近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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11月14日芥川龍之介「トロッコ」読書会

2016-11-15 21:49:37 | Weblog
こんばんは。
先日11月14日に行われた芥川龍之介「トロッコ」読書会について報告いたします。
司会は三年の山内が務めさせて頂きました。

「トロッコ」は大正11年3月に「大観」という雑誌に発表され、同時代評では概ね好評価だったこともあってか、戦後には国語の教科書に掲載されるようになりました。
しかし、教材化にあたって末尾の大人になった良平について語られている場面が削除されることが多く、特に初期の先行研究ではその部分を問題に取り上げる論が目立ちます。
他には、少年時代のトロッコにまつわる思い出を回想し、当時の出来事が「塵労に疲れた」今の良平と重なり合うところに作品の主題があるという読解もしばしば見られました。


「トロッコ」には少年・良平がトロッコを押したり乗ったりして遠くまで来てしまった後、一人で帰路につくことになった不安や恐怖が語られる場面があります。
ここの心理描写に着目し、「今」の良平の目の前に「薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している」のは、彼の人生の不安な行く末を暗示していると読み解く論もありますが、会員からは少年・良平の歩んだ「薄暗い藪や坂のある路」の先にあったのは無事に家に辿り着くことのできたという安堵であり、ここから良平のカタルシスを読むことができ、従って「今」の良平にもカタルシスへの欲望が潜んでおり、末尾の部分は必ずしも暗いと言い切れるものではないのではないかという意見がありました。

先行論でも意見の分かれるところですが、こうした分析を振り返ってみると、やはり末尾の部分も含めて「トロッコ」という作品は成立しているのだと思います。

また、「トロッコ」の少年時代の場面は回想形式で語られながらも、良平自身が回想しているのではなく、三人称の語り手が語っているのですが、このような語り手が回想していることの意義を探るという試みもなされました。
会員からは、例えば語り手の言説と少年・良平の行動に矛盾している部分が指摘できることや(この点に関しては、言説の捉え方次第といったところもありますが)、読者が良平の保護者としての視点を獲得できるのではないか、三人称だからでこそ少年時代の記憶を鮮やかに語り得るのではないか等の意見が挙がりました。
人称の問題についてはまだ消化不良なところもありますので、別の機会に改めて検討していけたら良いのではないだろうかと思います。

他にも「軽便鉄道工事」を読解に組み込んでいってもいいのではないかというご意見や、色彩に着目した分析など、濃厚な議論が交わされました。
文章にして整理してみるとあっさりしてしまいましたが、様々な論点が挙がり、一つ一つの論点について会員同士で熱心に話し合い、とても充実した読書会にすることができたと思います。
司会としては会員の皆様の積極的な発言にとても助けられました。ご協力頂いた皆様にはここでもお礼申し上げます。本当にありがとうございました。


次回は11月21日、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」研究発表を行います。


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