近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

遠藤周作「白い人」  第二週

2010-06-29 22:46:49 | Weblog
 先週に引き続き司会を担当しましたイシイです。
今回の遠藤周作「白い人」の二週目の発表ですが、発表者はまずジャックを拷問する拷問者たちやそれに対する〈私〉視点を検討しつつ、拷問者たちは非情な暴力者としての単純な表面だけでなく、裏面に潜む個人像によって、拷問者として残酷性がより強調されている。さらに私は拷問者のなかでキャバンヌに自己を重ねているが、それでも他の拷問者とは秘密を抱えているという点で違う人物であるということを指摘されました。ここでの検討ではアレクサンドルやキャバンヌといった拷問者を〈私〉がどう見ているのか、という前回の指摘を生かしたものだと思われます。
 次に発表者は「運命と偶然」について述べられました。歴史の進歩、正義の証明に無関心であるにもかかわらず〈私〉が「生きねばならぬ」と述べている箇所で、人間が進歩や正義に意味を求める限り、歴史が内なる拷問者を生み出すと発表者は解釈しました。そこから作品全体について発表者は拷問者・被拷問者また、運命・偶然という世界構図のなかで、人間の神への希求の必然性を追及したものであると最後に指摘しました。

 質疑応答の中では、最初と最後の部分から読み取れる〈私〉の心的状況の移り変わりについて、〈私〉は最初から最後まで頁の順番通りに形作られた〈私〉なのか、それとも最初の部分は自己の過去を回想する新しい〈私〉であり、最後の部分はそれより前に書かれた〈私〉なのかということで、議論が展開されました。
 一章の〈私〉に対して物語末尾の〈私〉が急変した状態で書かれているので、ここでの解釈は非常に難しく、作品全体から読み取れる〈私〉の心的状況の流れは人によって千差万別だと思われます。私個人としては回想体を思わせる最初の部分で〈私〉は「生きねばならぬ。」と述べていることで冷静さを感じさせますが、物語が先へ進むなかで〈私〉の幼少期の刺激的な思い出が〈私〉の中で何度も回想され、物語の最後の方では「闇のなかでリヨンは燃えていた。」と自分の今いるリヨンという場所をかなり暈した言い方で表現していることから、頁最後の〈私〉こそ物語の中で一番新しい人格形成のされた〈私〉なのだと思いました。

 いずれにせよこの点における議論は一朝一夕ではだせないものなので、自分の知識・教養をもっと高めてからより深く再検討する必要があると思いました。
 今回の「白い人」は頁が多く、テーマが扱いにくい作品で大変だったと思いますが、発表者の方お疲れ様でした。
来週は椎名麟三の「深夜の酒宴」です。ここ最近天気がじめじめして体力的にきつい時期ですが、暑さにひるまずに文学にはげみましょう!

遠藤周作「白い人」  第一週

2010-06-22 19:46:17 | Weblog
こんにちは、司会を担当しましたイシイです。

「白い人」は昭和30年に芥川賞を受賞した作品で、いつもより頁数が多く発表者も大変だったと思います。
発表者は「逆説的な神の証明」といった副題を提示しました。そこから神を信じない〈私〉が悪の行為(暴力)によって神の存在を否定するが、無意識に感じてしまう虚無感から、逆に神の存在を肯定しているといった形で主張されました。また第二次大戦中の歴史的時間と作品内の時間との重なりで、キリスト教に現れる時間や色を象徴的に用いることにより、神の存在と、殉教者・否定者それぞれの存在に肉薄する物語といった主張もされました。

 これに対して質問時には、カトリック・プロテスタントといった宗派の違いからいえること、虚無感・無意識とは何ぞや、「生きねばならぬ」と思った〈私〉から読み取れる人間の実存とは、といった指摘がなされました。頁数が多いだけでなく、キリスト教という壮大な世界観、さらに外国人・外国の舞台が扱われていることで非常に難解な作品だと思われますが、難解ゆえに読む人の個性が逆に発揮しやすい作品だと思われます。

 今回の発表を踏まえて、さらなる大きな読みができるよう発表者には期待を寄せるしだいであります。
 最後に蒸し暑い気候なので、皆さん熱中症には気をつけてください。

三島由紀夫「煙草」第2週発表

2010-06-15 02:18:48 | Weblog
こんばんは。先週に引き続いて司会を担当いたしましたモロクマです。

先週の発表で問われた、本文にちゃんと眼を向けるということ、これを発表者さん達は今週の発表資料の命題として持っていたようでした。資料のまとめを元にして、今週はどのような発表がおこなわれたのかを見ていきたいと思います。

1、語り手の位置の把握と、それを中心にした作品構造の理解
2、煙草の意味について、喫煙から来る罪悪感の所在を明らかにする
3、煙草のストーリーを元にしての、伊村と〈私〉の心理の変容

まとめで説明されていることに、それぞれ小見出しを付けるならば、かくのごとくとなろうか。
そして、この理解の幅のなかで、「成長」や「罪」や時間の重層性といった、作品内にちりばめられている語句を解釈していく、というのが、今週の発表でした。
その点、先週からの課題であった、作者像から離れ、作品により接近し、凝視していく、という行為は果たされているように思います。問題はその解釈の仕方です。
まず、発表者は、作品の語り手を、冒頭、物語序盤以降終盤まで、末尾箇所に、それぞれ、第一の語り手、第二の語り手、第三の語り手がある、としたうえで考察をしており、はげしい応酬となりました。これについては、そもそも発表者において「語り手」という、文学用語についての理解が、他とことなっているように見受けられました。冒頭の、過去を追憶している(ように読める)〈私〉と、少年時代の、池沼や森林を遊ぶ〈私〉とを別の存在と規定しているように読める、ゆえに、語り手は分けられる、という理解をしているような発言をしていましたが、これについては時間の重層性と、時制の曖昧さを意図した文章、さらにはそのシーンごとの焦点の遠近によって解釈したほうがいいのではないかという、指摘がありました。また、この作品が、回想体をスタイルに持つことにも、眼を向けるべきであったとの指摘もありました。さて、いかがでしょうか。語り手に集中的に眼を向ける読みと、作品内の時間と、描かれ方を見て行く読みと……いずれも、面白い読みを展く可能性を有しているように思いますが、またどちらも嵌まると恐ろしい陥穽をひそめていそうです。
つぎに、煙草を喫むことの罪の意識についてでありますが、発表者は、これを罪悪感とだけ解釈して、それが、無意識化に囚われているものとしていました。これについては、罪という概念の根源的な部位にまで解釈の手を下してはどうか、という意見が出ていました。作品中盤において〈私〉が静謐を感じる池沼での散策のシーンとそれとの関連なども、可能な解釈ではないか、ともありました。静謐と罪によってさざめく〈私〉の心は、その記憶自体を追憶する冒頭の〈私〉が引用したボードレールの詩の一節に暗示されている、と質問者は述べていました。この静謐と罪との接合、ないしは関連性の追求の場合に限らず、いかんせん発表者の資料の注釈は表面的な解釈にとどまっているような印象を受け、こうした質問が出たものと思います。
ほかには、「成長」とはなんぞや? ということ、伊村はなぜ傷ついたのか、ということ、作品の終末部分での変身の願望などが、さかんに応答されました。また、三島と煙草、あるいは煙草それ自体が、三島の諸作品のなかでどのように用いられたのか、ということから、三島由紀夫という作家の面からこの作品にアプローチすることの可能性についての言及などもありました。
しかし、総評としては、なんとも難しい作品であったかと思います。なにより、ひとつの解釈によってまとめようとすると、かならずそこから漏れていってしまう語句のオンパレードである点、これが人言うところの三島文学の難解さではないでしょうか?
僕個人としては、作品内で書かれた「前世」というモティーフが、どうしても『豊饒の海』の転生とダブって想起されます。終戦直後の当作が、ライフモティーフにまで関連づけられるとは! 三島、おそるべし。というのが率直な僕の感想でした。
尾切れ蜻蛉な終わり方で恐縮ではございますが、今夜はここまでと致します。それでは、みなさま、梅雨の気だるさに負けず、頑張って文学に勤しみましょう!

三島由紀夫「煙草」第1週目発表

2010-06-07 23:56:29 | Weblog
こんばんは。
今週は三島由紀夫の初期短編である「煙草」の発表でした。
発表資料は、おそらく今年度最大枚数の15枚、それに加えて2枚の参考資料というもので、発表グループの意気込みの物凄さが見えるものでした。発表資料では、まず同時代評・先行論の掲載によって、作品の受容史を観照することからはじめておりました。同時代評の一つ山本健吉の書いた文章では、プルーストとの類似が、(作品ではなく、作家である)三島の初期の特筆であった、と発表者は定義し、他の同時代評とも併せて、当時の三島由紀夫の文学がいかなる受容であったかを綿密に見ていました。ただ、同時代評で用いられていたプルーストという作家や、主観性・客観性といった語句が、どのような意味合いであったのか、ということにまでは踏み込めておらず、紹介といった程度に抑えている点、やや残念でした。
つづけて、資料において発表グループは作品内における煙草の意味、主人公の〈私〉の把握する「内面/外面」という世界観、伊村との関係などを順序だてて論じました。作品内で描かれる描写の説明において、発表グループは、主に三島由紀夫という作者の経験と照らし合わせながら、ホモ・セクシャルの問題、戦争の寓意性、「内面/外面」という図式にそのままあてはまる「少年/大人」という問題を論じていきました。以上から、まとめとして、作品内において煙草の果たす役割が、少年であった〈私〉が少年ではなくなる、という働きをして、さらには作品の形成の背景として、三島由紀夫と坊城俊邦との学習院時代のホモ・セクシャルな関係が隠喩として見える、としていました。

それに対しての質問では、まず、〈私〉という語り手について、発表者がどのようにとらえているのか、という問いかけがありました。ここに、発表者グループが言うような作者の視点ないしは思惑が、どの程度反映しているのか、またしているのならば本文のどの箇所であるのか、という疑問が、〈私〉の解釈のしかたにあらわれていたのかな、と思います。
また、先週から言われていることではあるのですが、発表資料に添付する外部資料と、作品それ自体との関係が、見えにくい、露骨に言えば却って曖昧にしてしまっている、という指摘がありました。戦争という歴史と作品との関係についても、本文より外部資料の添付によって寓意性があると発表グループは書いておりまして、それもその妥当性に関しての議論がありました。
本文を見てみると、〈私〉の、同級生に対する疎外感、軽蔑の感情があり、それと「お稚児さん」という語句に顕著にあらわれている上級生との関係とは、その揺れ動く感情を暗示しているモティーフであると思いますが、発表グループはそれらを三島、特に学習院時代の三島由紀夫に収斂しようとしていたので、本文を中心とした解釈に困難が生じていたのではないかと思いました。
発表グループとの間でも、その資料作成の方向に当たって意見の相違があり、それが発表でも未解決のまま持ちこされてしまっていました。ペアで発表をする意味、意見のすり合わせなど(大前提ではあるのですが)研究のスタンスをいかにするのか、といったことが議論されました。
さまざまな問題が浮き上がったところで発表は終わったわけですが、まだ来週もあります。発表者グループはもう一度互いの問題意識をすり合わせてがんばって良い資料を作ってください。個人的には外部資料で添付してくれた文章のなかに、島木健作の名が挙がっていたことにひとり嬉しくなってしまいました。思わぬところに文学の脈絡があるというのは、当たり前ではあるものの、文学を研究するうえでの基本的な喜びの感情だと思います。
それでは、重ねて、発表者さん、次週も頑張ってください。
モロクマ

先週と今週の発表:堀田善衞「香港にて」

2010-06-01 00:16:53 | Weblog
先週(5月24日)と今週(5月31日)続けて二週連続で、
堀田善衞「香港にて」を3年生のNさん、2年生のMさんが、発表しました。

1週目の発表は、出来る限り本文から読み取る努力をした発表でした。
2週目の発表は、歴史的な参考資料も併用しながらの発表でした。
質疑応答では、両日ともに「香港」という土地の
背景(歴史)についての質問が、中心となりました。

参考資料に乗っ取ってやるのは、文学を読む上で大切なことだと思いますが、
苦労して集めた参考資料と作品分析が、ばらばらになって浮いている印象を受けました。
発表者が論の補強として参考資料を挙げるのはよいと思いますが、
直接自分たちの論に関わらないものを参考資料として提示する理由がわかりません。

私は、背景を見るよりも先に、作品の本文を見るべきだと思います。

「香港にて」では、地の文の中に〈おれ〉という一人称が何度か現れますが、
〈おれ〉って誰ですか? 心中文ですか?
『』で閉じられた心中文と何が違うんでしょう?
いくら歴史的資料を漁ってみたところで、この問いに関する答えはないように思います。
歴史的背景もわからなかったですが、本文の方はもっと難解でした。

大学院生の方に、中国や香港の歴史について詳しい方がいたので、
わからなかった歴史的背景が少し理解できたような気がして、
面白かったです。

末筆になりますが、発表者のお二人・参加者の皆様、どうもありがとうございました。
次回は、三島由紀夫「煙草」の発表を、1年生の方と2年生の方が二人で行います。
「見学したい」という方がいましたら、ぜひお越しください。
詳しい会場や時間は、お手数ですが近研のHPをご覧下さい。
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近々、近研ブログ(本ブログ)の運用について、話し合いが行われる予定があります。
何を書けばいいのかわからないので、書きたいことを書きました。

國學院大學文学部日本文学科4年 川邉 絢一郎