月8日、パールハーバー、対英米宣戦布告
  米、英、蘭、蒋、豪、中米諸国が 対日宣戦布告
     12月11日、独、伊が 対米宣戦
64歳、(昭和19年) 再び海軍大臣(7/22~)
65歳、~昭和20年12/1 海軍省廃官
68歳、4月20日 脳溢血死去

昭和15年~昭和20年の敗戦までの(魔性の歴史)期間には
△ 海軍大臣・・・政治家
△ 天皇の統帥権に軍隊・司令長官が直属
△ 参謀本部=軍令部(策戦)・・・天皇を補佐
の三つの組織を異動しながら同郷や知り合いと仕事をするため、私の理解が届かないまま読みました。 話す言葉は短く、大柄な押し出しの良い人だったように想像します。
別の本に、アメリカはシステムによる統合(タスクフォース)で日本は属人的統合(人間関係)による組織の特性比較がありました。
したくないと言っていた戦争をズルズルと始めて(宣戦布告をしてしまうと戦争国には石油を売らない条約を潜り抜けられない)、軍隊組織があるがために拡大させていった日本の首脳部がこんなにも人間関係だけで組織を占領して仕事を分担するのかと主人公の生き様から知って吃驚しました。

敗戦後もこの日本の組織は無批判のまま受け継がれたので、これでは天下りシステムがよくないと私がどんなに叫んでも理解しようとする答えが想像できないのだと断言するしかないのでしょう。 学習能力を組織が破壊してしまう(=いる)のです。

早期勧奨退職の人を特別昇給させて割増金増額のため11億円を使っていたことがわかりました。 いつも間際で昇格したり昇給したりは軍隊組織ではこっそりと常識化しているのです。 ルールのザル法化を頭が良いと考えるのは止めましょう。

下級武士身分に位置づけられた坂本龍馬が、徳川武家支配に不満と怒りを爆発させましたが、「徳川はすでに死に体だから、他国の武器で人が人を殺す武力討伐は必要ない。 話し合いで解決できる」と主張しました。 戦争は武器商人とそれによって利益を得る人達だけのもので、そういう戦争の20世紀は既に終わり、現代はもはや戦場に立つ人は簡単に普通にいないものと考えるべきです。 明治以来の公務員精神は組織ともども解体して変わるべきです。 核廃絶も戦争放棄も当然との気持ちを強くする本でした。

* * *

以下は自分流関心事についての読書メモです (A4 約8ページ)

p27 母が厳しく、父が豪快、不在
p38 班長、副級長になれば授業料免除
p192 昭和11年12月1日、22代連合艦隊司令長官(56歳)

昭和12年1月23日、広田首相は軍部と政党の板ばさみで総辞職
p194 米内は政治はダメだよと言った永野修身海相(第二次ロンドン会議脱退で米英との絆を断った人)が、自分は海相に未練があったけれど、逃げる米内に後任するよう伏見宮軍令部総長から諭してもらうようにした。
p197 2月2日、林銑十郎内閣の海相となる、官邸暮らし
p199 3月31日、軍部傀儡の林内閣は、予算を決めて食い逃げ解散
5月31日、林内閣総辞職
p200 6月4日、近衛文麿内閣は、板垣陸相、末次海相を希望したが、
                     杉山陸相、米内海相留任
p201 7月7日、北京西方11kmの盧溝橋で、7時半から3時間の夜間演習終了を知らせる伝令を日本兵が敵と間違えて空弾発射、直後に実弾
p204 7月17日、蒋介石は魯山でラジオ放送 「満州を失ってすでに6年、日中の衝突は盧溝橋にまで迫った。 我々は全民族をあげて日本軍に抗議する」
p205 兵の派遣、いや不拡大、派遣しても和平解決すれば復員する、の議論
p211 8月13日、上海で日中衝突
p212 陸軍が到着するには日数を要する。 海軍は史上はじまって以来の大胆な策戦の決行に踏み切った。 航続距離2500kmの最新鋭機 60機ほどの大編隊が空を埋めると日本人居留民は快哉 日本海軍としては初めての本格的な空中戦 攻撃機は杭州、広徳などの飛行場や軍事施設を空爆して帰還した その夜の閣議で、光政はそれまでの殻を脱ぎ捨てるように豹変したといわれている 財政難を理由に派兵の増加に消極的な蔵相を怒鳴りつけた上、「不拡大主義は消滅した。 南京くらいまで攻略して様子をみてはどうか。 日支問題は中支に移った。 陸軍兵力の使用法も考え直す必要はないか。 日支前面策戦となったうえは当然ではないか」という趣旨のことを発言したというのである。 ふだん寡黙な光政は、議論をすれば結論を先に言う癖があった。 そのせいか、真意が伝わらず誤解されたのかもしれない。 このころ光政は選任副官の近藤泰一郎大佐に、「君、揚子江の水は、一本の棒ぐいなんかでは食いとめられやせんよ」と慨嘆している。 国民政府の底力を知っている光政は、中国軍が総攻撃をしかけてきた以上、中途半端な対応はかえって傷を深め、解決を遅らせると読んだのである。
p213 8月15日、近衛内閣は声明「わが居留民の生命財産が危殆に陥るに及んでは、帝国としてはもはや隠忍その限度に達し、中国軍の暴戻をよう懲(ヨウチョウ=敵や悪者を打ちこらしめること)し、南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとるのやむなきに至れり」 蒋介石は、陸・海・空三軍の総司令に就任した。 日中は事実上の戦争に突入した。 しかも宣戦布告のない戦争であった。 アメリカは日本に石油や鉄を輸出、中国に武器、大恐慌から立ち直りかけた経済にジレンマで結果的に静観。
p215 9月2日、北支事変 → 支那事変
10月12日、愛国心の高揚とともに節約、倹約、日の丸弁当、軍国調
p216 米内海相、山本五十六次官、井上軍務局長、海軍の左派トリオ
「いつ、どこで戦争を止めるか」 石原莞爾は不拡大派で有効国ドイツに仲介を期待。 光政はヒトラー嫌い。 ブリュッセル九カ国条約(大正11年2月、中国、日本、米、英、仏、伊、蘭、ベルギー、ポルトガルが調印、中国の領土保全や門戸開放)に日本は欠席のまま、おとがめなしのうちに、杭州湾上陸、上海地区占領。
p218 12月1日、参謀本部が、首都南京を攻略すべし。 怒涛の進撃開始
12月7日、蒋介石は、日本政府が提示した和平案を条件付で了承、
近衛総理、広田外相、杉山陸相、米内海相、4者会議OK
p219 参謀本部は、南京陥落が目前という時に、このような条件で戦争を止めたのでは、これまでに戦死した幾万の英霊に申し訳ないと激怒。
12月10日、南京一斉攻撃、蒋介石は城内を離れ漢口へ
12月12日、海軍航空隊が揚子江のパネー号を誤爆。 アメリカに謝る。 南京(17日入城)では陸軍中島今朝吾中将が‘疑わしい者まで殺せ’ 日本国内では南京陥落を祝って、ちょうちん行列。

p221 昭和13年 近衛首相は療養と称して荻外荘に、そろそろ辞職したい
p223 戦争(注;宣戦布告はしていないが)は内陸部へ進むばかりで止まらない。 6月2日、徐州最前線指揮の板垣征四郎が引き戻されて、杉山陸相更迭の急遽あとがま。 板垣陸相はロボット、米内海相は金魚大臣の蔑称。
p224 6月19日、小石川植物園で盛大な岩手県人会、 板垣、東条、米内、ほか財界関係を含め数百人。 それぞれの思惑に違いあり
p227 7月11日、ソ連軍との武力衝突のきざし 豆満江沿いの張鼓峰
対処にそれぞれの思惑、
P228 天皇が板垣に「関係大臣の意見はどうなっているのか」「外相も海相も賛成しております」 天皇の激怒
p229 野村吉三郎は陸軍の暴発を制止した米内海相を‘明鏡止水’と称えた。
p230 8月21日(昭和14年の説あるが、他の資料では13年夏の見解で一致)、光政は板垣から会談を申し込まれ、北大路魯山人が経営する高級料理屋「星が岡茶寮」に出向いた。 (光政の三国同盟に反対の手記)
p236 宇垣外相の辞意にショックを受けた近衛首相は辞意、板垣陸相と米内海相と風見が慰留して近衛続投、外相兼任。
p250 日本でノーと決めたことが、ドイツとイタリア両大使ではイエスとなってしまう。 英仏が独伊と戦争をした場合、ソ連の参戦が予想されるから必然的にソ連を対象にした日本の武力援助は英仏をも対象になる。
p251 陸軍はドイツを過大評価しすぎていた。 軍部にはナチス信仰が広まり、海軍に対する批判を露骨に言うものもあった。 「海軍は卑怯者だ。 温存している兵力でアメリカと戦ってみろ」
p252 4月17日、ワシントンで客死した前駐米大使の遺骨をアメリカ海軍が横浜に届け、光政は感謝の招待会、余興、山本五十六の一興、日米海軍最後の友好
p253 ヒトラーはとりあえず日本抜きでイタリアと軍事同盟の方針
p254 海軍はアメリカからたくさんの軍用資材をもらっている。 海軍は交戦状態に入ることなど考えてもいない。
p257 5月11日、日比谷、日独伊軍事同盟締結要請全国青年大会
大島大使から電報「二日後に独伊軍事同盟成立記念パーテイに招かれており、政府の方針をきかせてほしい」
p258 ハルハ河付近で日本軍とソ連蒙古軍が衝突、ノモンハン事件に発展
p259 6月3日、麹町「幸楽」で盛岡中学同窓会、米内海相、板垣陸相出席
富田小一郎古希の謝恩会も兼ねて、
p263 独ソ不可侵条約により、8月28日、平沼内閣総辞職
p264 米内海軍大臣の徹頭徹尾三国同盟反対により日本は救われたと天皇が礼
p266 9月1日、ドイツはポーランドに進撃
         英仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった
p270 号外まででていた畑陸相ではなく、昭和15年1月14日、米内の組閣を天皇が命ず
p289 畑陸相の辞意に、米内首相は「近衛公が我々よりベターを為すというならば、快く政権を渡しても良い」7月16日に総辞職
p296 第二次近衛内閣は7月22日に発足、
p300 9月27日、日独伊三国同盟がベルリンの総統官邸で調印。 西園寺は「あいつらが国をどこかへ持っていってしまう。こちらに断りも無く。」 市中では祝賀行進。
(字数が多すぎるので、一度に載せられず、後半へ続きます)


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